世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)16

8. 猶太世界征服綱領の存在如何

猶太人の反駁

反猶太的気分に対する猶太人の反駁と言う反駁書の中には、何れにも三つの原因が挙げられて居る、即ち宗派的の偏見、経済的の嫉妬及び社会的の反感の三つであって、而も此の原因なるものは三つより多く挙げられて居ることはない。併し非猶太人は何人も猶太人に対する斯様な宗派的偏見が非猶太人側に存在して居るとは思って居ない。猶太人は果たしてこのことを知って居るであろうか。兎に角猶太人が挙げて居る宗派的偏見なるものは、寧ろ猶太人自身の方に存在して居るものであって、非猶太人には毫も存在して居ないのである。次に経済的の嫉妬ということであるが、之は或いは実際に存在して居るかもしれない、少なくとも猶太人が各方面に於て成功して居る結果非猶太人の鋭い注目の焦点となって居るから、この状態を称して経済的の嫉妬と言えば言えないこともなかろう。それで猶太人中一部のものは説を為して非猶太人の注意を他に転向せしめんと努めて居る者もある。これ等の人々は「財界に於ては猶太人は決して重きをなして居ない」と斯う説いて居る、併し此の説は猶太民族の爲を思い大いに忠義ぶったものであって、決して事実を物語って居るものではない。事実世界の財界は猶太人の権力下に立って居るのであって財界は猶太人の意の儘に又計画通りに動いて居るのである、即ち猶太人支配権が決裁した財界のことは、吾人の守らねばならない法律とも見做し得る程の有様である。けれども一民族が財界に重きをなして居るからと言って、直ちに非猶太人が偏見と言う柵の前に此の民族を持ち出すのだという訳には行かない、それだけでは理由がまだまだ不十分である。若し猶太民族にして吾人非猶太人よりも賢明有能で忍耐力に富み且つ勤勉であり、そして又我々非猶太人が彼等より低級愚鈍で、到底彼等の有する様な能力を持って居ないとしたならば、それこそ復讐的に此の民族を恨むということは以ての外の心得違いと言わねばならない。兎に角経済的の嫉妬の幾らかは反猶太的気分に胚胎して居ると言えば言えないこともないが、併しそれでは現存する猶太問題の説明としては十分でない、況や猶太人が財界の覇を握るに至った隠れたる原因が、此の全問題の重要なる一部分を占めて居るに於て殊に然りである。又単に社会的の反感と言うことについて論じて見るならば、世界には嫌な猶太人の数よりも寧ろ嫌な非猶太人の方が多い、此れは非猶太人の数の方が何といっても猶太人より遙かに多いからである。

猶太人の忠節

今日如何なる猶太人反駁家も、猶太問題の政治的原因を述べて居るものは一人も居ない。若しあっても愈々之に触れようとする時には必ず本問題を制限し局限するのが常である。抑々世界各國に於て然り。独逸、波蘭ポーランド)、露國、羅馬尼亜(ルーマニア)に於て然り、驚くべきことには合衆国に於ても亦然りである。彼等猶太人がその居住する國に対して負うべき責務を果たして居るということを示さんが爲に、幾多の書籍は出版され、各種の報道は公表され又幾多の巧妙なる統計も作られて居る。併しながら斯かる熱心且つ隠密なる試みあるに拘らず、事実に於て此れを偽りなりとする反対の見解はさらに強く且つ依然として存在して居る。無論猶太人中には「自由の軍隊」に服して其の本分を盡した者も相当にある、無論これは正当なる愛國心及び献身的至誠より出たことであろう、併しながら如何せん彼等の中には其の本分を盡さない者が数多(あまた)あって、これ等の猶太人が将校下士卒及び一般人士に与えた悪印象は到底抹殺することの出来ない程大なるものであった。

猶太人は世界を対照とす

然れども右は猶太の忠不忠の問題であって、猶太人問題中の政治的要素としてのものではない、猶太人が一國家を形成して居る國民の様に、愛國的精神を持たないと責めるのは些か酷である。抑々猶太人の歴史は、各國民間を放浪の歴史である、現にちょっと現代の猶太人を観察しただけでも、猶太人程遍く世界各國民間に介在して居る民族は他にはない。世界遍歴者たる彼等は他の何れの國民よりも明瞭に世界なる観念の所有者である。蓋し世界至る処実に彼等の経路であったからである。従って彼等の考えは常に世界と言うものを対照として居る、一國家を形成し國民的区分を有する他の諸國民には到底斯かる考え方はなし得ない所である。されば猶太人が各々其の本國民同様に國民精神及び國粋感を持って居ないと言って責めるのは、寧ろ無理と言わねばならない。実に彼らは数千年以来の世界民(國民に対して言う)であって、如何なる國旗の下に於ても其の國の居住民として其の要求される処に従うけれども、奈何(いかん)せん彼等の対國旗觀は、一國旗のみを有する國民が有すると別種な或る見方をして居るのである。

猶太問題の政治的要素

抑々猶太問題の政治的要素は猶太人が他の諸國民内にあって、別に一國民を形成して居るという事実内に存在するのであるが、若干の猶太人論客は此のことを否定して居る、殊にアメリカに於て然りである、併し面白いことには猶太人自身の天才は斯かる辯護者の筋違いの議論を常に誤りなり偽りなりと一蹴し去って居る有様である。然らば何故に斯様な國民性と言う事実が斯くも頑固に猶太論客に否定されるのがと言うに、それは明らかでない、けれども若し猶太人にして彼等の世界的伝道なる使命は、到底金力と言う手段では達成し得ないものであるということを覚りさえすれば、其の時こそは猶太人の世界民と言うこと及び猶太人の避け難き國民的集結性が、却って人間の統一を図る上に於て強固にして有効なる一因子となるであろうと思う、併し遺憾ながら猶太人の現時の傾向は、大いに之と趣を異にし、寧ろ人類の統一を大いに阻害して居るのである。猶太人が各國民内に於ける一國民であるという事実に対して世界が異議を唱えて居るのではなく、斯かる状態が永続することに依る弊害に対して世界は面白く思って居ないのである。由来猶太人を包容同化して一國民となさんと試みた國民も多々あった、猶太人自身も亦自ら進んで斯様な目的の下に努力したことも度々あった、併しながら猶太人と言う者は一種特別の國民性を永久に持って居なければならない運命を持って居るものらしい、猶太人と雖も亦爾余(それ以外)の人類と雖も此の事実を承認せざるを得ないのである。猶太人は此の事実を以て多幸なる預言の通りと考えて居るのであろう、然らば此の預言を現実化する手段方法を求むべきである。

ヘルツルの信念

猶太人中の偉大なる一人なるテオドル・ヘルツルは、猶太人の特性を哲学的に説明したる近代の最も達識且つ公知の代表的人物とも言うべき人である。彼は猶太國民が現に存在して居ることを常に信じ、嘗てこれに些かの疑念をも挿んだことがなかった。否彼は単に信じて居たというよりも寧ろ猶太國民の存在を、あらゆる機会を捉えて世に発表したのである。彼曰く「吾人は一個の人種 -一個の國民なり」と。又彼は明らかに意識して彼が唱える猶太問題なるものは政治的性質を帯びる問題なることを認めて居った。彼は「猶太人の國家」と言う書物を著わし、その序論に於て次の様に述べて居る。

『私は私がアンチセミティズムと言う極めて複雑なる運動の理解者なることを信じて居る。私はアンチセミティズムを猶太人の立場より観察するものであるとはいえ、豪末の恐怖も憎悪をも交えて観察して居るのではない。抑々此のアンチセミティズムの中には低級なる運動、凡庸なる商業的嫉妬、伝統的偏見、宗教上の偏狭性、表面的の正常防衛という様なことに於て、如何なる分子が含有されて居るか、と言えることを私は能く察知して居るものであると自ら信ずるものである。猶太問題なるものは時には社会問題の形となりて表われ、又時には宗教問題の形をとって現われる。併し私は猶太問題は社会問題でもなければ又決して宗教問題でもないと固く信ずるものである。猶太問題は國民的問題であって、國民的問題は世界の政治問題となる時に於てのみ解決され得るべきものである。そして世界の政治問題は方に(まさに)地球上の文明諸國民が協力して討究調停せねばならないものである』と。

尚ヘルツルは「猶太人は一國民を形成して居る」と声明して居る。已(のみ)ならず彼は英帝國に於ける1902年8月の外人移住委員会席上に於てエヴァンスゴルドン少佐の質問に答えて次の様に反問をさえして居る。

『私は茲に國民と言う概念に対する私の定義を下してみよう、そうすれば貴下は「猶太の」という形容詞を付加するかもしれない、私の考えでは、一國民とは明らかに認知し得る凝集力を有する人々より成る歴史的の集団を指すものであって、此の集団は共通の敵によりて集団となったものである。故に予は猶太人を一つの國民と見做して居る。貴下が若し之に「猶太の」と言う語を付加するならば其の時こそは貴下が私の「猶太の國民」なる語の定義を体得したと言い得るのである』と。

猶太人の猶太人以外に対する作用

又ヘルツル博士は、猶太人の猶太人以外の人類に対する作用と言う叙述の中に次の様に述べて居る。

『吾々が下落する時、我々は革命的無産者となり、革命党の下士官となるのである。吾人が向上する時、其の時には金と言う恐るべき力も亦大いに向上する』と。

ジューイッシュクロニクル紙の所論

右の様な意見は、猶太人の思考中に最も長く存在した意見であった。此の点に於てこの説はちょっと真理のようにも思われるのである。そして此の説を代表するものに現時ロード・カステース・パーチ(Lord Custace Perch)あり、此の説を公表するものにカナダのジューイッシュ・クロニクル(Jewish Chronicle)紙がある、同紙の所論は此の説に同意を表して居る様である。今此の所説を注意して一読するのは決して徒爾(とじ、無益・無駄)でないと信ずる、曰く。

シオニズムとボリシェヴィズム

リベラリズムナショナリズムとは皷(つづみ)を打ってゲットー(猶太人街)の門を開き、猶太人達に國民としての平等権を付与した、猶太人は出で来たって西半球に入り、その力とその輝きとを見、これを利用し且つ享楽した。そしてその手を西洋文明の神経中枢に当て、此れを導き之を支配し又之を開発した -そして後その提議を拒絶した…加えるに--そして此のことは注目に値することである -ナショナリズムリベラリズムの欧州科学的統治と民主的同権の欧州は、往時の圧迫排斥の時代よりもはるかに彼猶太人に対しては寛宥(寛容)であった、…然し西洋各國民の統一が日と共に鞏固となるに従って、最早無制限絶對の寛宥を期待することは不可能となるに至った…猶太人が此の完全に組織的であり、そして領域画然たる國家制度の諸國内にあって彼等が安んずべき隠れ道は、唯二つあるのみとなった。即ち猶太人が國民的國家組織の支柱を倒すか、或いは彼自らの領土を有する國家を創造するかの二途のみとなったのである。畢竟(ひっきょう)猶太人のボリシェヴィズムと言い又シオニズムとも言うも、此れが説明は実に此の二点の間に存在するのである。蓋し東方猶太人達が不安定に此の両途間を動揺して居るのもこれが爲である』と。
又曰く。

社会主義者及び過激主義者たる理由

『東ヨーロッパに於てはボリシェヴィズムとシオニズムとは相俟って発達する様な有様であったがちょうどそれと同様に猶太勢力は、第十九世紀を通じて共和思想と社会主義思想とを融合し、その後十年を出でずして青年トルコ党の革命が、行われるに至ったのである。即ち此の原因たるや、猶太人が急進世界観と言う積極的方面に努力して居るからでもなく、又猶太人が非猶太人のナショナリズム又はデモクラシーの参与者たらんという希望を持って居るからでもない、凡そ現存の非猶太人の支配組織は悉く彼猶太人に取って厭うべきものであるからであって、理由は実に此の点に存するのである』と。

如上の(上記の)説は誠に真理を喝破して居るものであって、大胆なる猶太人思想家は常に右の説の真なるを承認して居る。猶太人は非猶太人が作った事々物々に対して悉く反対するものである。猶太人をして彼等の欲するところを為さしめたならば、彼等は帝國に対しては共和主義者となり、共和國に於ては社会主義者となり、社会主義に対しては過激主義者となるものである

破壊的行為の原因と独裁

斯様な猶太人の破壊的行為に対する原因とは抑々何であろうか?

第一の原因は猶太人がデモクラシー思想を豪末も有して居ないということである。抑々デモクラシーは猶太人以外の人類にとって結構なことであるが、猶太人は其の性質が独裁的である、彼等は何處に居っても必ず何らかの専制政治の形式を採るものである。されば猶太人の煽動家がデモクラシーを標榜宣伝しても、その真意は決してデモクラシーではなく、単に猶太人が一般水平線より下方に圧迫されて居る所に於て、水平線迄向上する為便宜使用する口実に過ぎないのである。

そして猶太人が此の水平線に到達すると、直ぐに特別な優先権を獲得しようと努める、而も其の有様はちょうど、特権を獲ることが彼らにとって当然のことででもあるかのようであって、これに対する驚くべき適例は平和会議が即ちそれである、実に世界平和会議に於て猶太人のみが特別且つ非常なる特権を有したものであった。けれども他日斯の如き猶太人の特権は更に増大することであろうと思う。