ナチスの経済政策(1935年当時の調査)17(完)

第四節 一般産業統制組織

 

自由主義による無政府的経済原則を打破し、国民の全経済力の計画的な総括を為すことを目的とするナチスの全産業に対する統制組織は如何に構成されたか。

抑々ナチス制覇前のドイツには全経済事項の諮問機関として臨時経済審議会(Vorläufiger Reichswirtschaftsrat)なるものが存していた。これはその当初の計画に従えば国内経済諸団体の代表機関として、全国的経済計画を立案すべき経済参謀本部たらしむべく予想されたのであったが、結局各種政党の妥協の産物として、僅かに経済政策の諮問機関たるに止まって存続していた。従って資本家的経済の実質的運用に関してはドイツに於ける集中的資本家団体と称せられたドイツ工業家連盟によってなされ、且つ地域的な利害に関しては商工会議所によって行われていた。

然るにナチスの制覇と共に1933年4月5日の法律により臨時経済審議会は大改造を加えられ、当時の議員は罷免され新議員の任命は大統領によって行われることに改められ、審議会に対する政府権限の拡張となり、事実その機能は奪い去られたのだったが、遂に1934年3月23日の法律によって全然廃止の運命を見るに至り、これに代わり1933年7月17日経済大臣の声明に基づき一切の経済問題の討議に参加せしめるため『経済総審議会』(Generalrat der Wirtschaft)が設けられたのであった。しかしこの審議会も別に拘束力のない諮問機関たるに止まっていた。

この如き事態の下に一方ナチス的職分協同体思想に基づく組織の設定が目論まれていたが、遂に1934年2月27日の『ドイツ経済の有機的構成準備のための法律』(Gesetz zur Vorbereitung des organischen Aufbaues der deutschen Wirtschaft)の発布が為され、これに対する準備工作が為された。本法によりドイツ経済大臣はドイツ経済の有機的構成準備のために次の如き権限を付与された。

  1. 経済団体を各経済部門の唯一の代表として認める権限。
  2. 経済団体を設定、解散又は合同せしめる権限。
  3. 経済団体の規約及び社会契約を変更補充し、殊に指導者原則を導入する権限。
  4. 経済団体の指導者を任免するの権限。
  5. 起業家及び企業を経済団体に加入せしむるの権限。

この法律の意味における経済団体は起業家及び企業の経済的要求の補償を任務とする如き団体の結合である。そして経済大臣は以上の諸権限に基づき経済部門をば農業を除き十三部門に分かち、工業をその種類により七部(1.鉱業・製鉄・その他金属工業、2.機械・車輛及電気工業、3.金属製品工業、4.石材土砂・窯業・建築・木製品業、5.化学・製紙及び印刷業、6.繊維・被服及び皮革工業、7.食料品及びその他工業)そしてその他産業を商業、手工業、銀行、保険、交通、動力の六部とし、更にこれらを専門別及地区別に細分組織化した。

この「ドイツ経済の有機的構成」なる組織の目的は経済大臣シャハトによればほぼ次の如くである。「従来の経済的組織は一部分は不完全であり、一部分は全般的に過ぎていた。団体に加入を強制する規定が欠けていた爲、非常に多数のアウトサイダーは団体の統制外にあった。各企業は欲するままに自由に経済的に活動することができ、国家は各団体を統制することが出来なかった。……また各団体が多数決によって決議をなした場合にも、各団体のメンバー相互の利益が一致していないため、合目的な決議を為すを得ず、その決議もしばしば何等の強制力を持って居なかった。ドイツ経済に関する有機的構成組織はかかる欠陥を除去する目的を持って居る。……この新組織によって、経済の数多くの自主的行動を破壊しようと云うのでは決してない。我々は将来も全責任を負っている独立の企業を必要とする。この新しい産業組織の任務は健全な競争の維持を監督する点に存するにある。即ちこの組織は市場を統制するような政策を実施するものではなく、そは専ら産業における国家の経済統制力の強化を計ることと、産業における不健全なる競争を排除することにある。」

しかもこれらの団体の指導者としては先ず全十三部門経済組織の総指導官としてアー・エー・ゲー電機会社の社長であり、連邦電気工業連合会長たるフィリップ・ケスラーを任命したる外、その他各部門の何れにもドイツ資本主義経済の有力者を任命している点から見て、この統制経済の担当者は皆資本家乃至その代辯者によって指導されていることが判明する。更に又1934年7月3日発布されたる法律(Gesetz über wirtschaftliche Massnahmen)によれば「経済大臣はドイツ経済の繁栄及び経済的障害の除去に必要であると認めた場合には、その管掌事務範囲内に於て凡ゆる方策を講ずるを得、もしそれが他の大臣の所管に属する場合には、その大臣の了解の下に行う事が出来る。この規定に基づいて経済大臣が決定する手段は、既存の法律の規定に相違しても差し支えない。経済大臣は後の命令に違反したものに対しては罰金刑及び体刑の両者又はその一つを課することを得る。罰金の最高額は限定されず」。とあり、これによりドイツ経済大臣はドイツ経済に対し完全な独裁力を付与され、ここに於いて「ドイツ産業の有機的構成組織」の指導者と相俟って経済大臣はドイツ統制経済に対し最高の統制力を握るに至った。この意味において前経済大臣シュミットの辞職後ドイツ経済大臣の職を兼務したライヒスバンク総裁シャハトは現ドイツ資本主義経済の代表として、ナチス経済政策遂行の独裁者とも見られ得るわけである。

「ドイツ経済に関する有機的構成組織」は各生産部門を単位とし、各部門間の利害の均衡を図る所の垂直的組織なるが、これが運用に関しては、その後約十か月を経過した1934年11月26日「ドイツ経済の有機的組成の第一次施行令」(1. Durchf. V. O. zum G. Vorbereitung des organischen Aufbaues der deutschen Wirtschaft.)の発布を見るに至った。

本施行令の目的としては、一、ナチス国家の基礎をなす産業経済の組成に対する従来の政策に法律的根拠を賦与したること、二、産業部門を統制すべき経済団体と従来の公法団体就中商工会議所、手工業会議所との緊密なる関係を規定したること、三、新たに新産業指導本部としての國経済会議所及び地方経済会議所を設立し、産業指導事務の遂行、計画の樹立、経済団体及び商工会議所、手工業会議の監督機関たらしめたること等にある。即ち、「ドイツ経済に関する有機的構成」をある程度改組し、その地方別の組織を為し、これと既存の商工会議所、手工業会議所との密接な関係を有せしめ、経済会議所を以て、これ等の機関を総括せしめんとするものである。

 

(一)経済中央団体

本令により従来の十三部門から交通業を除外して特殊法規の下に置き、又工業に関する最初の七つの部門は一括して工業と為し、かくて全産業を工業、手工業、商業、銀行業、保険業、動力経済の六部門に別ち、それぞれの中央団体と呼ぶ組織を置いた。但し工業はその重要性に鑑み特殊的地位を有し、その主要団体たる七部門即ち前述の鉱業、機械工業、金属製品業、石材土砂業、化学工業、皮革繊維工業、食糧品加工業は手工業以下の他の中央団体と同一の資格を与えられる。工業及その主要団体と他の中央団体により全国経済団体が形成され、これは更に中央専門団体及小泉門団体に別れる。

経済団体は以上の専門別組織の外に又地方別組織も決定され、全国経済団体、中専門団体及小専門団体はそれぞれ地方支部を有し、地方支部はその地方において相互に密接な関係を持続し、類似せる部門は合一せしめられ、且つ当該地方における商工会議所並びに手工業会議所と連絡を保持し、地方支部及商工会議所は後述する該地方における経済会議所にその代表者を送ることとなる。

経済大臣はこの経済団体の部門別、地方別組織を決定し、全国経済団体及工業主要団体に対する指導者を任命する、中小専門団体の指導者は上級団体の指導者の提案により全国経済団体の指導者により任命される。指導者はその部門における規約を作成し、種々なる事件を処理し、部員を指導し、又下級団体の監督、上級団体への報告、当該地方における商工会議所、手工業会議所、経済会議所との連絡をも留意せねばならぬ。

 

(二)経済会議所

中央団体と公法団体との媒介機関として経済会議所がある。経済会議所の中央機関として國経済会議所が存する。

國経済会議所は、全ドイツに於ける中央団体及び商工会議所の代表団体であり、同時にドイツ産業統制の中央機関である。経済大臣の任命による会頭一名あり、従来の産業指導者によって営まれていた事務及びドイツ工業会議(Industrietag)及手工業会議(Handwerkerstag)の仕事は今後、國経済会議の事務局に引き継がれることになり、このほかに全国経済団体、経済会議所、商工会議所、手工業会議所に於ける事件の処理並びに産業統制の爲経済大臣より依頼されたる事務を遂行する。

経済会議所は國経済会議所に対するその地方的組織にして、そは地方専門団体、商工会議所、手工業会議所の代表者よりなり、その会頭には当該地方の諸侯会議所の会頭が就任し、その事務も右会頭の所属する商工会議所に於て営まれる。

 

第五節 ドイツ労働戦線

 

職分協同体形成の具体的第一歩は、所謂『労働戦線』(Arbeitsfront)の結成に始まる。1933年5月2日国民労働祭の翌日、ナチスの經營細胞部(NSBO)はドクトル・ライの指揮の下に自由労働組合の本部を襲い、多数の幹部を捕えた。これを手始めに、マルクス主義の基礎の上に立つ労働組合、被傭人組合は尽く弾圧され、その他の労働組合も尽くヒトラーの奇かに服せざるを得なくなった。そして一方には、二月四日の「ドイツ国民保護に関する命令」その他の法令に依り、反対党、主として共産党及び社会民主党を弾圧し、遂に5月26日の「共産党財産没収法」を公布し、次いで7月14日には社会民主党を潰滅せしめ、ここにドイツ労働戦線結成の基礎工作を施した。

然らばドイツ労働戦線の使命は何か、ドクトル・ライによれば「ドイツ労働戦線の使命は協同社会への教育である。更に職分協同体的建設に尽力すべき人間を作る」即ちナチス的精神による国民精神の改造であり、一切のドイツ国民をその職分によって総括せんとするものであって、この場合、その職業における地位は考慮外におかれる。

ドイツ人を協同社会の理想に教育する為に、種々の教育機関の他に更に第二の手段として相互扶助の機関を設ける。即ち養老、災害、疾病、保険、金融機関、消費組合である。この如くドイツ労働戦線の使命は、ドイツ人に対して協同精神を鼓吹すること、換言すれば、資本家及び労働者が各対立することなしに、ドイツ全体としての協同社会と言う世界観を教え込む事であり、職分協同体組織の精神的訓練を先ずこの労働戦線に於て養わんとする。この点に於て職分協同体組織は労働戦線の結成によって着手されたものと言い得る。

以上の相互扶助的事業の外に従来労働組合の為してきた資本家団体との賃銀協定は総てこれを政府の任命する労働管理官によって統制せしめることにする。1933年5月19日の「労働管理官法」(Gesetz über Treuhändler der Arbeiten)は即ちこれを確立するものである。

労働戦線は1934年1月20日の「国民的労働秩序に関する法律」の精神に則り重大な変革が行われた。本法の内容は既に第三章労働政策の部に於て明らかにしておいた通りである。ドイツ労働戦線はこれに基づきこの精神に基づく経営協同体を組織し、この経営協同体は経営の種類より19の経営部門に分かれ、その経営部門は地域的に二段又は三段に分けられた。これによって職分協同体は資本家とか労働者とか被傭人とかの横の連絡でなしに、資本家、労働者被傭人を合同して一経済部門として縦に連絡されることになった。

斯くて同一部門に属する経営が合して、地域団体を作るのであるが、その地域の区分はナチスの党の經營細胞部の地域区分と一致せしめられ、この經營細胞部の地域的指導者が同時に労働戦線の各地団体の指導者を兼ねることになった。

ドイツ労働戦線の使命は要するに従来の自由主義マルクス主義的労働組織を破壊して、これに代わるにナチス的組織を以てするにある。従ってそこには階級観念は一切排除される。かくて一切のドイツ国民より自由主義的、資本主義的、マルクス主義的精神を除去し、且つ貨幣観念、階級観念を抹殺せんとするものにて、このナチス的ドイツ精神を体得せるもののみが、更に進んでドイツ経済の担当者となり、その根幹たる職分協同体に於て働き得るものであるとするが故に、国民を階級によらずその職業によって(或いは個々人の学問によって)総括せんとするものである。従って資本家とか労働者とかのその階級的地位は顧慮するを許されない。

この原則に基づき結成当時のドイツ労働戦線は「ドイツ労働組合」「ドイツ被傭人組合」より成っていたが、1933年6月には「ドイツ企業家組合」を合して資本家をも含むことによって、所謂「働く人間」の総てを含む団体たらしめた。即ち結成当時は少なくとも労資対立のまま包含されていたが、そしてこれらの三団体の上にツェントラール・ビュローを置きドクトル・ライをして指導者たらしめ、ヒトラーは保護者としてこれを統括した。ツェントラルビューローには指導部、組織部、社会問題部、法律部、職分協同体建設部等が属し、これ等各部の部長と、指導者ドクトル・ライ及びその代表組合の指導者によって、14から成る小会議を形成した。その代表組合はそれぞれに職業団体に別れ、各々指導者を有していたが、これ等の指導者は、前記小会議を合して60人からなる大会議を形成する。

 

第六節 統制政策の概観

 

以上略述せるが如くナチス経済政策の最も要望する所の、国民経済の有機的建設を行うための統制主義は各経済部門に亘って強化されている。これによって従来に自由主義によりて指導され来たった経済領域に対し強制的な国家権力が次第に拡大されたことも極めて当然の事である。そしてこれらの統制なるものにはナチスが政権獲得前に主張していた社会主義的な要素は何等包含されず、寧ろ経済の有機的構成法に於て示されているが如く、或いは農地世襲法に於いて見られる如く、極めて大資本家本位又は大地主本位の統制へと進んで来ている。この事はナチスの説く経済持論が如何に粉飾されているにしても、その本質は依然として独占資本主義の原則を指示する点に於て、群小資本主義的イデーと変わる所がないことによるものである。

従ってこの改革は現在の経済組織を根本的に変化した社会主義的なそれよりは政治的には容易な方法であることは云うまでもない。然るにも拘らず経済上からは、尚これらの改革には行くがの摩擦が存している。例えば有機的経済構成法、即ち所謂産業統制法の下に着手された各種産業の統制計画の如きも随所に破綻を来たし、指導者の更迭頻々(ひんぴん)と行われ1934年7月には全国産業指導者ケスラー氏の辞職が伝えられ、最近に於ても鉱業部門指導者クルップ氏の辞任等があり、該計画が極めて困難な事態の下に行われつつあるが如きその例であろう。

その他外国貿易政策に於ける輸入防圧政策の如きも各種の施設と法令に依ってその輸入抑制と輸出の発展を計り以て貿易のバランスを維持せんと努めたにも拘らず、1934年度は輸入総額44億5,000万まるく、輸出総額41億6,700万マルクにて、前年度に比して貿易の著しき不振を見たるはともかくとして、結局入超額2億8,400万マルクに達している。勿論このことは一方に労働振興政策の如き国内景気振興策を実施して、それに必要なる海外よりの原料品の輸入を抑圧せんとするが如き矛盾した政策に基づく必然の現象ではあるにしても、その統制政策なるものの極めて困難なる理由を物語るものではあるまいか。更に又借すに四か年の日月を以てせばドイツより失業を除去しようと叫んで立ったナチス政府成立して既に二か年の月日が経過している。そして1934年12月現在(ドイツ統計局発表)失業者数は2,604,434人を示し、これを1934年度各月平均について見るに実に2,718,298人に当たり、1933年度の各月平均4,804,428人に比し著しき減少ではあるが、尚総人口の4%の失業率を示している。

以上のことは又自由競争と私有財産に根拠を置く資本主義制度を維持しつつ、その制度を貫通する自己法則をば人力を以て統制し、克服することの困難なることを物語っているものである。従ってこれは独りナチス的世界観に立つ強権政策だけの弱みではなくて、資本主義的統制経済一般に共通する弱点なのかもしれない。

然し乍ら他方ドイツの国民経済に関して1934年末ライヒスクレディット会社(Reichskreditgesellschaft)の発表した『年末におけるドイツ経済状態に関する報告』によれば次表の如くにて、とまれ1932年度に最悪に入ったドイツ経済は1933年度及び34年に至り表面は次第に回復に向かっていることは事実の如くである。

年   度

工業生産指数(1)

工業労働者
就業度合(2)

総平均

生産財

消費財

1929年度各月平均

100.4

104.0

94.8

67.4

1930年度各月平均

90.1

88.7

92.3

56.2

1931年度各月平均

73.6

65.4

87.7

44.5

1932年度各月平均

61.2

50.2

77.6

35.7

1933年度各月平均

69.0

58.5

84.8

41.0

1933年度第一四半期

64.1

54.4

78.8

34.5

1933年度第二四半期

68.0

56.3

84.6

40.7

1933年7月

70.6

58.6

88.7

41.5

1933年8月

70.7

59.0

88.3

42.7

1933年9月

71.0

59.7

88.0

44.3

1933年10月

71.9

61.9

87.0

45.6

1933年11月

73.2

64.4

86.5

46.6

1933年12月

75.1

61.1

88.6

45.4

1934年度第一四半期

81.9

75.0

92.3

47.0

1934年度第二四半期

87.9

81.0

98.2

54.5

1934年7月

89.5

84.3

97.4

54.3

1934年8月

86.7

83.4

91.6

55.0

1934年9月

86.0

84.4

88.4

56.6

1934年10月

86.8

84.4

89.1

57.8

1934年11月

58.8

1934年12月

「備考」   (1)工業生産指数 1928年を100とする
             (2)労働時間量の利用率
             (3)Völkischer Beobachter 1935年1月5日に拠る

 

これらの数字には多くの割引を必要とするにしても、経済界の恢復されつつあることはほぼ事実であろう。そしてこれは勿論資本主義の内部的復恢によって生じたものではなくて、外部よりの強大なる刺激によって生じた不均衡なる恢復であることも事実である。従ってこの種の政策はナチス政府が継続せられる限り或いは持続されるにせよ、そこにはドイツ人の嫌うインフレーションの危険が多分に蔵していることも亦否み得ない事実の様である。