筈見一郎著 「猶太禍の世界」10

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猶太人の英国に於ける活動―其代表的人物

あの十七世紀から十八世紀にかけての英国の海外発展には、それであるから、ユニオン・ジャックの旗の下に多数の猶太人が出掛けて行って、印度南ア等にその素晴らしい植民地を造り上げたのであった。それが如何なる方法によったか、記すも筆が汚れる位である。印度を遂に英国の手に収めてしまったあの辣腕家のクライヴ、あれは、紛れもない猶太人であった。こういう関係上、あの南ア・トランスバールのダイヤモンド工場の如きも今に英国系の猶太人の所有になっている有様である。

英国のヴィクトリア朝のあの「偉大なる老翁」と称せられた自由党の政治家グラッドストーン(一八〇九-九八)はリバプールの猶太人商家の出身であるし、それと、相対抗して一八七四年から一八八〇まで保守党の領袖として首相の印綬を帯びたディズレイリ(ビーコンスフィールド伯)の如きも、矢張り猶太人であった。英国での最初の大審院長で、後に印度総督、更にマクドナルド内閣に自由党を代表して外務大臣となったことのあるレディング侯(本名:ルーファス・アイザック Rufus Daniel Isaacs)も矢張り生粋の猶太人である。

それから、あの満洲事変や上海事変で日本を制肘(せいちゅう:脇からいろいろ干渉して、自由な行動を妨げること)すべく種々暗躍したことのある駐支英国公使ランプソンも猶太人である。それから日支事変で同じく敵性を盛んに発揮した前駐支英大使ヒューゲッセンの猶太人であったことも隠れもない話だ。

嘗て、英国外相であったサー・ジョン・サイモンや英国の現外相であるイーデンも矢張り猶太人である。殊にイーデンは、この間までソ連外務人民委員として羽振りがよかったが、今は全く失脚しているリトヴィノフの義弟だと言うのだから興味がある。

また、独英間に大戦突発直前まで駐独英国大使であったサー・ネヴィル・ヘンダーソンも猶太人。初代の国際聯盟の事務総長故サー・ジェームズ・エリック・ドラモンドも同じく猶太人であった。聯盟が最初から猶太化していることは、これだけでも判然するであろう。英仏等の猶太人は聯盟によりてシオンの理想を実現せんと如何にも夢想したらしいが、今ではその夢が完全に打ち破られている。英国の前首相チェンバレンは五〇パーセント猶太人である。何となれば彼の母系ハーベンから猶太の血統を受けているからである。のみならず一説に拠れば現英首相ウィンストン・チャーチルその人でさえ猶太人であるとも謂われるが、これは、チャーチルの熱心な親猶者なることが、恐らく誤り伝えられたのであろう。チャーチル自身は猶太人ではないようだ。

陸相で嘗ての軍備拡張論の急先鋒であり、今は下院議員で現イーデン外相の最近のバルカンに於ける措置は全然失当であったと攻撃をしたと言うホーア・ベリシャ*自身も同じく生粋の猶太人としてあまりに有名だ。それから、英国経済顧問のリース・ロス**や英蘭銀行総裁のモンターギュ・ノーマンなど英国財政界の利けものも矢張り猶太人として知られている。

*レズリー・ホア=ベリシャ(Leslie Hore-Belisha)

**フレデリック・リース=ロス(Frederick Leith-Ross)

その他、一々挙げたら際限は無いであろう。それほども、英国の知名の人士に猶太人が多いのである。既に言ったが、あのフランス大革命を遂行した原動力はフラン・マソンであった。あの絶世の美人と聞こえた女王のマリー・アントワネットはマソンの命令で断頭台上の露と果敢なく消えたのであった。

 

マソンの世界的魔手

一九〇五年スペインの先ごろ亡くなられたばかりのアルフォンソ十三世の暗殺を企て、未遂に終わったが、その犯人はマソン関係者であった。このアルフォンソ十三世はその後、スペインマソンの脅迫により国内にいたたまれぬことになり遂に廃帝となられた。明治四十二年の十月には時の枢密院議長伊藤博文は露國行の途次、ハルピンで朝鮮人安重根のため暗殺された。これは日露両国間の国交調整を障(さまた)げんとした露国猶太系マソン結社員の使嗾(しそう)によって決行されたものであった。

若しそれ、セルヴィアの青年ガブリロ・プリンツィプなるものが、マソンの差し金で、一九一四年(大正三年)八月墺國皇太子フェルディナンド及同妃殿下をサラエヴォで共犯の猶太人チガノウィチ(シガノヴィチ)から渡された拳銃で暗殺したことは第一次大戦の口火となったことは、あまりに有名である。

セルヴィアの法廷で、現場で捕らえられたこの両人の犯人を調べたところ、それは猶太勢力下にあるフラン・マソンの結社の陰謀によるものなることが、明瞭に判った。しかも、これより先、二か年も前の一九一二年(明治四五年)五月三十一日に、セルヴィアの首都ベオグラードで開催されたセルヴィア・フラン・マソンの最高会議で墺國皇太子暗殺の件を決議されたものの(この暗殺は、元来、同じ一九一二年にフランス・グラン・トリアンにてそれから先に決議され、セルヴィアのマソンへとその旨移牒された結果と言われる)、適当の下手人が見付からなかったため止むを得ず一九一四年まで延期されたものと伝えられているから、彼等の計画の却々(なかなか)に周到で遠大なるには今更驚くの外はない。

 

世界共和国建設とフリー・メーソン

フリー・メーソンが世界共和国の建設を目論んでいることは紛れもない事実である。しかも、それは、あのパリに於ける一八八九年(明治二十二年)七月十六日と同十七日とに掛けて催された第一回萬國フリー・メーソン会議、これはフランス大革命壹百年記念として開かれたものだが、その会議で、アメリカの副大統領フランクリンがフリー・メーソン会員として親しく臨席、左の演説を行ったのでも明らかである。

「各国は君主政治及び宗教の没落する日が、来るであろう。

その日の到来も最早遠からざる将来である。吾人は、この日を只管期待しているのである。

この日に於いて、フリー・メーソン的四海同胞の実が挙げられるであろう。

これ、即ち、吾人の将来に対する理想である。この日の一日も速やかに来たらんことを努めるのは我等の責任である。」

フランクリンは実にこのように絶叫したのである。これが後々のフリー・メーソンの指導精神と何処までもなったのであった。

 

エスペラント語とマソン

それから越えて一九一三年(大正二年)の八月二十五日乃至三十一日を以てスイスのベルンにエスペラント会議が招集された ―元来、エスペラント語なるものは露国系の猶太人ザメンホフ博士により創作されたものであって、その目的こそ猶太人の世界統一を容易にするため、この人造世界語を全世界に普及せんとするにあった―この絶好の機会を利用してフリー・メーソン世界同盟が創設せられる運びとなり、同時にエスペラント語を同じ同盟が使用すべき世界語として議決した。

如何にフリー・メーソンは周到な用意を以て、我が日本に働きかけようとしたか、これにてもよく判るであろう。エスペラント語を利用してマソン組織を同時に日本へ植え付けようとまで計ったのであった。

 

フリー・メーソンと猶太要素

これより先、猶太人のフラン・マソン社員グスターフ・カルペレスは一九〇二年にこう明言している。

「フリー・メーソンの思想は、猶太主義から出たものである。

イスラエルの最も高貴な花であるソロモン王が、その創設者と目されている。

その風習の大切な部分は、ソロモンの殿堂と関係があり、その言葉や記号は、大部分ヘブライ語から取ってある。」

あの歴史的に相当高いトルコの青年トルコ党なるものは全然フリー・メーソンの社員から成っているのである。それだから、今次の大戦でも、英国のこうした隠微(いんび)な息のかかっているトルコの向背(こうはい:敵か味方かの成行)は枢軸側に少なからず問題となって居るわけである。

イタリアも一時はフリー・メーソンの巣と言うべき処であったが、今やムッソリーニ首相の果断でそれは完全に退治せられ、イタリアの国礎は往時に比し盤石の重みを加えるに至ったのは慶(けい)すべきである。英国ではフリー・メーソンの結社員の五分の一は猶太人で占められている。英国にありては、「誰がフリー・メーソンの社員か」と野暮な問いを発するよりも「誰々がフリー・メーソンの社員でないか」と聞く方が、寧ろ手取り早いと言われる程フリー・メーソンは普及しているのである。

事実、少しでも名の知れた英国の人物であれば、殆ど例外なしと言ってよい位に、フリー・メーソンの結社に加入しているのである。あの有名なロンドンのタイムス社の入り口の上には、公然と、例のフリーメーソンの三角定規とコンパスのぶっ違いの徽章が掲げられて居るくらいである。

英国の新聞アイ・ウィットネスの記事として、嘗て、こう断言したのさえあった。

「今日、英国に於ける猶太人の地位は如何にと言うに、猶太人が、秘密結社のフリー・メーソンで占めている地位を見れば、一番はっきりと判る。」

 

フリー・メーソンとコミンテルン

英国のフリー・メーソンは英国では決して謀叛を企てない。その代り、常に世界的に大規模な政策を施すのを忘れず、これが目的達成のためには、決して手段を擇ばないのである。

随って、その主義として、外国における謀叛と見做すべき運動には、すべて、指示を与える方針なのである。この点、英国のフリー・メーソンは、コミンテルンに敢えて劣らぬ陰険ぶりを発揮するのである。しかも、英国政府自身が、いつも、チャンスさえあれば、フリー・メーソンの理想を実行しよう時としているのであるから、油断がならないのである。

日支事変に英国が公私ともあらわしている日本への敵性発揮などは、あまりに露骨で、何人も呆れる位なのである。

この英国のフリー・メーソンは世界中でも一番鞏固(きょうこ)な組織を持って居る。それもその筈である。現在、英国聯合フリー・メーソン大組合の大棟梁こそは、誰あろう英国の故エドワード七世の弟君に当たらせられ、一度日本へも来朝されたことのあるコンノート大公殿下その人なのである。エドワード七世ご自身は、別段、表面上、フリー・メーソンの高級社員ではあらせられなかったが、フリー・メーソンの内情には非常に精通遊ばされていた。

元来、英国の国王陛下は、一六八九年以来、政治上の実権とてはお持ちにならぬのを例として来られたが、エドワード七世は、事実上、フリー・メーソンの隠れた長(おさ)として、英本国の上下に本当の御勢力を持っておられたのであった。だから、一九〇二年のフリー・メーソン・クロニクルには、

「英国が今日の大をなしたのは、全くフリー・メーソンの功績である。」

自画自賛して居るくらいなのである。

英国は、フリー・メーソンの組織を何処までも隠微の中に活用するに努力し、他国内の動乱を進んで助長してやったり、謀叛を計るものには、その目的のためには、豊富な資金を惜しまず供給して来たのであった。従来、英国が外国の元首や重立った有力政治家の首に懸けた多額の賞金などは年々五百万ポンド(今はもっと増されたことであろう)もあるが孰れもこうした方向に専ら使う機密費から支出されて来たとまで謂われる。

この意味で、フリー・メーソンの英国政府に於ける関係は、コミンテルンソ連政府に於ける関係と酷似していると称しても決して過言ではないであろう。英国政府もフリー・メーソンも共に世界共和国の完成を夢見ているのであり、双方の利害は完全に一致しているからである。

 

独伊今次戦争の真の目的

ドイツやイタリアは漸く国内的の「ユダヤ人のドイツ」とか「ユダヤ人のイタリア」とかの状態を、ヒトラームッソリーニの見識ある全体主義政治により脱することを得たものの、国際的に猶(なお)も独伊を冒そうとする猶太の勢力を抜本的に除去するため、今次の戦争を勇ましく世界人類の究極の降伏のために闘っているわけである。随って、こうした独伊とがっちり組んだ日本の世界における責務と言うものは、それだけ、極めて有意義となっているわけである。

かのドイツの大思想家ゲーテですら、世界の猶太禍についてはこう言っているのである。

「ユデンツムは全人類に対する敵愾心を根拠として建てられたものなのであるから、怖るべきものである。」

ロシアの彼得(ピョートル)皇帝すら嘗て次のような感懐を洩らしたことがある。

「猶太人は、詐欺師で、剰(おま)けに詭計を平然と行う。」

また以て真に思い半ばに過ぎるものがあろう。

ドイツゲッチンゲン大学の有名な東方学者として聞こえるラガード教授の如きは、猶太教の利己的一神論、猶太精神の誇る独自性、猶太教のいかがわしき倫理などに堂々として徹底的な筋道のよく立った攻撃を加えて、

「異分子は生体に於いて、不快、疾病、化膿等を招き、遂には死を齎(もたら)すと同じく、猶太人は欧州各国に於いて異分子であり、国家腐朽の原因たる異分子を形成して居るから最も怖るべきものである。」

との意見を吐いている程である。

 

エドワード八世の英邁

人も知る如く英国のジョージ五世が崩去されてから、その跡に即位されたのは、あの英国の内外に比類なき重望を持って居られたエドワード八世陛下であった。ところが、案の定、このエドワード八世は稀に見る英主で在らわしました。

国政に関しては、頗る進歩的な従来の遣り口に拘泥(こだ)わられぬ多くの卓見を持っておられ、殊に國際政局に関しては一隻眼(いっせきがん:物を見抜く力のある独得の見識)を具(そな)え、非常な関心を寄せられ、急所急所をよく押えられ、どうも、フリー・メーソンに操られている英国政府に取りてその皇帝としての御存在が煙たくてしょうがなくなった。

「皇帝は君臨さるるも統治せず」という英国の帝王の伝統的常識には、陛下は、孰れかとはづれさせられることが多く、殊に第二次欧州大戦を起こさせるマソンのかねてより企む陰謀には大の御反対であらせられた。一九三六年の春三月、ドイツ軍は突然ラインラントを再び占領した。英国政府は、実はこのドイツのヴェルサイユ条約違反の行動を何よりの好機と見て、それを早速利用し、戦争の口火を切ろうとまでしていた。

この時、ロシアの外相リトヴィノフの如きは、ドイツに対し、「四十八時間以内にラインラントを撤退せよ」との最後の通牒を発し、若し聞かざれば、戦禍を開く提案を英国に致した位であった。

恰もジョージ五世の御大葬に参列するため、あの丸顔の小柄なからだで、ひどい癖のある英語を流暢に喋るリトヴィノフ(猶太人)は勿論、一時は赤軍で事実上の統帥者とまで言われ、何人にもその手腕を疑われなかった例のソ連の国防次官トハチェフスキー将軍を始め、次のバルカン陰謀の中心とまで一時は憂慮された親英親露のルーマニアのカロル王等々がやって来たのを幸い、時の英国外相イーデン(猶太人で露外相リトヴィノフの義弟に当たるそうだ。即ちリトヴィノフの妻君はイーデンの妹で、嘗てのロンドン市長の姪にも当たると言われている。)や英国航空次官サッスーン(猶太人 有名な上海のサッスーンと親戚関係にある人)などの間に、リトヴィノフのこの案が殆ど成立せんとして、ロンドンは、何となく不安な空気が、しめやかな御大葬の雰囲気の中に漲(みなぎ)っていた。更でだにマソンから既にこれに関し秘密な指令に接していたイーデンはこのソ連の提案に一も二もなく賛同の意を表した。これに関し国際聯盟もジュネーブで本会議を開くべき手筈を整えながらも、その予備会議をパリで開くことになり、イーデン外相はそれに出席しようとしていた。

 

皇帝ボウルドウインやイーデンを窘める

ところへ、イーデンは俄かにボールドウィン首相と共にセント・ジェームス宮にお召しの御沙汰を受けた。

何事かと思って早速両人は参内すると、エドワード八世陛下には、

ジュネーブで聯盟の会議が開かれたら、四十八時間以内に第二の欧州大戦が勃発するだろう。それではならぬ。ジュネーブ行きは勿論、パリ行きも見合わせよ。

と、凛としてと勅命になった。

それで、ジュネーブ本会議は勿論、パリの予備会議はおジャンとなってしまった。代わりにロンドン会議が行われたが、最早、英国はリトヴィノフの提案の如く動かないことになっていた。リトヴィノフは地団太踏んでこれをくやしがった。

陛下は、その後も首相以下関係をお喚び出しになって懇々と彼等の不心得を御諭しになった。これは英國皇帝としては実に前代未聞の出来事であった。これは、英国を背後から操縦するマソン政治にとりては一大聳動でもあり青天の霹靂でもあった。このエドワード八世の御見解は真に正しいものであった。

 

ウインストン・チャーチルの予見

それは現首相ウィンストン・チャーチルすら、既に、それより一年前の一九三五年にヒトラーに就いて次のような言説を公にして英国の上下をそれとなく警(いまし)めていたからである。

 

アドルフ・ヒトラーは戦いで散々敗北を蒙った偉大な帝國の怒り及び悲しみの兒である。

ヒトラーはドイツをば、今や欧州でも最も強力な地位に復(よみが)えらせた。否、ただに、ヒトラーはその国の地位を元の通りにしたのみならず、極めて大なる程度にまで折角の大戦の結果を反対のものにすらしてしまった。

ベルリンでサー・ジョン・サイモンは、英国の外相として、彼が勝者と敗者との間には何等の差別を設けていないと言った。

事実は、そのような差別が今でも、存在している。だが、それは、敗けた方が、勝った者となる過程を現在示していることで、勝者は地位を顛倒(転倒)して敗者となりつつあることなのである。

ヒトラーが政権に近づいた時には、ドイツは連合国の脚下に哀れにも平伏していた。

だが、孰れヒトラーが、ドイツ以外の欧州の諸國が、ドイツの足下に膝まづいて平伏する日を見ることになる可能性があるであろう。

ヒトラーの功績は、慥かに、全世界の古今の歴史を通じて真にこの比儔(ひちゅう:比べるもの)を見ざる偉大なものである。こうしたヒトラーの成功、彼の政治的力としての存在も、若し、フランスや英国の政府が、大戦以後に、特に最近の三カ年間(一九三二-三五)に於けるような午睡と痴愚とがなかったならば、決して可能ではなかったであろう。

猶太人が大戦の終わりに於いて、ドイツの国家に不忠な行動を取り平和主義を宣伝し、共産思想を撒布し、あらゆる形態の敗戦者の学説を植え付けたと言う嫌疑の下に、何十万と言うドイツの猶太人の社会が、一切の権利を剥奪され、国家及び社会生活のあらゆる地位から追放され、一切の知的の自由職業から放逐され、言論の自由を全く奪われ、汚らわしい厭うべき民族と宣告されたのであった。

ドイツ政府及び大衆によりて旺盛なる蛮力(ばんりょく:向こう見ずな勇気による力)を以て、これらの詛(のろ)うべき学説の宣布されたのみならず実行されたのを、二十世紀は驚異の目を以て目撃したのであった。

同様な鉄椎(鉄槌)が、ドイツ国内のあらゆる方面の社会主義者共産主義にも容赦なく加えられた。

商業組合主義者のインテリゲンチャ(註、実は自由主義者を言う)なども、同様に粉砕されるの目に遭ってしまった。

ドイツ国家の行為を些かにても非議するものがあれば国法を犯すものと見做された。独逸では、猶太人の憎悪が基督教の歴史的基礎へまでも攻撃を加えるの論理的転換をさえ遂に惹き起こすに至った。

斯くて、ドイツに於ける闘争は迅速にその範囲を拡大されるの勢いとなり、カトリックプロテスタントの牧師などは、ドイツ民族の新しき宗教となりつつあるところのもの、即ち、ノルトの異端宗教の古い神々の象徴の下にドイツの礼拝を集中せしめるような事態に強圧されて、すべて再起不能になってしまった。」

 

以上が、チャーチルの『当代の偉人』と題する本の中でもヒトラー及び彼の精鋭を論じた一章に出ている。これによると、チャーチルは、少なくとも、アメリカの全幅的な援英なしには、英仏等連合国側がドイツと戦っては、到底、勝味(勝ち目)なきことを、今から六年前に早や予言しているわけである。これを、本書の劈頭(へきとう)の章に述べたベルヒテスガーデンの六、七年前のヒトラー自身の卓上の談話と比べて読んだら、真に興味津々たるものがあろう。エドワード八世陛下は、チャーチルと同じく、その登極以前の英仏等の外交軍事が全く当てを失して、最早、英国は、たとえ、露国の援助を得るも、ドイツには到底勝味なきことを賢明にも見抜いて居られたので、既に述べたような非常措置を施し、その政府のマソンの煽動による非常識の脱線を前以て抑制されたのであった。

今日、エドワード八世のような英明な帝王が依然英国に君臨して居られたとすれば、恐らく今次のような戦は終に起こらず、世界は少なくとも当分は平和であったかも知れなかった。だが、マソンの陰謀によりこの英主が、例のシンプソン事件により、御退位になったのは、今から想えば、返す返すも、英国として遺憾なことであった。

 

シンプソン事件

シンプソン事件なるものは、その年の冬十二月二日にイギリスに発表され、世界を、あっと、驚かしたのであった。当時、英国の民衆と右翼とは、エドワード八世陛下の忠実な支持者であった。チャーチルも、ロザミア卿と共にボールドウィン首相の謁見を攻撃した者であった。だが、一国の風教上、これは捨てて置かれぬと主張したカンタベリーの大僧正が、皇帝たるものが、身分のない婦人と内縁関係を結ぶなどは以ての外と攻撃しロンドン大学の教授ラスキーがそれを支持したのは、遂に英国の決定的意嚮(意向)と極まってしまった。こんな場合の輿論と言うものは、甚だ力があるようで、その実頼りのないもので、忽ち時の政府の力でその方へ傾いてしまった。皇帝はマソンの思う坪に嵌って退位せざるを得なくなってしまった。

ボルドウィン首相は、纔(わず)かにその後(一九三七年五月十二日)に御践祚遊ばされたエドワード八世の弟御のジョージ六世陛下の御大典が修了すると共に責任を負うて予定の辞職しただけのことであった。その跡に首相となったのが例のネヴィル・チェンバレンであった。そうして、ボルドウィンは英国の國體に忠実な模範的政治家として、当時の新聞紙に宣伝されたものであった。

こんなマソンの狂言に重大な役割を買って出たカンタベリー大僧正は、蔭で親猶派に大いに感謝された。ラスキー教授*は猶太の金持ちの息子で、オックスフォード出身の秀才と謳われたもの、一時米国のハーバード大学教授を務めたが今ロンドン大学の国家主権論のオーソリティーとして崇められている。こんな大僧正や大学教授を持って居る英国は禍なるかなである。相語らい合って、宗教的にも学説的にも、皇帝の御在位を否認する挙にでたので、不臣の限りであった。かくて、廃帝エドワード八世は、ウィンザー公としてその後はシンプソン夫人と暮らされることとなった。その御退英直後、落ち着かれた先は、ウィーンの猶太人のルイス・ロスチャイルドの山荘エンツェルフェルト・キャッスルであったと言う。

*ハロルド・ジョセフ・ラスキ(Harold Joseph Laski)ポーランドユダヤ

これで猶太マソンの皇帝エドワード八世の御失脚なさるように書き上げた筋書きは見事完成したのであった。これより先、フリー・メーソンの総指揮たるメルヴィル・ジョンソンは皇弟ヨーク公(現皇帝)を大棟梁に任命するために、スコットランドへ旅行さえしたともいわれている。如何に彼等があらゆる方法で皇帝エドワード八世を廃し奉る筋書きの完成に努力したか、これでよく窺われるではないか。

シンプソン夫人は、歴とした猶太人であって、シンプソン・アーネストの妻(このシンプソン夫人は米国の社会主義の作家である猶太人のアプトン・シンクレアの実の姪だ)で、それまでも不倫の恋を数回経験した、あばずれ女であった。そういう、曰く付きの女を態(わざ)と、皇帝に取り持ったと言う、大それた紹介役を勤めたのは、誰あろう、米国の猶太人の大金持ちと知られるモルガンの娘のファーネス子爵夫人であったと言うから驚く。かくて、マソンはあらゆる方法で両者の関係を深めることに努め、万事が熱してから、暴露戦術に出たのであった。

流石のエドワード八世も、クレオパトラの容色に迷って遂に失脚したアントニーの二の舞を演じまんまとマソンの計略に陥ってしまった。しかもアントニーの場合は相手がエジプトの女王であったのに、皇帝の場合には、海千山千の手連手管*(てれんてくだ)を持った市井のそれまでは名も知られなかった猶太の人妻との不倫な恋路であったので極めて始末が悪かった。そこに、マソンの陰謀の深刻性も勿論蔵されていた。彼等は皇帝を抜き差しならぬ羽目へと残酷にも追いやったのであった。

*「手練」は巧みな技、「手管」は人を自由に操る(騙す)手段。 ともに人をだます手段や技術のことを指す同義語であり、これを重ねて強調した言葉