国際秘密力02

第1章  起 源  『始めに・・・<1>

今から約八千年前、今日アラビア半島と呼ばれている地域の、中央砂漠地帯のはるか上空から地上を見おろすことが出来たとしたら、私たちは凡そ100万Km四方[1]にわたる広大な砂の海があり、追い風を受けて砂丘がうねり、また大波となり、さらに潮流となって移動して行くのを見たであろう。そこには薮も、木も、潅木も、草の葉も見あたらない。また、湖も、川も、池も、水溜りも、およそ水らしいものは何も見えない。私たちの目に入るのは、月の景観に良く似た宇宙のどこかの場所のような、荒涼として生命の気配すらないまったくの砂漠である。

[1] 英原文はa million square kilometersであったと思われる。つまり、一千キロ四方(燈照隅による註)

私たちはそこに、砂漠の表面を絶え間なくさまよい歩く、アラビア遊牧民の小さな群れを何とか見つけられる。荷物を運ぶ動物たちを連れた彼らは、食料を求めて、また豊かな青葉と恵み深い水で砂漠の表面を覆ってくれるオアシスを求めて彷徨している。しかしそれは今日に至るまで殆ど見かけることも無いほど僅かである。

これらの集団は少人数で、殆どの場合ごく小さな家族単位で成り立っている。この大地がそれ以上の人数を養っていくことを許さない。これらの人々は、家族から一族へ、さらに部族へと発展して行く前、すなわち民族としての始まりを記録する前の状態である。私たちが見ているのは、いつの日かユダヤ人種と呼ばれるようになるもののごく初期のものである。

彼らはこの砂漠地帯から地中海沿岸に沿って、東、北そして北西へと散らばって行く。しかし、その本流はチグリス・ユーフラテス川がほぼ合流する現在のバクダッド周辺に向かっていた。私たちは旧約聖書の始めの章の時代に入ってきた。年代で言えばおおよそ紀元前4000年である。これらの人々は多くの種族を形成し始めた。そして学者たちが何世紀も費やしてきた論争を私たちは始めることになる。

彼らは『肥沃な三日月地帯』と呼ばれる地域に住んでおり、地中海が横たわる西方へとゆっくりと流れて行く。しかし、戦争や征服などに関係するような勢力はまだ見あたらない。

紀元前1500年ごろ、エジプトの先行文明の人たちが東方に押し寄せ、彼らを飲み込み、鎖で縛ってエジプトに連れ去った。彼らはそれより前に自発的にそこに移民していた人々と合流することになった。新たに彼らの主人となったのは、喜んで受け入れる気持ちを持った親切な人々で、彼らを『アピル』、現代英語的に発音するとヘブライ、と呼んだ。彼らは、先天的な能力と何事にも穿鑿(せんさく)好きな性格を持っていた。

その地に連れて来られた人々は奴隷として、当時進行中であった無数の石造建築工事に使役された。この人たちがエジプトに攫われたことを、第一次ディアスポラまたはディスパーサル(ユダヤの離散)と呼んでいる。良く覚えておいて欲しい。この強制的苦役とそれに由来する事件を通して、これらの人々は今後も度々ひどい目に合うであろうということを学んだのである。

旧約聖書によれば、紀元前1250年ごろモーゼは一族を自由へと導いた。私の研究結果による意見であるが、当時エジプトの国力は衰えてきており、ヘブライたちが去ることを止めるだけの兵力がなかったため、彼らは去ることができた。また東方の連合した敵国によって、エジプトがほぼ完全に包囲され、軍事的敗北を喫した直後にヘブライたちは去ったと考えられる。

ここで話の本筋から少しはずれて、これらの人たちの部族のことについてはじめに議論してみたい。これは多くの著者たちが相反する事実の泥沼の中で、ある結論を得るまでに人生を費やしてきた、長い間論争を呼んでいる分野である。

私の解釈では、聖書の第一章『出エジプト記』の中の13支族と呼ばれる人々はエジプトにいた。すなわちヤコブ、ルベル、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アセル、そして最後にヨセフ支族であるが、ヨセフ本人は第一次ディアスポラより以前に、彼の血族とともに彼自身の自由意志でエジプトに来ていた。

さらに聖書を次の節に読み進めていくと、ヨセフと彼のすべての血族たちは死に絶え、私たちにはヘブライの12支族だけが残されたことが分かる。彼らはモーゼによって無事に連れ出され、考えられる限りのシナイ砂漠の全域を放浪した後に、パレスチナに辿り着いた。その途中で彼らは十戒を授けられる。

モーゼは約束された土地のまさにその門の所で死ぬが、彼に率いられた人々はパレスチナの中の地中海の近くに落ち着くために、そのまま進んだ。この放浪期間の長さは私たちの目的には重要でないので聖書学者に任せたいが、私の最も良い計算では約7~8年続いたようだ。

彼らはアモライトたちの領地の中で最も弱いギリードを通ってパレスチナに入り、地中海沿岸に住む人々の中で、最も弱小の人々から土地を強奪した。聖書によれば、彼らの神は彼らが占拠した土地の強奪を彼らに命じた。ここで私は、まさにその同じ神が、彼らによって追い出され奴隷化された人々には何の配慮もしていないことを指摘しておきたい。また、追い出され奴隷化された人々に関して彼らの神が言った次の言葉は、その神の性格を十二分に示すものであることも指摘しておきたい。

『ここはそうするには絶好の場所だ』

彼らの神が過酷な神であるのは、初期の時代に過ごした土地の不毛さ、彼らの奴隷化、そしてエジプトからの『逃亡』のために放浪した砂漠地帯の厳しさなどからもたらされた生活条件の過酷さ、が原因である。彼らは今日に至るまで、愛情に満ちた神、包容力のある神、思いやりのある神を持ったことが無い。彼らは逆に恨み深い神、怒りに満ちた神、邪悪な神を持ち、それを誇りにしている!!!

私は、人々の性格は、彼らが崇拝するために選んだ神または神々に反映されると信じている。そしてヘブライたちの場合は世界で最も過酷な神を持った。そしてこの後の頁で暴かれ、解明されるであろう彼らの行動から証明されるように、この世界で最も過酷な神を持っている彼らは、世界で最も過酷な人々である。

長期間に亘る恐ろしい彼らの懲罰と、他人に苦しみを課したいという彼らの欲望は、その性格からくるものであろう。それはエデンの園でアダムとイヴをして神に背かせ、リンゴを盗み食べさせた。他の民族でこのような歴史の始まりを持つものはいない。

 

【訳注】

 <1> 旧約聖書 創世記1.1より。

 

第2章  パレスチナにて   『そして時が過ぎて・・・<2>

聖書原本(The Bible)と旧約聖書(Old Testament)の組み合わせよりも、むしろ1969年に『ユダヤ歴史地図』の初版を出したマルチン・ギルバート*の示すところによれば、その当時パレスチナにはヘブライ人の12支族が落ち着いていた。すなわち、アセル、ナフタリ、ゼブルン、イッサカル、マナセ、ガド、エフライム、ダン、ルベン、シメオン、ベニヤミン、ユダの各支族である。

*サー・マーティン・ギルバート(1936~2015)はイギリスの歴史家であり、オックスフォードのマートンカレッジの名誉フェローであった。彼は20世紀のウィンストンチャーチルホロコーストを含むユダヤ人の歴史の作品など88冊の本の著者であった。

この支族名のリストは前章と少し違っている。私はドーセット出版社(Dorcet Press)発行の1985年度版を使っているが、その3頁の地図中に聖書原本から引用編集した記事が掲載されている。これらを紹介することは興味深いと思われる。

『汝らはそなたたちより前のすべての住民たちを追い払わねばならない...そして汝らは住民たちから土地を奪い取りその中に住まなければならない...そして汝らはそなたたちの家族への相続のためにその土地を細かく分割しなければならない 神からユダヤたちへ,No.33,52~54』(原文のまま)。

その地図は『約束の地(パレスチナ)』への入場を示している。またこれらすべては、すでにそこに住んでいて追い出され奴隷化された人々、に関して前章で述べた点を立証している。

彼らはかってその地で隣接する人々たちと戦っていたが、世界の海を彼らの船でさまよっていた海の民、フェニキア人とは同盟していた。私は何十年も前に人類学の一般書で読んだフェニキア人の航海、すなわち地中海すべて、そしてアメリカ大陸にさえ、さらにはエジプト人たちとともに希望峰を回ってインド・中国へ、そして紀元前1000年以上前に日本にまで航海したという伝説、を思い出す。

私はここで若い時の記憶をたどるのに手間取るつもりはないが、初期の時代の航海について、トール・ヘイエルダールの『コン・チキ』の航海、ほか同様の本や作者について少し思い出して見たいと思う。もしこれらの論議を呼んでいる航海が本当に行われていたとすると、第二次ディアスポラまたはディスパーサル(ユダヤの離散)の前に、ヘブライ人たちは世界とその地理に関する知識を得ていたことになる。

フェニキア人との同盟は基本的には軍事的なもので、アッシリア帝国に対抗するためのものであった。それは紀元前1000年の少し前に取り交わされた。

紀元前990年ごろに、ペリシテ人勢力は崩壊した。そして私の持っているコリン・マッケベディ-の『ペンギン古代歴史地図』1980年版の42頁には次のような記述が載っている。

『これより後、海ではペリシテ人のことは何も聞かれなくなった。そして陸では紀元前975年に、彼らはダヴィデに率いられたヘブライ人たちの攻撃に屈服した。ダヴィデはまた、エドム、アモン、モアブそしてダマスカスに対し、彼がヘブライ王国の大君主であると認めさせた。しかしこの帝国は彼の息子とその後継者であるソロモン(紀元前960~925)の時代にしか存在しなかった。

その後属国は反乱を起こし、ヘブライ王国は二つの王国、ユダ王国イスラエル王国に分裂した。ユダ王国ダヴィデの王国の首都エルサレムより多少大きい地域を占めた。イスラエル王国エルサレムを除くヘブライ王国領地の大部分の地域を占めたが、サマリアの建設(紀元前880年)までは適当な首都を持っていなかった。分裂するように彼らは運命づけられていた』 

マッケベディーはさらに続けて、紀元前928年にエルサレムエジプト人により征服、略奪され、彼らが去った後、『ダマスカスはユダ王国イスラエル王国の王を臣下に従えた』ことを説明している。 

20世紀になって実際に彼らが国を建設した時に、彼らが自分たちのものだと要求した土地に関して、ヘブライ人たちが何かしら国家の様相を呈していた期間は、私が見つけられる限りこの時が最長である。それは総計で47年になる。

最初に住んでいた住人から奪い取った領地を追い出されてから約三千年後に戻って来て、彼らがかって実際に保有していた以上の土地を生誕の地として要求する。このような理に反することを他の人々はどうしたらできるだろうか。

これに関して現代では様々な法的原則があり、表現は異なるが『懈怠(けたい、怠慢)』、『陳腐』、『上訴期限』などとして知られている。

これらは専門的意味は多少異なるものの、すべて同じことを意味している。実在する資産(土地)の損失が生じた時にその返還を要求する場合、ある期間内でしか要求できないということである。通常その期間は25年が妥当と見られており、殆どの法令はこの線で作られており、また殆どの公平な原則(これらは絶対的な最長期間として100年間まで延長することができるとしている)についても同様である。

私たちが注意しないではいられないこれらの人々は、彼らが今日『イスラエル』であると主張している地域から後日去った。去った後19世紀まで、戻る意図もなく約二千年もの間離れていたのである。ここでイスラエル王国と呼ばれている土地に落ち着き占拠していたのは、攫(さら)われて永久に失われたとされている10支族であったことも注目されてしかるべきである。

不完全な権利の下に建設された国を、歴史の中に消えた人々にちなんで命名するのも奇妙なことである。まして失われた人々の子孫であるはずのない彼らが、失われたと主張されているまさにその領地を要求している。これらのすべておよびそれ以上のことが以下の記述の中で示されていくであろうが、今はとりあえず話を元に戻したい。

前に引用したコリン・マッケベディーの本の46頁から再び引用する。

『チグラトペレセル三世はアッシリア帝国の国境を前進させた・・・紀元前729年にバビロニアを、紀元前732年にダマスカスを併合した・・・イスラエル王国が貢ぎ物を拒んだ時、イスラエル王国の歴史はサルゴン二世(BC721~BC705)によって突然幕を閉じた。

サルゴン二世は統治の最初の年にサマリアイスラエル王国の首都)を略奪し、ヘブライ人の王国の北部を形成していた10支族を追放した・・・』

 

これが、第二次ディアスポラまたはディスパーサル(ユダヤの離散)である。 

 

マッケベディーを読んだ限りでは、エルサレムに残った支族はユダとベニヤミンである。しかし、福音伝道者ガーナー・テッド・アームストロングの父、ハーバート・W・アームストロングの著書『予言における合衆国と英国』(1980年版、神の全世界教会)によれば、ユダ支族のみがエルサレムに残されたことになり、第三次ディアスポラユダヤの離散)があったことになる。

12支族を含む話については、私はあらゆる観点および宗教・信仰面で難渋してきたが、この泥沼を避けるためにも長い話を短く済ませたい。私たちの目的のためには、アームストロングの著書の71頁を紹介することで十分である。

『130年以上後に(著者註:おおよそ紀元前588年)、バビロニアネブカドネザル二世はパレスチナに唯一残っていたユダヤ人であるユダ支族を捕らえ、バビロニアに連れ去った。このユダ支族の捕縛の時点で、イスラエル王国のどの支族もパレスチナには住んでいなかった。

ユダ支族が捕らえ移された70年後に、神殿再建と礼拝復活のためにパレスチナに帰還した(著者註:著者の計算ではそれはおおよそ紀元前518年)のは、ユダ支族の一族すべてであった。---全部ユダヤ人であり、ネブカドネザル二世が連れ去った者たちの一族すべてであった。

「彼らはエルサレムや他のユダの町々へ帰還した(エズラ記2.1)」 

ベニヤミン支族とレビ支族の残りはユダ支族の一部を形成していたが、彼らを含むユダ支族のみがその時に帰還した。

「こうして、ユダ支族とベニヤミン支族の指導者たちと、祭司やレビ人たちも、立ち上がった(エズラ記1.5)」』

このことからも解るように、私たちが『イスラエル』をエルサレムに結び付け限定するとしたら、それはゆがんだ論理による時のみである。正しい論理によれば、イスラエルエルサレムと何の関係もない。

ここまでに『バビロニア』への二度の『ディアスポラユダヤ離散)』が示されたことに注意して欲しい。二つの別個のディアスポラが起こった。一つは紀元前700年に起こった失われた10支族に関するもので、もう一つは紀元前500年にバビロニアの別々の場所に分かれて連れ去られたものである。多くの学者は3回のディアスポラを語っているが、後で簡単に述べるローマの統治下での1回を加えて、実際には4回のディアスポラがあった。

おそらく別の本か、記事か、スピーチでのことになるであろうが、後日の議論のために少し記しておく。マッケベディーの48頁に次のような記述がある。

『ガンジス河上流のヒンズー人の領土で仏陀が説教を始めたのは、おそらく7世紀である。(著者註:これは紀元前のことである) 

また、ゾロアスターは同じ世紀の末までオクサス地方<3> に住んでいたと考えられる』

私はこの仏陀の説教開始の年代記述に満足しなかったため、手持ちのウェブスター第7版新大学課程辞書の伝記部門を引いて、仏陀の生年が『紀元前563年?』、死亡が『紀元前483年』であることを見つけた。私の妻は、同様の日本の文献から次のような訳をしてくれた。

仏陀は紀元前485年または487年の2月15日に80才で死亡』

同じウェブスターの辞書にはゾロアスターについても、次のような記述があった。

『ツアラトゥストラ<4>-紀元前6世紀。古代ペルシャ宗教の始祖』

連れ去られたヘブライ人たちはこの二つの宗教のうちの一つまたはおそらく両方に、そしておそらく他の多くの宗教にまで何かしら関係していたのではないだろうか? 彼らはまさにその時に、その場所に確実にいたのだ。

【訳注】

 <2>  不詳

 <3>  オクサス地方:オクサス(川)はアムダリア(川)の古名。アムダリア川はアフガニスタンのヒンズークシ山脈に源を発し、北西方アラル海に注ぐ川。

 <4>  ツアラトゥストラ:ゾロアスターの古イラン名。