国際秘密力06

第7章  イスラム教とその狙い  『そして彼は船に乗り込んだ・・・』

7世紀の始め、原野に新しい役者が登場した。彼の名はモハメド。またの名をマホメット、モハマド、モハメッド、その他欧州語風の様々な綴り方がある。しかしこの言葉はどの言語でも、特にアラビア語では彼は過去も現在も予言者として知られている。新しい世界的な宗教イスラム教は彼が創設したものとされている。

イスラム教は、ユダヤ人の生誕の地であるアラビア半島の砂漠地帯と同じ地域で始まり、ユダヤ人たちの教義から多くを借用した。キリスト教のバイブル(聖書)に相当するイスラム教の聖書コーラン(KORAN)は実際、全信者の行動を律する法律の集大成である。そしてその内容と話し方は神がモーゼに与えた十戒と同様のものであった。

この言い方は大幅に単純化しすぎているかもしれないが、イスラム教が余りにユダヤ教キリスト教に似ているという事実を強調する時に良く用いられる。その類似性は過去に疑念を生じさせた。この点に関して、この本を1995年1月にテキサス州サン・アントニオで書いている時に起きた出来事と結び付けて語りたい。

私はアラブの親しい友達から贈られた正確な英語訳のコーランを生活の浮き沈みの中で無くしてしまった。そのため、私の主張を証明するのに引用する上で、コーランを購入する必要があった。

そこで私はサン・アントニオで知っている最も大きい書店に行ってコーランを求めた。私は言われた通り宗教関係の陳列棚の所に行ったが、百種類ほどのバイブル(聖書)の後に一冊のコーランが確かに置いてあった。それを取り上げて見ると、大きなコーランという字の下に小さい字が書かれていた。繰り返すが、たいへん小さい字が書かれていて、それは解説または『解釈』あるいは他の似たような意味の言葉であった。

これは私の興味を引いた。アラー(イスラム教の神)の言葉には何の解説も解釈も必要ないのは確かだからである。私はその本の最初に小さく何やら説明してある部分に注目した結果、この唯一つ陳列されていたのは17世紀にヨーロッパのユダヤ人によって翻訳・印刷された版を基にしていることが分かった。

私は店員を見つけてこの話をした。すると、さも毎日同じことを尋ねられているといった風で、彼はこの大きな店の後ろの方にいた他の店員に向かって叫んだ。

『お客さんはこのユダヤ版は欲しくないそうだ。他の版はどこに置いてある?』

多少探した後で、宗教関係の陳列棚から遠く離れた所に何種類かのコーランが埋まっているのを見つけた。そこは社会学関係の陳列棚であった。これらの版は正確で、ただ内容が正確だという理由だけで離されて陳列されているのであった。この店の店主はユダヤ人だと思うが、彼は真実を求める普通の人が正確な版のある場所を簡単には見つけられない様にわざと隠しているように私には思えた。

(店のために付け加えておくと、ユダヤ版はペーパーバック(薄紙の表紙の簡易装丁の本)で17ドル、他の版は同じくペーパーバックで5~9ドルであったから、彼らは単に高いものを売りつけようとしただけかも知れない。しかし私はそれは疑わしいと思う) 

私に起きたこの出来事は、この本での主張を良く証明するものだったので、私は本を買うのを止めて替わりにこの事実を本に挿入することにした。

8世紀の末までにイスラム教は古代ペルシャおよび北アフリカ全土を手中にし、スペイン半島にもしっかり食い込んでいた。東ローマ帝国は大幅に縮小し、イタリアの海軍力によって現在のトルコ全土を含めて支配していた。古代ローマ帝国の首都ローマは名目だけを残して殆ど消え去り、西欧に散らばったキリスト教の小王国に支配されていた。東欧は大部分が未開のままで強い支配者はいなかった。ローマ帝国の落日後にヨーロッパを覆った中世の暗黒時代は続いていた。

イスラム教に関してはこれまでに一応述べたが、中東(または英国がいう様に近東)での今日の争乱は、多分にイスラム教に起因しているので、ここに繰り返して説明する。

ハメドが死んだ時彼の息子はイスラム教の最高統治者の位置を引き継いだが、古代ペルシャ帝国の大部分を構成する古代イランの人々は彼を認めなかった。そしてその時にイスラム世界の東部地方を統治する『カリフ』と呼ばれる地位が確立された。モハメドに従った人々は今日までスンニ派または正統派イスラム教徒と呼ばれ、また分離した人々は今日までシーア派、分派または分離イスラム教徒と呼ばれている。

(この両派は宗教的分裂にも拘わらず、イスラム教の利益のために協調を続けている。そのこともあってイスラム教はこれまで述べた様に拡大し、またこれ以降の数世紀も拡張を続けていった)

ここで気づくのは人々の生まれの違いである。彼らの先祖を探ると、シーア派イスラム教徒は古代イラン人に辿り着く。彼らは現在イラン、アフガニスタンパキスタンに住み、そして旧ソ連南部にも同じ位の人数が住んでいる。一方スンニ派イスラム教徒はサウジアラビア半島の砂漠部族に辿り着く。彼らは現在も、北アフリカを含めた昔と同じ地域に住んでいる。

以上はモハメドが死んだ直後から今日までの長い年月に起こった事を極端に簡略化したものであるが、基本的にはこれが今日の問題を形成している。彼らの状態は三千年前と何も変わっていないのである。同じ民族が今も昔と同じ民族と戦っている。

今日に至る長い歴史の中でユダヤ人たちが影響を及ぼした範囲・領域は一体どの位大きいのであろうか?  この点について読者は、前出したギルバートの22頁から取った地図2を見て欲しい。見ればお分かりの様に、この地図には広範囲に亘る海と陸の通路が示されており、それらは大陸を越え、また戦争中または好戦的な人種が占領する海峡を通過している。

このように広範囲に活動することは千年と言わずもっと前から可能であった。この地図はある百年間のことしか示していないが、それでもこれを見れば、長い間日常的にこれらの通路及びその脇道を通り、そして様々な種類の商品を運んでいたであろうと主張できる。

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地図2 ユダヤ交易商人たちの軌跡(800~900年)

そして実際それは第2次、第3次ディアスポラまで遡れるはずである。この事を証明するのはおそらく不可能であろうが、私はこれらのディアスポラによる奴隷たちがこれらの通路を旅したと信じている。彼らはこの通路に慣れ親しみ、道筋での各々の土地の指導者と馴染みとなり、そして分散した民族特有の連絡網と宗教的な結合を活かして、商売を独占していったはずである。

また、『通行の安全』を贈収賄により獲得するというのは、当時の彼らの習慣であった事を覚えて置いて欲しい。

本章には、前出したギルバートの23頁から取った地図3も添付した。本地図は注釈部分が特に興味深い。それを見ると、少なくとも200年までに多くのユダヤ人たちがペルシャから逃れて来て中国に落ち着いた。また700年までに『数多くのユダヤ人たちの小さな共同生活体が・・明らかに 設立されていた』

私は中国のことは殆ど何も知らない。

(世界のメディアを所有し支配しているユダヤが、もしこの本をすべて検閲して批評するとしたら、彼らはこの本の著者は全く何の知識も持っていないと言うであろうと、私は断言する)

 

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地図 3 中国におけるユダヤ人(1000~1932年)

しかし私は、中国と日本にユダヤが浸透しているという風説を何年も聞き続けている。これはほぼ三千年の昔に遡る。

(そして私は確かな情報源により、最近ロスチャイルド家の一員が九州の神社にユダヤ信仰を持ち込み、天照大神の先祖はユダヤの神エホバまたはヤーウェであったと発表しようとしていることを知っている)

私が健全で信頼し得ると思っている他の情報源によれば、古事記日本書紀は偽りで書き直されたものであるという。また、天照大神は女性ではなく男性であり、それはキリスト生誕から600年の間にすり替えられたという。それはすべて日本をユダヤ的な女家長社会に適合させようという企みであり、またキリスト教聖母マリアに模擬するというお決まりのものであったと私は思う。これらすべては非常に早い時代にユダヤに雇われた者たちによってなされたのであろう。

ギルバートに従えば、ユダヤ人たちはおそらく海洋や大陸の遠路の旅をしていた。もしそうであれば、それは非常に早い時期から行われていたはずであり、それに伴って神道の内部変化とその後の中国・日本への仏教伝来が引き起こされた可能性が非常に高い。これらはすべて私がIJC(国際ユダヤ幇)と呼ぶようになった集団の狡猾な共謀によるものであろう。

この様な話は限りなく広がっていき、彼らの功業は当然の結果として只一つの目的と一つの事象に収斂する。・・・世界の支配!!!