ナチスの経済政策(1935年当時の調査)06

第四章 農業政策

 

第一節 ナチスに於ける農業問題の地位

ナチスの新ドイツに於ける経済を最もナチス流に特徴づけるものは経済政策の重点を農業局面に置いた事にある。これはナチスの政治的地盤が中間経済層、就中農民に存して居た点からして当然の事であろう。併しナチスの農業政策が初めて体系的な形で公表されたのは1933年7月の国会総選挙の際にナチスの嘗ての重鎮であり、理論家たりしダンゴール・シュトラッサーに依って起草せられた所謂「緊急経済綱領」第九章に於てである。之は後にナチス政府農業救済政策の指針となりしもので、その要点は、(イ)農業生産物の輸入抑制による価格引き上げ、(ロ)不当なる営利的中間商業の排除、(ハ)人肥の価格引き下げ、(ニ)利子負担の半減、(ホ)予告付き長期債務の賦払債務への借り換え、(ヘ)農家負債強制執行の保護、(ト)農地改良及び穀物倉庫臨機的建設の爲の信用並びに経営資金の供給等である。従ってこれらによって見れば、ナチスの農業政策も亦要するに(一)農産物価格吊り上げ及び農産物配給組織の合理化による獲得経済部面の改善、(二)農家負債の軽減と人肥価格の引き下げによる消費及び經營経済の改善、及び(三)政府の直接的保護又は救済の三点に出でない様に思われる。

だが然しナチスの農業政策を最も特徴づける指導原理は結局に於てドイツ国民経済のアウタルキー確立と言う根本原則に従って、その物的基礎たる食糧品の自給自足化を計らんと言う点にある。このアウタルキーによる農業経済の強化を計るに至った理由には、明らかに戦後におけるドイツ経済の変化に原因がある。ゼー・ビー・クラウスによればこれは戦後のドイツがヴェルサイユ条約により喪失した領土及び対外投資その他による損害に加えるに、賠償金の支払いの爲に輸出工業の発展を目論んだに拘らず各国の輸入制限、平価切下げ等によりその能力を阻害された結果に基づくものとなして居る。ドイツはこれにより輸出増新政策を思いきると共に国債依存関係より切り離れんと欲するに至った。ここに独逸農業政策の指導原理の根拠が存する。随って之は単に困窮する独逸農民の救済と言う意味を持つに止まらず、更に進んで資本主義ドイツ更生運動に於ける経済政策を根本的に特徴づけるものである。

この点につきゾンバルトが既に1932年に為せる「資本主義の将来」なる講演に於て次の如く述べ、以て戦後のドイツ経済の変化に対する学者の結論を与えて居る。これによると言ざおのドイツは百年前と同じ程度のアウタルキーに帰ることは今更困難であるが、少なくともドイツ国民の食糧を国内で生産することは結構できる。而してこの国民的独立の目標としてドイツの最農化が存し、ドイツ国民経済の内的構成はこの再農化に適して居る。蓋し現在30%まで減少して居る農業人口の割合を少なくとも1882年当時の42.5%迄に高めることも政策の如何により可能なる旨を説いたのであった。従ってドイツのアウタルキー政策は独り敗戦による外的条件のみに因るばかりでなく、ドイツ国民経済の内的事情からも確立し得る条件が具備して居るわけである。

然らばナチスの主張するアウタルキーの政策はナチスの政綱に於て如何に規定されて居るか。これに関しては極めて一般的抽象的ではあるが次の諸項が挙げられ得る。

  • 我々は民族自決権に基づき総てのドイツ人を糾合してドイツ國を建設せんことを要求す。
  • 我々は他民族に対するドイツ民族の平等権、ヴェルサイユ及びサンヂェルマン平和条約の破毀を要求す。
  • 我々は我が国民を養い、且つ国内の過剰人口を移住せしめる爲土地及び領土(植民地)を要求す。
  • ドイツ国民たり得るものはドイツ民族の一員たる者に限る。ドイツ民族の一員たり得るものは、新興の如何を問わず、ドイツ人の決闘を受けたる者に限る。従ってユダヤ人はドイツ民族の一員たるを得ず。
  • ドイツ国民はドイツ国内に於ては唯外来者としてのみ生活することを得べく、而して外国人法の下に立たざるべからず。
  • 国家の指導及び法規を決定する権利は単にドイツ国民のみに属するものとす。従って我々は如何なる公務と雖も、その種類を問わず、またそれが國に於けると邦に於けると、或いは市町村に於けると論無く、総てドイツ国民のみにより失効されるべき事を要求す。我々は性格及び能力を顧慮することなく、単に党派的見地に従って地位を与えるが如き議会政治を排撃す。
  • 我々は國家が先ず第一に、ドイツ国民の営利及び生活の可能性の爲に配慮すべき義務を負うことを要求す。若し國家の全人口を糊す能わざる場合には他国民に属する者は之を国外に放逐すべきものとす。
  • 非ドイツ人の移入住は今後之を禁ずべきものとす。我々は1914年8月2日以後ドイツ国内に移住せる総ての非ドイツ人が直ちに国外へ退去せしめられるべき事を要求す。

ナチスは以上の根拠に基づき、アウタルキーの色濃き経済政策を実施して居るにも拘らず、政権獲得後は公然とこの点を主張しない。それによればアウタルキーへのナチスの努力は決してドイツを世界市場より閉め出せん爲の目的に非ずして、寧ろ国内市場を強化し、拡大せしむる爲であって、此の内的要求の爲にはある程度の外国貿易を犠牲に供しても努力せねばならぬことを説いて居るに過ぎないのである。

 

第二節 ドイツ農業の恐慌後に於ける特性

ヒトラーは、1933年3月23日の議会における経済政策についての演説に於て農村救済に言及し、独逸農民の救済は何事を措いても実行されるべきものなり、農民経済を収支償うものたらしむることは同時にドイツ工業、国内商業及び対外貿易繁栄の第一条件なり、独逸農民の社会的均衡力なかりせば、ドイツ全土は共産党の跳梁に委せられ、従ってドイツ総経済の破滅を見たであろうとまで述べて居る。ナチスの農業政策の実状を述べる前に恐慌によって打ちのめされた独逸農業の最近の傾向を一応顧みることは必ずしも不要なことではなかろう。この点についてベルリン景気研究所1934年1月24日発行の四半期報告は概要次の如く述べて居る。

ドイツに於ける農業所得は1929年から1932年33年冬季に至るまで、ひた進デフレーションの結果として減少の一途をば辿った。之に対して経営に必要なる生産手段の価格は、その下落の程度がずっと緩慢であった。その結果終には人肥や飼料の如き必要已むを得ざる生産手段の購入とか機械の修繕料や労銀の支払を為すのが辛っとの事であった。之に反して多少とも固定的な経費就中租税、利子及び地代の如きは極めてまれな場合にのみその全額が支払われ得るに過ぎなかった。その結果多くの農業信用、就中以前の好況時代に健全な新投資に用いられた信用は忽ち焦げ付き、そこで生産の拡張に基づく物価の下落をできる丈平均せしめ、以て支払い義務の改善を計ろうとする努力が農業の部面に於て為されたけれども、それは永続的には何等の効果をも収めずに終わらざるを得なかった。蓋しその以前に於ける片寄った穀物生産維持の爲に全体の生産物は無組織的になって居たからである。1932年~33年冬季にはこの関係は全く危機の絶頂に達した。即ちそこでは一方に於て今兎も角表面的には健全だと思われて居た穀物市場に対する方策の圧迫に依って、価格は急激に暴落したのみならず、他方に於て屠畜、牛乳及び鶏卵の価格も完全に軒並みの暴落を演じた。試みに牛酪について見れば1924年~29年の平均価格の半分以下に下落し、家畜も亦前記平均価格の三分の一近くに下落したのである。政府の行政的支持やその他同様の手段が講ぜられたにも拘らず、多数の農家は破局的情勢に陥り、また意気阻喪して、宿命論的な経営を続けて居たのであると。

これによっても判明する如く、これまでのドイツの農業問題と言えば極めて一方的に穀物問題であると考えられて居た。これはドイツ農業組織の指導が大地主の手に帰して居た反映であり、この爲に歴代政府は莫大な資金を投じて東部エルベの地主を救済し、穀価の維持の爲には農業保護関税を設立して、之を保護したる結果、こっくもつについてはほぼ自給の域にまで達したのであった。

然るにこの一面的な救農政策が、行き当たりばったりに行われた結果は、恐慌によるドイツ労働大衆の所得減退による食糧品消費の減退となり、穀価はその標準たる世界市場価格プラス関税額に等しき額をば割り、寧ろ都市労働大衆の所得に基づくその購買力に依存するに至った。この爲に穀物保護関税の効果は著しく減殺されると共に、農業債務の固定化となり延いては農工業館の収支不均衡を愈々増大せしめるまでに立ち至った次第であった。ここに於て農業上の極部的対策を廃して、農業全般の利益増進の爲の所謂目的を意識せる農業政策の樹立が焦眉の急務となったのであった。1933年5月1日の演説中の「我々は第一に農業及び農民の経済を恢復させることから初めるであろう。何故ならば我々はそれと共に他の総ての経済の恢復の爲の前提も亦与えられることを知って居るからである」とのヒトラーの言は蓋し当時のドイツ資本主義に於ける農業政策の意義をば明示せるものである。

ナチス政府の下に於ける農業政策の主管者たる食糧農業大臣は国権党の首領フーゲンベルグを経て現在はダレ博士によって受け継がれている。両者の政策には本質的な相違はなく何れもドイツ資本主義の現状よりしてナチス政府に課されたるドイツ農業の復旧打開に対して努力して居る丈である。だが然しダレ農相の時代に入ってナチスの農業対策は一段とナチスの理想を徹底せしめたと見られて居る。本論に入る前にダレ農相の農業理論を一応見ることにする。

ダレ農相は「革命的国粋主義者」と言われるほどであって、ナチスの精神を徹底的に体得して居る人物である。彼はナチス国家に於ける農民の役割を充分知って居る。農民こそは新国家に於て國民の凡ゆる身分階級の中にあって、特別の任務を遂行すべきものである。彼の遠大の目標は、彼の著書「血と土から生まれる新貴族」のタイトルが示すとおりである。農民は血と土から生まれた新貴族として、ドイツ国民後世に際して、偉大な歴史的意義を有する国民的使命の遂行者である。農民はかくして経済的なものを超越した意義を賦与されるのである。彼にとって必要なのは、ドイツ国民の血統の源泉としての農民であり、更に又ドイツ国民に食糧供給者としての農民である。それ故に農民がその生産物に対してできる丈高い価格を要求し、その経営に対して、出来る丈大なる利益を獲得し得るか否かは問題とならない。重要なのはドイツ的農民の権利によって、彼の土地と深く結合し、彼の労働に対して正当な賃銀を、換言すれば彼の生計を維持するに必要なる丈の正当な価格を取得することにある。農民はその行動に際して常に、彼の任務はその民族、国民にその身を献げることにあると心に銘記して居らねばならない。更に又その任務は如何なる場合にも貨幣を儲ける純粋な経済的なものでない事を心得て居なければならない。

ナチスの政治に於て、農民が血と土から生まれる貴族として、何故に基本支柱たり得るだろうか。ナチスの見解によればドイツの隷属状態からの解放はドイツ国民が自己の土地を以て自己を養い得るときにのみ可能である。この思想は言う迄もなく経済上の鎖国主義であり、アウタルキーである。而してこのアウタルキーに立つ限り、国内の農業の生産力を増加することはドイツ国民の生命問題と言い得る。食糧自給の基礎の確保はナチスにとっては直ちに国民の自由とその対外的独立の行動に対する必須の前提である。土に還れの運動は、それ自身また隷属からの解放の運動である。

次に血の問題は何を意味するか。古代ゲルマン種族の高貴なる騎士としての民族性を意味する。それは純粋にドイツ的なるものであり、排外的なるものであり、民族意志的なるものである。誰に従えば「中世の農民戦争にその強い鼓動を示した農民の、あらゆる外来的なるものに対する闘争は、今日我々には、民族的解体のあらゆる試みに対する本来的ドイツ的なる不断の革命と思われる」のである。古代ゲルマン的な純粋が即ちナチス的本来の姿なのである。而もこの純ナチス的経済思想がドイツ農業経営の主たる要素である大地主の利益と調和を見出すことが、ダレ農相の農業政策の本来の姿である。

更に又農民の血にその基本的支柱を見出す、ナチスの農業政策は同時に又、農業人口教化の問題をも意味する。農民人口の強化は即ちナチス政治の強化を意味する。従って理想的農民の任務は子供をたくさん産むことにある。それは祖国の守りの爲に、殊にダレに従えばポーランドに対して東プロイセンを守る為に是非とも必要な使命なのである。

 

第三節 ナチス農業政策概観

目的を意識せるナチスの全般的農業政策はその根幹に於てほぼ次の如き目的を追求したものであるとベルリン景気研究所の前記報告書は分類記述して居る。即ち

  • 現に存在し及び将来新たに形成せられる農家経済の保障
  • 能う限り完全な食料品の自給を行わんが爲にする有機的組織
  • 公正なる価格形成
  • 農業信用市場の統一

然らば以上の方針に基づきて如何なる農業政策が実行せられたかについて次に前記の四箇の目的の各々に付き見ることにする。

第一項 農家経済の保障

(1)世襲農場法 -農家経済保証の爲に講ぜられたる措置として第一に挙げるべきは1933年9月13日の「ドイツ國食糧生産職分協同体の暫定的組織並びに農業生産物の市場及び価格統制施設に関する法律」であるが、これに関しては第九章の農業統制の項に於て述べるを以て、この項に於ては先ず第一に1933年9月29日発布された國世襲農場法(Reichserbhofgesetz)が挙げられて然るべきであろう。

本法の発布に当たり農相ダレはその意義に付き次の如く述べて居る。

「吾々は近代的大都市の空気を離れ、しっかりと大地に足をつけて、吾々の偉大なる課題を解決することが出来る様に原子ドイツ的な農村の静寂の中に入って行くだろう。吾々の国民社会主義的農業政策の位置前提を示して居るのは、数日前公にされた國世襲農場法である。農民はその世襲地に不可分に根を下ろすことによって再び民族的復興の担当者となり得る筈である」と。而してこれが目的については、本法の冒頭に掲げられた説明によって明らかであるが、それに依れば「政府はドイツの農家に於て古くからの相続の慣習をドイツ国民の血の源泉として保護せんとし、その爲には過超債務や相続に際しての分裂から農地を保護し、以て斯かる農地を一族の相続財産として永く自由なる農民の手に留め置かねばならない。而もそれは農業所有地の適当な分割を基礎として達成せられるべきである。蓋し能う限り平均的に全国に遍く分割せられた生存の必要を充たすに足る無数の中小農地こそ、国民及び国家の健全なる維持に対する最善の保障となるから」と言うのである。本法の細目を見る前に世襲農地の概念についてさらに説明すれば、世襲農地とは少なくとも耕作生計に達し、最大限125ヘクタールを超えざる農業及び林業用所有地にして、独りの農夫たる資格或る者に属するものをいう。世襲農地の所有者を農夫と呼ぶ。農夫たり得るものは唯ドイツ國公民にしてドイツ民族又は同種族の血統に属し尊敬に値する者に限る。

世襲農地は分割せられることなくして代々相伝えられる。共同相続人の権利は世襲法治以外の農夫の財産に限定せられる。共同相続人たる資格なき子孫は、農地の能力に相応した職業修得費及び生計費の請求を為すことを得、罪なくして困窮に陥った時は、生家への避難が保証される。共同相続の権利は死亡に依り指図を以て之を排除又は制限することを得ない。世襲農地は原則上之を譲渡し又は之に債務を設定するを得ないものである。其の内容略略次の如くである。

(イ)世襲農場 -本法の中心を為すものは個人たる人に非ずして、農民に対して根基を構成する所の世襲農場なのである。だが、農業経営の総てが世襲農場として世襲農場幕帳に記入されると言う訳ではない。常に用益賃貸に依って利用されている農場は之を世襲農場とはしない(第一条ノ二)。又その所有者及び家族に市場と無関係に生存を維持するに必要な農産物を供せざる小經營は除外される(第二条)、と同時に、百二十五ヘクタールを超える経営もまた原則として除外される(第三条)。尤も、百二十五ヘクタールを超えた経営にあっては其の所有者の債務総額が課税統一価格の三十%以下なる時は数箇の世襲農場に分割することを許される(第四条)。又百五十年以前より現在の所有者の家族財産たりし経営に就きてはドイツ国民全体の福祉に特に貢献したドイツ人並みにその子孫を敬讃すべき場合又は之を所有せしむるにより、美術上若しくは文化史上の価値を存せしめ、然も之が維持の爲大土地を所有せしむるの必要ありと認められる場合に限り、上掲第三条の規定の例外が認められる(第五条)。

(ロ)農民、将来農民と称するのは世襲農場の所有者のみであり、その他の農業経営の所有者は全て単に農業者と言い得るに過ぎない(第十一條)。農民たり得る者は、ドイツ国籍を有し、且つドイツ人又は之と同種の血統を有する者に限られる(第十二・十三條)。農民は尊敬せらるるに値すべきものであり、且つその農場を秩序的に管理経営する能力を持たねばならない(第十五条ノ一)。世襲農場の所有者が此の両規定を充足し得ざるに至るか、若しくはその債務を履行し得るに拘らず、之が履行を為さざる場合には、邦農民指導官の申請に基づき、相続裁判所は世襲農場の管理を一時的若しくは継続的に其の廃部う者又は相続人に譲渡せしめ、若し之等の存せざる時若しくは農耕不可能なるときは、國農民指導官の申請に基づき当該農場の所有権を子孫若しくは他の適格者に譲渡せしむることを得る(第十五條ノ二及び三項)。

(ハ)相続及び相続順位 農民死亡せる時は、世襲農場は之を分割することなく(第十九條)、また相続税或いは土地取得税を賦課せらるることなく(第五十五條)、相続人に移譲される。相続人の相続順位は次の如くである(第二十条)。

(a)被相続人の男子及びその男子 (b)父 (c)兄弟及びその男子 (d)被相続人の子及びその男子 (e)姉妹及びその男子 (f)その他の女子卑族

右各順位の内部に於てはそれぞれの地方的慣習により年長者若しくは年少者の権利の適用がある。特定の慣習なき時は、最年少者が特権を有する(第二十一條ノ三)。特別の関係に対しては更に諸規定がある(第二十一條~第二十三條)が、そのうち土地所有権分配の将来に対し重要なる規定とみられるべきは、現に一つの世襲農場を有する者は更に世襲農場の譲渡を受けるを得ずとの規定である(第二十二條ノ一)。

被相続人は遺言に依って本法の一切の規定を変更するを得ぬ(第二十四條ノ一) -但し、本法実施の当時その地方に於て一子相続制の適用無く又は相続の自由規定が農民の慣習となって居る場合、若しくはその他重大なる理由により相続裁判所の認許を得たる場合には、被相続者は自己の男子及びその男子の間に相続人を選択することを得、又相続裁判所の同意を得て、自己の女児及びその男子及びその男子を自己の実男児に先行せしむることを得る、又農民に既婚の男子なき時は未婚の男子を相続人として、指定することを得るし、第二乃至第六順位内に於て相続人を決定することを得る(第二十五條)、その他、相続人が二十五歳に達するまで、その父若しくは母に当該農場の用益管理を委託すべき旨を命ずることも被相続者の自由に委されて居る(第二十六條)。

世襲農場外の農民所属の財産は、之により被相続人の遺産債務と農場債務とを完済したる後、一般法の規定によって相続せられるが、世襲農場の相続人は当該相続財産の分配に付き、その配当分が世襲農場の負担控除後の収益価値以上に大なる場合にのみ之が相続の権利を有する(第三十條乃至第三十五條)。

(ニ)相続人以外の農民卑属の権利 農民のその他の卑属の世襲農場に対する権利は、成年に達する迄、一定の教育及び職業教育を受けること、並びにその独立及び結婚に際しての準備を受けること等に限られる。然しこれも農場の資力の許す範囲内に限られる。但しその後と雖も、彼らが過失なくして困窮に陥った場合、相続人は彼らに対しても、被相続人の両親に対すると同様、その農場に於て為す一定の労働奉仕に対して避難所を与えねばならぬ(第三十條)。農民の寡婦は其の請求権を放棄したる場合一定の生活扶助を要求することを得るが、然し之も自己資力を以ては為し得ざる場合に制限される(第三十一條)。

(ホ)世襲農場の売却及び担保物件禁止 農民を土地に決着せしめんとする本法の意義は、世襲農場は之を売却し、担保物件とする事を得ずとする根本原則(第三十七條ノ一)によって満たされる。即ち世襲農場は之を売却する事得ざると共に又低頭として土地豪帳に記入することも許されない。この規定に付き例外の認められたのは、農民がその相続権者とその譲渡契約を締結せんとする場合のみであって(第三十七條ノ三)、この場合とても重大なる理由の存し、之に付き相続裁判所の許可を得ねばならない(第三十七條ノ二)。

(ヘ)強制執行 世襲農場の経済的確保を完うせしめる爲に、如何なる私的債権と雖も、世襲農場に対して強制執行に依り之を取り立てることを得ず(第三十八條)、公法関係に基づく債権に在っては、世襲農場よりの生産物にして次期収穫に至る迄の農民家族の食糧として必要とする以外の分に対してのみ強制執行を為し得る旨規定せられる(第三十九條)。而も該強制執行も、邦農民指導官が当該債務を國農業同業組合中央会に代わって引き受けることを拒否したる後に於てのみ可能である(第三十九條二乃至五)。

今ドイツに於ける1933年の土地經營の状態を見るに、次の如き数字を示して居る。

 

第一表 ドイツに於ける土地所有関係(単位ヘクタール)

経営単位       ヘクタール未満             経営者                経営面積

     0.51    ~           1                       359,863                  263,987

     1         ~           2                       474,151                  670,100

     2         ~           5                       787,526               2,581,787

       5         ~         10                       619,209               4,359,236

     10         ~         20                       450,501               6,270,198

     20         ~         50                       267,060               7,947,647

     50         ~       100                         54,497               3,618,989

 100         ~       200                         16,526               2,255,161

 200         ~       500                         10,593               3,310,301

 500         ~    1,000                           3,911               2,691,517

 1,000        ~      以上                           2,791               7,418,797

                            

                 計                                 3,046,638             41,387,720

                                     (「備考」Wirtschaft und Statistik 1934, 2. Juni, s. 370)

即ち以上の如く少なくとも半ヘクタール以上の耕地を所有する経営者三百万以上に及んでおり、このうち本質的には一種の農業封建主義を現わす、特殊の農民たる特権を与えられるものの数は大体五十万限りに止められるはずである。而してこの法律では世襲農場所有上の限界は百二十五ヘクタールとはっきり定められて居る丈で、その下の限界は、生計面積即ち一家を維持するに足る土地所有と言う表現で極めてあいまいに規定されている。この字句通りに取れば、通常中農と名づけている層も亦包含されるように見える。然しながら世襲農場の所有が上述の如き限定を有するとすれば、この特権的農民は恐らく富裕な中農までであるに過ぎないと推定されざるを得ない。即ち前掲の数字に従って之を類推すれば二十ヘクタール以上百ヘクタールまでの経営数に属する者三十二満一千五百を算するが故に、五十万のうちの64%はこの種の大農経営層が占め、残りの36%の大部分は、二十ヘクタール以下の経営層と、百~百二十五ヘクタールまでの経営層によって占められ、尚残りの部分は十五ヘクタール以上の富裕中農によって経営されるに相違ない。従ってこの種の富裕中農以上の者が、この法律によって特権的農民と称される世襲農場の所有者足るであろう。従って全ドイツ農耕面積の四千百余ヘクタールのうち約半分はこの特権を享受するはずである。

そしてこれら農場は前述の如く借金をば解除され、新たに設立された銀行が彼らの全負債を肩替りして、有利な条件で長期の土地債務に転化させる、次いでこの農場は不可侵にして譲渡するを得ず、個人債権者は世襲農場とその生産物とには一般に手を付けることを得ず、国家と銀行とか非常な困難及び条件の下に於てのみこれに手を付けることを得る。尚これが相続には何等の相続税も土地取得税も支払われないという特権を有する。

これらの方策に依って「農民」は負債の爲にその土地の全部または一部を失う事が防止されるはずである。だがそれでも若しも「農民」が多くの子供を持って居る場合には土地が分割される危険がある。だから一種の「農民封建主義」が実行される。相続権は封建主義に於ける貴族の財産や或いは多くのヨーロッパの國々(イギリス・ハンガリー)に於ける世襲財産を為す大土地所有について行われ居るものと、同じ規則に服することとなる。

世襲農場は、分割することなく一人の相続人に譲り渡される。被相続人の他の子孫は「農場の資力が許す限り」丁年に達する迄、その農場で適当に扶養され、養育され、職業的な教育と支度とをして貰える筈である。そして若しも後に至って「理由なく」困窮した場合には、適当な手助け仕事をやると言う条件で農場で保護され、帰郷できる事になって居る。

この世襲制度によって土地の分散は止まるであろう。だがドイツに於ける百ヘクタール以下の農業経営の約60%は欠損を示して居る左の事実からして、相続人以外の経済的保証は極めて困難なことに属する。

 

1930~1932年度に於ける農業経営の収益状態

(ドイツ・レンテンバンク・クレデットアンシュタルトのドイツ農業債務状態調査による)

経営規模(ha)

純益から利子を
支払い得る農業経営

利子支払が純益の105%以上に上る農業経営

純益を上げ得ない
農業経営

東ドイツ

5~20未満

41.4%

19.3%

39.3%

20~50未満

45.1%

24.1%

30.8%

50~100未満

35.3%

37.2%

30.5%

西ドイツ

5~20未満

34.9%

14.5%

50.6%

20~50未満

39.1%

19.6%

41.3%

50~100未満

35.0%

25.2%

38.2%

 

以上によってこの立法の社会的意義は極めて明瞭である。即ち半ヘクタール以上の経営を為す約三百万を数える農業経営者の中僅かに18%がこの法律によって特権化され、保護される。だが本法によって農民外級内の階級分化が不可避的に、個々の農民家族の中にさえも持ち込まれてくる。従来同等の相続権を持って居た子女の中、今後は只一人だけ父によって単独相続に選ばれ、他のものは丁年後は農場から追い出されて、賃金労働者、兵士又は手工業者となってパンを得なければならない。換言すればこれによってドイツ農民のプロレタリア化が促進される。

この事は必然に農民の弟妹(通常長男が相続と見做されるから)間に猛烈な憤激を呼び起こし、その法律の解釋には所轄の農民指導者の同意を得ずしては為し得ないとの禁令すらある次第である。ここに於て農民と中産階級の絶対の支持によって樹立された、ナチス政府の所謂農民政策は決して、中小農民の爲の利益を擁護することに非ずして、完全に大農の利益擁護にあること従前の政府と何等の変わりなきことが判明する。

(2)計画的「内地殖民政策」 -これは可及的多数の人口に、再び郷土的感情と土地への安住性とをより多く与えんとするものにて、1933年7月14日のドイツ農民新構成に関する法律(Gesetz uber die Neubildung deutschen Bauerntum)はこの爲に発布されたものである。

これによれば各邦内殖民、就中農園の創設は全国内に於いて、國の事業として行う。國はこの爲に絶対的な立法権を有す(同法第一条)、この目的遂行の爲に國は各邦の当該官庁を利用するを得る。これら官庁は國の指揮に従わねばならぬ(同第二条)。当該の國大臣はこの法律の遂行に必要なる法令又は行政規定を発布するの権能を付与される(第三条)。

この法律によって、形成される新農民のために必要なる土地、人口、資本等については未だ確定的の法令は発布されて居ないが、この殖民に必要なる土地は東部エルベ地方の大土地所有の分割により、又はドイツ国内に尚広範に亘って存在する、荒蕪地の開墾によって求められる。

次いで、これらの植民者としては、失業工業労働者は除外され、農業労働の熟練しつつも、世襲農場法によって、父の農場から排除せられた、農家の次男、三男並びに一般的離村によって都会に流れ込み、ここで就職を求めて居る労働者に対してその資格を付与する。

尚第三に植民の実行に当たり必要な資本供給の問題については、過去数十年間に亘った資本主義的経営の植民会社による方法を避け、所謂「完成殖民」の代わりに、大なる資本を必要とせぬ、建設的殖民によって遂行することとすべく、この爲国家的労働奉仕が来たって多大な援助を付与する故に、必要なる物財は資本主義的貨幣経済と独立に、容易に生産され得る筈である。

その他、国家は世襲農場の負債解放の場合と同様に、この場合にも、無利子又は低利な貸し付けによって、救助を与える筈である。

而してこの内国植民の意義については、ナチス政府は次の如き説明を為して居る。

「現在の都市化の傾向に対して反抗するこの殖民事業は、資本主義的経営方法を廃して、企業と家族との生活安定とを密接に結合せしめ、更に公共的補助によって、職業上の変動の危険に曝される家族に、住宅付き菜園を給与し、また企業と共同的運命に結ばれた家族に対して、確実な生活基礎を付与する様努力するにある」と。

然しながら、これらの移住地の多くは収益性の少ない土地に属し、然もドイツ農業労働同盟の移住指導者の言う如く、移住者は其の住宅と数モルゲンの土地を所有するにすぎずとせば、移住者は依然として賃銀労働をやるより外なく、自ら新たに貰った土地に縛り付けられ、付近の大地主に対し絶対に従順に働くプロレタリアート以外の何物でもなくなるものであり、決してそれは労働人口プロレタリアート化より解放などは期待されないであろうと言われる。