世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)26

外交の秘密を握る

猶太國民は他國民の総ての秘密を知る唯一の國民である。凡そ如何なる國民と雖も猶太人程他國民の秘密を握る國民はなく、又猶太人程長く他國民の秘密を保つ國民はない。元よりインターナショナルの猶太人が、他國民の秘密を能く知って居ることについては今更言う迄もないことである。尤も秘密とは言うものの中には重要でないものも多くあろう。又此のことを知って居るからと言って、それが直接猶太人の権力を増大する訳のものでもないけれども彼等が、総ての國家の秘密に必ず干与(原文まま、関与と同義)するということ及び彼等が聴こうとさえ思えば何時でも聴取し得るということは実に重大なることではあるまいか。若し秘密文書にして口あらば必ずや此の事実を話し得るであろう。抑々唯一の秘密外交とは、所謂秘密を単に一人種の少数個人に打ち明け委托する外交である。外交の表面上の変転極まりなき折衝、老政治家の手記による活動、真に彼の何物かを意味するが如き重要なる妙計又は條約 -これ等総ては猶太の外交及びあらゆる支配階級より如何なる秘密をも採り出すという無類の猶太機関に比すれば児戯というべきのみである。合衆國も亦此の儼乎たる事実の除外例たることは出来ない。恐らくは現今の如何なる國の政府と雖も、米國政府程猶太人の御用を勤めたものはないであろう。米國に於て猶太人が斯の如き権力を得たのは、実に最近五六年間のことである。

第十一議定を見るも明らかなる如く、全地球上に猶太人が分散しあることを彼等は少しも不幸と思って居らない、否寧ろ之に依って世界支配計画が愈々確実に実行し得る神の思召しと見做して居るのである。即ち議定書に曰く
「神は吾々神選の民を流浪せしめたが、此の凡てに取っての表面的弱点の中に我が全力が含んで居り、此の力が現に吾人を全世界主権者の境に導いたのである」と。

また第九議定に宣言されて居る要求は余りに過大であって、実際実現するには余りに放胆に過ぎはしまいかと思う感があるが、併し文章と実際とが一致符合する点があるから之を次に挙げて見よう、
「ある時機まで吾々は、非猶太人の機関を破壊しない様に巧妙なる手で、その機械のゼンマイの両端を把持して居る。此のゼンマイは厳重な而も整然たる秩序にあったが吾々は之を自由的な雜然たる放縦に替えた。又吾々は、吾人には解りきっている虚偽の学理や主義を非猶太青年に宣伝教育し、之を馬鹿にして引き廻し堕落させた。又吾人は、法律の実質を換えずに反対な解釈で之を不正にし、実際の法律以上或る偉大なる結果をつくった」と。

自由と権利の諸解説と児童教育

「自由」に関する諸理窟及び「権利」に関する粗雑粗笨(そざつそほん)極まる諸解説が、今日程多種多様に社会に瀰漫(びまん)していることはない、然るに「個人の自由」は却って何等かの理由の下に絶えず制限縮小されて居ることは公知の事実である。人民は社会的自由と言う文句の仮面下に却って國家の後見下に置かれて居る、「公衆衛生法」或いは「公安」等は其の口実を与えるものである。今日アメリカに於て児童は殆ど自由に遊ぶことが出来ない有様であって遊ぶときは國家の遊戯監督者の下で遊ばねばならない、そして此の監督者中には不思議にも驚く程多数の猶太人が居るのである。道路は最早従前の様に開放されていない。各種の法律は無邪気な國民の自由を切断し、絶えず千篇一律に形式化しようとする努力が -此の形式化は「主義」と呼ばれるあるものの上に立脚するものである- 行われて居る。そして奇異なることには調査者が、斯の如き民衆生活を規整するこれ等の運動の権威ある中心を突き留めるとき、其処には必ず勢力ある猶太人を見出すのである。児童は家庭という「社会の中心」から他の「中心」に伴われている、即ち彼等児童は -吾人は非猶太人児童のことを茲に述べて居るのであって、非猶太人は何人と雖も猶太人児童の生活に干渉することを許されていない- 独り両親の家からばかりでなく、学校及び教会等の自然的中心より離れ、組織化した「中心」及び科学的「遊場」に連れ行かれ、所謂『教養ある指導者』の下に入るのである。 -是れ実に児童をして其の自然的周囲の指導に拠らしめずして、何事も『國家』に待つ慣習を付するものであって、斯の如き準備的行為は、総て非猶太人の征服を目的とする世界計画中に立案されて居る所である。若し以上の事実が、此の猶太人の世界計画に準拠して行われて居るものでないとしたならば、何故に材料となるのもが常に非猶太人児童であって、指導者が多く猶太人であるのであろうか?

猶太人の自由は合衆國に於ては極めて安全に保証されて居る。非猶太人は何人も普通一般的であって何等特別の保護という様なことはないが、猶太人の地方団体は皆各特別の保護者を持って居り、そしてこれ等保護者は各種の手段に依って特別の承認を受けてあって、政治的にも実業的にも毫も脅威を感ずることがない。従って如何に公共的精神に富める非猶太人も、猶太児童の生活を規整する様な仕事を為さんとしても決して歓迎されることはない。猶太団体は各都市毎に自ら自己の児童の爲それぞれ施設を持って居る。それで総ての自治体学校中最も秘密な学校は猶太人の学校であって、甚だしきに至っては其の所在地すら大都市の行政庁には分からないことが屡々ある程である。猶太人は非猶太人の精神を支配すべく常に思いを凝らして居るものであるが、彼等は非猶太人が如何に考えるべきかをさえ教えようとして居る -就中猶太人に関する考え方に於て然りである。又彼等は非猶太人の思想界に勢力を作用せしめ、遂に之を猶太人の意志の如くに動かさんとして居る。之は一度猶太人を観察したものには能く知られて居る所であるが、彼等は極めて頑固で固執する性質を持って居る。是は彼等猶太人が、自身は高等人種であって、低級なる人種を操縦するの能力あるものであると、堅く信じて居る其の確信が外に現われたものに外ならないのである。

非猶太青年の放縦と猶太青年の純潔

今日非猶太人青年を軽佻浮薄放縦に導きつつある各種の勢力の根源は、皆猶太人関係のものであると言っても過言でない。若き人々よ、今日諸君に多大の弊害を与えつつある彼の「スポート服」なるものを考案したのは何人であろうか?此のスタイルは猶太人の洋服商に依って考案されたものである、彼等猶太商人間には技術の前には規則もなく道徳上の懸念もないのである。又活動写真は写真と見世物とを合同したる趣味ある発達物であるが、此のフィルムの堕落に対して一体何人が責任を負うのであるか? 今やフィルムの堕落は幾多の観衆を駆って慨嘆すべき道徳上の危機に至らしめて居る。又彼の演舞場、騒々しき公衆飲食場、安価なる宝玉屋及び強く唱道と放縦の中心たる快楽の巷、欧米に於ける斯様な場所の経営者は果たして何人であるか? 更に読者よ、今試みに責任感念に乏しく平凡なる容貌の持主で虚飾に浮身を窶して(やつして)居る青年男女を捉え来たり、之に内外両方面から、即ち其の衣服装飾品より其の思想及び希望に至る迄、全部に正札を付け得るものとしたならば、その札には『猶太人に依って作られ、宣伝され、奪い盡くされる』と表記しなければならないであろう。議定書の次の箇所は以上の有様を明らかに説いて居る。「吾人には解り切って居る虚偽の学理や主義を非猶太青年に宣伝教育し、之を馬鹿にして引き廻し堕落させた」と、何と気味の悪いことではないか。

此の『主義及び理論』は必ずしも高尚なる能力否低級なる智識的素養すらも要求するものではない。青年にして其の閑暇を活動写真館に費やして居る者は、既に猶太人の宣伝による『主義及び理論』を感受して居る、又上流の青年にして『性の自由』を聴き「産児制限」を聴く者も亦右の主義及び理論を体得しつつあるものである。此の『主義及び理論』に付きものの放縦性は、非猶太人の家庭、教会又は非猶太人経営の職業から来るものではない。主として猶太人によって考えられる所の理論、運動、職業から由来して居るのである。然し此の如き慨嘆すべき事柄は恐らく将来に於ても跡を絶つことは困難であろう。そして又此の主なる犠牲者は猶太人の青年でなくして、寧ろ非猶太人青年である。勿論猶太人青年中にも極めて一部のものは、斯様な社会的害毒を受ける者も勿論あるであろう、併しながら非猶太人青年の蒙る大害に比する時は実に微々たるものである。猶太人は斯く非猶太人の眞ケ尾を麻痺させるばかりでなく、この麻痺の経過中から既に利益を収めつつあるのである。而も彼等は此の行為の爲自身は勿論、子女と雖も犠牲となることはない。此れが彼等の特徴であって、猶太青年は非猶太青年の大部に比し遙かに誇り高く、且つ純潔に其の青年期を経過するのである。

奢侈(しゃし、分不相応の贅沢)と流行の製造

今の米國の有様は國民一般に非常に贅沢になって華美の風が瀰漫(びまん)して居る、それで此の慨嘆すべき状態に対して幾多の親達を始め、意志堅固なる幾多の青年、教師及び著作家等は此の贅沢奢侈に反対して大声疾呼(たいせいしっこ)して居る。又民衆が其の得たる金を湯水の如く浪費する一般の傾向に憂慮して幾多の財政家は大いに警告する所があった。現在生活必需品工業を盛んにするために必要な人員材料は贅沢品工業に消費され、製鋼に従事すべき人が玩弄物の製作に従事し、耕作に従うべき人が無用物の製造を為し、総ての材料は需要の爲にあらずして販売の爲の品物に変化しつつある、即ち人間生活を補助する工業から漸次遠ざかりつつあると知った経済家は、之又社会に対し大いに警告する所があった。然しながら -議定書に依れば- 世人は既に不良なる方面に踏み込んで居るのである。実際世人は贅沢品と称せられる無益無用のものを買って居る、併し之は世人自らが工夫したものではない。且つ又人々は間もなく品物に飽きを生じ又新奇なものを求めようとする、而も贅沢品の流行は次から次へと目新しきものを人々の眼前に放り出すのである。

抑々此の状態は何處から来たものであろう? 又如何なる力が存在して長き経験と意識した目的とによって、国民の精神と趣味とを斯くも軽佻ならしめ、又金銭を浪費させるのであろう?(しかのみならず)此の奢侈と浪費の風が未だ甚だしくなかった以前に於て、既に人心を刺戟されて居ったということは一体どうした訳であろうか?

若しアメリカ國民にしてこれ等不用にして贅沢なる品物を見た時に、これ等の品物の起因を探り且つこれによって生ずる莫大なる利益を占有するは何人であるかということを考え、又市場を不用品及び贅沢品の洪水たらしめ、以て非猶太人の世界を財政的にも、経済的にも將(かつ)又社会的にも堕落せしめることに感付いたならば -否若しアメリカ國民にして、猶太人の財政的利益は啻に(ただに)人類本性中の最も低級なる衝動と結合して居るばかりでなく、十分なる準備の下に斯の如き衝動を喚起し、之を培養しようとするものであるということを明確に看破したならば、其の時に於て初めて材料、労力、金力、精神及び猶太人の才能の空費を防止することが出来よう。

吾人は断言する、非猶太人公衆は無益の贅沢品を以て人為的に刺激されたる貿易の犠牲なりと。然しながら読者は曾て猶太人が之が為に犠牲となったということを見聞したことがあるであろうか? 猶太人は目立つばかりの服装をして居ることがある。けれどもその価格と品質とは一致して居るものである。然り彼等は頗る大いなるダイヤモンドを持って居る、併しそれは眞物である。猶太人は猶太人の犠牲にはならない。馬鹿げ切った贅沢及び歓楽は人々に対して猶太人が与えた所のものである。猶太人は國民を釣るには何が良いかを知って居る、そして斯かる品は全く価値のないものであることをも辨えて居る。

最も慨嘆に堪えないのは、財政的の損失でも、高尚な趣味を失うことでもない、愚かなる非猶太人の群衆が、勝手に喜んで自ら罠にかかって行くことである。彼等は流行の変化を以て避け難きこと宛ら(さながら)冬が終われば春来るが如きものと思惟し、又彼ら自身の財布から支出を要求することが、必要にして自然的なること租税の如く考えて居る。群盲は自ら如何にして此の贅沢の仲間入りしようかと考えて居るが、焉んぞ(いずくんぞ)知らん彼等は唯支払の仲間入りして居るに過ぎない。最新流行が旧式となり、新たに流行が起るとき、彼等は唯永久に支払の役を演ずるのみ。米國には既に数年前流行の種類を予め知って居るものがある。此れには何の不思議もない、即ち流行は彼等の命ずる所であるのだからである。要するにこれ等のことは非猶太人の多数を堕落せしめ、猶太人の少数を富ましめる職業であるのだ。

以上の事柄に対して第六議定は側面的観察をして居る、即ち次に示す一節は此のかなり長文の箇所からの抜粋であるが、其処には如何にして國民の興味を政治問題より経済問題に転換し得るか、又如何にすれば工業界を不安ならしめることが出来るか、又最後に如何にして民衆の反抗を無力無援ならしめるを得るか、ということについて述べられてある。

「吾人は非猶太人の工業を崩壊する為、吾人が非猶太人間に拡めた贅沢に対する非常なる欲求、即ち飽く所なき奢侈を投機の補助として流行させよう…」と

又第一議定に曰く
「酒で著しく馬鹿になって居るアルコール浸りの動物を見よ、酒を無制限に用いる権利は自由の無限使用の権利と共に与えられてあるのだ、併し我々及び我が党のものには之を許してはならぬ…」

禁酒運動の原因

偶然にもアルコール性飲料の莫大なる収入は猶太人の懐中に流れ込んだ。米國に於ける「ウィスキー党」の物語は実に之を証明するものである。歴史的には此の米國の禁酒運動は非猶太人と猶太資本家との間の争闘を現わすものであって、非猶太人は多数のお蔭で此の戦闘には勝ったのである。

彼等猶太人は一般民衆を大規模に堕落せしめることに仲間入りして居ることを或いは自覚して居らないので、単に金儲けの爲堕落化の職業に従事して居るのかも知れない、然しながらそれは兎に角として吾人の前には「世界支配の綱領」が横たわって居る。此の綱領たるや熟慮の下に冷然として諸國民を物質的にも精神的にも崩壊支配しようとする目的を蔵するものである。然りそして他方面に於ては、吾人は又此の綱領が日一日と実際化されつつあって、而もその大部分が猶太人の調節の下に実現しつつある様を認めて居るのである。(本文 完)

 

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・引き続き巻末の付録をあと二回にわたり掲載します。是非お読みください。

付録参考

1. ドイツ人の猶太問題に対する態度

2. 無線電信と猶太人

3. 上海に於ける猶太実勢力

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