国際秘密力04

第5章  キリスト教の拡散

       『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間を捕る漁師に
        してあげよう・・・<1>

 

ここで読者は地図1を見て欲しい。この地図は先に参照したギルバート*の地図を元にしたものである。地図を見ておわかりのように、ユダヤ人たちはフェニキア人と同盟を結んだ紀元前1000年ごろから紀元後100年までの世代において、西方世界のあらゆる中心に広がって行った。

*サー・マーティン・ギルバート(1936~2015)はイギリスの歴史家であり、オックスフォードのマートンカレッジの名誉フェローであった。彼は20世紀のウィンストンチャーチルホロコーストを含むユダヤ人の歴史の作品など88冊の本の著者である

地図1 ローマ帝国時代のユダヤ人(100~300年)

(東方世界にはどうであったのか私には知見がないが、この方向にも広がって行ったらしいと信じられる証拠はある。特にバビロニアによる2回の『奴隷化のための強制連行』を思い出して欲しい) 

パレスチナから幾千人もの一の奴隷たちが、そのすでに準備された基地に向かって移動した。

私たちは、当時のユダヤ国家は女家長系統のレビ支族、すなわち私たちがそう呼んでいる一族により統治されていた神政国家であったことを思い出さなければならない。これは今日も同様である。彼らのみがラビ(ユダヤ教の律法学者)になることができ、ローマ帝国の世界の隅々に散らばった会衆たちを指導することができた。そして、そのローマ帝国の世界がラビたちの主要課題であった。

この地図に描かれている様なユダヤ人たちの拡散の結果、情報連絡のための組織が速やかに構築された。それは開かれた組織のようで、実は秘密の組織でもある。それらは広大な領土内で同時的に活動する。

私が読者に再度特に注意を促したいことは、キリスト教発祥初期のことは殆ど知られていないということであり、またヨーロッパや中東など様々な地域での信仰の違いを明確にするための、最初の会議がやっと召集されたのは、西暦200年ごろになってからということである。

私たちが持っている聖書は、それはすでに暗示されていることだが、実はそこに記述された年月が誰にも不確かなものであり、それが真実のものかどうかは、死海文書に運命を握られているかも知れないのである。その死海文書は発見以来イスラエルが手の中に隠している。イスラエルは、イスラエルの処置に同情的な多くのユダヤ人学者にさえ利用を拒絶しているにも拘らず、好き勝手に選び認めた作家にのみ、注意深く情報を流している。今や世界の人々は、この死海文書に虚偽や欺瞞が隠されているかどうかを知ることはできなくなっている。

キリスト紀元(西暦)と呼ばれ、そこから世界が年代を数えるようになった最初の1、2世紀の世界のイメージは、私たちに基本的には映画や流行本によってもたらされたものである。これらは多少は歴史的事実も含まれているであろうが、多分に空想的な作り話である。それらは、圧制者に鞭打たれて苦しむ人々や古代ローマの各都市のコロセウム(大円形劇場)での見せ物のイメージをもたらした。その民衆の娯楽としての見せ物には迫害されたキリスト教徒が登場し、火炙りや野獣に食われる死の恐怖に直面した。

この様なイメージをもたらした流行本などの中で、特に大普及した最初のものは英語で書かれたギボン*の『羅馬帝国衰亡史』であろう。それらはビクトリア女王<2> の時代に社会的地位を与えられた。それらの本の一組を目立つように並べない家は無いほどの普及ぶりであった。私は子供の時にこの本を読み、同じころに『ベン・ハー』などの映画を見た。古代戦車が疾走するこれらの映画は、キリスト教信仰と歴史とがすべて混ざった薬をさじで飲ませるようなものであった。

*エドワード・ギボン(Edward Gibbon, 1737~1794)は、イギリスの歴史家で、『ローマ帝国衰亡史』の著者である。ロンドン近郊のパットニー(Putney)で富裕ではないが比較的裕福な、ハンプシャーに領地を持っている家庭に生まれた。父は同名の政治家エドワード・ギボンで、エドワード以外にも5男1女をもうけたが、6人全員1歳未満で夭折している。1747年に母が死去した後、エドワードは伯母に育てられた。彼は子供時分、体が強くなかった。14歳になると父親は彼をオックスフォード大学に入れた。
オックスフォード大学在学中、神学の探究の果てにカトリックに改宗した。当時のイギリス社会ではカトリック信者は立身出世の道が無く、心配した父親によって大学を退学させられ、スイスのローザンヌに送られた。ここでプロテスタントに再改宗した。宗教遍歴の結果、宗教を冷めた目で見つめられるようになった。1788年王立協会フェロー選出。(wikiより)

 

これらのことは、ラビたちによる神政の下で、教会の指導者や秘書官たちが意図したものであったと私は確信している。ラビたちは、キリスト教徒たちが殉教者として飾られることになるような行為を、彼らの中で押し進めることによって、古代ローマの賑やかな見せ物の中でキリスト教徒が殉教者として飾られるのを促進した。

この様な活動は4世紀に入るや、民衆のキリスト教への改宗という大きなうねりを引き起こした。その改宗者の数は、コンスタンチヌス一世<3> が改宗せざるを得ないと諦めたほどの多さであった。民衆によって始められたこの大きなうねりは、4世紀の初めまでに完了した。以来、このようなローマ帝政のお陰でキリスト教徒への迫害は急に下火となっていった。

マサダの陥落からコンスタンチヌス一世の死の直前の改宗までの間に、パレスチナと中東ではペルシャ古代ギリシャの子孫たちとの戦争が続き、鍋は煮え立っていた。この古代ギリシャの子孫たちは後日ローマ帝国分裂後、コンスタンチノープル東ローマ帝国を形成した。マッケベディーの88頁にたいへん適切な言葉が載っている。

キリスト教は皇帝を勝ち取る前に帝国を勝ち取っていた』

私が言ったことを別の言葉で繰り返すと、子供のころ、確か小学6年生だったと思うが、私たちはこれらの本を読み映画を見て、キリスト教殉教者に同情するよう誘導されていた。これが私の改宗にも繋がって行ったのであろう。これらの事件が実際に起こっていたころ、ローマ帝国の各都市には大競技場があり、そこではキリスト教徒が火炙りにされ、また猛獣に喰わせることが見せ物になっていた。

私が特に言いたいのは、当時のキリスト教の指導者たちは、キリスト教徒たちが十分すぎるほど法を破り次から次へと殉教者になって行くのを、まったく平然と眺めていたということである。

(私が知る限り何の記録も残ってはいないが、キリスト教指導者たちはラビらと繋がっていたと私は信じている)

何年にも亘るこの殉教者たちの苦難は人々の気持ちを動かし、古代ローマの民衆の大半がキリスト教に改宗した。そしてついに大帝コンスタンチヌス一世は、必要に駆られて彼自身、死の直前に改宗するに至ったのである。

キリスト生誕から4世紀初めまでの時期を眺める時、私たちはユダヤ人奴隷たちが帝国のあらゆる地方に売られて行ったことを思い出さなければならない。彼らは妾から、執事、あらゆる種類の労働者、会計係、事務員、秘書、職工長、工場の管理者等々、社会のあらゆる層に広がっていた。またこれらの奴隷たちはローマのすべての職業の人々に雇われていたが、特に裕福で政治的権力を持つ人たちはより多くの奴隷を雇う可能性の高かったことを忘れてはならない。

この様に帝国中の生活に浸透することによって、パレスチナから連れてこられた人々の集団は巨大な権力を振るうようになった。彼らが以前から形成されていたユダヤ人たちの層構造の中に入り込んだことを考えれば、あらゆる場面でいかにごまかしがなされたかは、簡単に分かるであろう。

私が言いたいことを別の言葉で表現すると、キリストの死のころユダヤの国はすでに忘れ去られようとしており、そのため当時のラビの指導者たちはキリスト教を計画し、実在の人物を殺して彼を死後に神格化した*。これは歴史が証明していると私は信じている。そこで彼らは、百年ほどをかけてこの人物を新約聖書として文書化した。同じ百年ほどの間に彼らは改宗と教会の建設を始め、教会はついに形を現すに至った。彼らは、この初期のグループを殆どまたは全く管理していなかったが、もっと長期の計画を描いており、およそ千年間権力を保持するための始まりと捉えていたと思う。

燈照隅註* この記述はラルフ・エリスの「イエスはエデッサ王イザス」と言う説と呼応しないか?

 

歴史をこのような観点から読めば、私の考え方の妥当性が分かって頂けるものと信じる。また公平な心を持った人ならば、すなわち何年間も教え込まれた先入観で心が閉ざされている人でなければ、私の述べていることの可能性が非常に高いことを確信して頂けるものと信じる。

私たちはかねてから『ユダヤがすべてを動かしている』という噂や議論を聞き続けてきた。しかしこれらは長い歴史の中での何らかの論理的な前後関係に基づくものではなかった。それらはいつも

ロシア革命ボルシェビキたちを見よ』とか、

ウォール街を見よ』とか、最近では

ヒトラーを見よ、彼の「水晶の夜」と「死の収容所」を』
といった類である。

第4章で述べた様な、あの日の熱海での出来事があるまでは、これらの噂や議論はあれこれ考え合わせても何も納得できなかった。熱海以来、私は評判の良い作者の評価の高い本の収集を始め、私自身の経験した事件を考えるための基礎とした。この本ですでに参照したものは確かに評価すべきレベルにあるものであり、これから紹介するものもかなりのレベルか、そうでなくとも標準的レベルにあるものである。 

私が画布に描いてきた絵を見ている人々にとっての問題は、数百年から数千年のスパンで物事を見るのに殆ど慣れていないであろうということである。極めて長いスパンでものを考えることができると、画布に描かれた難解な歴史の絵は、隅から隅まで全く異なった様相を呈してくる。もし読者が私の言うような広いものの見方に慣れていないなら、どうか絵の全体が見えるように一度絵から離れて、自らの知識を使って断片的にではなく全体を広く眺めて頂きたい。私が読者にお願いしたいのはこの様なものの見方である。

 

【訳注】

 <1>  新約聖書 マタイによる福音書4.19より。

 <2>  ビクトリア女王:英国女王(在位1837~1901)。当時、英国は東インド会社によるインドの植民地化を強引に進めていた。1877年にインド帝国を成立させると、ビクトリア女王がインド国王を兼務した。当時の英国首相、ベンジャミン・ディズレーリ首相はユダヤ人であり、インド帝国の設立を強力に推進した。

 <3>  コンスタンチヌス一世(大帝):(在位306~337)。313年にミラノ勅令を発し、キリスト教を無条件に公認。324年、東部を支配していた共治帝リキニウスを破り全ローマ帝国唯一の皇帝となる。330年、自らの名前を冠した新首都コンスタンチノーブル(ビザンチウム、現イスタンブル)を開都。