世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)15

7. アーサー・ブリスベーン氏の猶太人援助

『汝等は何を饒舌しつつあるか、吾等が全世界の新聞を其の掌中に収めざる間は、汝等の総ての努力は徒労に過ぎない。我等は民衆を眩惑し且つ欺瞞せんが爲、全世界の新聞を支配し吾人の勢力下に置かねばならぬ。』(猶太人モンテフィオレ男)

新聞記者としてのブリスベーン

吾人は更に今一度近世の猶太問題に関する吾人の研究を中絶し、他の方面に表われたる同問題を観察しようと思う。それは1920年6月20日ハースト系新聞サンデー紙のTo-dye の論説に、二欄余りに亘って述べられたアーサー・ブリスベーンの執筆した評論である。アーサー・ブリスベーン米國第一流の最も有力なる新聞記者なりと称するのは、或いは過言かも知れないが、兎に角彼は有識記者中の一人に数えられる人物である、従ってブリスベーン位の記者が、猶太問題について、大胆に論述を公開すると言うことは、米國に於いて此の問題が一般に重大視されているということになる訳である。

ブリスベーンは猶太問題を研究したことのない人である、彼個人として會談するときには恐らく彼は、此の問題について毫も知る所がないと告白するであろう。併しながら彼は中々やり手の記者であるからして、状況上猶太問題を説述するということが、新聞経営上必要であると言う場合には、彼は勿論一見識ある立論を為すことが出来るのである。抑々如何なる民族にも善良なところはあるもので、その民族中に或いは卓越する人物を輩出したものもあり、又過去の歴史に於て頗る興味ある活動をして居るものもある。 -此れだけでも人類社会に現出したる某國民についての一論説を作るためにはその材料十分である。一体世人は問題の本来の内容にまで立ち入って研究しないもので、一民族に関する論説は、通常二三回の新聞論説で取り扱われ、爾後決して該問題には触れない、凡そ新聞記者たる人々は此の呼吸を能く心得て居るものである。

ブリスベーンの一般記者としての性質も、凡そ右のようなものであるが、併しながら彼は長年ニューヨークに生活して居り、頗る重大な性質の財的関係を米國の同業者等と持って居るものである、されば彼は勿論多少とも大トラストの内情に通じ、且つ大銀行団の内幕をも見たものであり、尚絶えず猶太人たる同志及び相談相手から取り囲(巻)かれて居ったものであるから彼は必ずや此等のことについて独特の意見を持って居るに違いない。けれども新聞記者と言う職業は、自己の國の人種に関する意見を論述することは、ちょっと控えなければならないことで、それは恰も見世物師が、自分の見世物の贔屓客に関する意見を発表することが、其職分でないのと同様である、又実際作家としては、其の作物の性質に関して、自己の意見を発表する必要もないのである。新聞の持って居る権利は、頗る制限されたものであって、単に社会に対して刺激を喚起すればそれでよい。従って新聞の有する可能性も亦頗る局限されて居って、新聞が論述するを可とすることを感じた場合に於てのみ論説となりて表われるに過ぎないのである。

従ってブリスベーンが、猶太問題について執筆するの必要ありと知った時は、即ち彼が何を書くべきかを予想し得た時である。合衆國内又はその他の國に於て、猶太人支配の範囲及び原因について、その根本を暴露しようと試みられた際、彼は之を真に猶太人排斥と感じたのであろうか、或いは彼は有為なる新聞記者としての敏感を以て、今こそニューヨーク及び全米國の有力なる人々の注意と尊敬とを贏(か)ち得るに恰好の機会が到来したと感じたのであろうか、それとも又(これは可能の範囲内にあるのであるが)彼に日曜論説に一文を草すべき機会が来る迄又は經營主側が彼の希望を認定する迄は、暫時待とうと欲したのであろうか? 斯くブリスベーンの動機を疑うのは彼を非難する為ではない、如何に微妙なる絲に論説が引っ掛かって居るかと言うことを暗示するに外ならないのである。それはさて惜いてブリスベーンも亦猶太人に対する行為の辯護者として、一般の猶太人著者と同様、世人が存在を否定する猶太問題の一部を構成する幾多の事実を陳述するの已むなきに至って居る。

世界の成功者と世界商業利得の二分の一

ブリスベーン曰く「大都市に於て世人が遭遇する成功者の名前は、皆猶太人の名前である」と、ブリスベーンの町ニューヨークに於ける猶太人の成功者の率は特に大なるものがある。

又曰く、「地球上の人口の百分の一にも足らざる猶太人が、その偉力、企業心、熱心及び賢明に依って、世界の商業利得の百分の五十を所有して居る」と。

この事実を見て、ブリスベーンは如何に感じているであろうか?、彼は又猶太人が如何にして斯かる結果を獲たであろうか、と言うことを熟考して見たであろうか、又これらの成功なるものが、人道上大いに非難すべき性質のものでないと彼は揚言し得るであろうか? 又猶太人の事業の此の決定的成功の利用法を以て、彼は間然する所なき方法として満足し得るや否や、又斯かる猶太人の事業上の成功は、彼が列挙した如き称賛に値する諸資質の賜であって、決して非難すべき性質によるものでないと、彼は何時でも証明し得るの準備があるであろうか? 猶太人が経営するハリマン(Harimann)鉄道の競争に彼は同意して居るであろうか? 又彼は猶太人の懐中より出でたる金が、眞實有用なる鉄道敷設に用いられたことを聞いたことがあるであろうか。

平和会議に於ける猶太人[1]

 

若しブリスベーンにして、公平なる人士に托して実際の材料を蒐集させる意志があるならば、彼及び読者諸君の蒙を啓くべき幾多の文献を提供することが出来る、先ずその文献の一つは「平和会議に於ける猶太人」と題する冊子である。この書を読むとき、ブリスベーンの徒は、必ずや何人が平和会議に於て最も卓越した人々であったかを知るであろう、又何人が平和会議に於て最も頻繁に出入りし、何人が最も重要なる委員会に出席したかを知ることが出来よう、又如何なる種族のものが、重要人物の秘書として最も多く働いて居ったかを窺知するをえるであろう、又人々が重要人物に面接するための諸経路には、如何なる種族が多数の歩哨を配置し、そして各種の接触は此の歩哨を通じて保たれなかったか、又平和会議を以て舞踊及び贅沢なる宴席と為すべく極力努力したものは何人種であったか、平和会議の牛耳をとる委員達を、頻繁に私的晩餐に招請したのは又何人であったか等を詳細に知ることが出来るであろう。

ブリスベーンの卓越した通信能力は既に周知のことである、されば彼が配下の記者を斯かる任務に配置し、集まりたる諸報告を印刷に付する時は、茲に彼の名声を馳せうる一つの歴史が記述されることとなるであろう。

更に斯の如き方法に依る時は、先ず「如何なる問題が平和会議に於て勝ちを得たか」という様な文が出来る訳である。即ちブリスベーンの配下のものも、何故斯くも多数の猶太人がパリに赴いたか、又猶太人等が如何にしてそのプログラムを貫徹したかと言うことを究めるに努力するに違いない。就中猶太人のプログラムの微細な一点と雖も、拒否され又は変更されたことがあるかという様なことを探究するに努めるに違いないのである。斯くする時は、「会議に提出された百般のプログラム中(人々が白熱的希望を懸けて居った主議題をも含む)円滑に議了を見た唯一の議題は、実に猶太人のプログラムであった」と言う事実を彼ブリスベーンは探知して驚倒するであろう。

アラスカは米國領にあらず

ブリスベーンの調査すべき局面は無数にある。そしてその何れの方面に於ても、彼はアラスカが何人に属して居るかを知って居るであろうか?思うに彼は他の人々同様(詳細を知って居る少数者を除く)アラスカ地方は合衆國のものであると言う考えを持って居るに違いない、併しそれは間違いである、アラスカは間もなく合衆國が属するに到る其の國民の所有する所なのである

経済界の秘密

ブリスベーンは國家の新聞業と言う有利な立場にあって、彼は米國の経済生活に於て、労働と言う観念に依っても、將又資本と言う観念に依っても了解することの出来ない或る分子が活動して居るということを知って居るであろうか。又彼は生産と言う意味に於ける労働と言う力でもなくまた同様に資本と言う力でもない或る力が、或いは労働者を扇動し或いは資本家を刺激して、労資の離隔分裂を出来るだけ増大しようと計画して居ることを些少なりとも知って居るであろうか。そして又彼は経済状態の研究に当って、其処に瀰漫(びまん)する所の如何にしても説明することの出来ない秘密に際会し、その背後に潜む何者かの片鱗を認め得たに違いない。此の何者かを発見することこそ、方に(まさに)新聞業社としてふさわしい企てであると言わねばならない。

米國の砂糖と綿花

ブリスベーンは、嘗て合衆國の砂糖配給を一手に占めて居る人々の名前を公表したことがあるであろうか、又彼は此等の人を識っているであろうか。

更に彼は米國に於ける綿花業を仔細に観察したことがあるであろうか。銀行の圧迫によって、綿花生産地の所有権が変更し、綿花生産が故意に困難にされ、遂に反物及び衣服の価格の変動を来すの事実を知るや否や。斯の如き研究に際して、彼は思惑買占めを為す人々の名前に注意したことがあるであろうか、思惑買が如何なる方法で行われ、又何人がそれを為すかを知ろうと努めたことありや否や。彼に若し真に其の意志があり、そして配下の有為なる専門家を督励してこの問題に従ったならば、彼は以上のことを凡て知り、之を國民に示すことを得るのである。

憎悪と偏見

抑々憎悪及び偏見は、猶太問題を科学的に研究することによって除去され、且つ防止し得るものであって、吾々は能く識らないものに対して、偏見を持ち又能く理解しないものに対して憎悪するものである。猶太問題の研究は、啻に(だたに)非猶太人に対して認識及び見識を新たに与えるばかりでなく、猶太人に対しても同様に認識と見識とを新たに与えるものである。殊に猶太人は非猶太人に比して一層此等の観念を必要とする。猶太人がある事柄を見、理解し、そして共鳴するという風になれば、問題の大部分は相互の理解の基に解決消滅するのである。非猶太人を、猶太人に関する事実に対して覚醒させるというが如きは、単に一部の目的たるに過ぎない。猶太人をも亦この問題の事実ということに対して、受感性あらしむることが重要欠くべからざることである。そして非猶太人をして、単なる辯護者の位置より進んで、更に公平無私事実に精通する裁判官たらしめる必要がある。そして此の調査研究を進めるに従って、非猶太人及び猶太人が、互いに誤解して居ることを発見する様になる。斯くしてこそ、猶太問題に於て更に多くの知識を必要とする場合には、此の知識及び識得を言論に発表するの途は容易となり、何等の妨害をも見ない様になるのである。

ブリスベーンは「単に記述されたに過ぎない」書を読み、そして少数の猶太人の名を列挙して居るが、之を以て彼は猶太國民に対する理解を増進したものと言えようか。

凡そ新聞と謂うものの性質から観る時には、猶太人の勢力を探究することなしに、単に世界の視聴をその当座当座に誤魔化そうとしても、それは無理なことである。そして新聞が露國人、リトアニア人、ドイツ人、英國人のことを報道して居るのは、単に事実の輪郭だけを報知して居るものであって、決して事実の神髄に触れて居るものではない。斯様に名前を誤魔化していることが、抑々全問題に於ける最も面倒な一要素となるのである。されば世界人類をして明瞭に首肯理解させる為には、実際の姓名を挙げ事実を事実として直言し、実際の性質を述べるべきである。ブリスベーンは大いにこの問題を研究し、以て彼が目下従事して居る所の他の問題に対する指針と為すべきである。

兎に角ブリスベーンは既に猶太人に関する論述を為したからして、爾後恐らく他人の書きたる同問題については直ぐに眼に映ずるであろう。そして彼自身の読む材料の中に於て、曩(さき)に彼の注意した以上に多くの猶太人に関する注意事項のある事を発見するであろう何れ遅かれ早かれ真摯なる研究家及び正直なる著述家は、世界に於ける猶太人の勢力を解する鍵を発見するに至るであろう。

ディアボーン・インデペンデント(Dearborn Independent)社は、唯他の出版物が部分的に為したるものを、組織的に且つ詳密に亘って公表したに過ぎないのである。

米國新聞の恐怖

合衆國の新聞界、言論界には、猶太人恐怖と言う気分が漲って(みなぎって)居る -斯かる恐怖は今や歴然として表面に現われて居る、世人は宜しくその根底を研む(つとむ)べきである。若し吾人の見る所にして誤りがないならば、ブリスベーン亦此の恐怖を感じたものである。仮令彼は恐怖を意識して居ないにしろ、確かに恐怖に囚われて居るものである。此の恐怖とは一民族に不正を加えるという性質の恐怖ではない、一民族に絶対的賞賛以上の或るものを公表するという恐怖である。彼にして沈思黙考する時は、「今やアメリカの新聞界は、辯別力ある批判の爲に、斯かる賞賛を制限すべき任務の前に直面している」と必ずや確信するであろう。

 

[1] 第一次大戦後のパリ和平会議のこと

 

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