筈見一郎著 「猶太禍の世界」11

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第七章 ソ連コミンテルンの真相

 

怖るべきシオンのプロトコールの実現

一八九七年(明治三十年)バーゼルで開かれた第一回シオン会議の議事録*を読んだ人には、二百年来、英国の指導して来たフリー・メーソンこそは、ドイツを第一次大戦の結果あのような動きのとれぬ窮地に陥れた次第や、英国のフリー・メーソンが全力を尽くして米国を同じ世界大戦に誘い込んだ次第、はては、ウィルソンの平和条件の十四箇条なるものは、実は、フリー・メーソンの目的に応わしい様に作成されたこと、カイザー打倒の目的を達するや否や、ドイツ人を扇動して彼等自身が残れるドイツの王侯をば一切放逐させる方法を執らせ、それにも甘んぜずして、こうしたドイツの革命をば、やがて、猶太人自身のドイツ乗っ取りまで発展させた次第、一方、如何にして露国革命を企図し、ツァーの帝國を顛覆(転覆)し、猶太人の露国を実現せしめたかの一切の予定されたる筋書きを直ちに感知し得るであろう。

 *所謂「シオン長老の議定書」のこと。

プロトコールの内容

即ち右のプロトコルは、

(1)世界戰爭の誘発、

(2)オーストリアハンガリー、ロシア、ドイツの帝政の覆滅、

(3)共産主義を奉ずるフリー・メーソンの結社員が各国に混乱を醸生して、それぞれの国に猶太人の天下を天下を建設すること

等々の目的を達せんことをすでに議決していた。

我等猶太人は国家に「自由」なる毒薬を注射し終わった今日、既に各国は、壊血病に侵され危篤の状態に瀕している。間もなくその臨終の時が来るに違いない。我等猶太人は掌中にある黄金の力と、容易で隠密のうちに働かし得る我等の結社の力、その他あらゆる可能な方法で、一般的に経済上の危機を醸成することに努めて、ヨーロッパ各国の労働者全部を街頭に抛(ほう)り出してやろう。さすれば、馬鹿正直なこれらの群衆は、幼時から嫉んでいた者達の血を流そうと狂奔して、到る処に馳せ走り、人々の財産を掠奪することになるだろう。

自由とか平等とかいうものは元来服従を規定する天地の法則に背くものだが、四海同胞主義を表看板に、無知の大衆を釣り、その実は不平等な扱いをしてやればよい。一体、人民などに宗教などを与えるのが抑も間違いのもとだ。特に非猶太人の頭からは、神とか、民族とかの苟くも統一の憂ある精神を取り去り、その代わりに全然打算的な物質上の欲求のみを残すようにしなければならない。そうすると、我等猶太人の指導者は国政を無事に保持することが出来る。

非猶太人に、こうした我等の意図を気付かさせないように、又考えめぐらせないように、彼等の頭を商工業の利益問題にのみ熱中させて他を省みないように仕向けなければならない。皆を我利我利亡者にしてしまえば、彼等共同の敵は誰なるかに就いて、一向に気づかなくなるであろう。工業はすべて投機的基礎に置くがよい。そうすると、工業の株式の投機的争奪に非猶太人等は血眼になるに決まっている。

その挙句の果ては、肝腎の工業の実質そのものは我等猶太人の手にこっそり渡ることになる。これが非猶太人の社会を徹底的に破壊し堕落させる妙案である。

非猶太人に黄金崇拝の観念を折角植え付けるように努める。黄金の齎(もたら)すところの物質的快楽のみを追求させるようにする。そうすると善に仕えるというよりも、また富を蓄積すると言うよりも、単に特権者に対する憎しみから、非猶太人の下層階級なるものは、我等猶太人に追随して、現在、我等を虐げている権力上の競争者である非猶太人の上流者に自然反抗して行くことになるではないか。かくすると、富は巧妙な奸計の助けのみで得られることとなり、社会の放縦は盛んとなり、道徳は精選された原則などにはよらなくて、ただもう峻烈な懲罰と冷酷な法律でのみ維持されることとなる。

彼等は祖国の伝統的な観念や宗教などをコスモポリタニズムですっかり忘れ去ってしまう。かくして、我等猶太人は、社会一切の勢力を掌握するため、特別な形式の中央集権を創設し、我等に不満を懐いたり、反抗したりする非猶太人をいつどこでも膺懲(ようちょう:こらしめること)することが出来る偉大な専制政治を布き得るに至るだろう。民衆の輿論に対しては、態(わざ)と各方面から彼等の迷うような色々の反対論を主張して、「政治問題に就いては別に意見らしいものを持たない方がよい」と思う位に、輿論を迷路に立たせるがよい。

政治などは一般の人々の知る必要はない。指導する者ばかりが、承知して居ればよいことだ。是が大衆を治める第一の秘訣である。次には個人的独創性を無力ならしめるがよい。自由の行動は、他の自由とぶつかって、相互の力を衰退させる働きしかない。そのために重大な精神上の打撃や、失望や失敗が頻々(ひんぴん:しばしば)として起こるのが必定だ。

非猶太人を疲弊させるにはこの方法が一番だ。しかも、自由は結局毒薬であることを利己主義で目を掩われた彼等は悟り得ないから占めたものである。かくて、非猶太人は否でも応でも、我等猶太人に最高政府を国際的に建設し得る主権を提供せざるを得ないことになる。尤も外交に関しては、巧妙な辞令を以て、逆戦術を執り、正直で従順であるが如く装うがよい。外交家の言葉と行動とは一致してはならない。経済的危機とは、我等猶太人が、時々その欲する貨幣を金融界から取り上げんがために非猶太人を対象として作ったものだ。我等猶太人は強烈な名誉心、燃えるが如き所有慾、劇(はげ)しい復讐心及び憎悪を抱いて居る。

猶太人に依って、世界が統一された暁には、非猶太人に取って「自由」も、「権利」もなくなることは当たり前である。我等は絶対的盲従を強いるため、恐怖政治を布かせねばならぬ。労働者には、労働(賃金)の増加を要求させるが、労働者は却ってそれがために大損をすることになる。なぜなれば、我等猶太人は同時に、生活必需品や日用品の価格を騰貴させてやるからである。

フリー・メーソンの本当の仕事を指導するのは我等猶太人の外にあってはならぬ。猶太人のみが結社の真の目的を知っているのであって、非猶太人はたとい結社に入っても、全く結社の本旨を知らずして経過させるがよい。フリー・メーソンの結社の刑罰は、我等の仲間以外には、その当人さえも、自然の死によって死ぬものだと思うようにして実行するのだ。

実に戦慄すべき内容を持ったプロトコルではあるまいか。固より以上はその大要に過ぎない。

 

プロトコールはなぜ伝わったか

これは元来、露国政府がバーゼルで第一回シオン会議が開かれた際、ペテルブルグの某省の首脳者を密偵として入り込ませ、それが、猶太人幹部の信任を博しているある男を買収して、会議終了後、そのプロトコールをフランクフルトの結社のクラブに届けることを知り、この使者が途中宿泊した折、筆記者数名と共に一晩の中に写し取られるだけを摘録したので、今に伝わることになった。

即ち、露国政府は、この仏文をば、セルゲイ・ニルスと言う男に翻訳させた。それが一九〇二年露訳第一版として公刊されたから、この議定書の内容が今日明らさまとなった次第である。これはたしか第四版まで重ね、今一つの別訳さえ出たと言われる。だから、このプロトコールユダヤ人の主張する如く決して偽物ではないとのことである。ケレンスキー内閣当時、この露訳が没収され、レーニン治下にありては、その一部でも持って居たことを発見されたものは忽ち死刑に処せられたと言う。要するに、バーゼルプロトコールで定められた指導方針によって、あの露国の革命は遂に達成されたのであった。

 

レーニン以下の革命運動

レーニンその人は、本名をウリヤノフ・ツェーデルンボーム(ゼーデルンバウム)と称するが、大戦前から夙にスイスのあるフリー・メーソンの秘密結社に属して居た。勿論、トロツキー(本名ブロンシュタイン)やラデック(本名ゾベルソーン)もレーニンと同一の結社員であり、組合の世界革命の企図に孰(いず)れも参画していた。

猶太民族はロシアの革命運動に於いて当初からその主役を演じ、殆ど最後の仕上げまで右運動の指導を引き受けたのであった。一九一七年(大正六年)ツァーの政府はその神経過敏な不徹底極まる方針のため、最早、抜き差しもならぬ状態に陥ってしまっていた。

 

二月革命ケレンスキーの臨時政府

斯くて革命党派によって煽動を受けて興奮した大衆は政府軍に対し血腥(ちなまぐさ)い抗争を挑んだ結果、両者の衝突となり、ツァーの限られた軍隊は遂に脆くも降服するに至った。ために一挙にして、さしもに偉大を誇ったツァーの支配権は解体してしまった。

臨時政府がそこで国家の管理を担当し、次いで間もなく例のケレンスキーがその総理となったものの、未だ猶太人の指導した急進党はその政府に於いては代表されて居らなかった。実は狡智に長けた猶太人は、態(わざ)と、これに加わることを差控え、チャンスが到来し次第、改めて政府の全面的権力を掌握しようと虎視眈々と事局の発展を静観していた。

この間にも、到る処、彼等猶太人の指導の下に労働者や兵士の会議が結集され、着々と勢力の扶植(ふしょく)を見、これらの組織は、間もなく臨時政府より強大なものとなり、凄まじい権力を彼等自身左右するようになった。

 

ボルシェヴィズムの台頭

そこで、機は正に到れりとて、これらの会議の背後に、始めてボルシェヴィズムの恐ろしい姿が頭角をあらわすことになった。というのは、一九〇三年(明治三十六年)以来、ロシアの社会民主党は、過激派のボルシェヴィキ(元来は多数党の意味)と、穏和派のメンシェヴィキ(元来は少数派の意味)との二派に分裂してしまった。

而して上に述べた一九一七年の二月革命が勃発して当座と言うものは、ボルシェヴィキ派の重立った幹部連は孰れも外国にいた。彼等は海外で愈々ロシアの帝政が瓦解したことを耳にするや、皆争って故国に馳せ帰った。スイスからは御大レーニンのお伴をしてジノヴィエフ、ラデック、ソコルニコフ、ローゼンブルム、アブラモウィッチ、ヘレーネマン、ゴーベルマン、シャイネスゾーンの手合いが、アメリカからは、トロツキー、シベリア方面からは流謫(るたく:島流し流罪)中のカーメネフ、ヤロスラウスキー、ウンシュリフト等の輩が、驚破(すわ)こそ我が世の春至れりと雪崩を打ってロシアへと帰来した。

そこで、彼等は前から本国にあった猶太系ボルシェヴィキ派の指導者であるスウェルドロフ、ウリツキー、ヨッフェ、ゴロシュチェキン、グーセフ、コロンタイなどの面々と一緒になったのであった。この時、純粋のロシア人として彼等に参加したのは、スターリングルジア人)、モロトフ、ルイコフ、ブハーリン以下の人々であった。

 

十月革命なる

御大のレーニンは少なくとも二十五%だけは猶太人と認められている。何となればレーニンの母方の祖父であるアレキサンダー・フランクはソヴィエトの猶太人の仲間では改宗基督教に属する猶太人と考えられていたからである。事実、フランクと言う名前は、とりわけ、露国では猶太人に珍しくない名前であるからである。のみならず、レーニンの親猶態度は誰も知らぬものはない事実である。同年四月十七日、レーニンは全革命党会議の席上でその第一回の革命煽動演説を行った。

七月に彼等の形勢が益々不穏となり、棄てては置けぬので、その首魁(しゅかい)と認められたトロツキージノヴィエフカーメネフ等が捕縛されるに至った。ボルシェヴィキ派は、同年十月二十三日はケレンスキー内閣に公然闘いを挑み、クーデターの決議を行った。

そうして暴動の指導者として七名の政治局員が任命され、就中、トロツキージノヴィエフカーメネフ、ソコルニコフの四名は孰れも猶太人で全体の過半数即ち絶対多数を占めていた。かくて、十一月七日、八日には遂に臨時政府に最後の日が訪れ、各大臣は逮捕され、総理のケレンスキーアメリカへ亡命した。遂に猶太のボルシェヴィキがロシアの政治の実権を握るに至った。これを十月革命と一般に言っている。

 

革命の主導者トロツキー

この国家草創の時代に当たり、赤軍建設に主として力を注ぎ、又政治そのものにその信条とする社会主義の理念に基づき、整然たる体系を与えたのは、何といっても、トロツキーの功であった。レーニンの下にありて、終始、事実上の十月革命を指導したのも、トロツキーその人であった。この間に、ツァーは、一九一八年七月一日その流謫地(るたくち:軟禁先)エカテリンブルグでソ連政府差し回しの猶太人ヤンケリュローフスキー外十六名(加害者の猶太人は全部で女とも十四人、外にロシア人一名、ラトヴィア人二名)の手で、皇后、皇太子、皇女二名と共に遂に兇弾の犠牲となってしまった。

レーニン時代は猶太人は依然圧倒的に、ソ連国家及びコミンテルンの最高の地位を占めていた。ところが、レーニンが、一九二四年歿するや、間もなく烈しい内部的葛藤が持ち上がった。それは、要するに、トロツキーを御大とする猶太人の幹部達が相かわらず、優先的地位を占むべきや否やにその闘争の焦点が懸っていた。

 

十月革命の責任幹部

顧みれば、一九一七年十月革命の責任幹部は左記のものから成り立っていた。

レーニン(四分の三はロシア人)  スウェルドロフ(猶太人)

トロツキー(猶太人)            ウリツキー(猶太人)

ソコルニコフ(猶太人)          スターリンジョージア人)

ジノヴィエフ(猶太人)          ジェルジンスキーポーランド人)

カーメネフ(猶太人)            ブブノフ(純ロシア人)

こういう顔触れであった。

 

レーニン死去二年前の幹部の色別と死後の確執

ところが、レーニン死去の二年前の政治局員七人の種族別は左記のとおりである。

ロシア人三名    猶太人三名  非ロシア人一名
猶太人の絶対多数の立場はなくなり、剰(おま)けにレーニンは既に実際の政治界には最早退隠していた*。

*レーニンの死因は脳梅毒と言われて居り、その発症後は最早政治的活動が出来なかったのではないか?(燈照隅の推測)

それで、結局左記の四人が孰れもレーニンの後釜を狙って争うことになり、レーニンの死後、それが白熱化するに至った。

トロツキー(猶太人)

ジノヴィエフ(猶太人)

カーメネフ(猶太人)[註、カーメネフの妻君はトロツキーの愛妹であった。]

スターリンコーカサスジョージア(旧グルジア)出身)

これは結局、トロツキースターリンとの勢力争いになってしまった。

 

チャーチル英首相のトロツキー

これに関しては、現英首相チャーチルの一九三〇年頃に認(したた)めたと言うトロツキー評が却々(なかなか)面白く書けているから、その主要なところを爰(ここ)に掲げてみよう。

 

「レオン・トロツキー(又の名ブロンシュタイン)

ロシア、あのトロツキー自身のものと謂ってよい赤きロシアは、他の物を苦しめ、また、彼自身への危険をも省みず、彼が心の欲するままに組み立て、形づくったものなのに、到頭、彼トロツキーを追い出してしまった。

一切彼が切り盛りした陰謀より出発し、一切彼が敢行し、一切彼が書き上げ、一切彼が演説をなし、一切彼が残虐を犯し、一切彼が成就した仕事であったにも拘らず、遂に、こういう結果になってしまった。今一人の仲間、革命の階級では彼の下僚であり、犯罪の上では必ずしもそうではなかろうが、智慧の点では彼より劣るものが、今やロシアを治めている。しかるに、往日は、一度彼が渋面を作らんか、何千人と言うものに死を与え、意気揚々としていた彼トロツキーが、失望の身となっている。恨みの塊りも同然 ―骨と皮ばかりとなって、一時は黒海の岸の暗礁に乗り上げ、今やメキシコ湾に漂着の身分となっている。

だが、このトロツキーは普通とは趣のかわった却々(なかなか)の気六(きむず)かしい男であったに違いない。トロツキーには、ツァーが気に入らなかった。それで、彼はツァー及びその家族を殺戮してしまった。トロツキーには帝政ロシアが気に入らなかった。それで、彼はその政府を吹き飛ばしてしまった。

トロツキーにはグチコヴやミリューコヴの自由主義がきにいらなかった。それで、彼は彼等を押し倒してしまった。

トロツキーには、ケレンスキーやサヴィンコヴの社会革命主義の低温さが、とても、堪えられなかった。それで、彼は彼等の地位を奪ってしまった。彼がロシア全国に亘り一生懸命に努力して勢力を扶植し作り上げたところの共和主義政権が遂に樹立され、プロレタリアの独裁権が最高の地位を占め、社会の新しい秩序が夢想から現実へと転換し、個人主義時代の憎むべき文化や伝統が根絶され、秘密警察が第三インターナショナルの従順な下僕となり、一言にして謂えば、彼のユートピア(理想郷)が成就された暁に於いてすら、彼はなお不満足であった。

トロツキーはそれでもなお頭から湯気を上げる位、ぷんぷん怒って、吼えたくり、罵り、噛みつき、只管これ陰謀ばかりを道楽としていた。トロツキーは金持ちに対抗させて貧乏人を引き上げてやった。トロツキーは貧乏人に対抗させて鐚(びた)一文無しの者を引き上げてやった。トロツキーは鐚一文無しの者に対抗させて、犯罪人を引き上げてやった。すべてのものは、彼の意図した通り、すっかりその地位を失ってしまった。

それでも猶(なお)人間社会の悪徳と言うものには新しい笞(しもと:鞭)が必要であった。一番深い底で、彼トロツキーは、死に物狂いの根気を以て、より以上深いものを求めんとした。だが、可哀そうに、トロツキーは遂にどうしても打ち破れぬ底つ岩根(岩盤)に達してしまった。

共産主義者の犯罪人居階級よりも下のものはどうしても見つけることが出来なかった。

彼はその眺めを野獣に向けて見たが、駄目であった。猿たちには彼の雄弁の真価が解らなかった。彼の施政中に著しく数を増したところの豺狼(さいろう:やまいぬとおおかみ)をば彼は入用に望んで動員することが出来なかった。そこで、彼トロツキーが折角取り立てて役を付けてやって置いたところの犯罪人共は、寄り集まって彼を邪魔になると遂に除け者にしてしまった・・・。

だから、彼は止むなくメキシコへ亡命した・・・。恐らく、トロツキーには肝腎のマルクスの信条そのものが未だ嘗て合点が行かなかったらしい。

だが、彼の一生がそのままマルクスのあらゆる説の稽古台を勤め上げた点では、トロツキーは真に他に比べるものもない立派な先生だ。トロツキーはその稟性(ひんせい:生まれながらにそなえている性質)中に公民権を破壊する術にとり必要な特質を悉く具備していた・・・。

同情は薬にしたくも無く、人間としての血族関係の如何なるものかの感じも無く、霊的なものの真価を知ろうとはせず、ために、実行に対する彼の高度で倦(う)むことを知らない能力を却って弱めるに至った。癌のバチルス*(細胞)の如く、彼は成長し、食を取り、人を苦しめ、人を殺し、その稟性(ひんせい)を欲するがままに充実せんとしている。

*ここでは本来のバチルスの意味ではなく、癌細胞の意味でつかわれていると思われる(燈照隅の解釈)

トロツキーには共産主義の信仰を同じく持って居た糟糠(そうこう)の妻*があった。彼女は彼の側にありて働き且つ計画をめぐらした。ツァーの時代に、この妻は、シベリアへの流刑にトロツキーと行を同じうした。彼女はトロツキーのために数人の子供を産んだ。彼の女はトロツキーの逃亡を助けてやった。しかも、トロツキーは彼女を棄てて省みなかった・・・。

*糟糠の妻:貧苦の時代から苦労を共にして来た妻

トロツキーはその母のことについては冷淡な少しも曖昧のない言葉で語っている。

トロツキーの父のブロンシュタイン爺さんは、一九二〇年(大正九年)に八十三の齢でチフスに罹って死んだ。しかし、彼の息子の最も得意な全盛時代にありても、それは、この正直で刻苦勉励した神を信ずる猶太人には何等の慰労をも齎(もたら)さなかった。

ブルジョアだと言って赤い思想の人には迫害されるし、トロツキーの親爺は彼奴さと言われれば白系ロシア人には睨まれるし、揚句の果てには、当の忰(せがれ)に全然見捨てられる目に遭うし、ロシア名物の洪水には浮き沈みのままに任せられるし、その生涯を終えるまでただ苦闘あるのみであった・・・。トロツキーは野心満々であった。その野心と言うのは世俗に言うそれと少しも変わりはなかった。彼には世界中のあらゆるものが自分の手許にころがって来たが、それでも猶、彼の病的になり致命的になったところのエゴイズムから彼を救うことは、どうしても出来なかった。トロツキーに取っては、プロレタリアート独裁ということは、無条件の服従を意味するのであった。

呻(うめ)いて働く大衆、労農ソヴィエト会議、カール・マルクスの福音とか、それへの敬仰(けいぎょう)とか、果ては、ソヴィエト労農社会主義連邦とかは、すべて、彼にとりては、たった一つの言葉、即ちトロツキーと綴られてあるかのような気がした。これが遂に面倒を醸すようになった。仲間のものが彼を嫉視(しっし:妬みの目で見ること)するようになった。仲間のものが彼に疑念を懐くようになった。

名状し難い困難と危険の間に、彼自身が改造したところの露国陸軍の首領として、トロツキーはロマノフ家の空いた玉座に今すんでのことで滑り込むばかりになっていた。新しい模範軍隊の将校や兵卒はロシアの他の何人よりも、上等な食物を給せられ、結構な衣類を着せられ、立派な待遇を与えられたのであった。何千と言う旧ツァー政府の将校が続々とトロツキーの蜜のような甘い口車に乗せられて戻って来た。

「政治なんか糞喰らえ。軍こそはロシアを済(すく)うものだ」
この挨拶が復旧された。
階級や特権の徽章が元通り使用されることになった。

司令官の権威が昔通りに押し樹(た)てられた。軍の高級の指揮官は、この共産主義の成り上り者によって、ツァーの大臣達からは決して受けた経験のない保護を以て熱く待遇されることになった。それで、一九二二年には、このトロツキーの個人的に発揮した好意ある態度や制度に対する感激と言うものは非常なものであり、彼は軍の総意により全露の独裁官として立派に収まりかえることが差支えないように見受けられた。

ところが、トロツキーには、たった一つの致命的な障碍(しょうがい)が存在していたのであった。それは彼が猶太人であったことであった。彼が依然猶太人であったことであった。何物もその障碍を突破するわけには行かなかった・・・

して、この彼の越え難き猶太人だという不幸は、打ち続いて、それよりも遥かに大きい不幸を齎(もたら)したのであった。失望のすぐ跡を追って破滅が薄気味悪く迫った。

なぜなら、この間にも、仲間のものは決してじっと傍観をしたままではいなかったからである。仲間の者にも、将校達が、どんな話をしあっているかが、ちゃんと、耳に這入ったからである。彼等とてもロシアの国軍が旧き要素から再組織さるべき可能性を見て取ったからであった。だが、レーニンが生きていた間は、差し迫らんとする危険は遠いもののように見えた。事実、レーニンは革命の最大元勲であったトロツキーを彼の政治的後継者と見做していた。ところが、一九二四年(大正十三年)レーニンが他界した。

トロツキーは、依然、忙しく彼の軍を統轄し、依然、行政の実権を握り、依然、かのニコライ二世に対し往年、鳴り響いていたところの喝采と同じ喝采に迎えられていた彼自身であった筈なのに、いつの間にか、彼に対し、組織されるに至ったいと手剛(てごわ)い、早や充分に鍛えに鍛えられている反対党の存在していたのに、面を向けさせられた。

ジョージア人のスターリンは謂わば政府機関の書記長とも称すべき地位にいた。スターリンコミンテルンの幹部の秘密会議を支配していた。数知れない委員会の牛耳を執っていた。スターリンは辛抱強く、すべての糸と言う糸をば我が手の中にたぐり集めた。その意図に明瞭な見透かしをつけて、それに従って、すべての糸を引っ張り込んでしまった。トロツキーが我が物顔に洋々たる希望を輝かせて、真に自信たっぷりで、レーニンの相続権を受け取ろうと進み出たところ、党の機構と言うものが、全然違った方向へと、作用して行くのを発見した。

共産党の活動の純然たる政治領域に於いては、トロツキーは、電撃的に計略の裏をかかれているのを知った。トロツキーは“反レーニン主義”の彼の大量な文書の若干を証拠に告発を受けた。トロツキーは正直に彼の異端な見解を持って居るのを認め、何が故に彼をしてそういう風にさせるようになったか、極めて辻褄のよく合った理由を滔々(とうとう)と熱烈に軍人や労働者に説明を試みた。

トロツキーの堂々たる意見の発表は空疎な驚駭(きょうがい:驚愕)を以てしか迎えられなかった。ゲー・ベー・ウーは動かされた。苟も、トロツキーの恩顧を被せているものと取り沙汰された将校はすべてその官職を剥奪されてしまった。

嵐の跡の静かな緊張の期間が過ぎたかと思うと、トロツキーは休日を取るように勧められた。スターリンはこの成功を利用して一層大なる成功を築き上げるに至った。政治局は、かくて、彼のレーニンの魔力もトロツキーの圧力もないことになったので、その残存せる実勢力の要素をば、引続いて清掃されることになった。

ロシア革命をこしらえ上げたところの政治家は、すべて、免職に処せられることになった。彼等は、すべて、党のマネージャーによって、懲(こ)らさせられ、あく抜きをさせられ、挙げ句の果ては、すっかり無気力なものにさせられてしまった。

コミンテルンの秘密幹部会が内閣をば、すっかり薬籠中のもの*にしてしまった。そうしてスターリンをその元首としての現在の如き露国政府が成り立ったのであった。」

*薬籠中のもの:手なずけてあって、自分の言うことを忠実に聞く手下や部下のこと。 

 

チャーチルトロツキースターリンとの間の確執の顛末を活写した以上の如き名筆は恐らくそれ自身不朽のものであろう。そこには若干の誇張も言い過ぎもあるであろう。若干の真相を取り違えた点もあるであろう。だが、それは、彼の特殊の地位に居って収拾し得た豊富な粗材を基として、彼一流の透徹した見識を以てここまで兎に角描写することが出来たのである、その大きく狙った見当は依然毫も外れていない。