第八章 財政政策
第一節 世界恐慌とドイツの財政
第一項 応急的諸対策
世界恐慌のドイツ経済に対する影響はひいて、その財政上にも極めて重大なる危機をもたらした。蓋し税収入の激減にも拘らず、失業の増加に伴う社会政策費関係の増加はドイツの財政を極めて不均衡なものとした。尤もこの赤字財政はこの時代における世界的現象に属し、独りドイツのみに止まらないのであるが、経済的基礎が薄弱であるだけにその影響も大であった。
ナチス政府の大蔵次官ラインハルトの言に従うと、「そもそもヒトラー政府成立当時のドイツの財政は1929年以来の恐慌の後を受け、30年、31年度の増新税にも拘らず、打ち続く税収入減をもたらした。即ち1929年当時135億マルク(国及び地方税合計)であった税収入は前記の増新税により30億マルクの増収見積もりにも拘らず、却って1931年度15億マルク、1932年度35億マルクの減収を示した。他方このために国及び地方団体とを通じて負債は30億マルクをこの間に増加し1933年3月末の公債総額は245億マルクに達した」のであった。
抑々ドイツにあっても1929年に至るまでは減税に関する試みが企てられたのであったが、恐慌の襲来以来、減税案は全くドイツの財政政策より姿を没し、前記の如き増税に変わった。そしてこの未曽有の大恐慌はドイツ国民経済を再び大戦直後の状態にまで逆行せしめ、産業活動は委縮し失業群は増大し、財政には再び歳計の不均衡が訪れた。現代世界各国の赤字財政は、「社会政策費特に失業救済費の増大にあり」とする学者の通説はドイツには特に妥当し、失業救済費は1929年に於いて6億7,000万マルクより1930ねんには10億9,800万マルクに膨張し、莫大なる賠償金の負担並びに産業活動の委縮に伴う政府収入の減少と相俟って、愈々その歳計の不均衡度を大ならしめた。
かかるドイツ財政危機を切り抜けるために、戦後極度にまで利用されたドイツ国民の担税力を1930年以降再び利用し尽くさねばならなかった。即ち或いは流通税の領域に於いて、或いは間接税の部門に於いて、種々増税案が実施された。直接税に於いては表面的の増税が行われなかった代わりに種々の名義の下に国民の各種所得が新しく課税の対象とせられた。しかもこれらの増税を行うに際して政府の用いた方法は、凡て憲法第48条第2項の「ドイツ国内に於いて公共の安寧秩序に重大なる障害を生じ、又は障害を生ずる虞ある時は、國大統領は公共の安寧秩序を回復するに必要なる処置を為し、必要ある時は兵力を用いることを得る。この目的のために大統領は一時第百十四條、第百十五條、第百十七条、第百十八条、第百ニ十三條、第百ニ十四條及び第百二十五條に定めたる、基本権の全部または一部を停止することを得る」と定める緊急大統領によった。
この緊急大統領は1930年7月ブリューニング内閣に於ける蔵相ディートリッヒが議会に於ける自己の財政改革案の不成立を恐れて発せる「財政経済及び社会の窮迫除去のためにする大統領令」に端を発し、爾来数回に亘りこの緊急的方法がドイツ財政運用の弥縫策(びほうさく)として用いられ、議会政治否定の前提をなしたものである。
以下これら数字の緊急令の内容を明らかにし、以てドイツ赤字財政対策の内容を見よう。
(一)、1930年7月の「財政経済及び社会の窮迫除去のためにする大統領令」による国民所得の利用が発せられたが、その内容次の如くである。
(1)官公吏、使用人の非常犠牲税を國、邦及び市町村の官公吏及び使用人と國が資本の50%以上を支出する企業に於ける吏員及び使用人並びに休職手当恩給受領者に対し、税率を各受領額の2.5%、免税店を年額2,000マルク未満におき、1930年9月1日より1931年3月31日に至る間の俸給に対し課税す。
(2)八千マルク以上の所得税付加税を1931年3月31日までの諸特区に適用し所得税の5%を納めしむ。
(3)独身者所得税付加税を1931年3月31日に至るまでの所得に適用し、所得税の10%を納めしむ。但し賃銀俸給所得にあっては2,640マルクを超えるもの、その他の所得に対しては2,160マルクを超えるもののみに課税す。
(二)、1930年度歳計不足補填及び1931年度予算編成への準備のため、1930年12月に発せられたる「財政経済安定のためにする第一次大統領令」による国民所得の利用。
この緊急令により第一に官吏及び国防省兵士の俸給、官吏及び国防省兵士の遺族扶助料に対し1931年2月1日より1934年1月31日迄6%の減俸、大統領及び国務各大臣については最初の三か月間20%減額とす。しかも減俸は邦及び市町村官吏にも準用された。第二に8,000マルク以上の所得者に対する所得税付加税及び独身者所得税付加税は1931年度にも適用することとし、第三に監査役所得税付加税を1930年度に対し所得税の10%を課税することとした。
(三)、1931年度歳計均衡確立不能の爲1931年6月5日に発せられたる「財政経済安定のためにする第二次大統領令」による国民所得の利用。
これによって7月1日よりさらに管理の俸給、恩給を4%乃至8%減額すると共に、更に危機税の第一として危機労賃税を設け、俸給、給料、賃銀等の非独立的労働収入の受領者にして所得税の源泉課税を受ける者を納税義務者として所得税額を標準として1%乃至5%の源泉課税をなす(但し所得税法における労銀税を免ぜられる者及び本大統領令に依り減俸を受けたるものは免除す)。次いで危機税の第二として危機賦課税を設け前記の危機労賃税義務者を除く一般所得税義務者を総て納税義務者として税率0.5%乃至4%を以て課税した(この場合控除所得額及び家族軽減所得額の控除を行わず、また所得税の賦課に際して決定を与えられざる所得及び課税年度内1万6,000マルクを超えざる勤労所得は免除す)。
(四)、失業救済費の増大に対する財源確立のため1932年6月14日に発せられたる、「失業救済及び社会保険の維持並びに市町村福利負担軽減のためにする國大統領令」による国民所得の利用。
これによって失業救済課金を設定した。即ち既述の所得付加税或いは減法の如きはこれ以上課するを得ぬ状態となったが故に、就業の機会に恵まれているものより、その所得の一部を徴収せんと目論みたるものである。これは1932年7月1日より1933年3月31日間に取得したる一切の労働所得に対し失業救済課金を課し、その収入をば専らこれを失業保険局及び職業紹介局に帰属せしめた。この失業救済課金創設によって、前述の危機労賃税は廃止されたるが、危機賦課税は本大統領令に依り更に1933年度も亦課税せられる事となり、失業救済課金も亦同様1933年3月18日の「財政、経済及び法律の領域に於ける諸規定に関する大統領令」により1934年3月31日に至る迄課税せられる事となった。
更に又1931年12月31日の「財政、経済の諸変化に応ずるための大統領令」及び1933年3月18日の「財政、経済及び法律の領域における諸規定に関する大統領令」により、前述の「8,000マルク以上の所得者の所得税付加税」「独身者所得税付加税」「監査役所得税付加税」等は引き続き維持され、1934年10月の税法改正に基づいて初めて整理統一を見るに至った。
以上の如き財政上の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう:税むごくきびしくとりたてること)は独り国税のみに止まらず、地方税一般にも亘って行われ国民経済を破壊せしめ、税源の枯渇を来たさしめたことは、幾度かの増税にも拘らず税収入が激減したことがこれを物語っている。今これを数字的に示すと次の通りである。
ドイツ租税及び関税収入(単位百万マルク)
租税 |
1929~1930 |
1930~1931 |
1931~1932 |
1932~1933仮計数 |
5、876.9 |
5,974.0 |
5,556.1 |
4,968.0 |
|
6,543.1 |
6,424.9 |
5,260.4 |
4,029.0 |
|
計 |
12,420.0 |
12,398.9 |
10,816.5 |
8,997.0 |
関税計 |
1,095.2 |
1,082.9 |
1,147.3 |
1,106.0 |
合計 |
13,515.2 |
13,481.8 |
11,963.8 |
10,103.0 |
外に対外賠償支辨の爲の特別国税 |
863.8 |
660.5 |
217.5 |
70.0 |
総計 |
14,379.0 |
14,141.2 |
12,181.0 |
10,173.0 |
「備考」Statistisches Jahrbuck für das Deutsche Reich 1334.に拠る
第二項 ドイツ財政膨張
財界の不況に伴う収入の激減につれて、経費も亦収縮を示した。今中央、地方を通じての経費総額の概要をドイツ統計年鑑に拠って見るに次の如くである。
1925~1930年度 20,871.6
1930~1931年度 20,405.7
1931~1932年度 16,977.3
1932~1933年(仮)度 14,500.0
即ち1932~33年度の如きは1929~30年度に比し約63億マルクも支出が減じて居る。
そしてこの経費の内容を見るに左票の如く、各年度を通じて官公吏及び使用人の俸給、給与及び手当が全経費の25%を占め、年額約40数億マルクに達し、1932年国民所得の453億マルク、及び1933年の464億マルクに対して約十分の一を占めており、公債費の割合も年々増加し、その歳出総額に対する割合は1929年度の6.4%から1930年の6.6%、1931年の8.1%へと増加し、1932年度には8.6%へと増加している。更に経済的社会的性質を有する各般の行政費及び事業補助金も可なり多く、最近年度は約30億マルク余に達している。そしてこれらの歳出に対し他方に於て行政収入その他があるから、差引準歳出は以上より幾分減ずるは云うまでもない。
経費内容(単位百万マルク)
|
1929~30年 |
1930~31年 |
1931~32年 |
1932~33年 |
俸給・手当 |
4,723.1 |
4,666.6 |
4,182.0 |
4,660.0 |
扶助料 |
997.5 |
1,017.2 |
974.6 |
|
軍人扶助料 |
1,626.6 |
1,583.9 |
1,327.7 |
1,150.0 |
公債費 |
1,332.1 |
1,339.7 |
1,374.1 |
1,252.0 |
新建築・土地購入 |
1,774.1 |
1,166.8 |
679.2 |
450.0 |
借款保証・基金繰入 |
1,898.0 |
1,224.1 |
594.7 |
266.0 |
社会保険補給金 |
559.0 |
466.8 |
486.1 |
485.0 |
経済的及社会的種類の補助金 |
1,766.3 |
2,911.8 |
3,399.7 |
3,142.0 |
戦時損害賠償 |
1,964.2 |
1,879.1 |
560.7 |
183.0 |
其他経費 |
4,230.6 |
4,149.7 |
3,398.6 |
2,912.0 |
総歳出 |
20,871.6 |
20,405.7 |
16,977.3 |
14,500.0 |
特殊収入(行政収入・特別公債引受基金繰入・貸付回収等 |
4,141.9 |
3,345.1 |
3,119.4 |
2,290.0 |
差引補填所要額(純歳出) |
16,729.7 |
17,060.5 |
14,357.9 |
12,210.0 |
補填方法 |
|
|
|
|
公企業及公有財産収入 |
1,272.3 |
1,608.7 |
1,092.6 |
1,085.0 |
造幣益金 |
65.0 |
26.0 |
353.9 |
105.0 |
租税及関税 |
14,379.0 |
14.141.8 |
12,181.3 |
10,173.0 |
其他一般補填手段 |
63.9 |
134.1 |
119.0 |
107.0 |
歳入不足 |
949.5 |
1,149.8 |
611.1 |
740.0 |
前年度歳入不足補填の爲の収入 |
159.6 |
633.7 |
91.3 |
- |
差引歳計不足 |
790.0 |
516.2 |
519.8 |
- |
前年度繰越歳計不足 |
599.1 |
1,369.3 |
1,863.8 |
- |
総計歳計不足 |
1,389.0 |
1,885.5 |
2,383.6 |
- |
「備考」Statistisches Jahrbuch für das Deutsche Reich 1931, 1932, 1933, 1934 に拠る
以上の純歳出を補填する財源の大部分は租税関税等にして、次いで公企業収入及公有財産収入があり、その他造幣益金等がある。税収入の如きは逐年減少を示し、かくて最近数年間は何れも赤字財政に終わっている。
今右の純歳出(即ち総歳出より特殊収入を控除せる)の主なるものの内容を前記統計表に拠って見ると次の如くである。
ドイツ純歳出内容別(単位百万マルク)
|
1929~30年 |
1930~31年 |
1931~32年 |
1932~33年 |
国防 |
737.8 |
739.8 |
685.6 |
710.0 |
警察 |
766.3 |
780.7 |
704.6 |
656.0 |
司法 |
383.1 |
390.6 |
318.3 |
257.0 |
教育 |
2,828.2 |
2,690.6 |
2,227.2 |
1,940.0 |
社会施設 |
|
|
|
|
経済扶助及失業手当 |
1,779.1 |
2,706.1 |
2,981.6 |
2,700.0 |
其他の福祉施設 |
1,227.6 |
1,051.4 |
960.7 |
872.0 |
住宅施設 |
959.4 |
858.9 |
362.9 |
178.8 |
経済及交通施設 |
1,363.4 |
1,481.2 |
1,285.9 |
1,000.0 |
公債費 |
761.4 |
713.1 |
751.9 |
700.0 |
軍人遺族扶助 |
1,744.9 |
1,700.8 |
1,429.2 |
1,250.0 |
対外賠償 |
1,964.7 |
1,812.4 |
556.3 |
183.0 |
右によると純歳出中最大の地位を占めるものは社会政策費にして、次いで教育費、国防費、警察費、軍人遺族扶助費、公債費等にして、対外賠償費も1931年度より支払い停止するまでは巨額を占めており、他の資本主義国の財政と同様に国防費、警察費、軍人遺族扶助費が社会政策費や教育費と対立している。
第三項 公債の増加
中央及地方財政の歳計不足の累増と共に公債も当然に増加し、1929年3月末現在に於て中央地方債合計181億5,900余万マルクたりしものが、1933年3月末には245億3,700余万マルクに達し、この間実に63億マルクの増加を示している。今これが内容を示すと次の如くである。
ドイツ中央及地方公債(単位百万マルク)
|
総計 |
内債 |
外債 |
|
1929年3月末 |
18,159.2 |
15,865.7 |
2,293.5 |
8,128.5 |
1930年同 |
21,318.5 |
18,723.3 |
2,599.2 |
9,629.6 |
1931年同 |
24,022.1 |
19,222.9 |
4,799.2 |
11,342.2 |
1932年同 |
24,177.1 |
19,497.6 |
4,679.6 |
11,434.0 |
1933年同 |
24,537.6 |
20,091.4 |
4,446.2 |
11,689.9 |
「備考」Statistisches Jahrbuch für das Deutsche Reich 1934に拠る
第二節 ナチスの財税制理論
ナチスの財政論は、かのフェーダー・プログラムに明示されてある通り、賠償金不払いと租税なき国家を実現するための税制改革を為すことにありとされる。しかも賠償問題は一方的に解決はされたが、残された手形たるこの租税なき国家実現への政策はどうなったか。抑々この目的の実現のためには、第一に利子奴隷制度の打破の下にその財政経済政策を実行するにある。これによって私的資本に対する公債負担を破棄するか、または少なくとも幾十億の利子負担の減少を計る事にある。第二は租税政策によってまず働く国民を悪税や重税より解放し、以て租税によって貸付資本への奉仕をなさしめざる様な政策を行う必要があった。
これらの政策は勿論放棄されたのではなかろうがラインハルト次官も云ふ如く、ナチスが政権獲得後のドイツ財政政策の中心は第一に失業問題の解決に置かれた。従ってドイツに於ける財政及税制政策はドイツに失業者の存在する限りは第一に失業の減少、否その撲滅を中心として行われねばならなかった。
かくて前述の如き第一次、第二次失業撲滅政策を通じて、各種の景気恢復策が積極的に講ぜられると共に、この種潜在的インフレーション政策を通じて税収入増加を目論み、しかも過渡的に各種の増減税を試みた。そしてナチスの行う各種救済事業は結局財政経済の健全化を図ることによって初めて実現されるものとの見地からこのための全般的税制改革を行う前提として、先ず、1933年度中にその根本方針を発表しているがその内容は次の通りである。
これに拠れば、先ずナチスの金言たる「全体の利益は個人利益に勝る」を再興原則に置く事言うまでもないが、更に有識者の犠牲に於て失業者を救済することをその財政政策の指導原則とし、(イ)新税制度は社会的公正と、経済的負担能力を基礎とし、所得税決定にあたっては従来よりも一層人口政策的原則を考慮すること、(ロ)新税法は如何なる納税義務者も容易にこれを理解し得るよう平易明確なる文章及び文字を使用すること、(ハ)租税制度の改正は単に国の税法のみならず、邦及市町村の租税にも及ばざるべからざることを説いている。この方針に拠る税法の一般的改正は1934年10月一斉に発表された。
然しナチスの財税制政策は在野以来種々の変化を辿ってはいるが、その根本方針は一般経済政策と同様人口の増殖と軍備の拡充を中心となすものであり、この国民主義的要求の爲には国内労働者大衆の生活水準を引き下げても何ら顧慮なしとの決心が盛られている。従ってそこには口に社会政策の、労働政策の、と言いながらこれらの標語とは逆に或いは間接税を通じ、或いは直接税を通じて極度に大衆の生活を圧迫している。従って民族主義的財政政策なるものの本質も別に一般資本主義国家の、従って又従来ドイツに於いて採られ来たった政策とは何ら本質的差異が存しない。もし存するとすれば従来よりヨリ露骨なる方法を以て一般大衆を重課したこと、そして多額の減税及補助を有産階級に保証したるにある。以下に於てその具体的内容を予算、税制、公債政策等を通じて見ることにしよう。