ドイツ悪玉論の神話013

第四章 1917年のロシア革命

独逸は実際に第一次大戦の東部戦線では勝利していたが、大戦のその面に関しては、敗北した西部戦線と比べて良く知られていない。東部戦線の戦闘は、1914年8月17日にロシアが東プロシャを総攻撃して占領した時に始まった。ロシアの攻撃は、独逸がベルギーを越境してフランスに攻め込んだ戦争の始まりから二週間余りの時期に始まった。ロシアの東プロシャ占領に対応する為、独逸は即座に多数の兵を西部戦線から転向した。大量の独逸部隊が西部戦線から東部戦線に転配したことが、開戦早々に西部戦線を手詰まり状態に陥らせた原因の一つだった。独逸のシュリーフェンプランでは、ベルギー越しにフランスを電撃攻撃し、フランスを戦闘から離脱させ、その後に独逸陸軍を東部戦線に差し向けてロシアを迎え撃つことを求めていた。二正面の戦闘は何としても避けるはずであった。独逸のフランス攻撃が予定の即時勝利を収められなかったので、独逸陸軍は、東部戦線が収まる迄、塹壕を掘って防御姿勢をとった。独逸は、西部戦線では、大戦を通じて削減した兵力を以って防御的戦闘を戦ったのに対し、東部戦線では、ロシア軍と攻撃的に交戦していた。独逸は今や、シュリーフェンプランが避ける様に想定していた二正面の戦闘を戦っていた。

東部戦線では、ロシアと独逸は、激しい血なまぐさい戦いを繰り広げていたが、そのすべてでロシアは、全力を尽くさなかった。東部戦線でロシア軍はタンネンベルクの戦いもマズーリ湖の戦いもどちらでも独逸軍に敗北した。サムソノフ将軍率いるロシア第二軍は、タンネンベルクの破滅的な戦闘でたったの一万人だけが何とか落ち延びた。残りの15万人の兵隊は、殺されたか、捕虜にされた。サムソノフ将軍は、この破滅的な敗北の屈辱に面するよりは寧ろ銃で自殺した。その後、ロシア軍は、勝利した独逸軍に完全に東プロシャから追い出された。

ロシア軍は、オーストリアハンガリー帝國のガリツィア地方の占領では、レンベルク(現ウクライナリヴィウ)の戦いでの重要な勝利により、もう少し分が良かった。しかし、独逸陸軍は、すぐさま、救援に駆けつけ、ロシアをロシア領まで追い返した。たった六か月の間に、ロシアは、何も獲得せず、2百万人の兵隊を戦死または捕虜として失った。独逸軍は、それからロシア領内進撃、1915年8月にはワルシャワ、8月25日にはブレスト=リトフスク、そして、919日にはリトアニアのヴィルナを制圧して主導権を握った。これらの戦いで、更に百万人のロシア兵が犠牲になった。

 

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東プロシャの独逸軍部隊

 

これらの戦闘での続けざまの厳しい敗北により古いロシアの将校の軍団は殲滅され、戦争前のロシア陸軍はほぼ全滅した。これから後、軍の司令官は、経験の浅い、殆どが農民の、無理やり徴兵された兵士に頼らざるを得なくなった。状況は悪化し、1915年8月22日を以って、ニコライ二世自らが陸軍を指揮する必要があると思うほどだった。しかし、皇帝自身、軍事的な経験不足で、優柔不断、動揺し、既に悪化した戦況を更に悪化させるだけだった。

ロシア陸軍の士気は急速に低下した。兵隊は、前線から脱走してぞろぞろと家に帰った。これらの徴兵された農民兵は、士官の命令に従う事を拒否し、士官を撃つことすら度々であった。彼らは職業軍人ではなく、陸軍に対しても戦争に対しても義務を果たす覚悟など持ち合わせていなかった。

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ロシア領に越境する独逸軍1917年9月

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進撃する独逸軍から逃げるロシア兵

 

1917年1月までに皇帝ニコライには、戦場での状況の統制を失っている事、そしてロシアが敗北しつつあることは明らかだった。國では、ロシア帝國全域で食糧供給は低く、失業率は高く、インフレは、インフレスパイラルを起こして、制御不能であった。全て戦争の結果である。広範囲に及ぶストライキは工場を閉鎖し、それがさらに失業者を増やした。左翼の革命家は、混乱を最大限に悪用して人々の反乱を扇動した。街頭デモが組織され、労働者、農民、そして兵士たちがパンを 土地の再配分を そして戦争終結を 要求した。革命家によって労働者のソヴィエト(評議会)が組織された。状況は、暴動寸前になり、皇帝は退位し、アレキサンダーケレンスキーを首班とした「臨時政府」が皇帝に代わった。意味深長にも、これから起こる事の予兆の様に、ケレンスキーは猶太人だった。1917年3月、ケレンスキーの臨時政府の最初の法令の一つとして実施されたのは、ロシア中の猶太人に対する制限の廃止であった。それは、公共の役所をすべて革命家の猶太人に開放するという効果があり、実際、猶太人は急速に公職に押し寄せたので、伝統的なロシア社会にとって災難であったことが証明された。


アレキサンダーケレンスキー、臨時政府首班

臨時政府が権力に就いたときも労働者ソヴィエト(評議会)は、存続したので、一時的に権力の二重構造が現出した。「労働者ソヴィエト」は、マルクス主義猶太人が創りだしたもので、彼らの主な成果は、即刻全ての政治犯を釈放し、國外政治亡命者の禁制を解いてロシアへの帰國を許可する事であった。これは、最も過激な革命思想を持つ指導者を牢獄からロシアの首都ペトログラードに復帰させることになった。その多くが猶太人であった。その重要性は、すぐには認識されなかったが、これが古い(伝統的な)ロシアにとって、忌々しき出来事であったのだ。この革命家猶太人による占領でロシアの政体は、致命的に汚染され、古い伝統的なロシアは破滅した。と同時に、9万人ともいわれる亡命者が全欧州、米國、遠くはアルゼンチンから帰國した。これらの9万人の亡命帰國者が、間もなく起こるボルシェヴィキ革命の中核を成していたのだ。彼らは、殆ど最後の一人に至る迄すべてプロの革命家であり、少数の例外を除いて猶太人だった。スターリン、スヴェルドロフ、ジノヴィーエフは、シベリアから戻った流刑者の中に居た。レーニン、マルトフ、ラデク、それにカメーネフは、スイスから帰國した。トロツキーは、数百人のイディッシュの同胞と共にニューヨークはマンハッタンのロウワー・イーストサイドから帰國した。彼らが復帰するまで革命は、當時その場にいた第二線のボルシェヴィキの指導の下で行われた。今は、國際的にも有名な精鋭が戻り、変化が起きつつあった。

 

ボルシェヴィキの支配

この「ボルシェヴィキ」と言うグループが、1917年の10月に、結局、ロシア政府に対する猶太クーデターと言う形で臨時政府を転覆した。ケレンスキーは、穏健な社会主義を民主主義の構造の中で徐々に実施したかったのだが、これはボルシェヴィキにとっては話にならないくらい穏健でゆっくりし過ぎていた。レーニントロツキーは、ロシアの社会を完全に作り直したかった。そして、それには暴力しかないことを彼らはまた知っていた。この二人は、ジャコバン派であった。そして、彼らが欲したのは、フランス革命様式の「恐怖政治」であった。彼ら猶太ボルシェヴィキが権力掌握後、最初に行動したことは、反猶太主義を禁止する法律の制定であった。違反者は、死刑に処せられた。

 

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ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で街頭の民衆に演説するレーニン レオン・トロツキーは演台のすぐ左に立っている


(次回はロシア革命で活躍したユダヤ人の起源について、です)