国際秘密力10

第11章  新世界

         『そこで、一同は舟に乗って人里離れた所へ行った・・・<12>

 

14世紀の中ごろ、元帝国は崩壊し、西洋ではタマレイン(Tamerlane)の名で知られているチムールが、東欧、バルカン、そしてアジアの一部を掌握するために立ち上がった。彼の征服に関して好奇心をそそられるのは、彼が本拠とした地方・国は、一世紀弱の後にオスマン宮廷(Porte)、 別名オスマン朝スルタン(Ottoman Sultanate)<13>の領土となる地域を基本としていたことである。

オスマン朝スルタンが征服した時、征服前の境界線の多くはそのまま残された。そして最も興味深いのは、征服された国々のインフラ(施設や建物など)は全く手を付けられずそのまま残されたということである。かなりの広さと規模でこの様な事態が発生していることを私が知ったのはこれが最初であった。そして私は、彼はおそらくIJCにより外部からの援助・助言を受けていたのではないかと疑っている。IJCは征服した州・地方・国々の管理に関して長い経験を有していた。

また私は、彼はIJCが採用していた方針を、そうと知りつつ継承したのではないかと疑っている。その真相は私たちには知らされないであろうが、私はここにある行動様式が出現したのを見る。その行動様式とは、設立当初から占拠されている国家において良く起こり得るものであり、アメリカ合衆国はその事例であると信じている。またその行動様式は上層部から占拠された従属国家にも起こり得るもので、マッカーサーと彼のGHQ到着後の日本はその事例であると信じている。

そうこうしている間、14世紀、15世紀では絶え間のない戦争が続いた。ヨーロッパ全域、特にイタリア、ドイツ、フランス、イギリスの間で。この時代の一つの帰結としては、フランス・アヴィニョン教皇ローマ法王の併設があった。これは醜悪な性的行動、免罪符の販売、ローマ法王教書の販売などの当然の結果として起こった。

もう一つの帰結は、ブルゴーニュ人とフランドル<14> の女子相続人との結婚である。この件は、ヨーロッパの王室において、家長制(父権制)と同等またはそれ以上に女家長制(母権制)が継承されている可能性について私に興味を抱かせる。私たちが信頼を置くように育てられたのは女家長制ではなく、家長制である。王室における女家長制の継承は、そこに陰謀の可能性があることを読者は認めなければならない。

オスマン帝国は1453年にコンスタンチノーブルを陥れてビザンチン帝国を滅ぼし、基盤を確実なものとして何世紀にも亘って支配を続けた。またオスマン帝国は附帯的領土を併合することによって東方交易ルートの絶対的な支配権を獲得した。このことは、計画されたかされないかは別として、またギルバートの地図6に示されるようなユダヤ追放による刺激を受けて、新大陸発見の航海を推進させた。

 

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地図6 ユダヤ人放逐(1000~1500年)

 

現代考古学が示すように、人類は何世紀と言わず、数千年にも亘って大洋を航海してきた。トール・ヘイエルダール南アメリカから南太平洋諸島へのアメリカインディアンの航海、およびアフリカから北アメリカへのエジプト人の航海を証明した。また彼と他の人々は、インドから東洋・北欧への航路、およびスカンジナビアから北アメリカへの航路を証明した。11世紀終了直前に、アイルランドの修道士ブレンダンがヨーロッパからアメリカに旅したことは良く知られている。

遥か古代の時代にこの様な旅行が数多く行われたことが示されており、今日の米国TVでは中国のジャンク(平底帆船)に関するドキュメンタリー番組が盛んである。中国のジャンクは、中国とカリフォルニア・メキシコ間の太平洋を往復し、彼らの錨石を海岸沖の水中に残していった。

秀吉は1500年までに*、日本からアフリカ南端を回って現在のリベリアの近く、ヨーロッパ人が『黄金海岸』と呼んでいる場所に向けて、沿岸航行の活動的な交易船を出発させた。その時期、我々の歴史に残る冒険家たちは、まだヨーロッパから少しずつ動き始めたばかりであった。

*秀吉は16世紀の人で出生前。室町幕府と細川・大内などによる日明貿易の中での出来事か?
 ここでウェスト博士が指摘する交易船の活動については不明(燈照隅註)

(いわゆる歴史家と称する人の中で少なからぬ人々は、ある事象が実際に発生したと承認される前に、自分こそその事象の証人であると言いたがっていたように私には思われる)

ポルトガルの王子は海岸線をわずかばかり南に下って航海者ヘンリーと呼ばれていたが、彼は1480年代の後半に、アフリカ南端付近までの航海にバルトロメオ・ディアスを送り出した。これは偉大な功績であるとして、ヨーロッパ中で喝采を受けた。特に世界の果てからこぼれ落ちないで、奇跡的な航海を成し遂げたという理由で。

これらが進行中の間に、アラゴンの王子・フェルナンドと、カスティリャの王女・イサベラはムーア人<15> を征服し、キリスト教のためにスペインを勝ち取り、またギルバートの地図6に示すようにユダヤ人たちを放逐した。

皮肉なのはクリストファー・コロンブスであった。彼は表立ったユダヤ人ではなかったとしても、『マラノ(改宗ユダヤ人)』または隠れユダヤであった。コロンブスは王子や王女らに、スペインの隆盛には東洋の富が必要であり、西方への航海によって彼は彼らのためにこれらの富を獲得できると説き、納得させた。

キリスト教徒の君主としてだけでなく、裕福になるのも悪くはないと考えた彼らは、ついに3隻の船と、そして悲しみと言い表せない苦しみを供給した。それは、新世界にコロンブスが到着することにより始まった、アメリカ原住民たちの嘆き悲しみと筆舌に尽くし難い苦悶であった。

ヴァスコ・ダ・ガマは素早く後を追い、ユダヤ人たちには何世紀も前から知られていた太平洋を『発見』した。マゼランはパナマ地峡を迂回し、記録上では最初の完全な世界一周航海を行った。

エルナン・コルテスはメキシコに到着し、メキシコ市征服のための供給基地として、1520年までにベラ・クルスの町を設立した。ほぼ同時期にピサロはペルーのインカ帝国を破壊した。スペインでは異端審問所<16> が始まっており、異端者、特に改宗しようとしなかったすべてのユダヤ人たちの足下で、炎が燃え広がった。

キリスト教に対するこの様な激情の嵐は、相互に競い合う様々な修道結社群の修道士たちという形でメキシコにも船積みされた。彼らは、大砲・馬・銃・そして特に聖十字架形をした剣を携えた軍隊を背景に、『異教徒』の改宗を始めた。この様な事態を導いていったのは、一方はスペインの多くの『マラノ』であり、もう一方は自らの宗教を守るために雄々しく熱狂的に戦ったインディアンたちであった。

当時のインディアンたちの宗教がどの様なものであったか、私は知らない。それを明らかにするのは極めて難しいであろう。何故なら、彼ら『野蛮な』インディアンたちによって大切に保たれていた記録類は、彼らの寺院、建物、そして崇拝用偶像とともに悉く破壊されてしまったからである。偶像のごく一部は征服者の目から逃れてかろうじて残った。メキシコ中央の人里離れた山間の村では、チチメカ・インディアン(アステカの後身)の残部が今日まで生き延び、居住している。私は、私がそこで発見したものが何であるかを知っている。

私はメキシコに神社を建て、神道儀式ができる施設を作る計画を持っていた。そして土地を手に入れたので、神道家たちの神殿造りの基礎工事に取りかかるため、地方のインディアンによる地鎮祭を行うことにした。それは昭和の最後の年であり、その当日には約50人のインディアンたちが民族衣装を着て集まった。

また横笛とドラムからなる小さな楽団が一緒におり、その楽器は各々異なる大きさ、音の高さ、音色を持っていた。続いて行われる儀式の時に床または舞台として使われるはずの広場があり、彼らはその片側に座っていた。一人のリーダーが前に出て来ると他の3人の踊り手が彼に従い、伴奏音楽のリズムに合わせて体を揺すりながら詠唱を始めた。

私も神道の日本人である妻もそれまでインディアンの儀式に出席したことは無かったが、その音楽にはなつかしい響きがあった。それから他の踊り手たちは、先ほどの4人の男たちを一列の中央に入れ、同じ人数の二列となって勢揃いし、詠唱と踊りに参加した。次の式次第に私は特別の関心を引かれた。列の中央にいた主たる4人の踊り手または『神官たち』は各々、細長い棒または、その地方特有のピルルという木から切った葉付きの大枝を携えた。 

彼らは、40人の『合唱団』と一緒に詠唱しながら東西南北の四方向に踊って行った。彼らを支える合唱団も、東西南北の各方向を拝むように場所を変えていった。私が見ていたものが何なのかが、ようやく次第に明らかになっていった。それは、私が何年も前に伊勢で見たのと殆ど正確に瓜二つの、神道の儀式であった                       

彼らが神へのお供え物を取り扱う式次第の部分に来た時、私は倒れるかと思うほど驚いた。そして妻は威に打たれていた。それはお供え物がその地方の産物となっているだけで、全く神道の儀式そのものであったからである。その儀式は日本から来た以外にあり得ず、お供え物は日本で使用されていたであろう品物の代用品であったと私は信じている。

お米の代わりに穂からほぐした穀類を使い、野菜の代わりにチリ胡椒を使っていた。チリ胡椒は彼らにとって必須の調味料であり、食料である。また、お酒の代わりにプルケ。プルケは彼らがマゲイ(リュウゼツラン)と呼んでいるサボテン科の植物を醸造して作る、ビールまたはワイン様のものである。果物の代わりにツーナ別名ペアアプル。これはメキシコ原産サボテン科のウチワサボテンの実である。儀式を締めくくるにあたり、彼らは携えていたピルルの大枝を祭壇に供えた。

全体及び個々の点で、この儀式は神道の奉納の儀と瓜二つであった。それらは共に、熟してすぐに供せられる旬のものを使っていた。私は、それは何世紀または数千年前に日本の船乗りたちによってメキシコに、そしてこれらのインディアンたちに伝えられたものに違いないと確信している。

『設立』され、公式に『組織化』され、『認定』された世界の宗教の『布教』と言われるものは、世界の人々の上に破壊を解き放った。私はインディアンたちの儀式を見学し、この『布教』による破壊を考えた後では、これらの宗教またはその同類と、これ以上共に歩みたいとは思わなかった。

何年か前に熱海でIJCおよびキリスト教に関する啓示を受けた私は、スペインの異端審判について、地方住民による憎悪が自然にむき出しにされたというよりは、IJCの野望と目的を促進させるために易々としてやられたのであろう、と考えるのに何の手間も取らなかった。

振り返って見るとユダヤ人たちの歴史の中では、小ユダヤ主義のユダヤ人またはIJCに関係しないユダヤ人を除けば、次から次へと似た様なことが起こってきた。カザール人は主要な例である。またユダヤ人たちがユダヤ人たちをガスや炎の中に供給した、アウシュヴィッツの窯も同様に主要な例である。

ギルバートの地図7に示す様に、それらの窯はすべてドイツの外側東方の適当な地にあった。IJCとその雇われ人たちは殆ど常に無事であり、ユダヤ人たちに向けられた憎悪の炎の中で消費させられたユダヤ人種またはユダヤ教の人々の数も僅かであった。その憎悪の炎は、IJCとその会員たちの、前に述べた強欲私生児(Greedy-Bastards)としての行為が原因なのである。

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地図 7 強制収容所(1939~1945年)

                                     

ローマのカトリック教会自体は、歴史を通して周期的にIJCではない人々が統治する期間があった。後に述べるアヴィニョン教皇はこのような時期の例であって、当時ユダヤ人たちはローマの外に移動していた。

争乱という授業の中で彼らが学んだことは、彼らの世界支配、すなわちカザール人(カザーリア、カザリスタン、現在はカザクスタンと呼ばれている)の時代という最終ゴールに向けての大きな前進を可能とした。ヤン・フス<17>、マルチン・ルター<18>そして各宗教的分派はヨーロッパを引き裂き、その分裂はヘンリー八世の統治下の英国教会をそぎ割ったが、この様なことはIJCが計画したのではないとしても、今までの秩序を破壊しその混沌の遺物の上に新たに構築するという唯一の目的のために推進され、資金援助されたものであると、私は信じている。

カザール人がこの様な道を走り抜け、私たちの歴史を支配していることを知っているいま、それは私の信念である。スペインの異端審問によるユダヤ人の迫害はIJCの陰謀のもう一つの例といって良いであろう。彼らはそれが無垢な人々にどんな影響を与えるかなどお構いなしに事を進め、望んでいた結果を引き出した。この場合、それは新世界の発見と植民であった。

この時代以降の話を続けていくが、これまでの教訓を良く心に刻み込んでおいて欲しい。というのは、この後の数世紀の混沌が今日の支配をもたらしたからである。私たちの話は新世界の発見の時代を過ぎ、私たち自身の時代に近づいてきた。現代に近付くにつれ、人々の記憶はより生々しくなっていく。

 

【訳注】

 <12>  新約聖書 マルコによる福音書6.32より。

 <13>  スルタン:イスラム世界の支配者。イスラム社会(スンニ派)では、元来カリフが政教両権を有する最高権威者であったが、アッバース朝時代にカリフの権力が衰えるにつれて、教権と俗権が分離し、スルタンが世俗的支配権を有するようになった。後に、オスマン・トルコのスルタン、セリム一世は、アッバース朝最後のカリフからカリフの称号を取り上げ、スルタン・カリフ制が成立した。  

 <14>  フランドル:中世西欧にあった国。現在のベルギー西部、フランス北部、オランダ南西部を含む地域。

 <15>  ムーア人:アフリカ北部に住む、イスラム教徒、バルベル族、アラビア人の混血種族。8世紀にスペインに侵略後、その地に定住。

 <16>  異端審問所:宗教裁判。スペインの異端審問所(~1834)は特に残酷で有名。

 <17>  ヤン・フス:(1369~1415)ボスニア宗教改革者・殉教者。異端者として焚刑に処せられた。

 <18>  マルチン・ルター:ドイツの宗教改革者(1483~1546)。プロテスタント派の祖。聖書のドイツ語訳者。後に宗教改革ユダヤの陰謀に乗せられたものであったことを知り、 晩年は徹底したユダヤ批判を行った。