世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)21

10. シオンの議定書に対する観察

シオンの議定書と猶太思想

今日猶太人の世界的支配の勢力について、その実行能力と言うよりも寧ろその理論に於て世人が多大の興味を有し、最も人口に膾炙(かいしゃ、もてはやされる)して居るものは「シオン賢者の議定書」として知られる、彼の有名なる二十四箇条の文書である。本書は欧州に於て甚大なる注意を喚起し、近くは英國に於て重大なる嵐の如き議論を巻き起こし、英京(首都)ロンドンに於て、英國政府の御用印刷所イアー・アンド・スポッティスウッド(Eyre & Spottiswoode)の出版する所となった。然し米國に於ては此れに関する議論は大いに制限され、ある程度まで闡明されたに過ぎずして、その調査は司法省の手に行われた。

本書はその原文を全部改変せずして、その一部の改変に依って、此の書がユダヤ人の著作であるという証拠を除却しようとすれば、出来ないこともない。然しながら従来史上に其の例を見ない程広範囲に亘る世界征服と言う綱領の主眼点は如何にしても抹殺することの出来ない所である。そして又猶太人の思想を暗示する様な点を悉く除去するに於ては、本書は最早現在の形を失うの矛盾に陥るのである。議定書内に表われて居る主要論旨は、あらゆる人類の秩序及び國家権力を覆滅し、以て無制限の支配権力を有する一つの新世界権力を建設しようとするにあるのである。斯の如き計画は、完全に國家権力を専用する支配階級より生ずべきものでなくして、寧ろ無政府主義より生ずべきものである。然しながら無政府主義者と雖も其の求める究極の状態は絶対的寡頭政治ではないと宣言している有様である。されば此の議定書の著者は、ちょうど彼のフランス革命当時にオルレアン公を首領とする仏國顛覆党の一員の如き人物とも想像されるのであるが、それは単に想像であって、斯様な革命家たちは最早現存して居る筈のものではない。然しながら事実に於て、議定書内に宣言されて居る綱領計画は着々進捗しつつあって、啻に(ただに)仏國に於てのみならず、全英國に於ても尚全欧州に於ても又合衆國全部に於ても着々実行を見つつあるのである。

議定書の著者は猶太人であるということは、その全体の関係より推して炳乎たる事実である。-若し此の議定書が虚構のものであるとするならば、その時は此の著者は世人が一目して反猶太主義の目的のものであると感付く程明瞭に而も猶太人の作らしく見せかけるに多大の骨折りを為した事であろう。議定書中には「猶太人」という言葉は僅かに二回使用して居るのみである。人若し此の書に対して深甚なる注意を払って研究するならば、其の世界的専制政治を確立しようとする目的を看取し得ると共に、又如何なる民族の著作であるかということは自ら察知し得られるのである。

議定書立案の目的と非猶太人

抑々該計画は何人に対して立案されたかということは、議定書の全文を通じて、菅ら疑問の余地なき程明瞭に記されて居る。即ち此の計画は貴族政治を抑圧しようとするものでもなければ、資本を圧迫するものでもなく、又政府当局を敵手とするものでもない。蓋し本文中には貴族資本及び政府に対する処置は、別に一定の計画として存在するからであって、全計画の敵手とする所は、該書に屡々使用されて居る所の所謂「非猶太人」と称せられて居る世界各國民である。凡そ該書中にある破壊的「自由」の規定なるものは、大部分民衆の力を利用することを目的として居るものであって、しかも之を利用すると同時に民衆を頽廃せしめ、精神を惑乱し、斯くて彼等を意志なき道具たらしめようと謀って居るものばかりである。此の書に述べて曰句「自由」の性質を帯びる諸運動は之を扇動して一層活発ならしめるを要し、宗教、経済生活、政策及び家庭生活に対しては、破壊的教義を不知不識の間に傳播培養し、以て人類の共同団体を覆滅するに資し、斯くて後最後の計画に着手し、人民が此の哲学の謬見を感知したときは、既にその型に入りある如くしなければならない」と。

議定書に用いられている文句の言廻しは「吾人猶太人は斯のことを為す」と言う式ではなくして「非猶太人は此のことを考え又は為すに至るべし」と言う式である。議定書中僅少の箇所を除く外悉く此の「非猶太人」なる言葉が、民族を差別する意味で使用されて居る。例えば第一議定書中に最初斯様な意味に使ってある。

「各國民の性質たる公明と正大は、政治上に於ては我々が強敵を帝位より引きおろす為に最良にして忠実なるものである。蓋し此の性質は非猶太諸帝國の特質であるが、吾人は断じて之に指導されてはならぬ」

「吾人は自然的世襲の貴族の廃墟の上に我が党の金力ある智的貴族を頭首に据えたが、此の新貴族の価値は、吾人に関係の深い富と我が聖賢によって進歩しつつある所の科学に依って定めたものである」

更に第六議定に曰く、

「吾人は労働賃金の値上をする、然し賃金の値上は労働者に少しの利益をも齎さない。何故ならば之と同時に吾人は、如何にも農業及び畜産業の衰退の原因からの様な口実の下に、生活必需品を騰貴させるからである。

加之(しかのみならず)吾人は労働者を無政府主義と飲酒とに馴致し、之と共に地上から非猶太人智識階級のあらゆる勢力を駆逐する手段を講じ、以て巧妙深刻に産業の根底を顛覆しよう」と。(若し反猶太主義の捏造家ありとすれば、恐らく斯かることを最近五か年間に著述し得たことであろう。然るに此の文章は少なくとも十数年前に印刷されたものである。即ち1906年以来英國の博物館に存在する謄本が之を証明して居る。尚露國に於ては夫れよりも更に数年前配布されて居ったのである)同じく第六議定に曰く、

「吾人は事の真相が中途で、非猶太人に発見されぬように、表面如何にも労働階級の爲と、経済の大原則との爲に盡力するかの如き主義を取って真相を隠そう。此の経済の大原則と言うのは、我が党の経済的学説が盛んに宣伝している所のものである」
以上述べた所は議定書の大体結構を例示したに過ぎないが、常に「吾人」なる言葉を以て非猶太人に対して居る、此のことは第十五議定に明瞭に表われて居る、即ち曰く

「非猶太人の純粋な動物的智能は解剖と観察力に欠けて居る、加之(しかのみならず)問題の主なる組立がどう傾くかということを預察することが出来ない。吾々を非猶太人の此の思索的才能と比較して見れば非猶太人の天性たる獣的才能と違った我が人格と神選の印章とを明瞭に見ることが出来る。

彼等は見ることは見るが、先が見えないし又発明と言うことが出来ない(単に物質的発明に過ぎない)此れから見ても天然自身が世界を指揮支配することを吾人に任命したということが明らかである」

と、以上非猶太人なる言葉は古代より、猶太人が人類を差別する為に用いた所の常套語であったのである。即ち彼等の見解を以てすれば、人類は単に猶太人と「非猶太人」とより成るものであって、即ち猶太人にあらざるものは是れ「ゴイ(豚の意味)」-非猶太人なりと言うのである。

「猶太人」という言葉の使用は第八議定に明らかにされて居ると見てよかろう、第八議定に曰く、

「我が國家の責任ある地位を、我が兄弟即ち猶太人に委ねないでも危険のないうちは、その経歴と性質とが人民とかけ離れた人物に委任して置く、それで此の人物と言うのは、若しも吾人の命令に従わなかった場合には、流刑になるか、或いは牢屋に入らねばならない脛に疵持つ人間であるから、最後まで吾人の利益を擁護することになる」

サンフランシスコ議会

斯の如く非猶太人を正面に立たせて置いて、猶太人支配の真状を掩蔽する習慣は、現今財界の大範囲に亘って慣用されて居る彼等の手段である。右の如き議定書が出来て以来、米國に於ては如何なる進捗を見るに至ったか、此のことはサン・フランシスコの議会の経過が説明して居る、即ち同地に於てはブランダイスと言う猶太判事が大統領候補者として挙げられた。之で見ると米國に於ける一般の輿論が、日と共に猶太人を最高官職に就任せしめても一向差支えないものである、という様に移りつつありと十分論定することが出来るのである。実際に於ては之は猶太人達が及ぼした影響の単なる現れに過ぎない。今日米國大統領職の各重要機関中、其所に猶太人が密に活動していないということは殆どないのである。今猶太人は其の勢力を伸暢する為に、敢て大統領の椅子を贏(か)ち得るという必要はないが、唯議定書中に規定されて居る諸計画と相平行する或る事柄を促進する為に必要として居るのである。

議定書は法律書の如し

議定書を読む人は何人も感ずる所であるが、議定書中一ヶ所として勧告的語調が存在して居ない。元来此の議定書は宣伝に資する為に作られたものでないから、之を読ませる人々の野心や活動を刺戟し鼓舞することに毫も努力して居ないのである。議定書の冷静なることも恰も法律書の如く、純然として実際的なること統計表の如しであって、「起て同胞よ」などと言う慷慨的(怒り嘆く)文句もなければ又「非猶太人を倒せ」などと言うヒステリックな叫びもない。そして又議定書を見れば、此の書は決して血気にはやる扇動者の爲に作られたものでなくして、寧ろ注意周到に準備し、試練を経たる高級の老練家の爲に作られたものであることが会得されるのである。

今日議定書は1897年スイスのバーゼルに於けるシオン会議の際の口演を筆記したものであることは殆ど確定的の事実であるが、其の内容を観察する時には、綱領は口演を行った際新たに準備したものではない、寧ろ宗教上の遺言めいた論調が多分にあって、恰も特に信頼するに足り且つ神聖なる人々が歴代相伝えたかの如き観がある。従って其の内には新発見又は新たなる熱心の調子を見ずして、其の反対に長く知られた事実の確実と静隠及び長く経験を重ねた政策の安定を見出すのである。其の他議定書の中に少なくとも二回議定書の年齢を窺わしむる様な箇所がある。其の一は第一議定の次の文句である。

「猶お古き時代に於て人民の中に自由・平等・博愛なる言葉を叫んだのは吾々が抑々最初のものである、それ以来此の言葉は、到る處から此の誘惑に向かって飛んで来た所の無自覚の鸚鵡に依って常に繰り返された。実に彼等は此の誘惑と共に、群衆の圧迫より個人を保護する所の個人の真の自由と平和の健全とを奪い去ってしまったのである。如何にも怜悧らしく見える智識階級の非猶太人は、此の言葉を抽象的に判断することが出来ず、又此の言葉の意味の矛盾と調和とを発見し得ない。又天然に平等なく、天然夫れ自身が智能、性質、才能の不平等を成し立てて居って、天然自然の法則に服従すべきものであることを知らない、又彼等群衆は即ち盲目である…」

と。其の二は第十三議定中の文句であって即ち

「元来政治問題は既に数世紀間の指導者たるその創設者の外何人にも解るものではない」と。

彼の猶太民族の某階級内に類題相継いで繁栄する秘密のサンヘドリンに右のことが関係がないと見得るであろうか?

議定書は狂人の作か

又議定書を見て明らかに感じられるのは、之を説くもの自身が少しも名誉を要求しなかったものであることと、全文を通して個人的野心と言うものが全然ない点である。凡ての計画、目的及び期待は唯一の目標「イスラエルの将来」に向かって居る。そして此の将来は唯非猶太人の主要なる思想を破壊することによってのみ達成し得るものとして居る。議定書は其の作製された時代に既に何が為され終わったか、今何が為されつつあるか、尚為すべきことは何が残って居るか、ということについて述べて居る。凡そ各部の細部に亘って完全を極めて居ること、規模広大而も適切なること、人間行為の内的根源を深刻に握かんで居ること、これ等の点に於ては未だ嘗て他に其の比を見ざる所である。実に此の議定書は人生の秘密を巧みに会得する点に於て、又卓越性を十分に自覚することに於て真に恐るべきものである、蓋し猶太人が近時「議定書は震感する狂人の作なり」と称するも決して不当と思われない程である。若し議定書内に記された文句にして、其の行為及び傾向に於て現在生活と明らかに沒交渉であるとしたならば、震感する狂人の作なりと称するも首肯するの外ないであろう、然れども事実は如何ともすることが出来ない。

又議定書が非猶太人に対して下している批判は至極正当である。殊に非猶太人の精神上の素質及び感化力に関し述べて居る文章は一つとして反駁し得ない程尤もである。

今迄此処彼処に思想家が起って、所謂科学なるものは決して真の科学ではない、又保守的たると急進的なるとを問わず所謂経済的法則なるものは、決して法則にあらずして寧ろ人為的の発明なり、と言って居るのは確かなことである。又時に慧眼なる観察者が主張して現時逸楽放縦の風頗る甚だしいが、之は世人の内的要求に基づくものではなくして、実は計画的に漸次に人間に押し付けられ刺激されて遂に弊風となったものであると言って居る。又或る少数の者は、「輿論」と称せられるものの過半は、買収された賛意及び人為の作業にして決して実際の正大なる精神状態を封称とするものではない、と認めて居る。即ち上述の如く此所彼所にて疑問の糸の一端がほぐされたが、世人は此の糸をたぐり其の根源に遡って研究しようとはしなかった。然しながら今や実に諸國民が此の迷宮を探るべき大切なる時機である。

次回 世界の猶太人網22   前回 世界の猶太人網20