筈見一郎著 「猶太禍の世界」12

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トロツキーはなぜ失脚したか?

トロツキーなるものは、明敏なチャーチルが、よくも唱破した如く、ただ、もう、猶太人であった悲しさに、遂に露国の実権を握り得なかったのであった。だが、可成り後になって、少なくとも、トロツキーのよさが、そのよさは彼等にとって至って利己的なよさではあったが、トロツキーを袖(そで)にした軍人共に漸くわかって来た。

 

トロツキートハチェフスキー事件

後にトハチェフスキー事件の如きものが起こったのは、一方、スターリンの政策に反動的な嫌悪をさえ感じ、トロツキーの比類なき軍人への知遇を思い出した彼等が、トロツキーの遠くメキシコから熱心指導につとめた又スターリン運動に呼応した結果に外ならなかった。

トハチェフスキー事件は、取りかえしのつかぬ大事の一歩手前で、喰い止められ、それを契機にソ連の国軍の大改革となり、それが事件と密接な裏面のつながりを持って居た外交界にも及んだ。否、あの事件の真相こそは恐らく意外に遠大な外国の殊に英米のマソン的後援が背後に控えていたと見るのがもっと正鵠な観測と見るべきではなかったろうか? そこに現在の如きソ連と英国との間の越ゆべからざる国交上の深淵が生じたと見るのが恐らく正しいのではないか? 実は、このトハチェフスキー事件の如きものは、もっと速やかに、勃発すべき可能性があったのである。

 

マソンとトハチェフスキー

即ちジョージ五世の諒闇(りょうあん:天皇が喪に服する期間)中に、リトヴィノフやトハチェフスキーが、密かに、英国当局と会合してドイツのラインラント再占領をよき機会に、露国と英仏とはスクラムを組んでドイツへ宣戦を布告し、露国は、ドイツと戦う間に、そのどさくさまぎれの充分熟した潮あいをみて、トハチェフスキースターリンの政権を倒壊し、もとのような猶太人の絶対多数を占めるソ連を再建せんと図った形跡があったが、肝腎の戦争が、すでに前章に述べたような事情で中止になったので、その一切の計画が沙汰やみとなり、例のトハチェフスキー事件の実行なるものは一先ず後廻しとなり、それが、後に又機熟し、あわや発せんとする間際になって露見したのである。

こういう、いきさつがあり、スターリンとしては当然英国に含むところが少なからずあったので、ソ連は、今次の戦いの前夜には、どうしても、英国のあの必至になって秋波を送るにも拘らずどうしてもお御輿を挙げず、却って、ドイツと好意ある不可侵条約を結び全世界をアッと言わせたのであった。

 

マソンとトロツキー

メキシコにあったトロツキーにはその蔭には英米のマソンのひそかなる援助があったことは勿論である。

亡命のトロツキーを米国に匿(かくま)わずして、メキシコにその隠れ家を提供したということは米ソの微妙な国際外交上の影響を英米のマソンが案じて、比較的無難で、しかも、英米の彼等結社と連絡するにも便利が良い第三国に置いたまでのことである。

今の英米のマソンには、実の処、猶太人がソ連で受けている待遇が、気に入らないのだ。

 

ジャックス・マリテンの現ソ連

この私の観測は、改宗基督教徒の猶太人の学者と認められるジャックス・マリテンの一九三九年にニューヨークで公刊した『基督教徒の猶太問題観』“A Christian Looks at The Jewish Question”を見れば、更によく解ることである。

ジャックス・マリテン(Jacques Maritain)は、その本の「ロシアの猶太人」という項でこう明らかに言っているのである。

 

「多分、人によっては、私が次のように言ったとしたら意外に思う者があるかも知れない。

ソ連は、正式には、アンティ・セミティズムを禁止したのを誇り且つそれを正当に認めているのではないか?

他の異教徒のグループに属するメンバーが享有する(生まれながら持って居る)如く、ソ連内の猶太人には法律上の平等は勿論学校や大学へ自由に学び得るように許されている筈ではないか。

全く、表面はそれに違いない。

だが、実の処は、ロシアこそは、イスラエルが最も脅威を感じている世界の国々の一つに属して居るのだ。

私は敢えて、此処で、ソ連政府が、猶太人の大衆へ、加えたところの経済上の零落をば単に語ろうとはしない。往時は、ロシアの猶太人の九割というものは、商いや、産業や、手内職等に従事して生活をしていた。ところが、新しいソ連政府は、最早、商売人とか、独立の職人とかの存在を許さないのだから、彼等猶太人の生活の手段と言うものは、多数の水呑百姓の境遇よりも、遥かに辛いみじめな打撃を受けるようになった。

彼等猶太人に対しては、経済上の不幸と言うものは、徹底的なものである。就中、ここに私が特に指摘しなければならぬことは、ロシアに於いて、如何に悲惨な状態なりとは謂え、生活し得るとするも、猶太民族主義とか猶太性とかを奉じたとすれば、死刑に処せられるより外なき運命となることだ。

彼等の同化、強制的同化と言うものは、ただもう「あまりに工合(具合)よく」成功しつつあるのである。この闘争は、或いは言わん、猶太民族に対しては、行われたることなく、又行われていないと、併しながら、すべての宗教と同様に、猶太人の宗教に対しても行われていることだけは確実だ。

無神論者の猶太人によって導かれた猛烈な迫害は宗教心のある猶太人に急に襲いかかったのであった。あの一九三四年(昭和九年)ニューヨークで刊行された猶太人の著作家アーサー・ルパンの『現代世界の猶太人』の中でも「事ここに到って、猶太人が猶太人自身の最悪の敵となっている」と叫んでいる。

最後に、歎かわしいのは、猶太青年の大多数が、かくして、宗教から全然立ち切られていることである。そりゃ、老人達であったら、どうにかこうにか辛抱が出来よう。だが、かくも、正面から、治者階級の敵対があっては、どうにもこうにも動きが取れない。宗教は結局滅亡の外はない。

ルパンがまた謂う。「二十年以前には、猶太人が、依然、猶太性の最も堅固な牙城であったこのロシアには、今や、猶太の宗教は正に破壊されようとしているではないか。」

して、これとまったく同じように、猶太の文化もソ連内では滅亡の途を辿っているのだ。

猶太法師(ラビ)の学校や殆どあらゆる猶太会堂(シナゴーグ)は閉鎖されてしまっている。

ヘブライ語の教授、伝説、宗教上の祭日、割礼、モーゼの律法の儀式など、すべてのものは、殆ど禁止されたも同然である。他方、強大な国家の圧力が雑婚を奨励する方面に作用している。その必然の結果として、猶太独特の人種的又は文化的統一と言うものは急激に露国では消滅しつつある。同じように、“帝国主義”の運動と見做されているシオニズムは、厳重に抑圧されている。シオニストの宣伝をなすものがあれば、如何なる事情にあっても、必ず直ちに捕縛され流刑を免れざる有様になっている。

猶太人によって専ら居住されているソ連内のあのジュウイッシュ・ステートにありても、 ―このジュウイッシュ・ステートとは、ソ連がビロビジャン*(Birobidjan)に特にソ連邦の一翼を為すものとして設けられた国であるが― この猶太國にありても、特に猶太の文化と言うものは、あまりぱっとした存在ではないのである。」

*満洲国境の西側にある名目上、猶太人自治州の名前 

 

マソンと現代ソ連との関係は如何?

これを以てしても、現在のソ連は、最早、その実質に於いて、英米の猶太マソンとは完全に遊離するに至っているのであって、随って、猶太人が依然その政権の一部を担当しているとは謂え、猶太性を大いに脱却するに至った。今では寧ろ単純な狭い猶太根性に捉われぬロシア人本位の汎スラヴの国家と称するのが寧ろ妥当と言わねばならぬのではあるまいか。

 

ロシアで最も勢力のある人物

さて、現在、ロシアで最も勢力のある人物は、それに見(まみ)えることが一番容易である。毎日、五時から七時までの間なれば、レッド・スケーア(赤の脅威)の彼の家で面会することが出来る。それは不思議な家屋である。如何なる建築の線と雖も、これ位、厳しいのは外にない。これ程、調和の効果を奏しているものは他にない。

訪れるものは、低い戸口の前で長い列をなして待つ。その両側には、赤軍の長いコートと三角形のヘルメットを被った番兵が二人、銃剣を突き付けて、立っているのである。

その荘厳な戸口を這入る人は、誰でも知らず知らずに頭を下げるのである。狭い階段を地下へと降りて行き、狭い廊下をば廻って歩く。訪れるものに見(まみ)えるのは、硝子箱に収められた人物である。それは、深紅の色に包まれた円蓋の天井の下に据えてある。思ったよりも綺麗な姿をしている。あの伝説が動もすれば、この人と連想するところの、辛辣なエネルギー、悪魔的な微笑、或いは超人間的な智慧が何処にあるかと怪しまれる位である。

ただ静寂のみがこの姿を支配している。全体は少々しぼんでいて、あご髭はちょびちょび生えている程度、額は秀でており、頬骨は広濶(闊)である。彼は大して偉いような顔もしていない。彼の棺の深紅のベルベットにも拘らず、まるで田舎の街から来た辯護士のような風采である。

胸には赤旗の徽章を付けている。彼を木乃伊(ミイラ)にした術は美事な出来栄えであった。専門家の言い分に拠ると、彼は少なくとも向こう八十年間は立派に保(も)つとのことだ。だが、彼の木乃伊は他日塵に帰することあるも、果たして、現代のロシアを見たものが、あのウラジミル・イリッチ(レーニン)が、伝説、信仰、魔術のような言葉、として最早存在せぬようになる時代が来るかを容易く信じ得るものがあろうか。

レーニンは、彼の名を例のメシア的伝道運動とやらに捧げたのだった。

 

レーニン主義マルキシズムの相違

今では、ロシアで共産主義を彼是(かれこれ)云爲(うんい 言動)するものが段々少なくなっている。そうして益々レーニン主義謳歌せんとする勢いである。ロシアには到る処、レーニンの像が普及している。モスクワだけでも大変な数に上る。一言にして謂えば、ロシアではレーニンが基督の代わりとなりつつあるのである。

マルキシズムとはユダヤの法典のタルムッドから生まれたものである。どうしても、それ自身、空論であるのを免れない。それには現代的なパリサイ(戒律主義者)がある。 ―それは、ロシアの知識階級であり、それを嘗て代表したものがレオン・トロツキーその人であった。

マルキシズムとは、要するに、その生活の智識とか、労働者の汗とかを、毫も実際には即せず、唯だ大英博物館の図書堆積の裡(うち)から抽(ぬ)き出して来たところの、或る一人の才気煥発した総合的な頭脳の結論であるに過ぎない。ところが、レーニン主義は、生きた動力の源であって、信仰にまでなっているのである。

ロシアではレーニンが生前定めたコミンテルンの指導方針から離れることを何人たりとも決して許されていない。あの革命の主要な原動者であり、赤軍の設立者であったトロツキーすらもこの鉄則よりはずれては許されっこはなかったのも道理であった。

 

元駐日大使ヨッフェの悲惨なる最後

あの広大もない勢力を揮ったことのあるトロツキーが失脚してから、その最後の演説を、嘗て駐日ソ連大使として時めいたことのある猶太人アドルフ・ヨッフェの葬儀の棺を前に控えて、 ―彼、トロツキーとして、最後の演説をしたことがあった。最早トロツキーの演説と謂えば、非常に警戒されたものであった。吹雪の中で数百の男女がそれを聴いていたが、それは、ただ推理の力を以てしなければ、察知することが出来ない婉曲(えんきょく:遠回し)を極めた政府の方針を批判した箇処(かしょ)が、あればあると判断せられる程度の、常識では先ず無難と考えられた演説であった。

それにも拘わらず、翌日の莫斯科(モスクワ)の新聞には、ただ、「土地租借委員会の主事がその節に簡単な演説したのみであった」と報道されただけであった。土地租借委員会の主事とは!! 何たる職名だ。そうして、トロツキーの名前さえも挙げられなかった!! とは。

ヨッフェは、これより先、トロツキーの味方としてクレムリンに既に睨まれていた。医者が、ヨッフェの生命はサナトリウム生活をすれば、助かると診断した。それで、クレムリンにヨッフェは一千弗(ドル)に相当する金額の融通方を申し込んだが、クレムリンはそれを受け付けず、ヨッフェは右の葬儀の日より二、三日前に幻滅と失望落胆のあまり未だ四十歳の春秋に富む身で自殺したのであった。

 

笑うべき某外国大使のスターリン

スターリンは、ソ連でユニークな存在である。彼は外国の使臣には合わないことを原則としている。或る人が、永いこと、モスクワの外交団の首席をしていた某外国大使に「スターリンとは、どういう人物だろうか」と尋ねたことがあった。その答えは頗る振るっていた。

「自分は何年もモスクワに居た、だが知らない。スターリンには嘗て面会したことさえもない。スターリンは、先ず、そうさね。共産主義のサー・バシル・ザハロフ*だろうよ。」

*ザハロフは、トルコ生まれの武器商人。ヴィッカース社など数々の武器製造業者の代理人として武器取引に関わり、死の商人の代表格と看做されると共に神秘の男と渾名された。

 

スターリンの巧みな外交辞令

これを思っても、わが、松岡外相が、先日、モスクワで、このスターリンと二回までも、会見し、直接忌憚なき意見を交換し、日ソ中立条約を両国間の今更致し方のないイデオロギーの差は別問題として、相互の国交を調整の目的で遂に見事締結したのは、真に破天荒な出来事であった。停車場まで、スターリンが態々(わざわざ)見送ったなど、ソ連としては未だ嘗て先例のないことであった。

これは、松岡外相の手腕もさることながら、全く背後に、畏くも陛下の御稜威(みいつ:威光)がお輝き遊ばされていたばかりか、我国の実力そのものが物を言ったからでもあった。

スターリンは我が松岡外相と同じ六十二歳、外相と遭ったとき、「自分もアジア人だ」と言った。事実、全体から言って、ロシア人の少なくとも半分の要素はアジア人なので、最近はこの点に於いて西欧と異なる特色が具わっていると言う自覚を持ち出したようである。それは、成程、尤もなことである。随って、スターリンも彼が純粋のアジア大陸人であるだけ、何処かそれらしい茫洋たる風貌が有り、トロツキーのような純理を徒に弄し、却って、しまいにはそれがために時々行き詰まりを来たし自縄自縛に陥ると言うタイプとは正反対に、最初から、実際政治家として終始し遂にソ連で最も傑出した最重要な人物となったのは、さこそと首肯(うなず)かれるのである。

しかも彼には深淵のように奥底の知れない吸引力なり神秘的力なりが備わっている。これが、彼をして、一九二四年にその最大の敵手トロツキーを、まんまと、追い出し得た、抑もの原動力となったようでもある。危険極まるマルキシズムの純理に何とかして徹底しようと、もがきにもがいた、あのトロツキーの代わりに、こうした、より穏健な実行家的タイプのスターリンが、レーニンの後継者となったのは、彼に於いて従来の対日外交又は対日敵性発揮に於いて、遽(にわ)かに我等の寛容し難い点が少なからずあるとはいえ、大局から考えて、太平洋頻(しき)りに波騒がしくなった今日の日本の勿怪(もっけ)の幸いでもあるし、世界の安危の上でも、可成り意を安んじ得べきところがあるのである。ただ我等が注視しなければならぬのは、ソ連の今後の対日誠意が日露間の諸懸案に如何に先ず現れるかであろう。

若しトロツキーレーニンの政権を襲って(継承して)いたなれば彼には猪突あるのみで、反省はないのであるから、今日戦われつつある独伊対英(米)の戦争の相貌そのものもそれだけ比較的異なったところが生じていたかも知れない。

或いは、今頃は仮定されたトロツキー治下のソ連ありては、下手に英仏に加勢して、或いは露国自身が戦いの口火を切って、先ずドイツの猛攻により疾く(とく)に今日のフランスに近い状態になっていたかもしれない。スターリンは、トハチェフスキー事件から多大の教訓を得たので、英米のマソンの煽動には毫も乗らず、現時の國際政局に処して、フィンランドに多少手を焼いたほかは、終始、最も賢明な平和態度を持続し、殆ど手を濡らさずしてポーランドの分割に与り、その西欧に於ける国際的地位を大いに高めるを得たのは、慥(たし)かに、非凡な政治家と謂わなけらばならない。