国際秘密力07

■ 第8章  カザール人     『これらの土地へ・・・』

この本のために調査を始めるまで、私は世界の多くの人々と同様旧ソ連に含まれた地域の歴史については殆ど知見が無かった。さらに旧ソ連の南方の地域についてはさらに僅かしか知らなかった。そして前出のギルバートの地図24、25頁を見つけた時は全く驚かされた。それらの地図は地図4、地図5として本書に挿入してあるので、読者はしばらく目を通して頂きたい。

 

f:id:caritaspes:20220401131004p:plain

地図 4 カザールユダヤ王国その1

私の情報源によれば、黒海の北方沿岸からカスピ海の北方沿岸に広がる広大な地域には、放牧を基本的な生活様式として農業も行うモンゴル種の人々が住んでいた。紀元前800年ごろの第2次ディアスポラ発生後早々に失われたヘブライの10支族は、これらの人々と出会い何世紀にも亘って混ぜ合わさったと私は思う。             

とにかく、700年ごろ彼らの統治者はユダヤ教を彼らの宗教として受け入れ、民衆もそれに従って改宗した。IJCにおいて指導者層を形成しているパレスチナ出身のユダヤ人と、旧ソ連・ロシアのユダヤ人とは異なった起源を持っていたという事は、私には意外な発見であった。この国ごとの改宗は、パレスチナを出発したユダヤ人世界の生き残りの人々に受け入れられた。しかしそれ以降の歴史の中で完全な地位を与えられた訳ではなかった。その地位は、紀元前6世紀の第3次ディアスポラにおいてネブカドネザル二世によってバビロンに連れて行かれた、その時までパレスチナにいたユダヤ一族に常に与えられている。

読者は話をもっと進めたいであろうが、少しだけ待ってもらって地図4の右上の枠の中に含まれている言葉について論じてみたいと思う。この枠内に記述されているように、ユダヤ教に改宗したカザール国の法廷システムがユダヤ教キリスト教イスラム教の三つの宗教から各々選ばれた裁判官により成り立っていたとすると、その事実はまさに三つの宗教が同一の根元により支配されていたということを証明していると私には思える。支配していた同一の根元とはIJC以外にあり得ない。

 

f:id:caritaspes:20220407173748p:plain

地図 5 カザールユダヤ王国その2

さらにこれらの支配は、ユダヤ教化を強力に進めていたブラン王とオバディア王の存命期間より遥かに長く続いたという事実は、さらなる証明になると思う。実際それは約300年続いていた。これらは、その時代、その場所にいた王家は、その由緒ある家系ゆえにその統治を遥かに長く連続させ得たことを示している。

私がこれまでずっと述べてきたこの『世界管理』は何世紀にも亘って実行し続けられてきたのだが、それを見てみると、ヨーロッパは後で利用するために眠らされており、イスラムはこれから占有しようとする地域(シーア派になったイラン人たちの土地は占有できないで残らざるを得ないが)での付帯的な戦利品にされようとしていた。そしてカザール国は多くの理由によりたいへん重要な意味を持つ国家として保持され受け取られていた。

多くの理由のうちの一つは当然ながら、異なる血を持つ民族全体を当時存在していたシステムの下で、公然と統治するというテストを行うことであった。

もう一つの理由は、中国や日本のようにパレスチナから一層遠くにある土地にまでユダヤ教を広めようということであった。さらにもう一つの理由は、IJCはイスラムシーア派の人々を羊のように檻に閉じ込めようとしていたので、シーア派の人々が住む地域を他の侵入者から守るための緩衝にしようというものであった。

また圧倒的に重要な理由として、ヨーロッパ全体、中東、アフリカ(当時のアフリカ内部の宗教は殆ど知られていなかったが)をカザール東方の未知の民族の貪欲な襲撃から守るための、緩衝にしようということがあった。カザール東方の民族は当時世界で最優秀の騎兵、弓手であり、小型のモンゴル馬と共に広大で人影もまばらな大草原地帯を放浪し、世界の桧舞台に登場する機会を窺っていた。

そうこうしている間に、まどろんでいた西欧で比較的小さなスケールの別の役者が登場した。ピピンの息子のシャ-ルマーニュが771年にフランクの王となり、生涯を費やしてフランク王国を現在のフランスとほぼ同様の境界線を持つまでに作り上げた。彼はそれにイタリアの半分を加え、さらに二つの意味のある功績を残した。すなわち、 

(1)最終的には、スペインを通してアラブの猛襲を封じ込めた。
(2)彼の支配地を『神聖ローマ帝国』と呼んで『ローマ帝国』の呼称を復活させ、西欧の統治者たちに法王が加冠することによってキリスト教に従属させた。

東方では、今日バルカン諸国<16> として知られるようになる地域と東欧がイスラム教の手中にあった。しかしイスラム教としては気の抜けた軍隊配置しかしておらず、彼らの西方への進軍はウィーン近くで止まっていた。そして800年から1000年にかけてヨーロッパは沈滞を続けていた。

沈滞の中で一つの例外は600年から1200年にかけて西欧を中心に繁栄した中世の修道院であった。それらは当時の学芸家たちの安全な隠れ場所として奉仕した。また手書きの装飾本が作られたが、これらの本は今日では再生できない色や絵で丹念に飾られていた。こられの本の芸術的技巧については記述は不要で、もし読者がどこかの展示場で見られる機会があれば一見の価値があることだけを申し上げたい。

ここで歴史についてごく小さな注釈を加えておきたいと思う。この年代の調査をしている時、私はスペインのイスラム教徒の南イタリアへの拡張(ベネヴェント公国の領土として)と、他のイスラム集団の北アフリカからシチリア島の現アグリジェント(シチリア島南西部)付近およびクレタ島全部への進出が、始めて心の中で結び付いた。これは後ほどその年代の記述で詳しく取り扱うが、17世紀、18世紀および19世紀に至るまでのこれらの地域とスペインとの関係を良く説明する。それからの事が大きな歴史の成行にいかに篏め込まれるかを注意して頂きたいために、ここで述べておく。

この時期スカンジナビア地方では、スウェーデン人がロシア西部で猛威を奮い征服に熱中していた。彼らはキエフ公国と、その北方ラドガ湖と現サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)付近のノヴゴロド王国を確立した。

ノルウェーにいて当時スカンジナビア人と呼ばれていた彼らの兄弟民族はスコットランド北部を掌握し、さらに北アメリカにまで居留地を設けたことが多くの人によって同意されている。

1000年までにドイツ帝国<17> は確立され、フランスとドイツの国境はほぼ今日と同じものになった。ドイツ帝国には『サクソン人』と呼ばれる人々が集まっており、北海からローマまでを支配した。ポーランドと呼ばれた領土は今日のドイツ・ポーランド国境とほぼ同じ西方の国境を形成した。

前出したマッケベディーの中世地図54頁から再び引用する。

『この期間ビザンツ帝国は西ブルガリア帝国を消滅させて(1018年)セルビア人を従属させた。またクリミアを征服し(1016年)、ヴァスプラカンアルメニア王国(小アルメニア)を併合(1212年)した。

ライバルのイスラム教に比較して多分に動脈硬化を起こしていたキリスト教国家としては、これらは立派な業績のリストであった』

(先に述べたカザール国が存続した300年間に注目して欲しいのと、旧ユーゴスラビアでの今日の悲惨な戦争における長期間に亘る全面的な憎悪を紹介するため、特に引用した)
800年から1066年に至るまで英国には、世界の舞台には殆ど上がることのない多くの交戦中の王国が存在し、彼ら内部の問題処理に精一杯の状態であった。そしてノルマン人による英国征服の『真ん中の年』という、英国の歴史上最大の瞬間を記述する作家たちに材料を供給する寸前にあった。

その最後の年、ノルマンジー公ウィリアムは出帆し英仏海峡を横切り、ヘーチングスの戦いにおいて彼自身のために英国(イングランド)を奪取することに成功した。ウェールズ地方獲得にはしばらく時間がかかり、スコットランドは何世紀も征服されないで残った。今日やっと平和が訪れてはいるものの、アイルランド島北部すなわちアルスター地方<18> の帰属を巡って、幾世紀も重苦しい議論がなされているところである。

後章で示されるが、ユダヤの金貸したちはウィリアムの征服航海に融資した。IJCはその征服の扇動者とは言えないまでも、征服からの利得者であったと間違いなく断言できる。それはカザール国が崩壊したので、新しく改良された基地を確立することが必要であったためであると私は信じている。


【訳注】

 

 <16>  バルカン諸国:ブルガリアギリシャ、ユーゴ、アルバニア、トルコの一部を指す。

 <17>  ドイツ帝国神聖ローマ帝国のこと。

 <18>  アルスター地方:北アイルランドアイルランド共和国の一部。