ドイツ悪玉論の神話020

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地主や領主は排除される最初の標的だった。町から町へ、チェーカー隊員のトラック隊列は、夜の帳(とばり)と共に郊外へ、田園地帯へと繰り出した。一軒ずつ、地主や領主の家に停まっては、その家族全員を集めながら... 男・女・子供・幼児、更にその召使たちも含めて。抵抗するもの、逃亡しようとするものは、全て射殺された。電話のなかったその時代には、これらの家族に前もって警告する術はなかった。だから、彼らは、完全に不意を突かれる形で捕縛されたのだ。彼らはトラックに載せられる間、残酷にライフル銃の床尾や警棒で殴られ、多数が怪我を負い、血を流していた。この、一度に十数台のトラックの隊列は、傷ついた上これから何をされるのか想像もしない被害者の満載状態で戻ってきた。実際のところ、彼らは、町はずれの森の中、ブルドーザーが既に巨大な墓穴を掘ってある空き地に連れ込まれた。これら、非難された階級に属するという以外に何の落ち度もない民間人は、穴の前に並ばせられ、そこで機関銃の銃弾を浴び、その後、ブルドーザーで埋めて隠された。次の夜も、そして、その後も毎夜毎夜、トラック隊列は、全員が捕まって殺されるまで、何度も何度も出たのだった。幸運にもその場を逃れ國外に出ることが出来た地主のみが、この難を逃れることが出来た。この被害者とは、プーシキントルストイチェーホフの作品の登場人物としてそのページを埋めた人々であり、旧ロシアの文化を体現した人々であった。今、その人たちが、國家を乗っ取り支配したよそ者猶太人によって、組織的に抹殺されようとしていた。

1926年にグレゴリ博士(Dr. Gregor)というロシア人亡命者は、独逸のミュンヘンチェーカーにより赤色テロルの間に殺害された被害者の統計的数字を載せた1万2千語のパンフレットを発行した。この統計資料は、チェーカー自身が発表した統計から来ていると博士自身が述べている。博士によると、1921年までにチェーカーは、28人の司教、1,215人の聖職者、そして6千人の修道士を殺害したと報告している。ロシア正教会は、猶太人ボルシェヴィキの破壊の最初の標的の一つであった。次に殺されたのは、ロシアの旧社会に於いて、教養があり、指導的な役割を果たしていた階級のあらゆる人々であった。そのような階級・集団の中には、8千8百人の医師と医療助手、5万4千650人の陸海軍将校、1万500人の警察幹部(警部以上)、4万8千500人の警察官、26万人の一般兵士、36万1千825人の教師・教授・技術者・建築士・作家・判事などを含む「知識階級」の人々が殺され、また、1万2千950人の大地主も殺された。これらの殺人には、一切説明も理由も挙げられなかった。単純に、彼らが、上に挙げた階級に属していたという事が、そしてそれだけが理由、と言う事実であった。

この悲劇は、その被害者の数だけで推し量れるものではない。つまり、これらの人々は、ロシアにいた上流階級の人々であったのだ。彼らは、指導者階級であった。聖職者であり、弁護士であり、商人であり、軍隊の将校であり、大学の教授であった。これらの被害者こそ、ロシア文明の精華であったのだ。

 

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赤色テロルの指揮官としてのレオン・トロツキーのポスター


その最終的な効果は、どこの國でも同じであろう。ロシアは、少数の中流階級と上流階級が抹殺され、農民と労働者の民衆は、抵抗できずにボルシェヴィズムを容認した。つまり、ロシアの大衆はその代弁者と指導者を奪われ、単純に反革命運動を起こせなくなったのだ。それこそまさに、赤色テロルの遂行しようとしたことであった。

これらエリート層の処分が終わると、チェーカーは、矛先を労働者と農民に転じ、チェーカー自身の記録で、19万2千350人の労働者、81万5千人の農民が殺害された。これは、グレゴリー博士によると、1917年から1921年までの殺害件数だけで、しかも、チェーカーにより殺したと「報告された」だけである。間違いなく、報告されていないがチェーカーに殺害されたのは膨大な数であったろう。それに、博士の統計は、チェーカーに殺害された人数だけで、飢餓や病気による数百万の死者は含まれていないし、チェーカー以外の隊による殺害も含まれていない。1921年以後、この様な殺人は幾何級数的に増加した。

 
敵対エリートとしての猶太人

ロシア人のエリートを殺し尽した後、猶太人は、単純に新しい支配エリートとして後を引き継いだ。とは言っても、旧エリートの優雅と気品を除いて。だぶだぶのスーツ、粗野な態度と悪意に満ちた顰(しか)め面、そしてそれよりも伝統的ロシアの支配エリートと新しい猶太人の支配エリートには、重要な違いがあった。カリフォルニア大学のケヴィン・マクドナルド教授は、猶太人は帝政ロシアで抑圧され、制限されていたために、「歴史的な不満から来る、想像上、実際上両方の意味で、彼らが支配した文化と人々に対する心の底からの反感があった。」と記述している。

「大天使ミカエル-ロシア人民連合」(Michael the Archangel Russian People’s Union)の指導者、ウラジーミル・プリシケヴィチは、その「ロシアとロシア的なあらゆるものへの妥協なき憎悪」に関して猶太人を非難している。猶太人はロシアにおける伝統的な猶太教とキリスト教の対立が理由でキリスト教が嫌いであった。ケヴィン・マクドナルド教授によると、「猶太人がロシアで権力を達成した時、彼らは歴史的に意味深長な不満を持った、敵対エリートとなった。結果として、彼らは自分たちが支配するに至った(ロシアの)人々と文化を進んで破壊する者となったのだ...」

猶太人で、レーニンのソヴィエト人民啓蒙委員であったアナトリー・ワシリエヴィチ・ルナチャルスキーは、次のように述べている。
「我々はキリスト教キリスト教徒を嫌っている。彼らの中で最も善良な者であっても我々の最悪の敵と見做さねばならない。彼らは、隣人愛と慈悲を説くが、それは、我々の主義主張に反するものである。キリスト教の愛は、革命発展の障碍である。隣人愛などぶっ壊せ。我々に必要なのは、憎しみだ。この様にして我々は世界を征服するのだ。」

マクナルド教授は、次の様に述べる。
「革命のあと、(中略)旧来の秩序とその生き残りに対して積極的な抑圧が為された。猶太人は、彼らの天性の性癖(高い知性と強力な民族ネットワークなどに見られる)により、常に出世する傾向があったが、ここでは教育機関における「反ブルジョア」割り當てや他の旧政権の中流・貴族階級の生き残り(それは猶太人にとって、競争相手に成り得たものであるが)に対する差別が、同様に彼らの役に立った... (中略)旧体制のブルジョアの生き残り...(中略)には、将来性はなかった。この様に農民と國家主義者の大量殺戮は、旧来からの既存の非猶太の中流階級の組織的な排斥と組み合わされた。」

トロツキーがまだ赤軍のトップで、旧来のロシアの完全破壊に勤しんでいた頃、1920年10月9日付のニューヨークで発行された「アメリカのヘブライ」(American Hebrew)は次の様に述べている。
「猶太の理想主義と不平がロシアにおける成果に強力に貢献しつつあるが、同様の猶太人の頭と心の歴史的性質が他の國でも奨励される傾向にある。」換言すれば、猶太人ボルシェヴィキがロシアでしたことを欧州でもしようと、彼らはせっせと取り組んでいたという事だ。

ウラジーミル・レーニンは、次のように語っている。
「我々ボルシェヴィキは、社会の革命を欧州同様、米國にももたらすであろう。それは、組織的に一歩一歩為される。闘争は長きに亙り、残酷且つ流血沙汰となろう。(中略)10%の共産主義者が生き残って革命を遂行するなら残りの90%が処刑されていなくなっても問題ないではないか?ボルシェヴィズムは、若い婦人向けの神学校ではない。全ての子供たちも処刑に立ち会い、プロレタリアートの敵の死を祝賀するべきなのだ。」

(明日は一日お休みです。次回は4月1日、ウクライナの飢餓虐殺・ホロドモールです。)

 

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