国際秘密力07

■ 第8章  カザール人     『これらの土地へ・・・』

この本のために調査を始めるまで、私は世界の多くの人々と同様旧ソ連に含まれた地域の歴史については殆ど知見が無かった。さらに旧ソ連の南方の地域についてはさらに僅かしか知らなかった。そして前出のギルバートの地図24、25頁を見つけた時は全く驚かされた。それらの地図は地図4、地図5として本書に挿入してあるので、読者はしばらく目を通して頂きたい。

 

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地図 4 カザールユダヤ王国その1

私の情報源によれば、黒海の北方沿岸からカスピ海の北方沿岸に広がる広大な地域には、放牧を基本的な生活様式として農業も行うモンゴル種の人々が住んでいた。紀元前800年ごろの第2次ディアスポラ発生後早々に失われたヘブライの10支族は、これらの人々と出会い何世紀にも亘って混ぜ合わさったと私は思う。             

とにかく、700年ごろ彼らの統治者はユダヤ教を彼らの宗教として受け入れ、民衆もそれに従って改宗した。IJCにおいて指導者層を形成しているパレスチナ出身のユダヤ人と、旧ソ連・ロシアのユダヤ人とは異なった起源を持っていたという事は、私には意外な発見であった。この国ごとの改宗は、パレスチナを出発したユダヤ人世界の生き残りの人々に受け入れられた。しかしそれ以降の歴史の中で完全な地位を与えられた訳ではなかった。その地位は、紀元前6世紀の第3次ディアスポラにおいてネブカドネザル二世によってバビロンに連れて行かれた、その時までパレスチナにいたユダヤ一族に常に与えられている。

読者は話をもっと進めたいであろうが、少しだけ待ってもらって地図4の右上の枠の中に含まれている言葉について論じてみたいと思う。この枠内に記述されているように、ユダヤ教に改宗したカザール国の法廷システムがユダヤ教キリスト教イスラム教の三つの宗教から各々選ばれた裁判官により成り立っていたとすると、その事実はまさに三つの宗教が同一の根元により支配されていたということを証明していると私には思える。支配していた同一の根元とはIJC以外にあり得ない。

 

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地図 5 カザールユダヤ王国その2

さらにこれらの支配は、ユダヤ教化を強力に進めていたブラン王とオバディア王の存命期間より遥かに長く続いたという事実は、さらなる証明になると思う。実際それは約300年続いていた。これらは、その時代、その場所にいた王家は、その由緒ある家系ゆえにその統治を遥かに長く連続させ得たことを示している。

私がこれまでずっと述べてきたこの『世界管理』は何世紀にも亘って実行し続けられてきたのだが、それを見てみると、ヨーロッパは後で利用するために眠らされており、イスラムはこれから占有しようとする地域(シーア派になったイラン人たちの土地は占有できないで残らざるを得ないが)での付帯的な戦利品にされようとしていた。そしてカザール国は多くの理由によりたいへん重要な意味を持つ国家として保持され受け取られていた。

多くの理由のうちの一つは当然ながら、異なる血を持つ民族全体を当時存在していたシステムの下で、公然と統治するというテストを行うことであった。

もう一つの理由は、中国や日本のようにパレスチナから一層遠くにある土地にまでユダヤ教を広めようということであった。さらにもう一つの理由は、IJCはイスラムシーア派の人々を羊のように檻に閉じ込めようとしていたので、シーア派の人々が住む地域を他の侵入者から守るための緩衝にしようというものであった。

また圧倒的に重要な理由として、ヨーロッパ全体、中東、アフリカ(当時のアフリカ内部の宗教は殆ど知られていなかったが)をカザール東方の未知の民族の貪欲な襲撃から守るための、緩衝にしようということがあった。カザール東方の民族は当時世界で最優秀の騎兵、弓手であり、小型のモンゴル馬と共に広大で人影もまばらな大草原地帯を放浪し、世界の桧舞台に登場する機会を窺っていた。

そうこうしている間に、まどろんでいた西欧で比較的小さなスケールの別の役者が登場した。ピピンの息子のシャ-ルマーニュが771年にフランクの王となり、生涯を費やしてフランク王国を現在のフランスとほぼ同様の境界線を持つまでに作り上げた。彼はそれにイタリアの半分を加え、さらに二つの意味のある功績を残した。すなわち、 

(1)最終的には、スペインを通してアラブの猛襲を封じ込めた。
(2)彼の支配地を『神聖ローマ帝国』と呼んで『ローマ帝国』の呼称を復活させ、西欧の統治者たちに法王が加冠することによってキリスト教に従属させた。

東方では、今日バルカン諸国<16> として知られるようになる地域と東欧がイスラム教の手中にあった。しかしイスラム教としては気の抜けた軍隊配置しかしておらず、彼らの西方への進軍はウィーン近くで止まっていた。そして800年から1000年にかけてヨーロッパは沈滞を続けていた。

沈滞の中で一つの例外は600年から1200年にかけて西欧を中心に繁栄した中世の修道院であった。それらは当時の学芸家たちの安全な隠れ場所として奉仕した。また手書きの装飾本が作られたが、これらの本は今日では再生できない色や絵で丹念に飾られていた。こられの本の芸術的技巧については記述は不要で、もし読者がどこかの展示場で見られる機会があれば一見の価値があることだけを申し上げたい。

ここで歴史についてごく小さな注釈を加えておきたいと思う。この年代の調査をしている時、私はスペインのイスラム教徒の南イタリアへの拡張(ベネヴェント公国の領土として)と、他のイスラム集団の北アフリカからシチリア島の現アグリジェント(シチリア島南西部)付近およびクレタ島全部への進出が、始めて心の中で結び付いた。これは後ほどその年代の記述で詳しく取り扱うが、17世紀、18世紀および19世紀に至るまでのこれらの地域とスペインとの関係を良く説明する。それからの事が大きな歴史の成行にいかに篏め込まれるかを注意して頂きたいために、ここで述べておく。

この時期スカンジナビア地方では、スウェーデン人がロシア西部で猛威を奮い征服に熱中していた。彼らはキエフ公国と、その北方ラドガ湖と現サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)付近のノヴゴロド王国を確立した。

ノルウェーにいて当時スカンジナビア人と呼ばれていた彼らの兄弟民族はスコットランド北部を掌握し、さらに北アメリカにまで居留地を設けたことが多くの人によって同意されている。

1000年までにドイツ帝国<17> は確立され、フランスとドイツの国境はほぼ今日と同じものになった。ドイツ帝国には『サクソン人』と呼ばれる人々が集まっており、北海からローマまでを支配した。ポーランドと呼ばれた領土は今日のドイツ・ポーランド国境とほぼ同じ西方の国境を形成した。

前出したマッケベディーの中世地図54頁から再び引用する。

『この期間ビザンツ帝国は西ブルガリア帝国を消滅させて(1018年)セルビア人を従属させた。またクリミアを征服し(1016年)、ヴァスプラカンアルメニア王国(小アルメニア)を併合(1212年)した。

ライバルのイスラム教に比較して多分に動脈硬化を起こしていたキリスト教国家としては、これらは立派な業績のリストであった』

(先に述べたカザール国が存続した300年間に注目して欲しいのと、旧ユーゴスラビアでの今日の悲惨な戦争における長期間に亘る全面的な憎悪を紹介するため、特に引用した)
800年から1066年に至るまで英国には、世界の舞台には殆ど上がることのない多くの交戦中の王国が存在し、彼ら内部の問題処理に精一杯の状態であった。そしてノルマン人による英国征服の『真ん中の年』という、英国の歴史上最大の瞬間を記述する作家たちに材料を供給する寸前にあった。

その最後の年、ノルマンジー公ウィリアムは出帆し英仏海峡を横切り、ヘーチングスの戦いにおいて彼自身のために英国(イングランド)を奪取することに成功した。ウェールズ地方獲得にはしばらく時間がかかり、スコットランドは何世紀も征服されないで残った。今日やっと平和が訪れてはいるものの、アイルランド島北部すなわちアルスター地方<18> の帰属を巡って、幾世紀も重苦しい議論がなされているところである。

後章で示されるが、ユダヤの金貸したちはウィリアムの征服航海に融資した。IJCはその征服の扇動者とは言えないまでも、征服からの利得者であったと間違いなく断言できる。それはカザール国が崩壊したので、新しく改良された基地を確立することが必要であったためであると私は信じている。


【訳注】

 

 <16>  バルカン諸国:ブルガリアギリシャ、ユーゴ、アルバニア、トルコの一部を指す。

 <17>  ドイツ帝国神聖ローマ帝国のこと。

 <18>  アルスター地方:北アイルランドアイルランド共和国の一部。

 

国際秘密力06

第7章  イスラム教とその狙い  『そして彼は船に乗り込んだ・・・』

7世紀の始め、原野に新しい役者が登場した。彼の名はモハメド。またの名をマホメット、モハマド、モハメッド、その他欧州語風の様々な綴り方がある。しかしこの言葉はどの言語でも、特にアラビア語では彼は過去も現在も予言者として知られている。新しい世界的な宗教イスラム教は彼が創設したものとされている。

イスラム教は、ユダヤ人の生誕の地であるアラビア半島の砂漠地帯と同じ地域で始まり、ユダヤ人たちの教義から多くを借用した。キリスト教のバイブル(聖書)に相当するイスラム教の聖書コーラン(KORAN)は実際、全信者の行動を律する法律の集大成である。そしてその内容と話し方は神がモーゼに与えた十戒と同様のものであった。

この言い方は大幅に単純化しすぎているかもしれないが、イスラム教が余りにユダヤ教キリスト教に似ているという事実を強調する時に良く用いられる。その類似性は過去に疑念を生じさせた。この点に関して、この本を1995年1月にテキサス州サン・アントニオで書いている時に起きた出来事と結び付けて語りたい。

私はアラブの親しい友達から贈られた正確な英語訳のコーランを生活の浮き沈みの中で無くしてしまった。そのため、私の主張を証明するのに引用する上で、コーランを購入する必要があった。

そこで私はサン・アントニオで知っている最も大きい書店に行ってコーランを求めた。私は言われた通り宗教関係の陳列棚の所に行ったが、百種類ほどのバイブル(聖書)の後に一冊のコーランが確かに置いてあった。それを取り上げて見ると、大きなコーランという字の下に小さい字が書かれていた。繰り返すが、たいへん小さい字が書かれていて、それは解説または『解釈』あるいは他の似たような意味の言葉であった。

これは私の興味を引いた。アラー(イスラム教の神)の言葉には何の解説も解釈も必要ないのは確かだからである。私はその本の最初に小さく何やら説明してある部分に注目した結果、この唯一つ陳列されていたのは17世紀にヨーロッパのユダヤ人によって翻訳・印刷された版を基にしていることが分かった。

私は店員を見つけてこの話をした。すると、さも毎日同じことを尋ねられているといった風で、彼はこの大きな店の後ろの方にいた他の店員に向かって叫んだ。

『お客さんはこのユダヤ版は欲しくないそうだ。他の版はどこに置いてある?』

多少探した後で、宗教関係の陳列棚から遠く離れた所に何種類かのコーランが埋まっているのを見つけた。そこは社会学関係の陳列棚であった。これらの版は正確で、ただ内容が正確だという理由だけで離されて陳列されているのであった。この店の店主はユダヤ人だと思うが、彼は真実を求める普通の人が正確な版のある場所を簡単には見つけられない様にわざと隠しているように私には思えた。

(店のために付け加えておくと、ユダヤ版はペーパーバック(薄紙の表紙の簡易装丁の本)で17ドル、他の版は同じくペーパーバックで5~9ドルであったから、彼らは単に高いものを売りつけようとしただけかも知れない。しかし私はそれは疑わしいと思う) 

私に起きたこの出来事は、この本での主張を良く証明するものだったので、私は本を買うのを止めて替わりにこの事実を本に挿入することにした。

8世紀の末までにイスラム教は古代ペルシャおよび北アフリカ全土を手中にし、スペイン半島にもしっかり食い込んでいた。東ローマ帝国は大幅に縮小し、イタリアの海軍力によって現在のトルコ全土を含めて支配していた。古代ローマ帝国の首都ローマは名目だけを残して殆ど消え去り、西欧に散らばったキリスト教の小王国に支配されていた。東欧は大部分が未開のままで強い支配者はいなかった。ローマ帝国の落日後にヨーロッパを覆った中世の暗黒時代は続いていた。

イスラム教に関してはこれまでに一応述べたが、中東(または英国がいう様に近東)での今日の争乱は、多分にイスラム教に起因しているので、ここに繰り返して説明する。

ハメドが死んだ時彼の息子はイスラム教の最高統治者の位置を引き継いだが、古代ペルシャ帝国の大部分を構成する古代イランの人々は彼を認めなかった。そしてその時にイスラム世界の東部地方を統治する『カリフ』と呼ばれる地位が確立された。モハメドに従った人々は今日までスンニ派または正統派イスラム教徒と呼ばれ、また分離した人々は今日までシーア派、分派または分離イスラム教徒と呼ばれている。

(この両派は宗教的分裂にも拘わらず、イスラム教の利益のために協調を続けている。そのこともあってイスラム教はこれまで述べた様に拡大し、またこれ以降の数世紀も拡張を続けていった)

ここで気づくのは人々の生まれの違いである。彼らの先祖を探ると、シーア派イスラム教徒は古代イラン人に辿り着く。彼らは現在イラン、アフガニスタンパキスタンに住み、そして旧ソ連南部にも同じ位の人数が住んでいる。一方スンニ派イスラム教徒はサウジアラビア半島の砂漠部族に辿り着く。彼らは現在も、北アフリカを含めた昔と同じ地域に住んでいる。

以上はモハメドが死んだ直後から今日までの長い年月に起こった事を極端に簡略化したものであるが、基本的にはこれが今日の問題を形成している。彼らの状態は三千年前と何も変わっていないのである。同じ民族が今も昔と同じ民族と戦っている。

今日に至る長い歴史の中でユダヤ人たちが影響を及ぼした範囲・領域は一体どの位大きいのであろうか?  この点について読者は、前出したギルバートの22頁から取った地図2を見て欲しい。見ればお分かりの様に、この地図には広範囲に亘る海と陸の通路が示されており、それらは大陸を越え、また戦争中または好戦的な人種が占領する海峡を通過している。

このように広範囲に活動することは千年と言わずもっと前から可能であった。この地図はある百年間のことしか示していないが、それでもこれを見れば、長い間日常的にこれらの通路及びその脇道を通り、そして様々な種類の商品を運んでいたであろうと主張できる。

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地図2 ユダヤ交易商人たちの軌跡(800~900年)

そして実際それは第2次、第3次ディアスポラまで遡れるはずである。この事を証明するのはおそらく不可能であろうが、私はこれらのディアスポラによる奴隷たちがこれらの通路を旅したと信じている。彼らはこの通路に慣れ親しみ、道筋での各々の土地の指導者と馴染みとなり、そして分散した民族特有の連絡網と宗教的な結合を活かして、商売を独占していったはずである。

また、『通行の安全』を贈収賄により獲得するというのは、当時の彼らの習慣であった事を覚えて置いて欲しい。

本章には、前出したギルバートの23頁から取った地図3も添付した。本地図は注釈部分が特に興味深い。それを見ると、少なくとも200年までに多くのユダヤ人たちがペルシャから逃れて来て中国に落ち着いた。また700年までに『数多くのユダヤ人たちの小さな共同生活体が・・明らかに 設立されていた』

私は中国のことは殆ど何も知らない。

(世界のメディアを所有し支配しているユダヤが、もしこの本をすべて検閲して批評するとしたら、彼らはこの本の著者は全く何の知識も持っていないと言うであろうと、私は断言する)

 

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地図 3 中国におけるユダヤ人(1000~1932年)

しかし私は、中国と日本にユダヤが浸透しているという風説を何年も聞き続けている。これはほぼ三千年の昔に遡る。

(そして私は確かな情報源により、最近ロスチャイルド家の一員が九州の神社にユダヤ信仰を持ち込み、天照大神の先祖はユダヤの神エホバまたはヤーウェであったと発表しようとしていることを知っている)

私が健全で信頼し得ると思っている他の情報源によれば、古事記日本書紀は偽りで書き直されたものであるという。また、天照大神は女性ではなく男性であり、それはキリスト生誕から600年の間にすり替えられたという。それはすべて日本をユダヤ的な女家長社会に適合させようという企みであり、またキリスト教聖母マリアに模擬するというお決まりのものであったと私は思う。これらすべては非常に早い時代にユダヤに雇われた者たちによってなされたのであろう。

ギルバートに従えば、ユダヤ人たちはおそらく海洋や大陸の遠路の旅をしていた。もしそうであれば、それは非常に早い時期から行われていたはずであり、それに伴って神道の内部変化とその後の中国・日本への仏教伝来が引き起こされた可能性が非常に高い。これらはすべて私がIJC(国際ユダヤ幇)と呼ぶようになった集団の狡猾な共謀によるものであろう。

この様な話は限りなく広がっていき、彼らの功業は当然の結果として只一つの目的と一つの事象に収斂する。・・・世界の支配!!!

 

国際秘密力05

第6章  IJC(国際ユダヤ幇)

                   『懺悔:神々の中の王がそばにおわしますので・・・』

 

今や西方の人々はキリスト教の魔力の下にあり、生活様式を変えるべき時にきていた。キリスト教以前のローマの人々は愉快な愛すべき人々で、良く働き良く遊び、人生を重苦しく捉え過ぎることはなかった。彼らの神々は名前をラテン語に変えられたギリシャの神々で、皆とても気さくでのんびりとした存在であった。どの時代のどの場所でも行われている様に、彼らも好き放題に政治を行い、指導者や支配一族の変更を行っていた。また隣国とのトラブルも抱えていた。さて、ここで彼らの隣国の様子を見てみよう。

キリスト教以前のアフリカの北海岸では、そこで貿易をしていた土着のフェニキア人、小数のユダヤ人、征服の結果連れて来られ買われた奴隷たちなどが混じり合い、その子孫たちが住んでいた。もちろん、これはカルタゴである。

彼らは一つの民族として発展するに従い、北アフリカ全体に影響力を及ぼしてきて、ローマの地中海における支配権を脅かしていた。その結果戦争が起こり、ハンニバル将軍<4> が登場した。彼はジブラルタル海峡を戦闘用象と共に渡り、アルプスを越えてイタリアを包囲した。軍略に勝るハンニバル将軍のお陰でカルタゴは軍事的優位を確立し、その軍隊は第四次ディアスポラの時代にローマを支配した。

ユリウス・カエサルジュリアス・シーザー<5> は、イベリアとガリア(ポルトガル、スペインおよび現代のフランス)を抑え、ブリタニア(現代の英国)の南半分をおおよそ支配した。ローマ人の鉄製の短剣は統治を安定させた。東方では古代イラン民族はまだ征服されておらず、ペルシャは問題ではあったがうまく抑えられていた。一言で言うと、コンスタンチヌス一世とキリスト教の時代を迎えるまで、ローマはその権力、富、軍事能力、生活の質そして領土の広さにおいて頂点にあった。

北方では古代ゲルマン民族が支配していた地域があった。当時の古代ゲルマン民族は、アレマン族、ヴァンダル族西ゴート族、チューリンゲン族、そしてフランク族ランゴバルド族と呼ばれる集団から構成されていた。後者の2部族については現代フランスと北海沿岸の低地帯<6> との関連で後述する。

ローマはこれらの民族を統治し、土地を占領すべく何世紀にも亘って試みたがそれはできなかった。深い森に覆われて殆ど農業もなく、人馬の食料も得られないこの地方では、軍隊の補給線が長すぎたためである。またローマの軍隊は自らの占領地を他国の攻撃から守らねばならぬほどには他国の土地の奪取には積極的ではなかった。

ローマの軍隊は時代が下がるに従い、要員の不足分をますますこれら敵側の人々からの雇兵に依存して行った。マッケベディーによれば、ローマ軍の短剣はこれら敵側の長剣に対して結局旧式になってしまった。

その様な状況下で帝国の終末は近かった。そして455年が訪れた。アラリック王が彼のヴァンダル族を率いてローマを略奪したのである。この略奪行為によりヴァンダル族は無茶苦茶な破壊行為の新しい英語の言葉として世界に名を残すことになる(ヴァンダリズム)。

マッケベディーは『ペンギン中世歴史地図』の26頁で、は誰よりも良くこのあたりの状況を説明している。

『4世紀になるとキリスト教会の勝利を見た。この世紀の当初はキリスト教徒はまだ迫害されていたが、世紀末になると皇帝がキリスト教以外の宗教を採用することは考えられない状況で、教会は不可侵のものとなっていた。キリスト教の異教徒に対するこの勝利は楽勝であった。

何故なら、キリスト教の教義は単純であり、その倫理的・社会的教訓はより進歩的なものであったし、そしてその組織は国家のそれに匹敵するものであり、効率的で闘争的なものであったからである。奇跡や不思議な事象の面でも明らかに卓越していたことに加えて、ただ驚くべきはその殉教者のあまりの多さであった』

彼はさらに当時広く行われていた様々な教義についても詳細に記述しているが、本書の目的からすればそれは詳細に過ぎる。しかし、当時の宗教の信仰や信条についてより深く真面目に学ぼうとする人のために、私はいささか記述しておく必要があると感じている。

まずギリシャの神々に由来する古代ローマパンテオン(万神殿)がある。次に来るのは新プラトン哲学。そして、アレイオス主義のキリスト教<7> 、サベリウス主義のキリスト教<8> 、ローマカトリックキリスト教、キリスト単性論者<9> の完全融合教義、ネストリウス教徒<10> の完全分離教義、そして7世紀にイスラム教がエチオピアを切り離した後のコプト教<11> がある。加えて、ユダヤ人は多少のベルベル人とアラブ人を改宗させた。

(私はこれは、ユダヤ人がイスラム教を支配する企みの準備であると信じている)

そして、ペルシャではゾロアスター教<12> が国の宗教となっており、マニ教<13>がいたずらに足場を築こうとしていた。

同じころ、552年にモンゴル人の帝国が、中国に近い東方のトルコ系の勢力<14>によって崩壊した。この崩壊した国の人々は中国では蠕蠕(ぜんぜん)<15>、西洋の歴史学者にはアバール人と呼ばれるが、彼らは西方に逃れた。ここで特に彼らを取り上げたのは、カザールの名前で知られる国との関係で後ほど第8章でより詳しく議論されるからである。カザールについては8章で引用するギルバートの地図4地図5に載っている。

これまでは本題に入るための事前の議論をしてきたが、本章の主目的は、人々各々の姿勢が宗教によって変化してしまったことを読者に伝えることである。人々は当時繁栄していた宗教に付け込まれ影響を受けた。それらの宗教は古代ユダヤを基にしたものであった。

人々は重苦しく、恐ろしく、無知に、そして迷信的になった。ローマの神々や、今や文明に置き替わられてしまった他の神々の下では、各人は自信を持ち無頓着であった。ところがこの段階に至ると、すべてのことに関して深く病的な恐怖が教会に都合良く定着した。そしてこの事がひどくなるほど、教会はより強大になっていった。信仰が高まるほど、法王はより強力に、人々はより貧しく従属的になっていくという構図はますますひどくなっていった。

熱海で偉大な啓示を受けなかったら、ここで議論しているような事件がすべて相互に関係しているかもしれない、などと言うことは私には思い浮かばなかったであろう。色々な活動が単純に符合しているというのは私には奇妙に思えたし、すべての領域で事態が余りにも一致し過ぎていたと思われる。

私は、様々な国に散らばっているユダヤ教信仰の人々を相互に結び付ける集団が、少なくとも一つはあったと信じるようになった。それはおそらく、全員ラビであったか、または少なくともラビに指導された人々によって構成されていた。そして彼らは、アメリカ独立戦争勃発前に、アメリカの各植民地移民団の間に設けられた『連絡委員会』と似たような機能を持つ、少なくとも一つの集団を組織していたのであろう。彼らの目的は、活動の団結力強化のための情報と指針を整えることであった。これらの私の判断が正しければ、彼らは確実に成功していたと推定される。

この本のここで議論しているようなことは、かっての私の思考の水平線上には全く浮かんでこなかったものだ。そして熱海で啓示を受けた時に、私はこれらの人々を国際ユダヤ幇(ほう)(International Jewish Clique) と名付けた。彼らは現代でも存在しているであろうと私は考えている。この名前を付けた1977年から時が過ぎたが、今でもこの名前を変更する理由は何もなく、私は今これを簡単にIJCと呼ぶことにする。この問題の調査と議論のためには、この名称は他のどんな名称にも引けを取らないと思っている。ここで何故この三文字を使用したのかを紹介する。

INTERNATIONAL(国際) は、すべての政治的境界線と地理的・物理的境界線を超越した彼らの活動領域に言及している。

JEWISH(ユダヤ)は彼らの本質を示す。会員の過半数ユダヤ教徒からなると私は信じている。但し現在はこの宗教集団に限定されないと思っている。というのは、彼らは必要に応じて他人の中に取り込まれてきたと思うからである。

しかし、この集団の少なくとも80%はこの宗教であろう。

しかしながら、すべてのユダヤ人がこの集団に属していると私が考えているとは思わないで欲しい。この様な事は明らかに真相ではないのである。世界のユダヤ人の0.1%の十分の一以下しかこの集団の存在を知らないと私は思っている。この集団の会員数は多くても150人を越えないであろう。 

CLIQUE(幇)は、他人をすべて排除する少人数の固く結合した人々の集団という意味である。

『GROUP(集団)』 という言葉は、それが一般的な英語の意味で使用される時は、『他人を受け入れる』という意味を持っている。しかし、CLIQUE(幇)という言葉はまさに『排除する』というフランス語の語源からきており、使用される時はまさにIJCの様に、その会員は神聖な秘密を絶対に守り続けなければならないという事を意味している。

 

【訳注】

 <4> ハンニバル将軍:(BC247~BC183(?))  カルタゴの将軍。古代における有数の戦略家で、第二ポエニ戦争中(BC218~BC201)にピレネー山脈アルプス山脈を越えてイタリアに攻め入った。

 <5>  ユリウス・カエサル:(BC102~BC44) ローマの有力政治家から独裁官になり、BC44年にブルータスやカッシウスなど共和政擁護派の元老員議員により暗殺された。

 <6>  北海沿岸の低地帯:現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ地方に相当。

 <7>  アレイオス(アリウス)主義:イエスは父なる神と同質(同一実体)ではないが、他のすべての被造物に先立って父により創造された高貴な存在であるとするアリウスの教説。キリストの神性を否定するものとして、325年のニケア公会議で異端とされた。

 <8>  サベリウス主義:サベリウスは3世紀にローマで活躍した神学者。三位一体の三位は唯一の神の単なる三つの顕現様式に過ぎないと説いた。

 <9>  キリスト単性論:キリストは神性と人性が一体化したものであると説く。

 <10>  ネストリウス教徒:キリストが神性と人性を別に持っていたと説く。431年にエフェソスの公会議で異端とされた。中国に景教の名で伝わる。

 <11>  コプト教徒:コプト教会エジプト人の国民教会で、アラビア人の支配(639~640)を受けて以来、異端とされた。キリスト単性論を説く。コプト人は古代エジプト人の子孫であるエジプト人

 <12>  ゾロアスター教拝火教。古代ペルシャに起こった宗教で、神Ahura Mazda を至高神としてあがめつつも、宇宙と人類の歴史を善悪二原論の対立・抗争として説く。

 <13> マニ教:マニが唱えた宗教で、グノーシスキリスト教・仏教・ゾロアスター教などの要素を一緒にしたもの。光明と暗黒の対立を説く二元教。別名Mazadism。

 <14> トルコ系の勢力:突厥(とっけつ)。

 <15> 蠕蠕(ぜんぜん、じゅじゅ):別名柔然(じゅうぜん)。

 

国際秘密力04

第5章  キリスト教の拡散

       『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間を捕る漁師に
        してあげよう・・・<1>

 

ここで読者は地図1を見て欲しい。この地図は先に参照したギルバート*の地図を元にしたものである。地図を見ておわかりのように、ユダヤ人たちはフェニキア人と同盟を結んだ紀元前1000年ごろから紀元後100年までの世代において、西方世界のあらゆる中心に広がって行った。

*サー・マーティン・ギルバート(1936~2015)はイギリスの歴史家であり、オックスフォードのマートンカレッジの名誉フェローであった。彼は20世紀のウィンストンチャーチルホロコーストを含むユダヤ人の歴史の作品など88冊の本の著者である

地図1 ローマ帝国時代のユダヤ人(100~300年)

(東方世界にはどうであったのか私には知見がないが、この方向にも広がって行ったらしいと信じられる証拠はある。特にバビロニアによる2回の『奴隷化のための強制連行』を思い出して欲しい) 

パレスチナから幾千人もの一の奴隷たちが、そのすでに準備された基地に向かって移動した。

私たちは、当時のユダヤ国家は女家長系統のレビ支族、すなわち私たちがそう呼んでいる一族により統治されていた神政国家であったことを思い出さなければならない。これは今日も同様である。彼らのみがラビ(ユダヤ教の律法学者)になることができ、ローマ帝国の世界の隅々に散らばった会衆たちを指導することができた。そして、そのローマ帝国の世界がラビたちの主要課題であった。

この地図に描かれている様なユダヤ人たちの拡散の結果、情報連絡のための組織が速やかに構築された。それは開かれた組織のようで、実は秘密の組織でもある。それらは広大な領土内で同時的に活動する。

私が読者に再度特に注意を促したいことは、キリスト教発祥初期のことは殆ど知られていないということであり、またヨーロッパや中東など様々な地域での信仰の違いを明確にするための、最初の会議がやっと召集されたのは、西暦200年ごろになってからということである。

私たちが持っている聖書は、それはすでに暗示されていることだが、実はそこに記述された年月が誰にも不確かなものであり、それが真実のものかどうかは、死海文書に運命を握られているかも知れないのである。その死海文書は発見以来イスラエルが手の中に隠している。イスラエルは、イスラエルの処置に同情的な多くのユダヤ人学者にさえ利用を拒絶しているにも拘らず、好き勝手に選び認めた作家にのみ、注意深く情報を流している。今や世界の人々は、この死海文書に虚偽や欺瞞が隠されているかどうかを知ることはできなくなっている。

キリスト紀元(西暦)と呼ばれ、そこから世界が年代を数えるようになった最初の1、2世紀の世界のイメージは、私たちに基本的には映画や流行本によってもたらされたものである。これらは多少は歴史的事実も含まれているであろうが、多分に空想的な作り話である。それらは、圧制者に鞭打たれて苦しむ人々や古代ローマの各都市のコロセウム(大円形劇場)での見せ物のイメージをもたらした。その民衆の娯楽としての見せ物には迫害されたキリスト教徒が登場し、火炙りや野獣に食われる死の恐怖に直面した。

この様なイメージをもたらした流行本などの中で、特に大普及した最初のものは英語で書かれたギボン*の『羅馬帝国衰亡史』であろう。それらはビクトリア女王<2> の時代に社会的地位を与えられた。それらの本の一組を目立つように並べない家は無いほどの普及ぶりであった。私は子供の時にこの本を読み、同じころに『ベン・ハー』などの映画を見た。古代戦車が疾走するこれらの映画は、キリスト教信仰と歴史とがすべて混ざった薬をさじで飲ませるようなものであった。

*エドワード・ギボン(Edward Gibbon, 1737~1794)は、イギリスの歴史家で、『ローマ帝国衰亡史』の著者である。ロンドン近郊のパットニー(Putney)で富裕ではないが比較的裕福な、ハンプシャーに領地を持っている家庭に生まれた。父は同名の政治家エドワード・ギボンで、エドワード以外にも5男1女をもうけたが、6人全員1歳未満で夭折している。1747年に母が死去した後、エドワードは伯母に育てられた。彼は子供時分、体が強くなかった。14歳になると父親は彼をオックスフォード大学に入れた。
オックスフォード大学在学中、神学の探究の果てにカトリックに改宗した。当時のイギリス社会ではカトリック信者は立身出世の道が無く、心配した父親によって大学を退学させられ、スイスのローザンヌに送られた。ここでプロテスタントに再改宗した。宗教遍歴の結果、宗教を冷めた目で見つめられるようになった。1788年王立協会フェロー選出。(wikiより)

 

これらのことは、ラビたちによる神政の下で、教会の指導者や秘書官たちが意図したものであったと私は確信している。ラビたちは、キリスト教徒たちが殉教者として飾られることになるような行為を、彼らの中で押し進めることによって、古代ローマの賑やかな見せ物の中でキリスト教徒が殉教者として飾られるのを促進した。

この様な活動は4世紀に入るや、民衆のキリスト教への改宗という大きなうねりを引き起こした。その改宗者の数は、コンスタンチヌス一世<3> が改宗せざるを得ないと諦めたほどの多さであった。民衆によって始められたこの大きなうねりは、4世紀の初めまでに完了した。以来、このようなローマ帝政のお陰でキリスト教徒への迫害は急に下火となっていった。

マサダの陥落からコンスタンチヌス一世の死の直前の改宗までの間に、パレスチナと中東ではペルシャ古代ギリシャの子孫たちとの戦争が続き、鍋は煮え立っていた。この古代ギリシャの子孫たちは後日ローマ帝国分裂後、コンスタンチノープル東ローマ帝国を形成した。マッケベディーの88頁にたいへん適切な言葉が載っている。

キリスト教は皇帝を勝ち取る前に帝国を勝ち取っていた』

私が言ったことを別の言葉で繰り返すと、子供のころ、確か小学6年生だったと思うが、私たちはこれらの本を読み映画を見て、キリスト教殉教者に同情するよう誘導されていた。これが私の改宗にも繋がって行ったのであろう。これらの事件が実際に起こっていたころ、ローマ帝国の各都市には大競技場があり、そこではキリスト教徒が火炙りにされ、また猛獣に喰わせることが見せ物になっていた。

私が特に言いたいのは、当時のキリスト教の指導者たちは、キリスト教徒たちが十分すぎるほど法を破り次から次へと殉教者になって行くのを、まったく平然と眺めていたということである。

(私が知る限り何の記録も残ってはいないが、キリスト教指導者たちはラビらと繋がっていたと私は信じている)

何年にも亘るこの殉教者たちの苦難は人々の気持ちを動かし、古代ローマの民衆の大半がキリスト教に改宗した。そしてついに大帝コンスタンチヌス一世は、必要に駆られて彼自身、死の直前に改宗するに至ったのである。

キリスト生誕から4世紀初めまでの時期を眺める時、私たちはユダヤ人奴隷たちが帝国のあらゆる地方に売られて行ったことを思い出さなければならない。彼らは妾から、執事、あらゆる種類の労働者、会計係、事務員、秘書、職工長、工場の管理者等々、社会のあらゆる層に広がっていた。またこれらの奴隷たちはローマのすべての職業の人々に雇われていたが、特に裕福で政治的権力を持つ人たちはより多くの奴隷を雇う可能性の高かったことを忘れてはならない。

この様に帝国中の生活に浸透することによって、パレスチナから連れてこられた人々の集団は巨大な権力を振るうようになった。彼らが以前から形成されていたユダヤ人たちの層構造の中に入り込んだことを考えれば、あらゆる場面でいかにごまかしがなされたかは、簡単に分かるであろう。

私が言いたいことを別の言葉で表現すると、キリストの死のころユダヤの国はすでに忘れ去られようとしており、そのため当時のラビの指導者たちはキリスト教を計画し、実在の人物を殺して彼を死後に神格化した*。これは歴史が証明していると私は信じている。そこで彼らは、百年ほどをかけてこの人物を新約聖書として文書化した。同じ百年ほどの間に彼らは改宗と教会の建設を始め、教会はついに形を現すに至った。彼らは、この初期のグループを殆どまたは全く管理していなかったが、もっと長期の計画を描いており、およそ千年間権力を保持するための始まりと捉えていたと思う。

燈照隅註* この記述はラルフ・エリスの「イエスはエデッサ王イザス」と言う説と呼応しないか?

 

歴史をこのような観点から読めば、私の考え方の妥当性が分かって頂けるものと信じる。また公平な心を持った人ならば、すなわち何年間も教え込まれた先入観で心が閉ざされている人でなければ、私の述べていることの可能性が非常に高いことを確信して頂けるものと信じる。

私たちはかねてから『ユダヤがすべてを動かしている』という噂や議論を聞き続けてきた。しかしこれらは長い歴史の中での何らかの論理的な前後関係に基づくものではなかった。それらはいつも

ロシア革命ボルシェビキたちを見よ』とか、

ウォール街を見よ』とか、最近では

ヒトラーを見よ、彼の「水晶の夜」と「死の収容所」を』
といった類である。

第4章で述べた様な、あの日の熱海での出来事があるまでは、これらの噂や議論はあれこれ考え合わせても何も納得できなかった。熱海以来、私は評判の良い作者の評価の高い本の収集を始め、私自身の経験した事件を考えるための基礎とした。この本ですでに参照したものは確かに評価すべきレベルにあるものであり、これから紹介するものもかなりのレベルか、そうでなくとも標準的レベルにあるものである。 

私が画布に描いてきた絵を見ている人々にとっての問題は、数百年から数千年のスパンで物事を見るのに殆ど慣れていないであろうということである。極めて長いスパンでものを考えることができると、画布に描かれた難解な歴史の絵は、隅から隅まで全く異なった様相を呈してくる。もし読者が私の言うような広いものの見方に慣れていないなら、どうか絵の全体が見えるように一度絵から離れて、自らの知識を使って断片的にではなく全体を広く眺めて頂きたい。私が読者にお願いしたいのはこの様なものの見方である。

 

【訳注】

 <1>  新約聖書 マタイによる福音書4.19より。

 <2>  ビクトリア女王:英国女王(在位1837~1901)。当時、英国は東インド会社によるインドの植民地化を強引に進めていた。1877年にインド帝国を成立させると、ビクトリア女王がインド国王を兼務した。当時の英国首相、ベンジャミン・ディズレーリ首相はユダヤ人であり、インド帝国の設立を強力に推進した。

 <3>  コンスタンチヌス一世(大帝):(在位306~337)。313年にミラノ勅令を発し、キリスト教を無条件に公認。324年、東部を支配していた共治帝リキニウスを破り全ローマ帝国唯一の皇帝となる。330年、自らの名前を冠した新首都コンスタンチノーブル(ビザンチウム、現イスタンブル)を開都。

 

国際秘密力03

第3章  古代ローマ帝国による統治 

        『さあ、シオン(エルサレム)に警報を鳴らせ・・・<5>

                  

バビロニアにそっくり連れ去られて後、ヘブライ人全部またはその一部が再び利用される時が訪れた。ペルシャ帝国は敵に包囲され、その敵の中には、西方と南方に勢力を延ばしつつあった中国と東方に勢力を延ばしつつあったギリシャがあった。ペルシャは戦場での形勢を逆転するため、征服したすべての地域においてすべての神殿を再建することが決められた。それは、征服されて怒った神々の中の一つまたはより多数の神を懐柔して、セレウコス朝<6> の衰微を盛り返せないか、という目論見からである。

紀元前200年ごろ、ユダ支族はベニヤミン支族とレビ族の残りとともに、破壊されていた神殿の再建のためにエルサレムに連れ戻された。はるか後世の18世紀に、その神殿を再建するという事業は、新たな神殿建設の目的とともにフリーメーソン団の創設につながった。いずれにせよ、神殿再建は、実はフリーメーソン団の最初の秘密命令事項で、当時もおそらくその後もラビ(ユダヤ教の律法学者)の指導者たちにより統括されてきたに違いない。

ここで私たちに必要なのは、中東<7> の長く曲がりくねった歴史に入り込むことではなくて、ユダヤに影響を与えた事件を考察することだけである。すなわち、アレクサンダーが進軍して来た時、エジプトが散発的に襲来し征服して来た時、ペルシャが襲来しまた去って行った時、末期時代の古代ギリシャとの絶え間のない戦争および最後の戦争があった時、そして古代ローマが国境を安定化させるためにユダヤ王国を属国として利用した時の事件についてである。そしてキリストの時代に近いころ、古代ローマに占拠され、属国としてのユダヤ王国もついに終わりを告げた。

古代ローマの軍団はパレスチナの端から端まで進軍したが、地方の民衆からなるゲリラ勢力の頑強な抵抗に会い、約50年後に最後の戦いがマサダで行われた。マサダは測り知れないと思われるほど巨大な岩山で、そこで最後のユダヤ戦士たちは滅びた。ユダヤ人たちの残りは中東全域およびギリシャで売られるために引き立てていかれた。またローマに連れていかれたたいへん多くの人々もいた。ユダヤの残り少ない人々の長期間の闘争の中で、この時期は『最も華々しい時』のように私には思われる。

イスラエルアブラハムは『パレスチナにおけるアレクサンダー大王による戦役』の中で、ユダヤ人側からの見方でこの時代すべてについて良い説明を与えている。また私が限られた紙面で述べたよりもはるかに詳細に記述している。

彼のこの著述は、1922年にロンドンで開かれた英国学士院の会合に先立ち配布された一連の講義資料であり、1927年の英国学士院の新資料を加えて、1967年にシカゴのアーゴノート社から前記の題名で一冊のすっきりした形にまとめられて出版されたものである。彼はその26頁でこう述べている。

『領土内に共通の単一宗教を強いたアンチオコス<8> の布告は、ユダヤ教と同様、ゾロアスター教にとっても忌み嫌うべきものであった。ペルシャにおけるヘレニズム<9> には同情を禁じ得ないが、ペルシャの宗教もセレウコス朝の抑圧命令を恨んでいた。

後日、ペルシャの宗教であるゾロアスター教の他の本拠地、パルティア<10> ローマ帝国に対し長く持ちこたえた。結局ゾロアスター教は親類関係にあったイスラム教に簡単に捕食されてしまった』

彼は革命、不穏な行動、ゲリラ戦争、テロリズムについても説明しているが、これらはユダヤ人の居住している地域での最初のものと思われる。

(これらは、ユダヤ人がその地に居住していた他の人々に対して、同様の行動をいつも行っていたためであろう) 

そしてこれらはイスラエルを他人の土地の上に作ろうという試みを伴って今日まで続いているように思われる。彼はマカベア<11> やその他のユダヤ集団の英雄的な行為についても述べているが、彼らの名前はシオニスト活動<12> や今日のイスラエルで『借用』されているので、私たちにも聞きなれたものになっている。

彼が19頁で述べていることを引用しておくので、注意しておいて欲しい。

 

『我々は、複数の理想主義との闘争に直面している。各々の理想主義は、譲歩はできない独自の権利を主張している。その闘争は我々の時代まで持続しているものであり、付随的にユダヤ問題と呼ばれるものを引き起こした。この問題は我々が今でも知っているものであり、公民権と宗教の間の問題である。

 

マカベアの時代の著述の多く・・・エステル書、ダニエル書、マカベアの著書・・・は、同様にある闘争を描いている。それはシリア人のヘレニズムと古代ユダヤ人のヘブライズムとの闘争であるが、これはヘレニズムとヘブライズム間の普遍的闘争といったものではない』

この点について、マッケベディー[1]ペルシャの人々<13> は『古代イラン人』と呼ばれる集団に由来することを指摘していることに注目したい。古代イラン人は、ヘブライ人たちがまだアラビアの砂漠の中の遊牧民であったころの、およそ四千年前からの基本的な土着の住民である。また、彼の論評はすべてユダヤ聖典を基礎としているため、他の考察を期待することは殆どできないことも指摘しておきたい。

[1] Colin Peter McEvedy(1930~2005)は、イギリスの数学者、精神科医、歴史家、人口統計学者、ノンフィクション作家。1961年から2002年まで多くの歴史における人口調査地図などの著作がある。

 

真実は、古代の闘争も、彼の講義の時代の闘争も、そして現在の闘争も、ヘレニズムとヘブライズムとの普遍的な闘争なのである。

西暦紀元の最初のころに、ローマ帝国ユダヤ問題に対する『最終解答』を実行に移すまでのこの時代は、パレスチナでの戦いは全般的に散発的なものであった。

決定された『最終解答』は、この人々の再度の奴隷化と強制連行であった。

前記の著述の一つから引用すると、

ローマ帝国の回答は、軍団の派遣であった。その軍団は、足鎖と金を持ったギリシャの奴隷商人を伴っていた。』

これは第四次ディアスポラユダヤの離散)と呼ばれている。

 

 【訳注】

 

 <5>  旧約聖書ヨエルの預言2.1より。 

 <6>  セレウコス朝セレウコス一世が創始したシリアの王朝。BC312~AD64(?)の間、小アジア・シリア・ペルシャの大部分を統治した。 

 <7>  中東:南西アジアおよびバルカン諸国など、もとオスマン帝国に占領されていた諸地域。

 <8> アンチオコス:古代シリアの王。アンチオコス四世(在位BC175~BC163)は、エルサレムの神殿にゼウスとして自分の像を据え、マカベア戦争の原因を作った。

 <9>  ヘレニズム:古代ギリシャ文化。古代ギリシャ精神。理性・知識の追求、芸術・体育の尊重などを特徴とする文化体系で、ヘブライズムとともにヨーロッパ文明の源流の一つとされている。 

 <10>  パルティア(Parthia) :カスピ海の東南にあった古代の国名。現在はイランの北東部。

 <11>  マカベア(Maccabees) :紀元前2世紀のユダヤ愛国者。シリア王アンチオコス四世の支配からユダヤ教団の政治的・宗教的自立を勝ち取った。

 <12>  シオニスト運動:ユダヤ民族主義に基づいて世界のユダヤ人をパレスチナに集結させて国家的統一を与えようとする運動。

 <13>  ペルシャの人々:古代シリア王国は古代ペルシャ帝国の領土をほぼ引き継いだものであることに注意。

 

■ 第4章  諸 宗 教

                  『ユダヤの王として生まれた彼はどこに?・・・<14>

 

私は1977年に日本での講演旅行に招かれたが、その旅程の中に熱海の世界救世教会への訪問と講演があった。私はスケジュール通りに熱海に行き、町のはずれにある教会の屋外の聖堂での礼拝に連れていかれた。それは教会の創設者の墓だったと思う。そこには門というか神社の鳥居の様なものがあり、祭壇や建屋の構造も神社のそれと同じ様であった。

私は祭壇に向かう前に、二回お辞儀をした後に三回手を叩き、次にまたお辞儀をしてから静かに恭しくお祈りをする様に説明された。一通りお祈りが終わると、祈祷式の最後にもう一度お辞儀をしてからその場所を退いた。次に私は教会の付属建物に連れて行かれ資料館を見学した。

私は何年も前に、日本人は戦後に彼らの帝国が破壊されてしまうであろうということをいかに信じていたか、そして彼ら自身の文化財または古代中国の極めて貴重な工芸品を運び出し、当時の熱海のそばの一つかあるいは複数の洞穴にそれらを安置したということを読んだことがあった。読んだ本の説明では、早い時期の米国占領軍がそれらを目撃したとのことであった。しかしそれらがその後どうなったのかは、本には書かれていなかったので私には分からない。

その資料館に連れていかれた時、私はそれらの工芸品、またはその一部、またはもっと重要なものと信じて、これら展示してあった工芸品のいくつかを見た。その中には、銀縁のたいへん目立つ、やや年配の男の大きい絵が一枚恭しく飾られていた。案内の人に誰の絵かを尋ねたところ、世界救世教会の創設者だと説明された。さらに教会の創設時期を尋ねたが、彼は『1944年』と答えた。彼はその年の事を続けて説明してくれたが、その内容は次の様なものであったと思う。

創設されたのは夏で、当時日本の指導者や情報機関員たちは米軍が1945年か1946年に海岸に上陸し、強姦、略奪、殺戮を行い、そして日本民族を大量虐殺して絶滅させようとすると信じていた。これら日本人の指導者たちは、数千人の日本人たちが山々に逃げ込んで生き延び、何とかして千年以内に、天皇崇拝の何らかの形式や歴史的記憶を含めた日本文化の一部をそのままの形で携えて再出現することを願っていた。

その時私の心の中で閃光に似たものが炸裂し、鮮やかな天然色の中で何かが起こったのを見た!!!。(※燈照隅による強調)

エジプトでの第一次ディアスポラにおける屈服と奴隷化を通り抜け、さらに第二次・三次ディアスポラでの同様の経験を通り抜けて、第四次ディアスポラが訪れた時、ユダヤ人たちは準備を終えていた。彼らは、彼ら自身をことごとく包含するまさに都合の良い宗教を有しており、古代の神々を信仰していた人々をその宗教に引きつけることを続けていた。過酷な神を嫌っていた当時の人々を改宗させるために、彼らは愛と慈悲を装った。その宗教とはもちろんキリスト教である。

すでに概略述べてきた歴史を振り返って見ると、まさにこの事を成就するために必要なすべてを、ユダヤは第一次ディアスポラ後にすでに学んでいたことに私たちは気づく。そして少なくとも仏教とゾロアスター教も、また600年ほど後ではあるがイスラム教も、これら生き残りを賭けた人々によって易々と生み出された可能性が高いことに気づく。

少なくとも彼らのごく一部は紀元前6世紀にオクサス地方にいた。またより多くの人々が仏陀の時代にガンジス地方にいた。これらすべては、マッケベディー[1]により論証されている。というのは、彼は紀元前1000年からキリストの時代までの多くの征服が行われた時の、この地方全域にわたる住民・人口の一掃に関して論じているからである。

[1] Colin Peter McEvedy(1930~2005)は、イギリスの数学者、精神科医、歴史家、人口統計学者、ノンフィクション作家。1961年から2002年まで多くの歴史における人口調査地図などの著作がある。

 

私はイスラム教の発祥について殆ど何も知らないが、後にシーア派となったカリフェイト派が早期に分離した件に関しては読んだ記憶がある。カリフェイト派は何世紀も前に古代イラン人として知られていた人々と彼らの土地を基盤にしていた。

(現在のイランの領土は古代のもっと広大であった領土に含まれるが、私はこれらを混同してはいない)

この件に関する私の読書は限定されたものではあるが、シーア派ヘブライ人たちによって今日に至るまで、統治されたことも、ひどく侵食されたこともないことを私は思い出した。そのシーア派教徒とイスラエル、中東、そして世界中のユダヤ人との殆ど絶え間のない表立った戦いは今日再現され、約三千年に亘る過去の全世紀の間そうであったように、世界は今でも戦争に恐怖している。

ここで話をキリスト教に戻そう。

始めに言いたいのは、私の持っている聖書は国際ギデオン協会がすべてのホテルの部屋に配布しているのと同じものである。このプロテスタントの協会は、寂しい旅行者に安らぎを与えて信仰を広めようという団体で、約80カ国で活動している。この聖書は私が知る限り、最も簡単、安価で、最も混ぜものがなく、平易で、潤色されていない、権威のあるものである。それは、17世紀始めの英国ジェームズ一世の統治時代に翻訳され、準備され、初めて印刷されたジェームズ一世版<15> の写しである。私の手持ちは、1961年ナショナル・パブリッシング社版権の1971年版である。

もちろんそれは845頁からなる旧約聖書を含んでいる。旧約聖書は『原語』から翻訳されたと明言されているが、『原語』の真相は明らかにヘブライ語であり、実際にはユダヤのタルムードとトーラ-<16> の形式で書かれていた。

新約聖書の冒頭、最初の頁の直前には奇妙な文章が、少なくとも私には奇妙に思われる文章が載っている。

ギリシャ語原文からの翻訳。以前の翻訳と十分に比較され、改訂された』

原文が何故ギリシャ語なのか? それはおそらくユダヤ人がまだパレスチナに住んでいた時代に、ユダヤ人によって書かれたものであろう。私は、当時その場所に住んでいたユダヤ人の話していた言語は少なくともヘブライ語形式であったという印象を持ち続けている。

私はさらに、聖書の言葉は話されたすぐ後に筆記され、他の言語にも速やかに訳され、おそらくまだその言葉が一般に知られるようになる前に、世界の他の地域にさえ運ばれていったという印象を持っている。少なくとも私の年代の子供たちはそう教えられた。

この点に関して私は、およそ50年前の死海文書の発見に関する読みものを思い出す。それらはキリストの時代の文書で、新約聖書の内容を深く実証し裏書きすると思われた。それらは極めて迅速にイスラエルの学者たちに差し押さえられ、固く保護され、今日に至るまで公平な審査官による調査も、好ましくない審査官による調査も行われていない。事実ユダヤ人学者たち自身にも、この貴重な発見物の一部を眺める時間さえ殆ど許されていない。

それは、その文書が新約聖書を実証していないためではないだろうか?その文書はむしろキリストの存在さえ反証しているのではないだろうか?その文書の秘密はヘブライ人たちが長い間隠していたものだったのではないだろうか?

次に挙げたいこととして、新約聖書の最初にある『マタイによる福音書』(マタイ1.1~18)には、ダヴィデ王やソロモン王を含むヨセフ以降のヘブライ人たちの系譜が列記されている。これを見ると、これはたぶん彼らの正当な、認められた、抑圧されていない王たちすべての系譜であり、キリストは系譜を将来に残すための運搬人として登場したのであろうという考えが起こる。

キリスト教の信仰と聖典によればキリストはまだ生きている。ニケア信条の暗唱の中で私はそう教えられた。ニケア信条はキリスト教の初期段階での論争の産物であり、4世紀の初めギリシャまたはローマ帝国の統治下にあったトルコの町ニケアで開催された宗教会議で終結された。その中でキリストは、『全能の神の右手の上に永久におわします』と言われている。

ユダヤ信仰によれば、キリストはすでに死んでおり、待望されていたメシア(救世主)ではなかった。そしてキリストが旧約聖書の中で哲学的に考察されることを、今日ユダヤ人たちは期待している。彼らは新約聖書を無視している)

血統が彼らの王の系統を探る手がかりになるのはそれで良いのだが、ヘブライ人は本来は女家長社会であり、家系は全て母親を通して辿られるのである。この家系を探るためにすべての事実を得ることができれば、それらを探ることは完全に不可能ではなくなるのだが、ああ悲しいかな、私のような個人には全事実は一般に容易に手に入らない。私はそれらの全事実は誰にも手に入らない、それも故意の理由からで、と信じている。

今まで述べてきたように、ユダヤ人たちはマリアから生まれたイエスが彼らの王であること、またはかって王であったことを信じていない。むしろユダヤ人たちは、キリスト・救世主はいつの日かやってきて、『地球を支配』するだろうと信じている。このことは私が子供のころに教えられたことであり、またキリスト教徒の間では『常識』となっており受け入れられた事実となっている。

もしそれが真相だとして、現在誰がユダヤ人の『摂政』の地位にあるのか?その摂政に助言する『枢密院』を構成しているのは現在誰か?ヘブライ人たちを支配している神政の中心を構成しているのは現在誰なのか?

同様に重要な質問であるが、第四次ディアスポラの時、これらの地位を確保していたのは誰か? 当時、奴隷として多くのユダヤ人たちは地中海の辺境の地に散らばされた。またごく一部はアジア中に散らばった。

これらの質問をやや複雑にしてみると、第四次ディアスポラ以降二千年間これらの地位を確保していたのは何者か?

著者の基本的目的はこれらの事象に読者の注意を喚起することにあり、本書の次章以下でこれらの質問に答えるのは無理かも知れない。しかし私は能力の許す限りこれらの質問に精一杯答えるよう努力をしたい。しかしああ悲しいかな、多くの質問は永久に答えられないまま残るであろう。何故なら、通常の君主国、国家、帝国では当然存在するような記録が彼らには存在しないからである。

それらの国家では、些細な事にまで気を配る官僚が細心の注意を払った記録を残して自らの存在を証明すべく努力を重ねてきている。しかしここには二千年に亘る記録破壊の隠された秘密があり、真実のヒントを拾おうとする時でさえ、不正なる置き換えがなされているのである。

私はこの隠された秘密が、世界の『キリスト教徒』の部分だけでなく、その他の神道を除く主要宗教すべてに及んでいるのではないかと、非常に危惧している。神道は二千年以上に亘って攻撃下にあるにも拘らず、比較的純粋性、崇高性を残しており、襲撃の標的とされているものの傷付けられてはいないのである。

 

【訳注】

 

 <14> 新約聖書 マタイによる福音書 2.22 より

 <15>  ジェームス一世版聖書(King James version):ジェームズ一世は英国国王(在位1603~1625)。ジェームズ一世版聖書はユダヤ人による偽造が最も少ない聖書と言われている。

 <16>  タルムード(Talmud)とトーラー(Torah) :ともにユダヤの重要聖典。タルムードはユダヤ教の教えを集大成した膨大なもので、400~500年ころに原型が完成したと言われている。トーラーはユダヤ教の律法でモーゼの五書(The Pentateuch,旧約聖書の第一部)を指す。ユダヤ人は旧約聖書を「律法(Torah,the Law)」、「預言書(Nebiim, the Prophets)」およびその他の「諸書(Ketubim,the Writings)」に三分した。

国際秘密力02

第1章  起 源  『始めに・・・<1>

今から約八千年前、今日アラビア半島と呼ばれている地域の、中央砂漠地帯のはるか上空から地上を見おろすことが出来たとしたら、私たちは凡そ100万Km四方[1]にわたる広大な砂の海があり、追い風を受けて砂丘がうねり、また大波となり、さらに潮流となって移動して行くのを見たであろう。そこには薮も、木も、潅木も、草の葉も見あたらない。また、湖も、川も、池も、水溜りも、およそ水らしいものは何も見えない。私たちの目に入るのは、月の景観に良く似た宇宙のどこかの場所のような、荒涼として生命の気配すらないまったくの砂漠である。

[1] 英原文はa million square kilometersであったと思われる。つまり、一千キロ四方(燈照隅による註)

私たちはそこに、砂漠の表面を絶え間なくさまよい歩く、アラビア遊牧民の小さな群れを何とか見つけられる。荷物を運ぶ動物たちを連れた彼らは、食料を求めて、また豊かな青葉と恵み深い水で砂漠の表面を覆ってくれるオアシスを求めて彷徨している。しかしそれは今日に至るまで殆ど見かけることも無いほど僅かである。

これらの集団は少人数で、殆どの場合ごく小さな家族単位で成り立っている。この大地がそれ以上の人数を養っていくことを許さない。これらの人々は、家族から一族へ、さらに部族へと発展して行く前、すなわち民族としての始まりを記録する前の状態である。私たちが見ているのは、いつの日かユダヤ人種と呼ばれるようになるもののごく初期のものである。

彼らはこの砂漠地帯から地中海沿岸に沿って、東、北そして北西へと散らばって行く。しかし、その本流はチグリス・ユーフラテス川がほぼ合流する現在のバクダッド周辺に向かっていた。私たちは旧約聖書の始めの章の時代に入ってきた。年代で言えばおおよそ紀元前4000年である。これらの人々は多くの種族を形成し始めた。そして学者たちが何世紀も費やしてきた論争を私たちは始めることになる。

彼らは『肥沃な三日月地帯』と呼ばれる地域に住んでおり、地中海が横たわる西方へとゆっくりと流れて行く。しかし、戦争や征服などに関係するような勢力はまだ見あたらない。

紀元前1500年ごろ、エジプトの先行文明の人たちが東方に押し寄せ、彼らを飲み込み、鎖で縛ってエジプトに連れ去った。彼らはそれより前に自発的にそこに移民していた人々と合流することになった。新たに彼らの主人となったのは、喜んで受け入れる気持ちを持った親切な人々で、彼らを『アピル』、現代英語的に発音するとヘブライ、と呼んだ。彼らは、先天的な能力と何事にも穿鑿(せんさく)好きな性格を持っていた。

その地に連れて来られた人々は奴隷として、当時進行中であった無数の石造建築工事に使役された。この人たちがエジプトに攫われたことを、第一次ディアスポラまたはディスパーサル(ユダヤの離散)と呼んでいる。良く覚えておいて欲しい。この強制的苦役とそれに由来する事件を通して、これらの人々は今後も度々ひどい目に合うであろうということを学んだのである。

旧約聖書によれば、紀元前1250年ごろモーゼは一族を自由へと導いた。私の研究結果による意見であるが、当時エジプトの国力は衰えてきており、ヘブライたちが去ることを止めるだけの兵力がなかったため、彼らは去ることができた。また東方の連合した敵国によって、エジプトがほぼ完全に包囲され、軍事的敗北を喫した直後にヘブライたちは去ったと考えられる。

ここで話の本筋から少しはずれて、これらの人たちの部族のことについてはじめに議論してみたい。これは多くの著者たちが相反する事実の泥沼の中で、ある結論を得るまでに人生を費やしてきた、長い間論争を呼んでいる分野である。

私の解釈では、聖書の第一章『出エジプト記』の中の13支族と呼ばれる人々はエジプトにいた。すなわちヤコブ、ルベル、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アセル、そして最後にヨセフ支族であるが、ヨセフ本人は第一次ディアスポラより以前に、彼の血族とともに彼自身の自由意志でエジプトに来ていた。

さらに聖書を次の節に読み進めていくと、ヨセフと彼のすべての血族たちは死に絶え、私たちにはヘブライの12支族だけが残されたことが分かる。彼らはモーゼによって無事に連れ出され、考えられる限りのシナイ砂漠の全域を放浪した後に、パレスチナに辿り着いた。その途中で彼らは十戒を授けられる。

モーゼは約束された土地のまさにその門の所で死ぬが、彼に率いられた人々はパレスチナの中の地中海の近くに落ち着くために、そのまま進んだ。この放浪期間の長さは私たちの目的には重要でないので聖書学者に任せたいが、私の最も良い計算では約7~8年続いたようだ。

彼らはアモライトたちの領地の中で最も弱いギリードを通ってパレスチナに入り、地中海沿岸に住む人々の中で、最も弱小の人々から土地を強奪した。聖書によれば、彼らの神は彼らが占拠した土地の強奪を彼らに命じた。ここで私は、まさにその同じ神が、彼らによって追い出され奴隷化された人々には何の配慮もしていないことを指摘しておきたい。また、追い出され奴隷化された人々に関して彼らの神が言った次の言葉は、その神の性格を十二分に示すものであることも指摘しておきたい。

『ここはそうするには絶好の場所だ』

彼らの神が過酷な神であるのは、初期の時代に過ごした土地の不毛さ、彼らの奴隷化、そしてエジプトからの『逃亡』のために放浪した砂漠地帯の厳しさなどからもたらされた生活条件の過酷さ、が原因である。彼らは今日に至るまで、愛情に満ちた神、包容力のある神、思いやりのある神を持ったことが無い。彼らは逆に恨み深い神、怒りに満ちた神、邪悪な神を持ち、それを誇りにしている!!!

私は、人々の性格は、彼らが崇拝するために選んだ神または神々に反映されると信じている。そしてヘブライたちの場合は世界で最も過酷な神を持った。そしてこの後の頁で暴かれ、解明されるであろう彼らの行動から証明されるように、この世界で最も過酷な神を持っている彼らは、世界で最も過酷な人々である。

長期間に亘る恐ろしい彼らの懲罰と、他人に苦しみを課したいという彼らの欲望は、その性格からくるものであろう。それはエデンの園でアダムとイヴをして神に背かせ、リンゴを盗み食べさせた。他の民族でこのような歴史の始まりを持つものはいない。

 

【訳注】

 <1> 旧約聖書 創世記1.1より。

 

第2章  パレスチナにて   『そして時が過ぎて・・・<2>

聖書原本(The Bible)と旧約聖書(Old Testament)の組み合わせよりも、むしろ1969年に『ユダヤ歴史地図』の初版を出したマルチン・ギルバート*の示すところによれば、その当時パレスチナにはヘブライ人の12支族が落ち着いていた。すなわち、アセル、ナフタリ、ゼブルン、イッサカル、マナセ、ガド、エフライム、ダン、ルベン、シメオン、ベニヤミン、ユダの各支族である。

*サー・マーティン・ギルバート(1936~2015)はイギリスの歴史家であり、オックスフォードのマートンカレッジの名誉フェローであった。彼は20世紀のウィンストンチャーチルホロコーストを含むユダヤ人の歴史の作品など88冊の本の著者であった。

この支族名のリストは前章と少し違っている。私はドーセット出版社(Dorcet Press)発行の1985年度版を使っているが、その3頁の地図中に聖書原本から引用編集した記事が掲載されている。これらを紹介することは興味深いと思われる。

『汝らはそなたたちより前のすべての住民たちを追い払わねばならない...そして汝らは住民たちから土地を奪い取りその中に住まなければならない...そして汝らはそなたたちの家族への相続のためにその土地を細かく分割しなければならない 神からユダヤたちへ,No.33,52~54』(原文のまま)。

その地図は『約束の地(パレスチナ)』への入場を示している。またこれらすべては、すでにそこに住んでいて追い出され奴隷化された人々、に関して前章で述べた点を立証している。

彼らはかってその地で隣接する人々たちと戦っていたが、世界の海を彼らの船でさまよっていた海の民、フェニキア人とは同盟していた。私は何十年も前に人類学の一般書で読んだフェニキア人の航海、すなわち地中海すべて、そしてアメリカ大陸にさえ、さらにはエジプト人たちとともに希望峰を回ってインド・中国へ、そして紀元前1000年以上前に日本にまで航海したという伝説、を思い出す。

私はここで若い時の記憶をたどるのに手間取るつもりはないが、初期の時代の航海について、トール・ヘイエルダールの『コン・チキ』の航海、ほか同様の本や作者について少し思い出して見たいと思う。もしこれらの論議を呼んでいる航海が本当に行われていたとすると、第二次ディアスポラまたはディスパーサル(ユダヤの離散)の前に、ヘブライ人たちは世界とその地理に関する知識を得ていたことになる。

フェニキア人との同盟は基本的には軍事的なもので、アッシリア帝国に対抗するためのものであった。それは紀元前1000年の少し前に取り交わされた。

紀元前990年ごろに、ペリシテ人勢力は崩壊した。そして私の持っているコリン・マッケベディ-の『ペンギン古代歴史地図』1980年版の42頁には次のような記述が載っている。

『これより後、海ではペリシテ人のことは何も聞かれなくなった。そして陸では紀元前975年に、彼らはダヴィデに率いられたヘブライ人たちの攻撃に屈服した。ダヴィデはまた、エドム、アモン、モアブそしてダマスカスに対し、彼がヘブライ王国の大君主であると認めさせた。しかしこの帝国は彼の息子とその後継者であるソロモン(紀元前960~925)の時代にしか存在しなかった。

その後属国は反乱を起こし、ヘブライ王国は二つの王国、ユダ王国イスラエル王国に分裂した。ユダ王国ダヴィデの王国の首都エルサレムより多少大きい地域を占めた。イスラエル王国エルサレムを除くヘブライ王国領地の大部分の地域を占めたが、サマリアの建設(紀元前880年)までは適当な首都を持っていなかった。分裂するように彼らは運命づけられていた』 

マッケベディーはさらに続けて、紀元前928年にエルサレムエジプト人により征服、略奪され、彼らが去った後、『ダマスカスはユダ王国イスラエル王国の王を臣下に従えた』ことを説明している。 

20世紀になって実際に彼らが国を建設した時に、彼らが自分たちのものだと要求した土地に関して、ヘブライ人たちが何かしら国家の様相を呈していた期間は、私が見つけられる限りこの時が最長である。それは総計で47年になる。

最初に住んでいた住人から奪い取った領地を追い出されてから約三千年後に戻って来て、彼らがかって実際に保有していた以上の土地を生誕の地として要求する。このような理に反することを他の人々はどうしたらできるだろうか。

これに関して現代では様々な法的原則があり、表現は異なるが『懈怠(けたい、怠慢)』、『陳腐』、『上訴期限』などとして知られている。

これらは専門的意味は多少異なるものの、すべて同じことを意味している。実在する資産(土地)の損失が生じた時にその返還を要求する場合、ある期間内でしか要求できないということである。通常その期間は25年が妥当と見られており、殆どの法令はこの線で作られており、また殆どの公平な原則(これらは絶対的な最長期間として100年間まで延長することができるとしている)についても同様である。

私たちが注意しないではいられないこれらの人々は、彼らが今日『イスラエル』であると主張している地域から後日去った。去った後19世紀まで、戻る意図もなく約二千年もの間離れていたのである。ここでイスラエル王国と呼ばれている土地に落ち着き占拠していたのは、攫(さら)われて永久に失われたとされている10支族であったことも注目されてしかるべきである。

不完全な権利の下に建設された国を、歴史の中に消えた人々にちなんで命名するのも奇妙なことである。まして失われた人々の子孫であるはずのない彼らが、失われたと主張されているまさにその領地を要求している。これらのすべておよびそれ以上のことが以下の記述の中で示されていくであろうが、今はとりあえず話を元に戻したい。

前に引用したコリン・マッケベディーの本の46頁から再び引用する。

『チグラトペレセル三世はアッシリア帝国の国境を前進させた・・・紀元前729年にバビロニアを、紀元前732年にダマスカスを併合した・・・イスラエル王国が貢ぎ物を拒んだ時、イスラエル王国の歴史はサルゴン二世(BC721~BC705)によって突然幕を閉じた。

サルゴン二世は統治の最初の年にサマリアイスラエル王国の首都)を略奪し、ヘブライ人の王国の北部を形成していた10支族を追放した・・・』

 

これが、第二次ディアスポラまたはディスパーサル(ユダヤの離散)である。 

 

マッケベディーを読んだ限りでは、エルサレムに残った支族はユダとベニヤミンである。しかし、福音伝道者ガーナー・テッド・アームストロングの父、ハーバート・W・アームストロングの著書『予言における合衆国と英国』(1980年版、神の全世界教会)によれば、ユダ支族のみがエルサレムに残されたことになり、第三次ディアスポラユダヤの離散)があったことになる。

12支族を含む話については、私はあらゆる観点および宗教・信仰面で難渋してきたが、この泥沼を避けるためにも長い話を短く済ませたい。私たちの目的のためには、アームストロングの著書の71頁を紹介することで十分である。

『130年以上後に(著者註:おおよそ紀元前588年)、バビロニアネブカドネザル二世はパレスチナに唯一残っていたユダヤ人であるユダ支族を捕らえ、バビロニアに連れ去った。このユダ支族の捕縛の時点で、イスラエル王国のどの支族もパレスチナには住んでいなかった。

ユダ支族が捕らえ移された70年後に、神殿再建と礼拝復活のためにパレスチナに帰還した(著者註:著者の計算ではそれはおおよそ紀元前518年)のは、ユダ支族の一族すべてであった。---全部ユダヤ人であり、ネブカドネザル二世が連れ去った者たちの一族すべてであった。

「彼らはエルサレムや他のユダの町々へ帰還した(エズラ記2.1)」 

ベニヤミン支族とレビ支族の残りはユダ支族の一部を形成していたが、彼らを含むユダ支族のみがその時に帰還した。

「こうして、ユダ支族とベニヤミン支族の指導者たちと、祭司やレビ人たちも、立ち上がった(エズラ記1.5)」』

このことからも解るように、私たちが『イスラエル』をエルサレムに結び付け限定するとしたら、それはゆがんだ論理による時のみである。正しい論理によれば、イスラエルエルサレムと何の関係もない。

ここまでに『バビロニア』への二度の『ディアスポラユダヤ離散)』が示されたことに注意して欲しい。二つの別個のディアスポラが起こった。一つは紀元前700年に起こった失われた10支族に関するもので、もう一つは紀元前500年にバビロニアの別々の場所に分かれて連れ去られたものである。多くの学者は3回のディアスポラを語っているが、後で簡単に述べるローマの統治下での1回を加えて、実際には4回のディアスポラがあった。

おそらく別の本か、記事か、スピーチでのことになるであろうが、後日の議論のために少し記しておく。マッケベディーの48頁に次のような記述がある。

『ガンジス河上流のヒンズー人の領土で仏陀が説教を始めたのは、おそらく7世紀である。(著者註:これは紀元前のことである) 

また、ゾロアスターは同じ世紀の末までオクサス地方<3> に住んでいたと考えられる』

私はこの仏陀の説教開始の年代記述に満足しなかったため、手持ちのウェブスター第7版新大学課程辞書の伝記部門を引いて、仏陀の生年が『紀元前563年?』、死亡が『紀元前483年』であることを見つけた。私の妻は、同様の日本の文献から次のような訳をしてくれた。

仏陀は紀元前485年または487年の2月15日に80才で死亡』

同じウェブスターの辞書にはゾロアスターについても、次のような記述があった。

『ツアラトゥストラ<4>-紀元前6世紀。古代ペルシャ宗教の始祖』

連れ去られたヘブライ人たちはこの二つの宗教のうちの一つまたはおそらく両方に、そしておそらく他の多くの宗教にまで何かしら関係していたのではないだろうか? 彼らはまさにその時に、その場所に確実にいたのだ。

【訳注】

 <2>  不詳

 <3>  オクサス地方:オクサス(川)はアムダリア(川)の古名。アムダリア川はアフガニスタンのヒンズークシ山脈に源を発し、北西方アラル海に注ぐ川。

 <4>  ツアラトゥストラ:ゾロアスターの古イラン名。

 

国際秘密力01

                     

 

献 辞

この本が出版に至ったのは二人の方のお陰である。一人は20年連れ添った私の妻、チヨコ・荒鳶・ウェスト<1> である。彼女はたゆまずに、私自身および私たちの信念を支え続けてくれた。また彼女は19年間倦むことを知らずに働き続け、私の執筆を励ましてくれた。そしてこの書の原稿ができ上がりつつあった1995年には、日々その内容を聞き、助言を与えてくれた。忍耐という言葉では、彼女の私に対する姿勢を十分に表しきれない。

この20年間、私は彼女を辛い目に会わせ続けてきた。このような状況の中で、共に生き、共に堪え忍ぶことができるような心性の持ち主を、私は他に知らない。適切な言葉が見つかる筈はないが、私の心からの感謝の気持ちをここに表したい。

もう一人はSU博士[1]であり、私がこれ以上は出来ないほど感謝している方である。博士とは最近知り合ったのであるが、彼はこの内容を本にするよう勧めてくれた。彼に対しても、感謝の深さを表す適当な言葉を私は持っていない。私がかって幸運にも出会えた人の中で、SU博士は疑いなく最も知性的な人物である。私が崇敬、尊敬しているSU博士は孤高の紳士であり、信じ難いほどの教養と経験をお持ちである。また、これまでに会った人の中でこれほど無私な人もいなかったと感服している。

[1] 馬野周二氏:馬野氏については、国際秘密力00 註5をご覧ください。

 

彼以外に考えられるとすれば私の妻とMN教授<2> である。MN先生は、昭和44年に私を日本そして特に伊勢神宮に導いて下さった方である。彼の奥様と愛らしい子供たちには家族同様に迎えて頂いた。

これらの方々に、そしてお名前を出すことは憚られるかも知れないので差し控えるが、私が設立した団体に所属されるすべての方々に、お会いして以来の多年に亘るご支援に対する深謝を申し上げる。また、すでに故人になられたが、私とともに大和魂のために精力的に活動された実に多くの方々、およびそのご家族の方々に感謝する。これらの方々すべてに、生きておられる方にも、亡くなられた方にも、私は申し上げる。

1969年、あなた方および大和魂を持つ人々に奉仕することに、私は生命を捧げた。

1995年、あなた方および大和魂を持つ人々に奉仕するために、私はこの本を書いた。

世界の人々に、今日の世界における日本の立場を、そして人類が自由で独立した人々の集まりとして生き残るために、日本人がその責務を何故果たしているのかを理解してもらうのに、本書が少しでもお役に立てば幸いである。

 

前 言

この本は読書からだけで生まれたものではない。これは私の生身の体験に基づいたものであり、私が見聞した事件および私自身に降り懸かった事件を基礎にしている。

それは、1973年の第4次中東戦争の後、エジプトの刑務所に引き立てられた時から始まった。その時私は日本の顧客相手に仕事をしていたのだが、そこで私はイスラエルによるアラブ連盟の買収を暴露したのである。そして極端に暴露し過ぎた結果、私は米国における幸福な生活に代えて、屈辱的な人生を強いられることとなった。

私の経歴に対するこの打撃は、陰険に考え出された重苦しいものであった。米国内には私を中傷する情報が公表され、専門的な職業に就くことは殆ど不可能になった。私は堪え忍び、私が人生を捧げた闘争を続けた。この苦闘には後に私の最愛の妻が加わった。次の期間には、私は大学で政治学を教える傍ら守衛として働いた。私は職業上の経歴については道を塞がれたが、これからお話しするように別の意味での成功を得ることができた。

私の経歴に対する最大の攻撃は、米国のダラスを本拠とする大学のある教授によって為された。それは1974年、私がエジプトから帰国した直後のことであった。彼は元GHQ(マッカーサー元帥麾下の米国日本占領軍最高司令部)のメンバーであり、その後ダラスに帰国する直前までは東京米国商工会議所の会長であった。ダラスに戻ってからは、日本の投資家のダラスへの誘致を行っていた。

彼がダラスの多くのユダヤ人企業とユダヤ人資産家たちの為だけに活動し、国や社会への損失を何故顧みないのかは、彼のGHQの経歴とGHQの本質を知った時に理解することができた。

私が日本の為に行った仕事の中で最も顕著な成功例は、福田赳夫氏が首相候補となり、彼の名前が日本経営研究所(Japan Management Institute、以下JMIと略す)と関係していた時のものであった。(彼は大蔵省出身で、当時は外相であった) 

アイルランドに本部がある『リコン・アンド・アソシエイツ』という会社が、JMIと提携して日本にある五十余りの事務所と一緒に仕事をしたいと申し入れてきた。JMIの唯一の外国人顧問であった私は、この『アソシエイツ』が何者であるか誰も知らないことと、彼らがユダヤ人関連の回し者で、危害を及ぼそうとしているかも知れないことに気づいた。そこで私は処理方法を助言したところ、数日後の休日の朝、JMIの一団が私の家を突然訪れて私を驚かせた。私は今でもこれらの人々と、彼らが酒樽を持って来たのを他愛なく覚えている。

JMIが『リコン・アンド・アソシエイツ』との提携を断った直後に、このアイルランドのグループは自らの破産処理を行ったのであった。その事により私は、このアイルランドの会社の意図はJMIを、またそれによって福田赳夫氏を妨害することであったのを知った。後日談であるが、GHQを日本に遣わしたのと同類の外国の人たちが影響力を及ぼし、JMIに長い間雇われていた私を解雇させた。

このJMIの事件が起きたのは69年から70年にかけてであったが、この事件は私に、このグループの持つ強さと生存競争における彼らのやり方を教えた。そしてまた私は、私の当時の妻が、日本におけるユダヤ人グループのために私を働かせようとしていたことに気づいた。私は彼女と離婚し、76年に現在の妻と再婚した。後に何年間か、日本を旅行した時には、暗殺をほのめかす脅迫を受けていたため、護衛を付けるように言われ、付けて頂いた。この本が出版されると、私はまた同様の状況に陥るであろう。

本書の『前言』は1975年に書いたものを収録したが、JMI事件当時は、そして今日でもまだそうではあるが、世界および日本の政治的状況はこの様な本の執筆を許さなかった。今回この本を出版するが、今日の世界状況からすれば、この様な資料が十分な部数印刷されて将来の研究・比較の基礎とならなければならないと考えている。

オズワルドの単独犯行とされ、そうでない確率は数十億分の一であろうなどとされてきたケネディ暗殺事件のような例は、誤りでなくて何であろうか。当然の成り行きとして、多くの重要な証言は決して死なないのである。

私は75年に書いたこの文書を、そのまま本書内で使うことにする。感傷的な理由が一つと、もう一つの理由は、日本においては、良い方向に向かってきてはいるものの、当時から今日まで実質的には何も変わっていないからである。

但し感謝すべきことに、日本では覚醒が起きつつある。

 

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小説というものは読者をとても楽しませてくれる。しかしこの地球で53年間(本文執筆当時)暮らしてみて、私は、真実というものは遥かに有りそうもないことであり、従って小説よりも甚だ面白いことを発見した。『真実』に関する唯一の問題点は、事象がより複雑となり、また捉えるべき対象が大きくなるほど、判定を下すのがより難しくなるということである。

それは、事象が複雑になればなるほど、解明することがより難しくなるということが部分的な理由である。一本の紐に繋がっている個々の結び目だけでも、それは複雑で解くのが難しいかも知れない。まして多くの似たような紐とそれに繋がっているもっと大きな結び目があった時には、解くことは殆ど不可能なほど難しくなる。そこで、各々の紐を一本毎に分けて並べ、少しずつ真実の光に曝していくことが必要となる。

真実の強い光の下で見るのは不適当であると、誰もが思うような事が行われる時がある。また真実と知識によって精査されては成功できないような、己の願望や欲望を強行するための陰謀が企てられる時がある。このような時、彼らはその真実を深く暗い秘密のベールの中に隠そうと努力する。

その様な努力が事柄の複雑さを増し、真実を暴くことを難しくさせるのである。さらにその利己的な陰謀を企てる犯罪者に関する何の文書も発見されず、また秘密に関する如何なる供述も得られないというような方法で真実が隠匿されると、それを暴くことは無限に近く難しくなる。

本書で採り上げている問題では、これに加えて人類の歴史の中で比較的長い年月が経過している。その長い時間の経過の中で、秘密が持続されているばかりでなく、真実の暴露が抑圧されており、一連の陰謀を暴露し『真実』に到達する上で恐ろしい問題が生じている。

特に不必要な複雑さを意図的に加えて陰謀が強化された場合に、この問題が生じる。すなわち、陰謀を助長するために必要ではないが、単に注意を反らしたり陰謀を包み隠したりするために『煙幕』を生じさせている場合である。

私は、読者の方々が、ある陰謀の本性について興味を抱く気持ちになって欲しいので、この様な長い説明をしているが、その陰謀とは一体何なのか? 

それは『世界支配』の陰謀に他ならず、この陰謀は少なくともジュリアス・シーザーの時代にローマ人がユダヤ人を征服して以来、拡大され続けている。そして彼らが国土を失って以来およそ20世紀の間、この陰謀は拡大され続けてきたと私は信じている。それは曲がりくねった道を辿りながら、究極的な目標に向かって常に前進しているのだ。私の基本的な信念は多くの日本人および真正な米国人と共通であり、次の様なものである。

いかなる人種、集団といえども、人類の運命を支配し、またそれによって人類を奴隷化することはできない。またいかなる人種、集団といえども、それを企ててはならない。

なお次のことを急ぎ付け加えておきたい。私は、ここで対象としている陰謀を行っている集団が、ユダヤ人種・教徒全体であるとは信じていないし、また疑ってもいない。私はむしろ、ユダヤ人指導者たちにより構成される大変小さな『核集団』が陰謀を企てているのだと信じている。この核集団は今日まで約二千年の間存在し続け、過去も現在も世界の独裁を求めて止まない。この核集団はその野望を満たすために、彼らの宗教的信仰の促進に忠実に参加している無知なユダヤ人たちを、無慈悲に酷使していると私は信じている。

菓子が美味しいかどうかは、食べてみなければ分からない。読者の方々には我慢して私にお付き合い頂き、この後に続く頁を繰って頂きたい。そして、元米国大統領リンドン・ジョンソンの言葉でいえば、『一緒になって論じていこう』。

 

緒 言

世界の法システムは種々様々であるが、すべては真実の追求と提示を基礎としている。それは『証拠』の形で行われ、裁判所は事実を判定する過程でそれを聞かなくてはならない。法システムはすべて、『証拠』の『容認』のための規定を定めている。

英国の法システムでは、犯罪認定の基礎となる『容認』証拠には二種類がある。最良の証拠は、その事件の目撃者による証言または供述したことを示す文書である。それに対して『状況証拠』は、それだけでは十分ではなく、事実を追求する者によるさらなる綿密な調査を必要とする。

この『状況証拠』は、犯罪の判定に導く事象または出来事であり、犯罪実行時における犯罪の意思ばかりでなく犯罪との関りをも示すもの、と定義されている。今日、状況証拠的な証拠はいかなるものであろうとも、裁判所は注意深く吟味しなければならず、有罪確定のためには、多くの証拠の積み重ねが必要である。それに対して直接的証拠は、一つの短い供述で十分な場合も有り得る。『私はそれを聞いた』という伝聞証拠は常に除外されなければならない。

個人または集団に対して犯罪事件を論告する検察官は、まず最初に調査を行い、予定している論告に有利な事実を収集しなければならない。そして次に、その犯罪が法律に違反しているか、どの法律が適用されるかを決定しなければならない。

私自身、論告のために事実を収集し適用すべき法律を探す検察官の役割を果して来た。但し、状況証拠類の提出要求に対して提示されたものについて、それが実際に事実であるかどうかを判定すべきその法廷は、有罪確定を支援するものであった。

幾つかの法システムでは、一度検察官から告訴状によって告発されると、被告は自分または自分たちが『無実』であるか、または『身に覚えのない』ことを証明する義務があると定めている。英国の法システムは世界の法制度と同様に、告発され犯罪者と言い立てられた者は、有罪が証明されるまでは法廷においては無罪と推定されると定めている。この本の執筆に当たって私は、検察官としての役割を出来る限り公平にするために後者の考え方に準拠し、より強く、より高く被告を無罪と推定する立場を取っている。

八千年の世界史を見直そうなどとは誰であろうが厚かましいと、読者が言われるのはもっともであり、それはそれで正しい。しかし、公表されている限りでは訴追者的視点によって世界史を見直した人を見つけられない以上、誰かが最初にそれを行わなければならないと私は切実に感じている。もしそれによって十分な興味が喚起されれば、他の人たちがさらに徹底した調査を行い、おそらくもっと決定的な証拠が発見または暴露され、そして発表されて世界の人々の目に触れるであろう。私はそうなる事を切に祈っている。

日本の読者の多くは、『一体それと私とどういう関係があるのか?』と尋ねられるかも知れない。このご質問に対しては単に次の様にお答えしたい。

日本は本書で告発されているある集団によって最近成功裏に征服されたばかりである。そして物質的側面では過去よりも確かに改善されたかも知れないが、その精神的側面およびその存在理由(レーゾンデートル)においては、マッカッサーによる占領前、さらにはペリー提督来航以前の良さに比べるまでもなくなってしまった。しかし日本の人々は、他の世界の人々とは異なり、自分に取り付けられた軛(くびき)を取り外せる可能性をまだ残している。

もしあなたの興味がお金と個人的な事だけであるなら、本書をこれ以上読まれる必要はない。それは時間の無駄使いであろう。もしあなたが日本民族とその精神の存続に興味がお有りなら、どうか私と一緒に人類が人類を征服して来たこの世界の歴史、を検証して頂きたい。そして幾つかの事実を私と一緒になって確かめて欲しい。そしてこれらの事実が、人間性裁判所への論告を正当化するのに十分であるかどうかを判断する立場に、あなた自身を置いて見て頂きたい。

 

[訳注]

 

  <1>  ウェスト博士の夫人:大阪出身。旧姓、荒鳶(あらとび)千代子さん。

  <2>  難波江 通泰(なばえ みちやす)氏:伊勢市の皇学館高校、および国士館大学武徳研究所にて教鞭を取られる。

 

難波江 通泰(なばえ みちやす、大正15年11月18日(1926年11月18日)~平成19年(2007年)6月20日)は、日本の文学、歴史、哲学の学者。愛媛県出身。愛媛大学卒。小・中・高校の教諭を歴任。福岡県立戸畑高等学校三重県伊勢市皇學館高等学校皇學館中学校中高一貫6年制)教諭を経た後、国士舘大学武徳研究所助教授。専門は王陽明支那文学(漢文)、支那哲学。

王陽明全集の中で非常に難解とされ、誰にも訳されることの無かった王陽明全集 第五巻「公移」を詳細な注釈つきで現代語訳(明徳出版社、1985年5月)。以上Wikiより