テンプル騎士団に関するまやかしは彼らの正式名に始まる:貧者のキリストとソロモンの神殿の兵士仲間The Poor Fellow-Soldiers of Christ and of the Temple of Solomon、である。これ程にまで見下げ果てたものでなければ、もう滑稽なほどである。騎士団に乏しかったただ二つのもの、それは人間性と道徳だった。彼らの印章は二人の騎士が一頭の馬に跨っている姿を表す。「馬」と言う言葉は売春婦「Whore」の駄洒落に使われ、内輪では死の姉妹同胞を指す。(これは恐らく、マグダラのマリアが売春婦であったと称する虚偽の伝説から取り入れられた。)勿論、現実にはマリアはエデッサの王室の一員の高貴な生まれであった。その女系の祖先のように彼女は金星のカルト或いはシオン修道会の幹部であった。
情報を誤って伝える者たち(Disinformationalists)はフリーメーソンとテンプル騎士団の間のあらゆる正統な歴史的繋がりを否定しようとし、友愛の会(メーソン)が歴史的に高貴で空想的な十字軍の騎士と繋がっていたという印象を作ることで上流階級をメーソンに引き付けるために18世紀に保守的な神話創作者(例えばシュヴァリエ・ラムゼイ、チャールス・ラドクリフ、サミュエル・ローザ、カール・フォン・フンドなど)により、その繋がりが創作されたと人々が信じることを寧ろ望んだ。カトリックの会員を集めるためにメーソンにテンプル騎士団との繋がりを持たせたと信じる者もいるし、また秘教に傾倒している者を魅せるために、テンプル騎士団の印象がより高い「神秘的な」メーソンの階級に組み込まれたと信じる者もいる。もっと明敏な観察者や内部の人間(例えば、ニコラス・ボンネビル、サミュエル・プリチャードSamuel Pritchard Matheson?、オーギュスタン・バリュエル、クリストフ・ボーデ、ルシェ侯爵(Marquis de Luchet、ジャン=ピエール=ルイ・ド・ルシェ)、ルイ・クロード・カデ・ド・ガシクール、ジョセフ・ハンマー、エリファス・レヴィなど)は正確に知って居り、メーソンは徐々にしかし組織的に、祖先が14世紀に地下にもぐることを余儀なくされたテンプル騎士団により浸透されて来たと警告していた。この事実は、その作品が後の評論家がテンプル騎士団とメーソンの間の繋がりを、手に負えない空想家や狡猾な利己的いたずら者や神話マニアに支持された虚偽として仕舞えるように神話創作者により巧妙に隠された。
秘儀の伝承によると、ヨハネは最初イエスの母マリアと結婚した。彼らの間にはヨセフと言う息子が居り、ヨハネの捕縛と処刑の後、イエスの養子となった。* *原典:They had their own son, Josephes, adopted by Jesus after John's arrest and execution. であるが、新約聖書の話ではヨセフはイエスの「父親」なので、イエスがこの義兄に当たるヨセフの養子となったのでは?(つまり、逆なのではないか?)―燈照隅コメント
実際のテンプル騎士団の起源は謎に包まれている。騎士団の初期の伝承作家は目撃者ではなく、騎士団が創立されてから生きた。第一回十字軍の後、自分の小さな騎士団である聖墳墓騎士団の拡張版として形づくったのは恐らくゴドフロワ・ド・ブイヨンであった。彼は恐らく自らの騎士団を近くの(アマルフィ)に本部があった先に設立された病院騎士団を手本として作った。ゴドフロワの新しい団体は軍事的とするか、修道会とするか決め兼ねていたように思われる。元々は9人の騎士たち、ユーグ・ド・パイヤンHugh de Payens、ジェフロワ・ド・サントメールGeoffroy de Saint-Omer、ロッサルRossal、ゴンデメアGondamer、ジェフロワ・バイソルGeoffroy Bisol、パイヤン・ド・モンディディエPayen de Montdidier、聖アグナトのアーシャンボーArchambaud de St. Agnat、アンドレ・ド・モンバールAndre de Montbard、シャンパーニュ伯ユーグHugh Count de Champagneであった。ユーグ(シャンパーニュ伯)は信じられないほどの裕福な貴族であった。その仲間の騎士であるユーグ・ド・パイヤン(パガナスつまり異教徒)がブイヨンの死後騎士団を率いた。シャンパーニュ伯とクレルヴォーのベルナルドゥスはテンプル騎士団の始まりの頃の認知度と評判が高くなるよう促した。
今日のオランダと英国の王族はフランスのオラニエ家と直接の血縁で、ブイヨンのゴドフロイの家系である。彼らの最も重要な祖先の一人であるギヨーム・ド・ジェローヌ(William de Gellone)は「鷲鼻(鉤鼻)」で知られていた。この「猶太の」(ナザレ人の)支流は疑いなく、アクエンアテンの没落後のエジプトから追放されたアテン信仰者の子孫である。
十字軍に関する歴史家によると、メロヴィング朝のボードゥアン4世(エノー伯:1108 ~1171)とその従兄弟であるフランダースのフィリップ(フィリップ一世:1143~1191)は、ウルサス(Ursus)として知られる未知の人物に率いられた(ロレーヌ*のオルヴァルからの)謎の修道士の一団の訪問を受けた。一行はフィリップとその妻マチルド(マティルド・ド・ポルテュガル:ポルトガルのテレサとも)、テンプル騎士団長ゴドフロワ・ド・ブイヨンの叔母、から歓迎され、保護された。1108年までにこのよく身元の分からない集団がこの地域の視界から消え去った。その一員には、隠者ピエール(Peter of Hermit)が居たと知られており、彼はフィリップと共に、西の騎士たちに東方へ旅し、エルサレムを占領し、サラセンを破壊することを奨励した第一回十字軍の主な計画者であるとする研究者もいる。興味深くまた示唆的なのは、ウルサス(Ursus)は太古より女神の強い記号である熊を暗示することである。これが示唆することは、謎の修道士の一団がフランスのマチルドの王宮を去って、煙の如く消え去った後、ブイヨンのゴドフロワにより、ほぼ即座に悪名高きシオン修道会がシオンの丘に設立されたのである。 *第一次大戦の主要因となったアルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)の帰属問題が何故さほどに重要であったのか、長年疑問であったが、ロレーヌの秘儀的意味を考えると納得できる気がする(燈照隅コメント)
フランダースのマチルド(1157~1218)はポルトガルのテレサとしても知られる。彼女は最も熱心で忠実な十字軍の後援者であるポルトガル王アルフォンソ1世の娘であった。彼女は、超金持ちのフランダース(今のベルギー)のフィリップ伯と最初の結婚後、ロレーヌとフランダースの公爵夫人となった。彼女は後に二度目のブルゴーニュ公爵オットーとの結婚でブルゴーニュの公爵夫人となった。伝説では彼女は聖杯に注意の目を向けた西欧で最初の貴婦人であった。暗示的にシオン修道会はエルサレムの近く、シオンの丘で、彼女の名において、彼女の甥の強大なブイヨンのゴドフロイにより、ゴドフロイの師匠である隠者ピエール(Peter of Hermit)とその率いるよく解らないオルヴァルの修道士の指導を土台にして創られた。この神殿跡の正式名は、シオンのノートルダム修道院(Abbey of Notre Dame de Sion)であった。ゴドフロイの元々の集団はシオンのノートルダム騎士団(シオンの聖母の騎士団)と名付けられた。その遺跡はまた、「全ての教会の母」と呼ばれた。その修道院の一室は「神秘の部屋Chamber of the Mysteries」と呼ばれた。
現実には、マチルドは恐らく古代のシオン修道会の長で後援者であった。男性たちは単に彼女の意図を執行しているに過ぎなかった。彼女の前は修道会は恐らくアリエノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine)に率いられていた。後に、15世紀の間、多分会長はマーガレット・オブ・アンジュー或いはその妹のヨランド・オブ・ロレイン(ヨランド・ダンジュー)であった。彼らから指導権はイングランドのチューダー朝に手渡された可能性があるが、17世紀にはボヘミアの女王で、今のイングランド女王、エリザベス二世の祖先であるエリザベス・スチュアートであった可能性が高い。シオン修道会は1188年以降、シオンの修道院として知られた。著者はこれを指して金星カルト(the Cult of Venus)と呼ぶ。
暗示的に、最初の「聖杯」の叙事詩がクレティアン・ド・トロワ(Chrétien de Troyes)により書かれたのは、マチルドの依頼であり、クレティアン・ド・トロワは、マチルド公爵夫人からその任務を受けた。聖杯は、ユーグ・ド・パイヤン(Hugues de Payens)によりエルサレムからフランスにもたらされたが、伝えられるところでは、彼は神殿の丘の地中からそれを発見した後、他の財宝と共にそれを彼女に納めたと言われる。勿論、聖杯は単に金星のカルト、つまり女イルミナティの利巧な隠喩であり、その権力の東方から西方への移転を意味する。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Troyes)
聖杯についての最も詳しい伝説は、中世の作家ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(Wolfram von Eschenbach)によるパルジファル(Parzifal)から来ている。エッシェンバッハによると、この話の詳細は元はフレゲタニス(Flegetanis)と言うスペインの猶太人から来ていると言う。この人物はメロヴィング朝のベニヤミン族支流の子孫である可能性が極めて高く、そうである以上、ほぼ確実に女龍宮廷の従者であった。
ヨーロッパやブリテンの大きな王座の背景若しくは傍の女性についてほとんど書かれたものはないし、況してや伝えられることはさらに少ないと思われるが、今こそ、その時点でその女性たちが産み、育て、霊感を与えた男性と同じく、その歴史を形づくる一助となった母親、妻たち、娘たち、姉妹たち、それに女性の後援者についてもっと注意を向けるべきである。記号的な段階では、女王ヘレナ(エデッサ王家)が真のキリスト教の創始者であることを充分に大きな声で知らされて来た。エルサレムの彼女の聖墳墓教会はヴィーナス(金星)の神殿跡に立つ。ウィリアム・セント・クレア[2]に白羽の矢を立て、その一家に、後にロスリン礼拝堂が建てられた領地を与えたのは、スコットランドのマーガレット[3](Margaret Stewart 1424~1445)であった。シトー会を講演したのは、ザクセンのマチルドであった。アリエノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine)とその娘マリー・ド・フランス(Marie of Champagne 1145~1198)がテンプル騎士団と聖杯の著者クレティアン・ド・トロワを後援した。伝えられるところでは、ポルトガルのテレサ(フランダースのマチルド)が聖杯に注意の目を向けた。次々と出て来るのである。テンプル騎士団はマグダラのマリアと聖(聖女)エウフェミア(Saint Euphemia)を敬慕していた。病院騎士団(聖ヨハネ騎士団、Knights Hospitaller)の守護聖人はフィレルモスの聖母(Lady Philermos)であった。クレルヴォーのベルナルドゥス(Bernard de Clairvaux)は聖処女マリアに一身を捧げ、「聖処女の騎士」と言う個人的な肩書を持って居た。テンプル騎士団の崇拝していた頭蓋骨は、女性のもので男性のものではなかった。テンプル騎士団の長髪も女性を暗示している。ブイヨンのゴドフロイは、全ての教会の母として知られるエルサレムの中で一番古いテンプル騎士団の修道院でエルサレムの君主に戴冠せられた。シオン修道会の正式名称は「シオンの丘の聖母の修道会」であった。エルサレムの王フールクの古い絵画は、戴冠式と婚礼で、女龍宮廷の記号であるフルール・ド・リス[4]を携えている王を描いている。
[2]ウィリアムシンクレア(ウィリアム・セント・クレアとも 1410–1484)初代ケイスネス伯爵(1st Earl of Caithness)は、ノルウェーとスコットランドの貴族であり、ロスリンチャペルの建設者。
ブローニュのマチルド、ブリテンの王ステファン1世の妃で、征服者ウィリアム(ノルマンジー公ウィリアム)の孫である。マチルドとステファンはどちらもフランス人でフランスにもイングランド同様に領地を持って居た。ユーグ・ド・パイヤン(Hugh de Payens)やゴッドフリー・デ・セイント・オーマー(Godfrey St. Olmer*)のようなテンプル騎士団の指導層は彼らの家臣であった。ユーグ自身はステファンの一家の所有する地域であるシャンパーニュのブロイスの生まれで、一方、セイント・オーマーは、ブローニュ伯の家臣であった。ステファンとマチルドは多額のお金と広大な土地をテンプル騎士団に寄進した。マチルドは恐らく最初の公式に知られた王族の女性後援者であった。テンプル騎士団の歴史の殆どの書き手は、騎士団の大義を支援した高貴な生まれの、超裕福な女性の誰にも言及しない。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Matilda_of_Boulogne)
ラルフ・エリスは、テンプル騎士団と関係する結社はパルティア-エデッサの貴族の子孫でその召使いであり、その貴族の世界的権力への希求が、彼らの手からその権力の手綱を取った教皇に挫かれたと信じている。エリスは、これが、ずっと長引いたこの二つの集団(教皇と騎士団)の反感と争いを説明すると言う。エデッサの貴族は決して権力の追求を諦めず、結局は教皇の弱体化を何とか成し遂げた。これが、正常(本来)なら超保守的なはずのローマカトリックが自由主義(リベラル)へ転向したことを説明する。パルティア-エデッサの王朝は母系であり、それが意味するのは、龍姉妹同胞の支部であると言うことである。著者の意見では彼らは、他ならぬ謎のシオン修道会(Order of Sion)であり、またそれはシオン修道会(Priory de Sion)とも呼ばれる。著者の女イルミナティの番組で示したように、シオンの記号は判然と女性である。
これは、何故偉大なメロヴィング朝の指導者であるギヨーム・ド・ジェローヌWilliam de Gelloneの記章が、マグダラのマリア、つまりアディアベネの女王ヘレナでエデッサ王家の長の印である青地に五芒星であるかを説明するのである。マリアの血統はオレンジ公(オラニエ公)の家系を起こし、それはフランスからオランダ、そして最後にはイングランドに渡った。
彼らの途方もない富の推定額には、密接に関係していた別団体のものは含まれない。それらの団体は、シトー会、ホスピタル騎士団(マルタ騎士団)、シオン修道会、キリスト騎士団、モンテザ騎士団*、コロンブス騎士団、オプス・デイなどである。最盛期のテンプル騎士団の総資産は1.1兆ドルを超えた可能性があり、これは教皇や他の如何なる組織よりも裕福であったことになる。 *原文Order of Montessa。Order of Montesaの間違いと思われる
「フェザーの議論は非常に充分に、このエジプトからのイスラエル人の移民が、出エジプトの間に何故、如何にして偶然にも宝物と宝探しの地図を携えていたのか、についてよく説明している。可能性として存在するのは、この宝の一部は実際エジプトの王子としてモーゼ自身の財産であり、恐らくまた、一神教の神官階級の財産でもあり、モーゼの時代にまだ存在し、それによってモーゼが確認したものであった、と言うことである。」―エレンズ教授Prof. Ellens著「ロバート・フェザー*のクムランの銅の巻物の謎の序論:エッセネ派のアクエンアテンの秘宝の記録Introduction to Robert Feather’s The Mystery of the Copper Scroll of Qumran: The Essene Record of the Treasure of Akhenaten」 *Robert Featherは英国の考古学者、著作家、ブロードキャスター。HP: http://www.robert-feather.com/
「彼らは現実問題として生き残りのためにヨーロッパ中の物資供給網の構築に深く関わり、また、農場経営、造船、馬育成、城郭建築、武器製造、経理(会計)に関わった。最後には彼らは自前の聖職者を持つようになり、政治や戦争の領域に深く関わる教皇の特権が与えられた。彼らは自らの利権のための力となり、教皇の個人的軍隊となり、それ以外のヨーロッパの王族やパレスチナの貴族たちへの忠誠から脱した。」―ジェームス・ワッサーマン*著「ソロモン神殿」 *James Wasserman(1948~2020)は、アメリカの著述家でオカルト主義者。O.T.O(Ordo Templi Orientis/東方聖堂騎士団)の一員、セレマ(アレイスター・クロウリーの流れを汲む)であった。
「殆ど即座にテンプル騎士団はヨーロッパのあらゆる王家の金融業者となった。彼らは窮乏した君主にお金を低金利で貸し付け、また商業金融業者にお金を移動(融資)した…。彼らは両替商となり、君主の間の外交を仕切る強大な資本家となった。イングランドではテンプル騎士団の大棟梁に、全ての他の小修道院長や修道院長に優る優先権が付与された。」―ニコラス・ハッガー著「西洋の秘史Secret History of the West」
「…テンプル騎士団はヨーロッパ中に九千を超える荘園を保有し、更に製粉工場や市場も保有していた。これらの収入を生み出す財産に加えて、テンプル騎士団は他の収入源があった。団員が獲得或いは共有した戦利品は騎士団のものになった。二百年に亙るその存在の間、二万人以上の入会者が土地やお金を持参金として騎士団にもたらしたのであった。―ジョン・J・ロビンソン*著「血統に生れてBorn in Blood」 *John J. Robinson(1918~1996)はアメリカの著作家。注意:John Robinson(1739~1805)とは別人。
「…テンプル騎士団は1154年までにイングランドで揺るぎなく支配確立し、その時すでに重要な土地、特権と免責を与えられて居た。これはテンプル騎士団がその巨大な権力、富と影響力の構造を打ち立てる土台であった。」―トーマス・パーカー*著「イングランドにおけるテンプル騎士団(1963年)」 *Thomas William Parker:詳細不明
「…テンプル騎士団はキリスト教國に九千の荘園或いは領地を所有していた。他にも絶え間ない慈善事業への遺贈や敬虔な人間からの現金の寄付など、大きな収入と莫大な富があった。エーカー(現イスラエルのアッコ)の司教・ジャック・ド・ヴィトリ*は次の様に言う。『彼らはまた、東方・西方の両方で莫大な広さの農園、町、村に恵まれており、その収入から毎年いくらかを聖地の防衛のためにエルサレムにある彼らの団体の本部に送っていた。』」―チャールス・G・アディソン**著「テンプル騎士団の歴史(1842年)」 *原文はJames de Vitry。Jacques de Vitryの間違いと思われる **Charles Greenstreet Addison(1812~1866)はイギリスの弁護士で、歴史、旅行、法律の作家。
「テンプル騎士団は、その驚くべき富に加えて、この国の中で大きな特権と義務の免除を受けた。ジョン王の治世、彼らは大蔵大臣の裁量罰金*すべてから逃れ、また、国王或いはその最高判事の前を除いて、答弁を強要されない特権を得た。ヘンリー三世は彼らの占有地(占領地域)に於けるfree warren(地域住民に対する自由支配権?)を与えた。そして、その有名な治世9年目の2月9日付の勅許によりヘンリー三世は、その先代たちと他の寄進者のすべての寄付をテンプル騎士団に対して追認した。」―同上 *原文:amerciaments in the Exchequer。amerciamentは正式に定められた罰金以外に、裁判所や他の当局の裁量で課せられた罰金のこと。
「イングランドでは…テンプル騎士団の団長は国王の議会に定期的に呼ばれ、全ての宗教団体の長と見做され、国内の全ての小修道院長や修道院長よりも優先権を取った。ヘンリー二世とトマス・ベケット(Thomas à Becket)のどちらとも緊密な繋がりを維持し、テンプル騎士団は主権者(国王)とその追放された大司教*の和解に尽力した。ジョン王を含む歴代のイングランドの国王はテンプル騎士団のロンドンの会堂に屡々住み、騎士団の大棟梁は君主の脇に立ってマグナカルタの署名に立ち会った。」―同上 *トマス・ベケットはカンタベリー大司教になった後、教会の自由を巡ってヘンリー二世と対立し、1164年に国外逃亡した。その後1170年に和解したが、同年、ヘンリー二世の息が掛かった司教を懲戒したことからヘンリー二世を激怒させ、その意を汲んだ騎士に暗殺された。
黒いロッジの代理人は、世界中のマルタ騎士団、大東社、オプス・デイ、コロンブス騎士団、キリスト騎士団、聖堂騎士団、シッスル騎士団、聖パトリック騎士団、アイルランド人聯合団(United Irishmen)、ハイバーニア人古代結社(Ancient Order of Hibernians)などのような他の機能している秘密結社に工作を指示する。彼らはまた、薔薇十字団、聖ヨハネ騎士団、オレンジ騎士団(Orange Lodge)、ロイヤル・ブラック財団(Black Perceptory)などの表面上はプロテスタントの結社も支配する。これは、シンボリズム(記号学)とこれらの結社の政治的指向を研究すれば明白となる。