女イルミナティ12

教皇テンプル騎士団の破壊を目指した主な理由は、ラルフ・エリスが説明するところでは、彼らがイザス王とナザレの第四宗派の真のキリスト教に賛意を示したことである。この伝承ではなく、世界は教皇キリスト教となった、腐敗した大ペテン師フラウィウス・ヨセフスとその支持者の優遇で。

 

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この絵はエルサレムのシオン(Sion又はZion)の丘のテンプル騎士団にとっては最も重要な建物を描いている。

  1. エルサレム聖墳墓教会
  2. 神殿の丘
  3. 神殿の丘の地下の三つ目の遺跡はソロモンの厩

第一回十字軍のさ中、ゴドフロイとその騎士たちは(岩のドームのほかに)聖墳墓教会に住んだ。教会は伝えられるところではイエス磔刑に処せられ、葬られ、復活した場所であった。

神殿の丘は伝えられるところではソロモンの第二神殿の遺跡であった。地下の厩は元は神殿の再建のための巨大な倉庫として使われた。元のソロモンの神殿(紀元前586年にバビロニアに破壊された)の前の遺跡は近隣である。それは岩のドームとして知られている。そこはヘロデの神殿の遺跡でもあると信じる者もいる。

テンプル騎士団はソロモンの厩で発掘を始め、伝えられるところでは「財宝」を発掘したと言われる。学者の中には、これには貴重な硬貨と、イエスマグダラのマリアとの結婚を明かし、教皇に対抗する聖なるダビデの血統が秘密に存在したことを明かす古代エッセネ派の巻物の隠し場所が含まれていたと信じる者もいる。古代エッセネ派は神殿の丘で秘密の儀式を行っていたと信じられている。学者の中にはこれがテンプル騎士団の指導者がそこで何年も発掘に費やすことに直に踏み切った理由であったと信じている者もいる。

示唆的なことは、伝説によると聖墳墓教会は実際にヘレナ女王、ブリテンのコール王(King Cole*)の娘、コンスタンティヌス大帝の母親の依頼(命令)で建設された。彼女はキリストの磔刑場所を発見し、その上に教会の建設を命令したと言われている。彼女の東方への巡礼(紀元325年頃)はその新しいキリスト教の教会が実際ヴィーナス(金星Venus)に捧げられた神殿の上であったことを知ると、最も興味深いことである。
*King Cole は3世紀に英国を治めたとされる伝説の王。

何れにしても「ヘレナの教会」に頻繁に出向き、その名前を彼女に因んで名づけたテンプル騎士団はエデッサの王家と関係があった。この場合、彼らが尊崇していたのは、ヘレナ女王はヘレナ女王でも違う、もっと古代のヘレナ女王、紛れもなくマグダラのマリア自身であり、聖書の言うイエス、エデッサの王イザスの妹であり妻であった。ヘレナ女王とその先祖は超秘密結社の金星カルトの家母長(母系)の家系であった。

これが、テンプル騎士団のコインと記章に、惑星の金星と女神ヴィーナスのシンボルとなる宝珠と十字架とともに、ドーム型の神殿が現れる理由であろうか?

伝統によってはヴィーナスは顎鬚と共に描かれた、とする向きもある。であるからテンプル騎士団が崇拝したと伝えられる顎鬚の神と聞くと、それが何であるか、やはり、我々は理解するのである。(詳しくはこちら二つ:https://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_the_Holy_Sepulchre
https://infogalactic.com/info/Venus_Barbata

「これまでの調査から、現代や近代にはテンプル騎士団がいつ始まったか、何故始まったか、そして誰がその始まりに関わっていたのかは定かでないことが示された。」ヘレン・ニコルソン著「テンプル騎士団:新しい歴史」

テンプル騎士団が彼らの母なる教会を建てた場所はトマル(ポルトガル)であり、その慣習に従い、彼らはそれをマグダラのマリアに捧げたのであった。」フレディ・シルヴァ著「失われたキリスト復活の美術The lost Art of Resurrection」*誤訳の可能性あり

 

 

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クレルヴォーのベルナルドゥスにより形づくられたシトー修道会はテンプル騎士団の修道の側であった。シトー修道会は今も存在する。ドイツでカール・フォン・フンド男爵により形式化されたテンプル騎士団風の厳格遵守の儀式(結社)は、スチュアート朝ブリテンからの追放後、その名前を以前の厳格遵守のテンプル騎士団ーシトー修道会から取った。テンプル騎士団の思想が浸透していないメーソンの伝統を見つけるのは困難であり、テンプル騎士団やメーソンによって使われる男の記号を見出すことはさらに困難である。(詳しくはこちら:http://www.irishoriginsofcivilization.com/minoan-civilization.html

「フンドが導入したフリーメーソンの制度 ―スコットランド儀式の更なる拡張― は後に厳格遵守と呼ばれた。その名前は誓いに要求された、神秘的「未知の上級階級」への揺るぎなき疑義なき服従、が由来であった。そして厳格遵守の基本的教条はテンプル騎士団から直接引き継がれて来たことであり、噂によると騎士団の中に1307年~14年の粛清を生き延びてその結社をスコットランドで永続したものが居たのであった。」―ベイジェント・レイ、リンカーン共著「聖なる血統・聖なる盃」

シトー修道会とテンプル騎士団は、早くも11世紀にスコットランドと其の他の場所で定着していた、掴みどころなく、またあまり知られていないティロンの修道会(ティロネンシアン修道会)の後に出来たものであった。テンプル騎士団流動資産の多くは、14世紀初めの大粛清の後、恐らくこの修道会の会員に信託された。研究者によると財宝は、後ににロスリン聖堂に運ばれて隠され、「ナショナル・トレジャー」などの映画により内部告発されたように、その後、静かにワシントンDCに送られ、今日に至るまでそこに残っている。(詳しくはこちら:https://en.wikipedia.org/wiki/Tironensian_Orderhttps://en.wikipedia.org/wiki/Tironensian_Order

実のところ、恐らく大勢(多く)がカナリア諸島で埋められた。そこは、テンプル騎士団により14世紀初めに再発見され、正確に海図に収められた場所であった。

シトー修道会-テンプル騎士団はまた、アメリカで宗教と政府の裏で工作する、比較的知られていないグランジThe Grangeとして知られる秘密結社にも資金をつぎ込んだ。グランジは女イルミナティの構成員により率いられるつかみどころのない結社で、内部の人間には「ヴィーナス(金星)一家」或いは「ヴィーナス(金星)血統」として知られている。(詳しくはこちら:https://en.wikipedia.org/wiki/National_Grange_of_the_Order_of_Patrons_of_Husbandry

 

 

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ロンドンのグレートクイーン街(Great Queen’s Street)にあるイングランドの連合大ロッジ(United Grand Lodge)の議場。
最小限語るに至極適切な通りの名前である。ロッジはこの場所に1775年以来建っている。


イングランドの連合大ロッジは二つの重要なロッジ ―イングランドの大ロッジと、アイルランドとの強いけれども軽視された絆があった(そして恐らく掴みどころのないティロンの修道会と繋がりがあった)古代ロッジ(Antient Lodge)― の合併で出来た。古代(Antient)ロッジは、ハノーファー王家(所謂「黒い貴族」の治世に出来た大ロッジのメーソンのイメージに対抗するために1751年に形づくられた。当初古代ロッジは、大ロッジのメーソンがアイルランドのメーソンに遡る、所謂ロイヤル・アーチ(Royal Arch)階級に於いて自分たちを原初のメーソンの秘儀と意図を維持していると考え、フリーメーソンの教義を曲解していると信じた。ロイヤル・アーチメーソンは特にアメリカに於いて普及した。

1813年に(ハノーファー王家の支配下の)イングランドの大ロッジとイングランドの古代大ロッジ(Antient Grand Lodge)が合併し、イングランドの連合大ロッジを作り、本部をロンドンに置いた。

著者の意見では、古代(Antient)メーソンは、バプテスマのヨハネとそのロイヤルアーチとマークのメーソン階級と、それに関連する儀式に重きを置いた、ティロン修道会のようなテンプル騎士団の組織の支部であった。つまり、バプテスマのヨハネは真のイエスとその一家の巧妙な蔽いであり、テンプル騎士団の教義とメーソンの裏に自らを隠した、エデッサの龍宮廷(Dragon Court)なのである。

「…新生ダーウェントウォーター卿がこのヤコブ主義のメーソン組織の役職を辞任したのち、テンプル騎士団の考えが(スチュアート朝大義に隠れて)『大胆に前に出てただ単にメーソンの一部ではなく、優れた知識を持ち、より大きな特権と平凡な者、例えば手仕事のメーソン、を支配する権利の資格を与えられた、真のメーソンであると主張した。』」―(クラレンス・ケリー神父がネスタ・ウェブスターを引用している)

これらに類したアイルランドの秘密結社は、キリスト教の見せかけの裏で、先のドルイドやアリアンの秘教の伝統をバラバラにし、変更・修正した、もっと古代のカルデアンCuldeanの慣習を遺している。カルディアンの僧侶はメロヴィング朝の王達やテンプル騎士団の貴族の筆頭の指導官であった。この最も重要な西方の繋がりは、著者の本、「文明のアイルランド起源」でくわしく調査している。

女イルミナティ11

記号が語ること

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「9人の騎士がヤッファとエルサレムの間の33マイル(約53キロ)の道のりで何千人もの巡礼者を山賊、泥棒、サラセン人、山に居るライオンたちから守ると言う話は、常識から考えても馬鹿げた考えである」―フレディ・シルヴァ著「最初のテンプル騎士団国家」

テンプル騎士団に関するまやかしは彼らの正式名に始まる:貧者のキリストとソロモンの神殿の兵士仲間The Poor Fellow-Soldiers of Christ and of the Temple of Solomon、である。これ程にまで見下げ果てたものでなければ、もう滑稽なほどである。騎士団に乏しかったただ二つのもの、それは人間性と道徳だった。彼らの印章は二人の騎士が一頭の馬に跨っている姿を表す。「馬」と言う言葉は売春婦「Whore」の駄洒落に使われ、内輪では死の姉妹同胞を指す。(これは恐らく、マグダラのマリアが売春婦であったと称する虚偽の伝説から取り入れられた。)勿論、現実にはマリアはエデッサの王室の一員の高貴な生まれであった。その女系の祖先のように彼女は金星のカルト或いはシオン修道会の幹部であった。

もう一つシンボリズム(記号)の段階で、一頭の馬上の二人の騎士は恐らくテンプル騎士団シオン修道会(姉妹同胞)が同じ目的(大義)に仕える戦友として結束した頃を思い起こさせるものである。12世紀の仲間割れとそれに続く敵対は世界の歴史を変えた。それに続いて、我々がプロテスタントとして知っているものの起こりも、可能性としてこの敵対の一つの結果であろう。

何れにしても、シオン修道会は、多くが主張するような神話的(架空の)集団ではない。マスコミの情報を誤って伝える者たち(Disinformationalists)は、そのように見せるようにあまりにもやり過ぎたが、修道会により使われる記号の慎重な研究はその実在性、古さと真の正体を確証する。我々が秘密結社の研究をするときに、マスコミで彼らが我々に提示する方向と、彼らの実際の方向との間を区別することは死活的に重要である。前者の方向は勿論の事ながら大方詐欺的であると見做して間違いない。

情報を誤って伝える者たち(Disinformationalists)はフリーメーソンテンプル騎士団の間のあらゆる正統な歴史的繋がりを否定しようとし、友愛の会(メーソン)が歴史的に高貴で空想的な十字軍の騎士と繋がっていたという印象を作ることで上流階級をメーソンに引き付けるために18世紀に保守的な神話創作者(例えばシュヴァリエ・ラムゼイ、チャールス・ラドクリフ、サミュエル・ローザ、カール・フォン・フンドなど)により、その繋がりが創作されたと人々が信じることを寧ろ望んだ。カトリックの会員を集めるためにメーソンにテンプル騎士団との繋がりを持たせたと信じる者もいるし、また秘教に傾倒している者を魅せるために、テンプル騎士団の印象がより高い「神秘的な」メーソンの階級に組み込まれたと信じる者もいる。もっと明敏な観察者や内部の人間(例えば、ニコラス・ボンネビル、サミュエル・プリチャードSamuel Pritchard Matheson?、オーギュスタン・バリュエル、クリストフ・ボーデ、ルシェ侯爵(Marquis de Luchet、ジャン=ピエール=ルイ・ド・ルシェ)、ルイ・クロード・カデ・ド・ガシクール、ジョセフ・ハンマー、エリファス・レヴィなど)は正確に知って居り、メーソンは徐々にしかし組織的に、祖先が14世紀に地下にもぐることを余儀なくされたテンプル騎士団により浸透されて来たと警告していた。この事実は、その作品が後の評論家がテンプル騎士団とメーソンの間の繋がりを、手に負えない空想家や狡猾な利己的いたずら者や神話マニアに支持された虚偽として仕舞えるように神話創作者により巧妙に隠された。

テンプル騎士団が誇らしげに提示する記号が貧困を表さないことのもう一つの手がかりは、テンプル騎士団がこれまで存在した中でも最も裕福な結社であったことである。彼らの富と不動産は中東から西欧まで広がっていた。騎士は独りではどのような個人的な財産も所有することは出来なかった。…しかし騎士団の一員として彼らは城、甲冑、馬や同様のものを非常に豊富に持ち、欠乏して困るものなどなかった。彼らを特別に為さしめたのは貧困ではなかった。」―サンフォード・ホルスト

ティールの大司教ウィリアム(ギヨーム・ド・ティール)はテンプル騎士団や病院騎士団を(エルサレム)王国に於ける破壊且つ無法の軍と見做していた。…彼が大司教になるまでに、これ等の集団は裕福になり過ぎ、その自尊心に慢心し過ぎ、自分たちの権威を超えた神の権威、つまりエルサレム大司教と王、に従順であることを拒否した、と分かった。」―ヘレン・ニコルソン著「テンプル騎士団:新しい歴史」

「キリストの貧乏な騎士」と言う肩書は恐らく元々のキリスト教徒を指したものである ―イェッセアンJesseans、エビオン派Ebionites、ナザレ派Nazarenes、Nazoreans、ナーセーネNaassenesなどの名で通ったイエスの信者たち、である。エビオン派は自らを「貧乏人」と呼び、その知的素朴と禁欲生活を指したものであった。テンプル騎士団は、それのあまり知られていない意味、つまりエビオン派(ナザレ派)がイエスの教えを旧約聖書ユダヤ教の延長線上であると考えたことを思い起こしたため、これを取り入れた。「貧乏な騎士」と言う言葉は従って、猶太教、或いはもっと正確には、嘗て輝かしいエデッサの女王に率いられたナザレの第四宗派への暗号的容認なのである。

後ほど分かるように多くの近代のヨーロッパの君主(所謂黒い貴族)はエデッサの子孫である。この意味で彼らは自らをイエス自身の子孫と見做すのである。

 

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バプテスマのヨハネの首とサロメ(右)

テンプル騎士団は間違ってカトリックの組織だと考えられている。表面的にはそのように見えるが、学者の中には彼らがバプテスマのヨハネの帰依者と信じる者もいる。これが教皇が彼らを破壊することを欲した理由の一つである。それはまた、彼らの指導者がジョン(ヨハネ、ジャン)と名乗る資格がある理由でもある。

勿論、我々は気狂いの預言者バプテスマのヨハネに添えられた記号を通して理解しなければならない。恐らくそのような人物は存在しなかった。その人物は、教皇派のキリストによって失墜したキリスト教の第四宗派イザス王の架空の設定である。ジョンとは、帝國を失い、その運命が実現しなかった王である、イザス或いはイエスの放浪癖版である。この有名な野生の人物像は単にイザス王の運命を記号(シンボル)の形で具体化している。換言すれば、聖書のバプテスマのヨハネとイエスは一人と考えられ、同じ人物なのである。

秘儀の伝承によると、ヨハネは最初イエスの母マリアと結婚した。彼らの間にはヨセフと言う息子が居り、ヨハネの捕縛と処刑の後、イエスの養子となった。*
*原典:They had their own son, Josephes, adopted by Jesus after John's arrest and execution. であるが、新約聖書の話ではヨセフはイエスの「父親」なので、エスこの義兄に当たるヨセフの養子となったのでは?(つまり、逆なのではないか?)―燈照隅コメント

二義的には、斬首された首の像は権力が一人の代理人の男からもう一人に移ったことを暗示する。権力の移行は、しかしながら、真の、しかし見えない長で後援者である女系の女族長の命令により執行された。示唆的に、バプテスマの(ヨハネの)首と共に描かれたサロメの大きな絵画がローマのマルタ騎士団の本部の大広間に掛かっている。

記号はまた、偉大な光の王、アクエンアテン自身の運命も含めている。彼もまた「斬首」された。彼の子孫 ―それにはエデッサも含まれる― はアクエンアテンの新世界秩序(NWO)を回復するために何世紀にも亙り、せっせと働いたのである。

 

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 ゴドフロワ・ド・ブイヨン、ロレーヌ伯爵でエルサレムの王(1060~1100)。彼のオレンジ色の外套とオレンジの実をあしらった王冠はマグダラのマリアと彼女に仕えるカルト―シオン修道会を仄めかしている。

 

実際のテンプル騎士団の起源は謎に包まれている。騎士団の初期の伝承作家は目撃者ではなく、騎士団が創立されてから生きた。第一回十字軍の後、自分の小さな騎士団である聖墳墓騎士団の拡張版として形づくったのは恐らくゴドフロワ・ド・ブイヨンであった。彼は恐らく自らの騎士団を近くの(アマルフィ)に本部があった先に設立された病院騎士団を手本として作った。ゴドフロワの新しい団体は軍事的とするか、修道会とするか決め兼ねていたように思われる。元々は9人の騎士たち、ユーグ・ド・パイヤンHugh de Payens、ジェフロワ・ド・サントメールGeoffroy de Saint-Omer、ロッサルRossal、ゴンデメアGondamer、ジェフロワ・バイソルGeoffroy Bisol、パイヤン・ド・モンディディエPayen de Montdidier、聖アグナトのアーシャンボーArchambaud de St. Agnat、アンドレ・ド・モンバールAndre de Montbard、シャンパーニュ伯ユーグHugh Count de Champagneであった。ユーグ(シャンパーニュ伯)は信じられないほどの裕福な貴族であった。その仲間の騎士であるユーグ・ド・パイヤン(パガナスつまり異教徒)がブイヨンの死後騎士団を率いた。シャンパーニュ伯とクレルヴォーのベルナルドゥスはテンプル騎士団の始まりの頃の認知度と評判が高くなるよう促した。

我々はその騎士道精神と武勇について騎士団に浪漫的な考えを持って居る。然しながら、クレルヴォーのベルナルドゥス自身が、キリスト教の旗の下の聖地に出発する殆どの十字軍の騎士の背信行為について公然と言及している。彼は次の様に書いている。「聖地に殺到する莫大な数の中で、不信心なならず者、神聖を汚す略奪者、殺人者、偽証者、姦夫でなかった者は殆どいないと言うことを見出すのは実際寧ろ都合がよく、それらのヨーロッパからの離脱は、当然二重の利益であり、ヨーロッパの人々は彼らを見送ることを喜んでいる…。それは海を隔てた両側で生活する者にとって確かに有益である。何故なら彼らは一方を保護しもう一方を虐待するのを思いとどまるからである。」テンプル騎士団の美徳などこの程度なのである。教会も人々もどちらも騎士団を血に飢えた日和見主義の粗野な人間であると見做していたのにはそれなりの理由があった。著者が関わる限り、彼らの性質と動機は年を重ねても少しも神聖にはならなかった。クレルヴォーとド・パイヤンは単に自分たちの騎士団の兵団の卑劣な行為を体裁を取り繕って神聖化するために、自らの怒りを道徳的で信心深く見せ、詭弁に耽っただけであった。14世紀に解散するまでテンプル騎士団は、聖職者の法を甚だしく破り山賊行為を認めたことで知られた。

今日のオランダと英国の王族はフランスのオラニエ家と直接の血縁で、ブイヨンのゴドフロイの家系である。彼らの最も重要な祖先の一人であるギヨーム・ド・ジェローヌ(William de Gellone)は「鷲鼻(鉤鼻)」で知られていた。この「猶太の」(ナザレ人の)支流は疑いなく、アクエンアテンの没落後のエジプトから追放されたアテン信仰者の子孫である。

女イルミナティ10

十字軍に関する歴史家によると、メロヴィング朝のボードゥアン4世(エノー伯:1108 ~1171)とその従兄弟であるフランダースのフィリップ(フィリップ一世:1143~1191)は、ウルサス(Ursus)として知られる未知の人物に率いられた(ロレーヌ*のオルヴァルからの)謎の修道士の一団の訪問を受けた。一行はフィリップとその妻マチルド(マティルド・ド・ポルテュガル:ポルトガルテレサとも)、テンプル騎士団長ゴドフロワ・ド・ブイヨンの叔母、から歓迎され、保護された。1108年までにこのよく身元の分からない集団がこの地域の視界から消え去った。その一員には、隠者ピエール(Peter of Hermit)が居たと知られており、彼はフィリップと共に、西の騎士たちに東方へ旅し、エルサレムを占領し、サラセンを破壊することを奨励した第一回十字軍の主な計画者であるとする研究者もいる。興味深くまた示唆的なのは、ウルサス(Ursus)は太古より女神の強い記号である熊を暗示することである。これが示唆することは、謎の修道士の一団がフランスのマチルドの王宮を去って、煙の如く消え去った後、ブイヨンのゴドフロワにより、ほぼ即座に悪名高きシオン修道会がシオンの丘に設立されたのである。
*第一次大戦の主要因となったアルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)の帰属問題が何故さほどに重要であったのか、長年疑問であったが、ロレーヌの秘儀的意味を考えると納得できる気がする(燈照隅コメント)

メロヴィング朝が起こった元のシカンブリ系のフランク族にとって熊は同様の高貴な地位を享受した…彼らは熊をアルテミス、或いは…アルデンネスを守護する女神アルドゥイナ(Arduina)の形態で崇拝した。…熊がメロヴィング朝の中心地のアルデンネスに於いて魔法的、神話的、動物崇拝的地位であることから、『ウルサス(Ursus)』 ―ラテン語の『熊』― と言う名前が『プリウレ文書(Prieuré documents)』とメロヴィング王朝の系譜に関連付けられるであろうことは驚くべきことではない。」―ベイジェントBaigent、リーLeigh、リンカーンLincoln共著「聖なる血統、聖なる盃」

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フランダースのマチルド(1157~1218)はポルトガルテレサとしても知られる。彼女は最も熱心で忠実な十字軍の後援者であるポルトガル王アルフォンソ1世の娘であった。彼女は、超金持ちのフランダース(今のベルギー)のフィリップ伯と最初の結婚後、ロレーヌとフランダースの公爵夫人となった。彼女は後に二度目のブルゴーニュ公爵オットーとの結婚でブルゴーニュの公爵夫人となった。伝説では彼女は聖杯に注意の目を向けた西欧で最初の貴婦人であった。暗示的にシオン修道会エルサレムの近く、シオンの丘で、彼女の名において、彼女の甥の強大なブイヨンのゴドフロイにより、ゴドフロイの師匠である隠者ピエール(Peter of Hermit)とその率いるよく解らないオルヴァルの修道士の指導を土台にして創られた。この神殿跡の正式名は、シオンのノートルダム修道院(Abbey of Notre Dame de Sion)であった。ゴドフロイの元々の集団はシオンのノートルダム騎士団(シオンの聖母の騎士団)と名付けられた。その遺跡はまた、「全ての教会の母」と呼ばれた。その修道院の一室は「神秘の部屋Chamber of the Mysteries」と呼ばれた。

現実には、マチルドは恐らく古代のシオン修道会の長で後援者であった。男性たちは単に彼女の意図を執行しているに過ぎなかった。彼女の前は修道会は恐らくアリエノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine)に率いられていた。後に、15世紀の間、多分会長はマーガレット・オブ・アンジュー或いはその妹のヨランド・オブ・ロレイン(ヨランド・ダンジュー)であった。彼らから指導権はイングランドチューダー朝に手渡された可能性があるが、17世紀にはボヘミアの女王で、今のイングランド女王、エリザベス二世の祖先であるエリザベス・スチュアートであった可能性が高い。シオン修道会は1188年以降、シオンの修道院として知られた。著者はこれを指して金星カルト(the Cult of Venus)と呼ぶ。

 

暗示的に、最初の「聖杯」の叙事詩クレティアン・ド・トロワ(Chrétien de Troyes)により書かれたのは、マチルドの依頼であり、クレティアン・ド・トロワは、マチルド公爵夫人からその任務を受けた。聖杯は、ユーグ・ド・パイヤン(Hugues de Payens)によりエルサレムからフランスにもたらされたが、伝えられるところでは、彼は神殿の丘の地中からそれを発見した後、他の財宝と共にそれを彼女に納めたと言われる。勿論、聖杯は単に金星のカルト、つまり女イルミナティの利巧な隠喩であり、その権力の東方から西方への移転を意味する。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Troyes

聖杯についての最も詳しい伝説は、中世の作家ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(Wolfram von Eschenbach)によるパルジファル(Parzifal)から来ている。エッシェンバッハによると、この話の詳細は元はフレゲタニス(Flegetanis)と言うスペインの猶太人から来ていると言う。この人物はメロヴィング朝のベニヤミン族支流の子孫である可能性が極めて高く、そうである以上、ほぼ確実に女龍宮廷の従者であった。

大釜(cauldron)、茶碗(cup)、盃(chalice)聖杯(graal又はgrail)は、女の力の源泉の記号で、古代の女聖職者主義の宗派を表している。それは、聖書のサロメバプテスマのヨハネの説話に於いて平たい円形の盆或いは平皿の形で登場する。この話は文字の背景で男性の部下、例えば王、王子、伯爵を凌駕する女神官の優越性を明かしている。ここでは続けてこの話の記号について更に推論せざるを得ない。

聖杯(grail)と言う言葉は「段々と」「段階」「一歩一歩」を意味するgradusから来ている。これは、メーソン流の結社の階級を示唆する。これは、クレティアン・ド・トロワの時代より以前にもそれ以後にも、マチルドと他の多くにより率いられた結社である。この言葉の第二義はSang Rael、つまり「聖なる血」であり、矢張りこれは姉妹同胞を指す。gradusと言う言葉は後に誤って籠或いは容器を意味するcratisとなり、それが茶碗(cup)と繋がった。示唆的に、(女性に捧げられた)シャルトル大聖堂の北側の玄関の建築には、旧約聖書の半神メルキゼデクが聖杯を持って居る姿を見る。メルキゼデクとはアクエンアテンと彼の子孫から継承された結社の暗号的表現である。そこで、所謂聖杯の本当の重要性は一義的には階層化された秘密結社についてであると理解され、二義的には、血の容器としてであることがわかる。また、「聖杯」の想定された守護者としてのテンプル騎士団の重要性もわかる。それは、あまりにも多くの人が間違って信じているように、イエスには関連しない。それは単に、母なる女神への奉仕に於ける、息子・恋人・騎士・衛士(守護者)の切断された首或いは去勢された男根を入れる容器に過ぎないのである。

これらのオカルト結社の間では、その歴史で、去勢と言う肉体的な儀式は占星術的に特別な時期、特に8月に執り行われた。占星神学的に、聖杯は太陽、月、金星がおとめ座(処女の記号)に入る動きを表す記号である。コップ座(Chalice)として知られる星座はおとめ座の記号の中に見いだされ、おとめ座は昔も今も儀式的に姉妹同胞と関連結社に重要であった。従って、太陽がおとめ座に入ると、縁起の良い、そして奇妙奇天烈な儀式と建設が行われた。カナの婚礼[1]は、この占星術的期間を指し、ワシントンDCやフィラデルフィアの多くの目立った建築物はこの期間に建造された。独立宣言のような文書もまた、太陽又は金星がおとめ座に入る時に、それにより、女神の縁起の良い前兆となるように委任、署名、発表されたのである。
[1]カナの婚礼とは、イエス・キリストが水をワインに変えたと言う、公衆の前で行った最初の奇跡の舞台となった出来事。(新約聖書ヨハネ福音書」2章1-11)

 

 

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 聖杯の守護者が女性と言うのには理由があった。著者が女イルミナティの番組で示すように、古代のエジプトや他の國では、男性ではなく、女性が最も華々しい秘密結社の最高の階級に入会し、それを率いたのである。その女性結社内で出世するには、男性従者はその男根を供しなければならず、それで「血」を入れた盃の記号だったのである。

 

ヨーロッパやブリテンの大きな王座の背景若しくは傍の女性についてほとんど書かれたものはないし、況してや伝えられることはさらに少ないと思われるが、今こそ、その時点でその女性たちが産み、育て、霊感を与えた男性と同じく、その歴史を形づくる一助となった母親、妻たち、娘たち、姉妹たち、それに女性の後援者についてもっと注意を向けるべきである。記号的な段階では、女王ヘレナ(エデッサ王家)が真のキリスト教創始者であることを充分に大きな声で知らされて来た。エルサレムの彼女の聖墳墓教会はヴィーナス(金星)の神殿跡に立つ。ウィリアム・セント・クレア[2]に白羽の矢を立て、その一家に、後にロスリン礼拝堂が建てられた領地を与えたのは、スコットランドのマーガレット[3](Margaret Stewart 1424~1445)であった。シトー会を講演したのは、ザクセンのマチルドであった。アリエノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine)とその娘マリー・ド・フランス(Marie of Champagne 1145~1198)がテンプル騎士団と聖杯の著者クレティアン・ド・トロワを後援した。伝えられるところでは、ポルトガルテレサフランダースのマチルド)が聖杯に注意の目を向けた。次々と出て来るのである。テンプル騎士団マグダラのマリアと聖(聖女)エウフェミア(Saint Euphemia)を敬慕していた。病院騎士団(聖ヨハネ騎士団、Knights Hospitaller)の守護聖人はフィレルモスの聖母(Lady Philermos)であった。クレルヴォーのベルナルドゥス(Bernard de Clairvaux)は聖処女マリアに一身を捧げ、「聖処女の騎士」と言う個人的な肩書を持って居た。テンプル騎士団の崇拝していた頭蓋骨は、女性のもので男性のものではなかった。テンプル騎士団の長髪も女性を暗示している。ブイヨンのゴドフロイは、全ての教会の母として知られるエルサレムの中で一番古いテンプル騎士団修道院エルサレムの君主に戴冠せられた。シオン修道会の正式名称は「シオンの丘の聖母の修道会」であった。エルサレムの王フールクの古い絵画は、戴冠式と婚礼で、女龍宮廷の記号であるフルール・ド・リス[4]を携えている王を描いている。

[2]ウィリアムシンクレア(ウィリアム・セント・クレアとも 1410–1484)初代ケイスネス伯爵(1st Earl of Caithness)は、ノルウェースコットランドの貴族であり、ロスリンチャペルの建設者。

[3]Margaret Stewart(1424~1445)はスコットランドのジェームス二世の次女。第三代クライトン卿の妾。

[4]フルール・ド・リス ... フルール・ド・リス(仏: fleur-de-lis もしくは fleur-de-lys)は、アヤメ(アイリス)の花を様式化した意匠

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フルール・ド・リス


マチルド自身を入れなくても、十字軍の期間に六人のエルサレムの女王が居た。それは、エデッサのモルフィア(ボードゥアン2世の妃)、シビーユ(ボードゥアン5世の母)、イザベル(シビーユの妹)、マリー・ド・モンフェッラート(Maria of Montferrat)(イザベルの娘)、メリザンド・ダンジュー(ボードゥアン2世の長女)であった。少なくともこの君臨する女王のうちの三人はアレラーミチ系フランク族*つまりメロヴィング朝であった。イザベル一世はイベリン王朝の末裔であり、それはその親戚のアンジュー(ダンジュー)家のように、ロレーヌ、ハプスブルク、ヴァロワ、サヴォイア、ブルボン、サルッツォ、ヴェルフ(Guelf)などの家系が血の繋がりがあった。アンジュー王朝はイベリン家のようにテンプル騎士団の主な後援者であった。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/List_of_Queens_of_Jerusalem とこちら:https://www.peopleofar.com/2015/11/05/armenian-queens-of-jerusalem/

*アレラーミチ家は10世紀にイタリアに移住した西フランクの貴族の家系と考えられている。アレラーモは961年にイタリア王ベレンガーリオ2世(アレラーモの岳父)により新しく設置された辺境伯の一人であり、その後、王国の分裂により支配権は辺境伯に移った。1040年に初めて「Marcio」の名が用いられ、モンフェッラート侯と呼ばれるようになった。また、領地の西側の分割と、トリノ辺境伯の娘との結婚による相続で、同家の分家(デル・ヴァスト家)がサルッツォ侯国を成立させ、侯国の名は1142年に初めて見られる。
アレラーミチ家の悪名は十字軍において高まった。グリエルモおよびコッラードの兄弟はエルサレム王国で重要な役割を果たし、それぞれの子であるボードゥアン5世およびマリーはエルサレム王位についた。グリエルモおよびコッラードの弟ボニファーチョ1世は第4回十字軍の指導者で、コンスタンティノープルの陥落およびラテン帝国とテッサロニキ王国の成立を主導した。
サルッツォ系アレラーミチ家は1548年に断絶したが、その数年前に侯国を失っていた。モンフェッラート系は1305年にジョヴァンニ1世の死により断絶したが、侯国は女系を通してパレオロゴス家に継承され、230年間統治された。ランチア家を含む他の分家は今日まで続いている可能性がある。

 

あと二人の重要な女性の後援者はアリエノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine)とマリー・ド・フランス(Marie de Champagne)であった。他にも多数いた。(詳しくはこちら:http://www.femaleilluminati.com/female-dragon-court.html

「…最も美しく、女性像を成している黄金色に鍍金した偉大な首。中には二つの頭蓋骨が白いリネンの布に包まれて更にそれを赤い布で包まれて…。中の頭蓋骨は意外と小さな女性のものであった。」―「テンプル騎士団の偶像を言い表した異端審問の記録」

「(テンプル騎士団の)修道士アレブレイのウィリアムBrother William of Arreblay…は自分が頻繁にパリの神殿の祭壇に銀の首を見、そして指導層の騎士団の職員がそれを参拝しているのを見たと証言した。」―ヘレン・ニコルソン著「テンプル騎士団

「…ステファン王の治世、テンプル騎士団へは、王族からと個人からのどちらの領地の寄進もイングランドでは行われ…王妃マチルダからも行われ…ブロイスのステファンの息子であり、そしてその妻は十字軍遠征と密接に関連したブローニュ家の一員で、イングランドのステファンは顕著な十字軍一家の一員であり…そして、もう一人の最初のテンプル騎士団の創設者サントメールのゴドフロイはブローニュ家の家臣であった。」トーマス・パーカー著「イングランドテンプル騎士団

 

 

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 アンジューのフールク伯爵は1131年から1143年までエルサレムの王であった。この図では彼は、エルサレムを彼と共に統治したメリザンド(ボードゥアン2世の娘)と婚礼の最中である。彼女が王冠を冠って、教皇の顔が、王にではなく、彼女に向いていること、つまり彼女の血統或いは神秘性の優越を指摘していることに注目しよう。彼女の母親モルフィアはテンプル騎士団のボードゥアン二世、前のエルサレム王の妃であった。モルフィアは女王として彼と伍して統治した。メリザンドの息子はボードゥアン3世、エルサレム王であった。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Fulk,_King_of_Jerusalem

 

 

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 ブローニュのマチルド、ブリテンの王ステファン1世の妃で、征服者ウィリアム(ノルマンジー公ウィリアム)の孫である。マチルドとステファンはどちらもフランス人でフランスにもイングランド同様に領地を持って居た。ユーグ・ド・パイヤン(Hugh de Payens)やゴッドフリー・デ・セイント・オーマー(Godfrey St. Olmer*)のようなテンプル騎士団の指導層は彼らの家臣であった。ユーグ自身はステファンの一家の所有する地域であるシャンパーニュのブロイスの生まれで、一方、セイント・オーマーは、ブローニュ伯の家臣であった。ステファンとマチルドは多額のお金と広大な土地をテンプル騎士団に寄進した。マチルドは恐らく最初の公式に知られた王族の女性後援者であった。テンプル騎士団の歴史の殆どの書き手は、騎士団の大義を支援した高貴な生まれの、超裕福な女性の誰にも言及しない。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Matilda_of_Boulogne

 

     *

テンプル騎士団についての推薦図書(カッコ内は何れも初版発行年)


Fire in the Minds of Men(1980)

Memoirs Illustrating the History of Jacobinism(1797)
The Secret History of the West(2005)
The Secret Founding of America(2007)
Born in Blood(1989)
Sworn in Secret(2012)
Conspiracy Against God and Man(1974)
History of the Knights Templar(1842)
The Knights Templar Revealed(1999
The Warriors and the Bankers(1998
The Knights Templar in England(1963
The Grail Enigma(2008
The Hiram Key(1996
Holy Blood, Holy Grail(1982 日本語版「レンヌ=ル=シャトーの謎: イエスの血脈と聖杯伝説 」

The Messianic Legacy(1986
The Templar Revelation(1997)
First Templar Nation(2017
Mary Magdalene(2011
Jesus of Edessa(2012)

 

女イルミナティ09

                                 *

テンプル騎士団の起源について更に深い研究で、フランスのメロヴィング朝が明らかにゲルマンの部族であるシカンブリ系のフランク族からの子孫であることが明かされる。彼らは有能な戦士であっただけでなく、主に農民であった。後には金細工師や黄金商人となり、当然のように貴族や摂政となった。彼らの貴金属に関する専門性はテンプル騎士団の富について多くを説明してくれる。上の引用から解るようにメロヴィング王朝のテンプル騎士団はその後、ヨーロッパ随一の貸金業者や金融業者となった。歴史家はメロヴィング王朝の評判が早くから決して良くなかったことを認識している。歴史家ハットン・ウェブスターは次の様に伝える:

「クロヴィスの子孫はメロヴィング朝と呼ばれる。彼らは殆ど250年間フランクの王座を占めた。彼らの治世の年代記は血塗られた戦争や恐ろしい殺人それに数知れない叛逆行為の不快な出来事が列をなしている。然しながら、初期のメロヴィング朝は、その指揮の下、フランク王国の領土が今のフランス、ベルギー、オランダとドイツのかなりの部分を占めるまでに継続して拡大したほどに、強い人間であった。」―「初期のヨーロッパ史

少数の学者は、テンプル騎士団と古代エッセネ派の類似に注目するが、テンプル騎士団とシトー会はどちらも制度・習慣や信仰をこの、明らかに聖職的に古代イスラエル人のツァドック(メルキゼデク)結社から引き継がれたよく解らない宗派から借りてきたことに疑いの余地は少ない。我々がエッセネ派がナザレの第四宗派の支部で、そのナザレの宗派がアディアベネのヘレナ女王に率いられたシオン修道会、エデッサの君主に指図されていたことを認識したことにより、すべては明かされたのである。

真実を推測出来たであろう学者は非常に少数であった。例えば、12世紀にはソリスベリーの著述家ジョンはテンプル騎士団を紀元前2世紀に英雄で預言者のマカベウスのユダに従い、セレウコスの敵と戦った猶太の戦士に喩えている。マカベウスの一家は伝えられるところでは古代の著名なレヴィ族(或いはコーエン)の聖職者の子孫である。恐らく、彼らはセト-アテン信仰者の貴族或いはメルキゼデク(アクエンアテン)結社の支流(支部)であった可能性の方が高いであろう。

ラルフ・エリスは、テンプル騎士団と関係する結社はパルティア-エデッサの貴族の子孫でその召使いであり、その貴族の世界的権力への希求が、彼らの手からその権力の手綱を取った教皇に挫かれたと信じている。エリスは、これが、ずっと長引いたこの二つの集団(教皇と騎士団)の反感と争いを説明すると言う。エデッサの貴族は決して権力の追求を諦めず、結局は教皇の弱体化を何とか成し遂げた。これが、正常(本来)なら超保守的なはずのローマカトリック自由主義(リベラル)へ転向したことを説明する。パルティア-エデッサの王朝は母系であり、それが意味するのは、龍姉妹同胞の支部であると言うことである。著者の意見では彼らは、他ならぬ謎のシオン修道会(Order of Sion)であり、またそれはシオン修道会(Priory de Sion)とも呼ばれる。著者の女イルミナティの番組で示したように、シオンの記号は判然と女性である。

エデッサの子孫は今も所謂黒い貴族として存在する。(これについては論説4を参照:http://www.femaleilluminati.com/article-4.html

テンプル騎士団と古代猶太人の間の繋がりは、伝えられるところでは作り話でもお伽噺でもない。テンプル騎士団がパルティア-エデッサ人の子孫であるなら、彼らは銅の巻物*に述べられる途方もない富の合法的な受取人であると自ら考えるであろう。これは、ソロモンの厩舎や他所をモグラのように掘りまくったと言う、聖地での彼らの特異な滑稽な振舞いを説明する。
*銅の巻物とは、所謂死海文書のひとつ。

彼らの起源を詮索して行くと我々はこれ等のフランク人(ゲルマン人)のメロヴィング朝の人々は悪名高きベニヤミン族の子孫か或いは少なくとも親戚であった可能性があると分かるのである。彼らの歴史は直接テンプル騎士団の存在に関係している。テンプル騎士団と同様、家父長系のヤコブの名祖(なおや)の子孫であるベニヤミン族は、戦士(武士)階級であった。興味深く又暗示的に、フリーメーソンは、頻繁に自らのことをベニヤミン族として言及する。更にもっと重要なことは、第一神殿の建立の後、聖なるエルサレムの街の最初の支配者は、ベニヤミン族の中の集団であったのである。実際、ベニヤミン族はエルサレムを自分たちの個人的財産と考える。後の時代のテンプル騎士団の指導者たちはそこ(エルサレム)のベニヤミン族の切望したソロモンの神殿の遺跡で自分たちの結社を設立したことは興味深い。伝えられるところでは、テンプル騎士団の偶像であったマグダラのマリア自身がベニヤミン族であった。著者はこれが中心的な重要事項だと分かった。

ベニヤミン族の暗黒面は良く記録されている。実際彼らは、背教者の部族で、嘗て、ベニヤミン族を抹殺しようとして、他の部族に猶太の女性はこの部族の男との結婚することを禁止されたこともある。彼らの犯罪は強姦や殺人と関わった。部族の人間はレヴィ族の聖職者とその従者がベニヤミン族の土地を通過するときにその妾(内妻)を暴行し、集団強姦した。その妾が傷がもとで死んだあと、戦いが勃発し、ベニヤミン族の数は著しく減少した。生き残った者はそこから公式に、正義により、卑しめられその地域から追放された。伝説によると彼らは西へとギリシャを目指した。彼らの王の一人はダヌスとして知られていた。彼らは、トロイ、トルコに定住した可能性があるが、それが、後年彼らがブルゴーニュ地方の彼らの街をトロイと名付けた理由である。興味深いことに、彼らが犯罪を犯し、懲罰されて追放される前、彼らの最初の王はサウルであった。聖職者の神話拡散にも拘らず、我々はサウルが他ならぬSol、つまり太陽であることがわかる。言い換えると、サウルと言う名前は(ダヌスと同様)太陽の王(アテン)、つまりアクエンアテンの偽名である。著者が関与する限りにおいて、これがベニヤミン族-セト信仰者-アテン信仰者-メロヴィング朝の繋がりを明かすのである。(詳しくはこちらhttps://infogalactic.com/info/Battle_of_Gibeah

「…1250年までにテンプル騎士団はその宗教的教義を変更した。当初はキリスト教徒の兵士として設立されたが、今や彼らはヘブライの聖書の律法の書、トーラーを読み、自分達自身を古代イスラエル人へと結びつける新しい属性を形成した。」―ハーシュマンとイェイツ共著「スコットランドが猶太であった時代」

神話拡散と言えば、ベニヤミン族が自らの宿命と受け止めたのは、アテン信仰者、或いはパルティア人(シオン修道会)の伝説の元ネタの実に利巧な繰り返しの物語の可能性がある。

何れにせよ、公式の話の筋では、ベニヤミン族は他のイスラエルの部族に拒絶され、追放されたため、彼らは非イスラエル系と婚姻した最初の部族であったと言うことである。これが何を暗示するか、我々は推測できると著者は考える。また、アルカディアギリシャ)への到着以後、ベニヤミン族は多神信仰に戻った可能性もある。これは、シカンブリ族系のフランク族自体が母系であったため、論理的である。この変化は西方のよく解らない家系との婚姻により起きた可能性もあるしまた、ベニヤミン族がパルティア-エデッサ人と同じ民族であった可能性もある。今となっては推測する以外にない。

紀元481年、クロヴィス王の下、メロヴィング朝キリスト教徒となった。然しながらこれは単にフランスで領土を得るために為されただけであった。それはまた、彼らが実は第四宗派のナザレの使徒であった事実を隠すためでもあった。教皇キリスト教への潜入が始まったのである。

これは、何故偉大なメロヴィング朝の指導者であるギヨーム・ド・ジェローヌWilliam de Gelloneの記章が、マグダラのマリア、つまりアディアベネの女王ヘレナでエデッサ王家の長の印である青地に五芒星であるかを説明するのである。マリアの血統はオレンジ公(オラニエ公)の家系を起こし、それはフランスからオランダ、そして最後にはイングランドに渡った。

メロヴィング朝の起源を語るこの信じられない話は文字通りに受け取るものではない。それは、非常に記号的(象徴的)なものである。この古代のエジプト人の血統が好む個人的な崇拝の形態がセト神に関わることを認識すると、話の筋が意味を成し始めるのである。

セトは両性具有であった。そこで男性と女性両方の形で崇拝されるのである。我々はメロヴィクス王の生誕の空想的な物語 ―女王と海の怪物からの― が不気味な意味を成すことがわかる。(詳しくはこちら二つ:https://en.wikipedia.org/wiki/Merovech https://en.wikipedia.org/wiki/Apep

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メロヴィクス王の概念の空想的な話、行水の女王と好色な海の化け物からは最もその意味が現れている。女性とウミヘビの混成は、その言葉の背後にアポフィス*を暗示する。エジプトの冥界の神としてアポフィス(或いはアペプ)は実際女性であり、セトと関連付けられる。これは所謂マーメイド(人魚) ―半魚半女性の海の生き物― とよく似た起源である。この神が今日世界で最上位の企業により使用されているのを見るのは偶然ではない。また更にはキリスト教の記号が魚であることも示唆的である。魚或いは海の化け物は、入会者には理解できる、単に龍宮廷或いは蛇の姉妹同胞の色彩に富んだ隠喩に過ぎない。(これについて詳しくは次の二つ:https://infogalactic.com/info/Apep、https://infogalactic.com/info/Apophis

*アポフィス (Apophis) は、エジプト神話に登場する悪神、アペプ(アポピス)のラテン語表記。



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処女マリア、聖母で神の母親は、あまりにも有名なキリスト教の女性偶像である。問題は、彼女がその起源に於いて、100%異教であることである。彼女は蛇の上に立っているが、我々が信じ込まされて来たように、彼女が蛇を踏みつぶしているというのは本当だろうか?彼女は蛇から生じた可能性もあるし、或いは、その顕現かもしれない。それが文字 の背後に示された記号としての彼女の土台で魔除けなのか?キリスト教と猶太教の背後のカルト主義者にとり、アポフィスは元々の偉大な母である。蛇の口許のリンゴはイヴ、つまり初期の旧約聖書の蛇の婦人を含意している。女イルミナティの番組で著者はイヴやマリアが土台とした、古代の世界の女神のどれほど多くが蛇と関連しているかを示した。マリアは屡々、その頭の周囲に12の星と、その足に金星の三日月である三日月と共に見られる。彼女は女ルシファーのマリア(Mary Lucifera)で存在しないことになっている謎のシオン修道会の女王であった。(詳しくはこちら:http://www.irishoriginsofcivilization.com/serpent-symbolism.html

  

 

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Honi soit qui mal y pense​
(悪意を抱く者に災いあれ) Dieu et mon droit
(神とわが権利)

 記号はすべてを語っている。公式には獅子はイングランドを示し、一角獣はスコットランドを示す。然しながら、秘教的には金の獅子はアクエンアテン、つまりアテン信仰者(古代猶太人)の王を示す。それはまた、世界の出来事をブリテンから支配し続けた彼の血統をも示すのである。

白い一角獣は、これらの論説で言及した多数の秘密結社の背景から働く忠実で有能な士官たちを示す。一角獣の首を一周する鎖に注目しよう。それは序列、現状維持、そして不忠や不従順に対して予期される懲罰の警告である。一角獣は、太陽の光、或いはもっと正確には太陽の主、光の君主―を反射するところの、受動的な月を表す。

時に応じて、獅子は龍に似せて様式化される。この場合はその動物は女龍宮廷(female Dragon Court)或いはシオン修道会を表すのである。タルムードではマリアは神の獅子として言及される。三つの獅子の模様が黒い貴族の家紋に見いだされる。(詳しくはこちら:http://www.irishoriginsofcivilization.com/chapter-forty-one.html

 

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 イルミナティはヨーロッパでは嘗て「ミツバチの結社」として知られたことがあった。何故? テンプル騎士団は、その神殿の丘の厩での発掘のうんざりするような作業が終わりを迎えた後、既に蜂の巣の記号を使っていた。これに先立ってミツバチはメロヴィング朝の貴族と古代猶太人(ベニヤミン族)により尊崇されていた。それはまた、階層構造と階級の鍵となる記号としてテンプル騎士団フリーメーソンに使われるものでもある。示唆的に、蜂の巣の中心には女王バチが住んでいる。ここでも、シンボリズム(記号)は多くを語るのである。この話の筋に於いて、ミツバチはシオン修道会を表し、それは王、王子、貴族たちが加入し、加入後は働きバチの群れに仕える、より高い階級の結社員王族を凌駕する王族の女神官の宗派なのである。

 

 

女イルミナティ08

多くの偽情報をつかまされた、或いは意図的に嘘吐きの作家はテンプル騎士団が最後にはその素晴らしい富を失い、恒久的に解散させられたと述べる。これは完全な欺瞞である。この印象を与える公的な或いは個人の記録は、現在に至るまで何世紀もその親方に忠実に仕えて来た彼ら自体の代理人である指名された聖職者軍団(騎士の従者、元帥、軍曹、執事長、執事、牧師など)により作文され、手を加えられたのである。

テンプル帝國を動かした大かたが匿名で官僚的聖職者は、巨大な富、権力、知識と影響力の普遍的副次結社を成した。彼らとその雇い人は法律を超えるところで工作する。歴史的記録の二、三を改変することなど彼らにとっては公園を散歩するようなものである。14世紀初めの騎士団の大粛清と離散の後、そのかなりの世界の持ち分財産の証拠と同様に、彼らの雇人であるテンプル騎士団の上役の正体と居場所を隠すことが、彼らの義務であった。(これら狡猾な聖職者については論説3を参照:http://www.femaleilluminati.com/article-3.html

彼らの途方もない富の推定額には、密接に関係していた別団体のものは含まれない。それらの団体は、シトー会、ホスピタル騎士団マルタ騎士団)、シオン修道会、キリスト騎士団、モンテザ騎士団*、コロンブス騎士団、オプス・デイなどである。最盛期のテンプル騎士団の総資産は1.1兆ドルを超えた可能性があり、これは教皇や他の如何なる組織よりも裕福であったことになる。
*原文Order of Montessa。Order of Montesaの間違いと思われる

テンプル騎士団の巨万の富はまた、聖地に滞在した間に物資供給をしたキリキアの海賊*(ペルシャ系)やイタリアの裕福な商人たちとの秘密の商取引からも来た。多くのイタリア商人と裕福な人間は、テンプル騎士団と密接に関連する集団であるホスピタル(病院)騎士団を作り上げた。ホスピタル騎士団マルタ騎士団と言う名前で今も存在する。その本部はヴァチカン市國近くのローマにある。彼らはまた、プロテスタントの仮面で ―エルサレム聖ヨハネ騎士団― として、マルタ騎士団の故アンドリュー・バーティーの血族である、エリザベス二世女王を首領とし、後援者として活動している。何という偶然の一致だろうか!
*Cilician piratesは、紀元前二世紀からポンペイウスの時代まで地中海を支配した海賊。アナトリア半島小アジア)の南の付け根に当たるキリキア(Cilicia)を拠点としたことからこの名がある。また、この用語はヨーロッパ人が地中海の海賊を指す一般的な呼び名として長く使われた。

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キリキア(Cilicia)の位置

テンプル騎士団の富はまた、エデッサ[1]の貴族との通謀からも来た。この頭目こそが、今では野心家のエデッサ王イザスと明かされている、他ならぬ聖書のイエスである*。この王の母親は強大な母系女王アディアベネのヘレナであり、この女王が著者の意見では、東方イルミナティの最高の首領であった。このエデッサの貴族が最も古いシオン修道会の輝かしい支部であったはずだと著者は信じるのである。
*ラルフ・エリスがエデッサ王イザス=イエス・キリストと言う研究結果を発表した。この説の真偽に拘らず、エデッサ王イザス(マヌ王)が存在したことはその肖像の刻印された紀元一世紀の硬貨が発掘され、確かなようであるが、これに関する情報は頗る少ない。(燈照隅コメント)

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エデッサ國(Country of Edessa)の位置
(図の右上、緑の部分)

エデッサの王族は頗る裕福で、紀元1世紀には彼らはローマ帝国全土の(領有を)主張していた。彼らの子孫が最初の9人のテンプル騎士たちを雇ってエルサレムの神殿の丘とその付近で失われた遺物と宝を手に入れるように依頼した可能性がある。この通謀は恐らく教皇によるテンプル騎士団の迫害と、彼らの究極の教皇キリスト教放棄の理由であった。彼らの指導者が、イザス王とその母親を頂点にしてナザレの第四宗派Nazarene Fourth Sectと提携したなら、何故テンプル騎士団のメーソンが非常に政治的に自由主義的になったかが説明できるのである。(詳しくは、論説4を参照:http://www.femaleilluminati.com/article-4.html

テンプル騎士団の富の説明は、自らが本部と活動の舞台をヨーロッパ、英国とアメリカに移すにつれ、必要な隠蔽が出来たことで最初の十字軍でシオン修道会テンプル騎士団と提携した、よく解らないバビロニアのゲオーニームのことには普通言及しない。最近エッセネ派の「銅の巻物」(所謂死海文書の一つ)でクムランの砂漠の下から見付かった次の証拠は、この議論に確証を与えるものだ。

「フェザーの議論は非常に充分に、このエジプトからのイスラエル人の移民が、出エジプトの間に何故、如何にして偶然にも宝物と宝探しの地図を携えていたのか、についてよく説明している。可能性として存在するのは、この宝の一部は実際エジプトの王子としてモーゼ自身の財産であり、恐らくまた、一神教の神官階級の財産でもあり、モーゼの時代にまだ存在し、それによってモーゼが確認したものであった、と言うことである。」―エレンズ教授Prof. Ellens著「ロバート・フェザー*のクムランの銅の巻物の謎の序論:エッセネ派アクエンアテンの秘宝の記録Introduction to Robert Feather’s The Mystery of the Copper Scroll of Qumran: The Essene Record of the Treasure of Akhenaten」
*Robert Featherは英国の考古学者、著作家ブロードキャスター。HP: http://www.robert-feather.com/

 銅の巻物だけがエッセネ派(ナザレ宗派)がエジプトのアテン信仰者に遡る途方もない富を持って居たことを示す詳述を提供する。フェザー教授は、その金と銀の合計額は、今の通貨で換算すると15億ドル以上であると推計する。この富が、紀元70年のローマによるエルサレム第二神殿破壊後、伝えられるところではイスラエルの数ヶ所に隠され、爾来、所在が全く分からなくなっていたのである。ゲオーニームシオン修道会テンプル騎士団と協力してお宝を探し、そしてテンプル騎士団はその回収の助力でかなりの報酬を得たと著者は信じている。シオン修道会は彼らに褒賞として世界中の財宝、土地と城を与えた。多くのヨーロッパの王族たち ―所謂黒い貴族― はシオン修道会或いはエデッサの君主の子孫である。

テンプル騎士団の富はまた、もう一つの源からも来た ―それは貸金業である。それは、テンプル騎士団の起こり以前のイタリアの金融業者から取り入れられた。キリスト教徒としてテンプル騎士団は公然と利息を付けた金貸しは出来なかったけれども、彼らはこの問題を高利貸しで儲けていたフランス、スペイン、ポルトガルの猶太人と秘密裡に共謀して克服した。

猶太人銀行家が蓄えた厖大な富は、従って、彼等自身のものではなかった。猶太人の寡頭支配者は長きに亙ってテンプル騎士団の上役と「持ちつ持たれつ」の関係*を続けて来たが、それは未だこれから広く認められるべき事実である。彼らの金貸しと金融の活動は、テンプル騎士団が名目上のみのキリスト教徒であった明らかな証拠を提供してくれる。キリスト教イスラム教、猶太教は長きに亙り、このエリート階層の秘密結社にとって役に立つ窓口として使われて来たのである。
*原文「a “tassel to purse” relationship 飾り房と巾着の関係」意味がよく解らないJargon?

 

[1] エデッサ(現シャンルウルファ(トルコ語:Şanlıurfa)、通称ウルファ(Urfa))は、メソポタミア上流の古代の都市(国家)でヘレニズム時代にセレウコス朝創始者であるセレウコス朝初代王ニカトルによって造られ、マケドニアの古都エデッサに因んで名づけられた。後にオスロエネ王国の首都となりローマのオスロエネ地方の首都として継続した。古代の後期にはキリスト教の神学の著名な中心となり、エデッサの教理問答の学派の本拠となった。十字軍の時代にはエデッサ国(エデッサ伯國)の首都であった。

この都市はカブール川の支流を成すデイサン川の堤に位置し、中央にある高い砦、シャンルウルファ城Şanlıurfa Castleで防御されていた。

古代のエデッサは今のトルコのシャンルウルファ地方にあるウルファの前身である。今の街の名前は恐らくUrhay或いはOrhay、つまりセレウコス朝初代王ニカトルによる再建の前のその場所のアラム語の名前から来たものである。セレウコス-パルティア戦争でセレウコス朝が敗北後、エデッサはオスロエネ王国の首都となり、ヘレニズムとセム系文明の混ざった文明となった。オスロエネの名前そのものも恐らくOrhayに関連するものである。

共和制ローマは紀元前69年からオスロエネ王国とその首都エデッサに影響力を行使し始めた。212年若しくは213年にローマの属州となったが、オスロエネ地方の王達も243年若しくは248年まで存在した。古代の終わりにはエデッサはローマとササン朝ペルシャの重要な国境の町となった。ササン朝のシャープール一世による三度目のローマ領内占領に於いてこれに抵抗した。260年のエデッサの戦いでシャープールにローマ皇帝ウァレリアヌスが敗北し、皇帝が生きて捕縛され、これはローマの国家にとって前代未聞の災難となった。古代後期のヴェローナ・リスト(ローマの属州の一覧)にはローマのオスロエネ地方の首都としてエデッサの名前がある。ローマの兵士で歴史家のアンミアヌス・マルケリヌスは街の恐るべき要塞化と、359年のシャープール二世の攻撃に如何に成功裡に抵抗したかについて記述している。

街はギリシャとアラム(シリア)の神学と哲学の中心であり、有名なエデッサ学派を主催した。エデッサは602年~628年のビザンチンササン朝ペルシャ戦争でペルシャの手に陥ちる迄ローマ領であったが、609年にペルシャが支配した。ローマは627年と628年に回復したが、638年にイスラムのカリフ・ラシダンにより再び失い、10世紀中ごろに一時的に回復するまでローマの支配下には戻らなかった。

ビザンチン帝国は再び1031年に支配を回復したが、長続きせずその世紀の終わりまで何度も支配が入れ替わった。第一次十字軍の成功でエデッサ國が設立され、十字軍はセルジュクトルコから街を取った。この国は1144年のエデッサ陥落まで生き残り、その後、ザンギー朝の創始者イマードゥッディーン・ザンギーに占領され、エデッサのマタイによると多くのエデッサ人が殺された。ザンギー朝は1514年のチャルディラーンの戦いのあと、結局1517年にオスマン帝国に吸収された。

女イルミナティ07

論説2 女イルミナティと他の秘密結社 ―テンプル騎士団の力

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             マイケル・サリオンのサイト

           ホームページ:http://www.femaleilluminati.com/article-2.html

 

「それ以来の全ての革命家と殺人者 ―クロムウェル、フランスのアンリ四世の殺人者、ポルトガル・ブラジル・スウェーデンの策謀者、それに勿論ロベスピエールとダントンを含む― は、単一の「テンプル騎士団」結社の一部であった。」―エドワード・バーマン*著「暗殺者:イスラムの聖なる殺し屋」
*Edward Burman(1947~)はアメリカの著作家

イルミナティの著者の番組に於いて著者はテンプル騎士団が死の姉妹の主な触手の役割を果たしたことを証明した。著者は如何にして騎士団がエジプトのアテン信仰者とゲオーニームと繋がるか、如何にしてアイルランドのカルディー人Culdeanの修道士を経由して有史以前の西方のドルイドとバードから取り上げた智慧の集成に到達し利用できるようになったかを示した。彼らの風変わりな身なり、長髪、奇異な伝承、暗示的記号は、その裏で工作する、テンプル騎士団の始まりよりも更に千年も前にブリテンに住み着いていた更に邪悪な結社の門前に我々を導くのである。

勿論、長期に亙って静止しているものは、普通の大衆の世界にも秘密結社の世界にも何もない。短期或いは長期の個人結社員同士或いはある影の結社の支部全体同士の敵対は勿論のこと、大小の論争、確執、大変動がこれまで全ての階層で起きて来た。血で血を洗う喧嘩や戦いで公衆の知るところとなるものがある一方で、仕事で動き回る一般の人々には見えないところで起きるものもある。追及者の中にはこれらの出来事について秘密結社の活動が如何に影響し、世界史を形づくって来たかを示す並外れた本を書いた者もいたのである。著者は下に、近代史の最も邪悪で強大な秘密結社であるテンプル騎士団の歴史と敵対者に関する推薦本の小さな一覧を供する。(註:論説2の章末に載せます)

今少し、権謀術数に長けた(マキアヴェリ的な)テンプル騎士団の富、影響力と支配を過去・現在の著述家のご厚意で見てみよう。

「…テンプル騎士団は王達や君主たちの召使いで仲間となった。ハナから彼らは信頼される宮廷の知り合いであった…。テンプル騎士団の財政的取引は彼らを王族の財務に直接繋いだ。その王族の財務も屡々任されたのである。13世紀の初期よりずっとパリのテンプル騎士団は実質上フランスの国王の財務担当者であった。」―ピーター・パートナー*著「殺された魔術師」
*Peter David Partner (1924~2015) は英国の歴史家。専門は中世のローマと中東史である。

テンプル騎士団は身分の低い貴族の、自分たちがよく知っている仕事をする、家事召使いや官僚を提供したような部類が出身である。その結果として王達はテンプル騎士団の事に影響力があった。英国のリチャード一世とフランスの聖ルイはどちらもテンプル騎士団の大棟梁役の候補者を推挙した。」―同上

教皇アレクサンデル三世は、テンプル騎士団の特権に於いて、全ての教皇の中で最も気前が良かったが、それは騎士団からお金を借りていたからである。この時以来テンプル騎士団教皇の会計係で、医療福祉係であった。彼らはまた十字軍税の集金に関わった…。騎士団の結社は屡々教皇の護身役や腹心の中に居た。」―同上

「どちらの騎士団(テンプル騎士団ホスピタル騎士団)も西方からの大金や物納補助金を支配しただけでなく、東方でも十字軍の国家の政府から寄進された相当広大な荘園を支配した。」―同上

「…一世紀半に亘り、軍事結社(騎士団)の大棟梁に相談せずに、聖地での重要な決定は出来なかった。」―同上

テンプル騎士団の領地は解散後、エルサレム聖ヨハネ騎士団に授与されたが、聖ヨハネ騎士団の継承者であるマルタ騎士団は残りの収入(源)の一部を(その後も)未だ享受していた。」―同上

「彼らは現実問題として生き残りのためにヨーロッパ中の物資供給網の構築に深く関わり、また、農場経営、造船、馬育成、城郭建築、武器製造、経理(会計)に関わった。最後には彼らは自前の聖職者を持つようになり、政治や戦争の領域に深く関わる教皇の特権が与えられた。彼らは自らの利権のための力となり、教皇の個人的軍隊となり、それ以外のヨーロッパの王族やパレスチナの貴族たちへの忠誠から脱した。」―ジェームス・ワッサーマン*著「ソロモン神殿」
*James Wasserman(1948~2020)は、アメリカの著述家でオカルト主義者。O.T.O(Ordo Templi Orientis/東方聖堂騎士団)の一員、セレマ(アレイスター・クロウリーの流れを汲む)であった。

「騎士団はまた、結局のところ、ヨーロッパから聖地への危険な経路を旅をする者や、ヨーロッパのテンプル騎士団の拠点に於ける信託預金によってその財産を守ろうとする者にとって金融事業者として機能し、極端に裕福となった。このようにしてテンプル騎士団は近代の当座預金のような業務をするようになった。巡礼者はヨーロッパでお金を預けてその預金証書を受け取った。巡礼者は旅を進めるに従い、また聖地に到着するとテンプル騎士団の拠点で必要に応じて現金を引き出すことが出来た。」―同上

テンプル騎士団はヨーロッパに於いて、慈善的寄付で霊的な利益を手に入れようとした裕福な貴族たちによる寄進で広大な地所を蓄積した。」―同上

「13世紀の初めまでにテンプル騎士団はヨーロッパの国際金融業者となり、フランスの皇室とヴァチカンの財務担当者に任命された。」―マイケル・ハワード著「オカルト(秘教)の陰謀Occult Conspiracy」

「殆ど即座にテンプル騎士団はヨーロッパのあらゆる王家の金融業者となった。彼らは窮乏した君主にお金を低金利で貸し付け、また商業金融業者にお金を移動(融資)した…。彼らは両替商となり、君主の間の外交を仕切る強大な資本家となった。イングランドではテンプル騎士団の大棟梁に、全ての他の小修道院長や修道院長に優る優先権が付与された。」―ニコラス・ハッガー著「西洋の秘史Secret History of the West」

「…テンプル騎士団はヨーロッパ中に九千を超える荘園を保有し、更に製粉工場や市場も保有していた。これらの収入を生み出す財産に加えて、テンプル騎士団は他の収入源があった。団員が獲得或いは共有した戦利品は騎士団のものになった。二百年に亙るその存在の間、二万人以上の入会者が土地やお金を持参金として騎士団にもたらしたのであった。―ジョン・J・ロビンソン*著「血統に生れてBorn in Blood」
*John J. Robinson(1918~1996)はアメリカの著作家。注意:John Robinson(1739~1805)とは別人。

テンプル騎士団は様々な規模の荘園を北はデンマークスコットランドオークニー諸島、そして南はフランス、イタリア、スペインに至るヨーロッパ中に所有するに至った。イングランドウェールズだけで彼らは五千以上の不動産(領地)を持って居た。彼らはまたエチオピアに大きな存在感を打ち立ててその利権をアフリカに拡大したのだが、そのエチオピアではエッセネ派のエノク文書が幾世紀も後になって再発見された。」―クリストファー・ナイト*、アラン・バトラー共著「ヒラムの鍵再訪The Hiram Key Revisited(2010年)」
*Christopher Knight:詳細不明

「…テンプル騎士団は1154年までにイングランドで揺るぎなく支配確立し、その時すでに重要な土地、特権と免責を与えられて居た。これはテンプル騎士団がその巨大な権力、富と影響力の構造を打ち立てる土台であった。」―トーマス・パーカー*著「イングランドにおけるテンプル騎士団(1963年)」
*Thomas William Parker:詳細不明

「彼らはその国の金融代理人としての能力に於いて…一時は王たちの行政に直結する一部となった…。経済的案件に於いてテンプル騎士団はそのもっとも重要な役割を果たした。効率よく管理している自らの領地と製品により裕福で、利益を得る元の貿易や商業活動に常に積極的で、自ら効率的に創意工夫して金融の問題に深く関わったテンプル騎士団は熟練した会計士となり、優れた管理者となり、活発な信用の発行者となった…。ごく実際的な意味において12世紀後半から13世紀の全ての期間、彼らはイングランドの最も巨大な金融業者であり、猶太人など容易く霞んでしまう程であったが、最後にはイタリア商人たちによって自らが霞んでしまう存在になったのである。」―同上

イングランドテンプル騎士団は、継続的に、そしてかなりの速度でその不動産を拡大し、國の屈指の大地主となった。」―同上

「農業はイングランド中で営まれ、それは騎士団の最も重要な経済であったが、その他にテンプル騎士団は貿易と商業活動と金融操作にも携わった。羊毛、そして規模は小さいがフランダースやフランスに送られた穀物は主な輸入品であった。農業ほどではなかったが、貿易よりもさらに重要であったのがテンプル騎士団の数々の金融活動であった。通貨の交換、現金や貴重品の預金としての受け容れ、資金の移転、現金や信用手段の発行、信託の執行、貸付の実行は組織的に広く営まれた。実際、13世紀の後半にイタリア商人に取って代わられるまで、テンプル騎士団は西欧に於いて一番の金融業者であった。イングランドに於いて彼らの主な顧客は王族たちであった。」―同上

テンプル騎士団イングランド国王との緊密な関係はまた、特権の付与と国王の経済と同様に政治・行政の官吏や顧問としての登用にも見られる。彼らの宗教的特権と教会のあらゆる類の税の免除、それに教皇の権威を除く全ての教会の権威からの独立は、ステファン国王からエドワード一世に至る全ての国王により付与され、繰り返し肯定・確認された彼らの政治的特権、更に世俗の租税の免除と通常の封建的重責(義務)の免除、また、それに加えてその家臣と賃借人同様、その所有地と人員、更にの管轄権の免除も与えられたのであった。これらの特権はテンプル騎士団を地域の教会と世俗の権威から独立させ、教皇と国王にのみ責任があるようにした。國王達はテンプル騎士団を、使節や顧問として、そして王家の収入の集金人や保管人として頼りがいがあり実務に役立つと考えていた。」―同上

テンプル騎士団は、最後には余りにも裕福となったので、王国の領域内で運営する領主の中には彼らの支援に完全に頼り切る者も現れた。英国の王族の中にはテンプル騎士団への莫大な借金の担保として、自身の領地の財務を騎士団のロンドン本部に手渡す者もいた。これはテンプル騎士団に(領主の)決定権(裁量権)への巨大な影響力を与えることとなり、彼らはすっかり戦争をする領主の仲裁者として振舞うようになった。」―アラン・バトラーとステファン・デフォー共著「明かされたテンプル騎士団

「『テンプル騎士団が帝國を始めるきっかけとなった財政的な推進力は一体どこから来たのか』について我々には尋ねる資格がある。1128年にトロイの会合に参加した9人の騎士たちは、正統派の説明によると、『貧乏』であった。実際、彼らは『キリストとソロモンの神殿(テンプル)の貧乏な騎士たち』であったため、これがその団体の選んだ名前に反映されたのであった。たとえ、創設者の騎士たち自身が中流の貴族の血筋でなかった(もっと下層であった)としても、彼らには極めて裕福な支援者が居り、その中の一人は途方もなく裕福なシャンパーニュ伯爵ユーグ*であったに違いない、何事も真実からは遠からず、である…。しかしシャンパーニュ伯のお金を全て以てしてもテンプル騎士団の戦場に於ける手柄の資金としてすら充分ではなかったはずである。」―同上
*シャンパーニュ伯ユーグ(在位:1093~1125)ブロワ家のフランス貴族。シャンパーニュ伯領は1314年にフランス王領に統合された。(?これはテンプル騎士団が禁令されて間もなくですね ―燈照隅コメント)

テンプル騎士団は聖なる兵士の集まりとは似ても似つかなかった。彼らは巨大な規模の国際金融に関わるようになり、その時代までに存在した最大の商船団を動かしていた。テンプル騎士団は町と言う町を所有し、支配し、さらに重要なことには、その貸金の策謀により、彼らに対する重い債務を抱えた多くの国家の王様達もまた支配した。」―アラン・バトラー著「女神の都市」

「彼らは『貧乏なキリストの兵士仲間』として舞台に登場したが、これ以上不正確な記述はない。その幹部にはヨーロッパで最も裕福な人々が居たことがわかるはずだ。つまり、顧客がブランシュ・ド・カスティーユやアルフォンス・ド・ポワティエやアルトワ伯ロベールであるロンドンやパリの主要な銀行家であった。アラゴンのハイメ1世の財務大臣ナポリ王カルロ1世の財務大臣、それにフランス国王ルイ7世の財務大臣は全員がテンプル騎士団であった。」―アドナン・オクタル*(アドナン・ホカ、ハルン・ヤヒヤ)著「テンプル騎士団
*Adnan Oktar (1956~)又はアドナン・オクタル、別名アドナン・ホカAdnan Hoca、ハルン・ヤヒヤHarun Yahya、は、トルコの宗教の指導者で、創造論者、陰謀論者。

「…テンプル騎士団キリスト教國に九千の荘園或いは領地を所有していた。他にも絶え間ない慈善事業への遺贈や敬虔な人間からの現金の寄付など、大きな収入と莫大な富があった。エーカー(現イスラエルのアッコ)の司教・ジャック・ド・ヴィトリ*は次の様に言う。『彼らはまた、東方・西方の両方で莫大な広さの農園、町、村に恵まれており、その収入から毎年いくらかを聖地の防衛のためにエルサレムにある彼らの団体の本部に送っていた。』」―チャールス・G・アディソン**著「テンプル騎士団の歴史(1842年)」
*原文はJames de Vitry。Jacques de Vitryの間違いと思われる
**Charles Greenstreet Addison(1812~1866)はイギリスの弁護士で、歴史、旅行、法律の作家。

「我々は依然にヘンリー1世とステファン王とその王妃の王様のテンプル騎士団への寄付の説明をした。ヘンリー2世の敬虔な寄付金はこれを大幅に上回るものであった。この君主は、自らの魂の善と自国の福祉を記念して、ロンドンのベイナーズ城*の近く、フリート川の畔の場所をその川の流れもろとも、水車(粉ひき工場)を建てるためにテンプル騎士団に寄進し、またフリート街近くの家屋敷と聖クレメントの教会も寄進した。」―同上
*原文はBainard’s Castle、Baynard’s Castleの間違いと思われる

テンプル騎士団は、その驚くべき富に加えて、この国の中で大きな特権と義務の免除を受けた。ジョン王の治世、彼らは大蔵大臣の裁量罰金*すべてから逃れ、また、国王或いはその最高判事の前を除いて、答弁を強要されない特権を得た。ヘンリー三世は彼らの占有地(占領地域)に於けるfree warren(地域住民に対する自由支配権?)を与えた。そして、その有名な治世9年目の2月9日付の勅許によりヘンリー三世は、その先代たちと他の寄進者のすべての寄付をテンプル騎士団に対して追認した。」―同上
*原文:amerciaments in the Exchequer。amerciamentは正式に定められた罰金以外に、裁判所や他の当局の裁量で課せられた罰金のこと。

「これらの特定の特権に加えて、テンプル騎士団ローマ教皇の大勅書の権威の下に様々な義務の免除や有利な条件(利益)を享受していた…。彼らは十分の一税(農園に課せられた税)の義務を…免除され、寧ろ、司教の同意の下に受け取っていた可能性もある。テンプル騎士団の団員は司教や司祭が破門することは出来なかったし、聖座の特別な命令による場合を除き、傘下の教会を禁止することも出来なかった。」―同上

「聖地の後援の為の慈善寄付集めに任命されたテンプル騎士団の団員は誰でも、(聖域の)禁制の敷かれた都市、城、村に着けば、教会は、彼らを歓迎してさっと開門することになっており(年に一度)そして神聖な典礼テンプル騎士団の名誉と聖なる兵士たちの崇敬に於いて行われることになっていた。聖域の特権が騎士団の住まいにも乱用され、様々な教皇の勅書により、誰もテンプル騎士団の家に逃げ込む者やその財産に手をかけてはならない、と厳粛に申し付けられた。」―同上

「1139年、教皇の勅書が教皇インノケンティウス2世 ―前クレルヴォーのシトー会修道士で、聖ベルナール(クレルヴォーのベルナルドゥス)の子分であった― により発せられた。この勅書によると、テンプル騎士団教皇以外に世俗的・聖職的に忠誠を誓う相手は一切ない。換言すれば、彼らは全ての国王、君主、高位聖職者、そしてあらゆる政治的宗教的権威のどちらの干渉からも完全に独立したことになった。彼らは、実質上、自らの法となり、自治的国際帝國となったのであった。」―マイケル・ベイジェント*、ヘンリー・リンカーン**、リチャード・リー***共著「聖なる血、聖なる盃Holy Blood, Holy Grail」
*Michael Baigent(1948~2013)は歴史家で、歴史とイエスの生涯に対する伝統的な認識を疑問視する多くの人気のある作品を出版した。
**Henry Lincoln(1930~)は英国の作家、テレビのプレゼンター、脚本家、俳優。
**Richard Harris Leigh(1943~2007)は、米NJ州で英国人の父親と米国人の母親の間に生まれた小説家。短編小説作家。人生の殆どを英国で過ごした。

イングランドでは…テンプル騎士団の団長は国王の議会に定期的に呼ばれ、全ての宗教団体の長と見做され、国内の全ての小修道院長や修道院長よりも優先権を取った。ヘンリー二世とトマス・ベケット(Thomas à Becket)のどちらとも緊密な繋がりを維持し、テンプル騎士団は主権者(国王)とその追放された大司教*の和解に尽力した。ジョン王を含む歴代のイングランドの国王はテンプル騎士団のロンドンの会堂に屡々住み、騎士団の大棟梁は君主の脇に立ってマグナカルタの署名に立ち会った。」―同上
*トマス・ベケットカンタベリー大司教になった後、教会の自由を巡ってヘンリー二世と対立し、1164年に国外逃亡した。その後1170年に和解したが、同年、ヘンリー二世の息が掛かった司教を懲戒したことからヘンリー二世を激怒させ、その意を汲んだ騎士に暗殺された。

「宗教的団体のすべてが一般の在家の人々に貴重品の預け入れとして利用され、また在家の人々が現金の要るときにはお金を貸すように頼まれた。テンプル騎士団は、国王に医療福祉、財務担当者、現金の輸送者として利用されていたという同じ理由から、特にこれらの類の金融役務の提供者としてよく知られるようになり、騎士団は取り立て、安全な保管の仕組みを発展させ、西方の巨額の現金や他の貴重品を東方へ持ち込むための移送の仕組みを考案した。ロンドンとパリの新しい本部はどちらも商人の貴重品預け入れに多く利用された。…テンプル騎士団に預け入れられた金銭はその不手際に関する苦情が注目される程殆どない。」―ヘレン・ニコルソン*著「テンプル騎士団
*Helen Nicholson(1960~)は中世史学者。前カーディフ大学歴史学部長で軍事宗教結社と十字軍、それにテンプル騎士団の専門家。

「…テンプル騎士団は集団的に、数え切れないほどの教会の財源を凌駕する、ヨーロッパで最も裕福な団体となりつつあった。」フレディー・シルヴァ*著「最初のテンプル国家」
*Freddy Silvaは代替歴史、古代知識、聖なる場所などに関する著作家

「…テンプル騎士団は、ヨーロッパで起きていること全てにとって絶対的な中心であり続け、更には、彼らは部分的に我々が今日知るところの西側世界の形成に尽力したのであった。」―ステファン・デフォー著「騎士と金融業者」

「1250年までに、テンプル騎士団は大部分が秘密の閉じられた結社になり果てた。彼らの入会儀式は視界から隠され、同様にその活動(工作)と内部規則もそうなり、騎士団と関係のある大多数の人間は今や荘園の管理者、労働者と国際貿易・金融業者となった。犯罪者すら、貴重な技能や資源を持って居れば入会を許され…騎士団はヨーロッパ世界で一番の金融企業となった。王族や貴族はテンプル騎士団の財源から金を借りた。騎士団はまた、財政投資も、年金(定期預金)や恩給と同様に提供した。」―ハーシュマン*とイェイツ**共著「スコットランドが猶太であった時代When Scotland Was Jewish」
*Elizabeth Caldwell Hirschman(1949~)は歴史学・系譜学のアメリカ人?著作家
**Donald N. Yates(又はDonald Panther-Yates、1950~)は1/4アメリカ先住民を祖先に持つ米国の著作家

女イルミナティ06

有名なメーソンの印に(また団体のロゴにも)見られる「G」の文字は、この華々しい中核(ゲオーニーム)を示すだけでなく、彼らが仕える得体のしれない奇妙な選ばれし集団すらをも表わすのであり、その選ばれし集団を著者は「蛇の姉妹の同胞」或いは女イルミナティと呼ぶのである。(Gの小文字「g」は蛇或いは龍を表す。)Gの周りによく見られる放射の光は太陽の光ではなく、金星のものであり、それは姉妹にとって神聖で、秘教の仲間内ではシェキナShekinahとして知られている。

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ジョージ・ワシントン

メーソンとその同類の結社については、その高位で知識のある人間が加入し、参加したくなるだけの、何か秘密であるだけでなく、特権があるに違いない。ゲオーニーム主義者?(Gaonate)は、紀元70年のエルサレムの破壊以後地下に潜ったパリサイ人とサドカイ人のエリートで構成されていた。これらのエリートは既に、猶太・パレスチナ・ローマに多くの心酔者と代理人が居たエジプトのメルキゼデク(アクエンアテン)の結社の一部であった。普通の正統派猶太人はエホバ、男神を崇拝するけれども、猶太教の裏に居るその上層部(ゲオーニーム、シャブタイ、フランク主義者など)は、シェキナShekinahとしても知られる女神アシェラAsherah(ヴィーナス、ルシファー)を崇拝している。ワシントンが立っている市松模様の床は、金星の二つの相  ―明け(の明星)と宵(の明星)― を表している。ワシントンの頭上の、セトを表す三日月と彗星にも注目しよう。これらの天界の思想の理由についてはプログラムで解説している(詳しくはこちら:https://unslaved.com/female-illuminati-program/

ジョージ・ワシントンの子羊のなめし皮の前掛け(アブネットabnet)に注目しよう。前掛けは女性の記号で、元々はエジプトで半分裸の思春期の女性が月経の間その性器を隠すために着けた。メーソンは、象徴的に自分たちを女性化し、女神に仕える際に儀式的に(或いは恐らく肉体的にすら)去勢された男として自分たちを表すためにそれを着けた。著者のプログラムで示したように、メーソンの前掛けには女性の記号が満載である。ヴァイスハウプト、ロヨラ、それに彼らに類する異常な男は、カトリック教会やテンプル騎士団などの家父長制の組織の見せかけの裏で彼らの病的傾向を巧みに隠している去勢された不能男であった可能性は(非常に高く)疑いの余地が非常に小さい。で、テンプル騎士団自体が龍の姉妹の同胞の熱心な使徒であった。性器の「傷」は、冥界の淵に落ち、その活力と権威を奪われたルシファーの傷の儀式的模倣としても使われるのである。

 

黒いロッジの代理人は、世界中のマルタ騎士団、大東社、オプス・デイ、コロンブス騎士団、キリスト騎士団、聖堂騎士団、シッスル騎士団、聖パトリック騎士団、アイルランド人聯合団(United Irishmen)、ハイバーニア人古代結社(Ancient Order of Hibernians)などのような他の機能している秘密結社に工作を指示する。彼らはまた、薔薇十字団、聖ヨハネ騎士団、オレンジ騎士団(Orange Lodge)、ロイヤル・ブラック財団(Black Perceptory)などの表面上はプロテスタントの結社も支配する。これは、シンボリズム(記号学)とこれらの結社の政治的指向を研究すれば明白となる。

然し、我々が、少ししか知られていない華々しい結社 ―ゲオーニーム― の起源について尋ねた時に、一体何と告げられたことか? まあ、通常の宗教的猶太人は自分たちが丸呑みした欺瞞を繰返すことに慣らされている。彼らは、我々にこう告げるのである。即ち、恐らくそれは、紀元70年のエルサレムの神殿破壊後でパリサイ人とサドカイ人の間で分裂が生じたことが起こりである、と。彼らはまた、モーゼがシナイ山で秘密の口述の法つまりトーラーを70人のイスラエルの長老に傳授したときにその起源があるとも、或いは、イスラエル人がバビロン捕囚から解放された後に設立されたとも、秘密の13番目の部族レヴィ族の時代に遡るとも言うのである。

これは、我々がレヴィ族自身が更に(オカルト仲間の間でモーゼ、アーロン、メルキゼデクとして知られる)アクエンアテンと、正史派の歴史家が理路整然と言及することを躊躇う強大なヒクソスの貴族の時代まで遡る祖先を持って居ることを理解する限り、そう言う意味では本当である。これは主に彼らが普通一般の人が知ってはいけないことになっていること ―ヒクソスの貴族(とレヴィ族)は元々、アイルランドイングランドスカンジナビアからの高貴な生まれのスキタイ人であること― を知っているためである。そうなのだ。多くは虚偽の手掛かりと行き止まりなのである。注意深く捏造された出鱈目と煙幕の後ろを理解するには多年に及ぶ骨の折れる研究を要するのである。

結局のところ、ヒクソス-アテン信仰者の末裔のメロヴィング王朝とテンプル騎士団の助けを以てゲオーニーム(つまりメルキゼデク結社)は西方に移り、「フリーメーソン」と言う肩書で看板をかけ替えた。ユダヤ人の見せかけの下で、ゲオーニームの聖なる伝統を守り、「兄弟」が秘密裏に会って陰謀を企てることを可能にするために、悪名高いロッジ・セオドアのようなロッジが形成さたのである。

これは、何故そんなにも多くのメーソンの言葉の比喩的用法や儀式の思想がその起源に於いて「猶太的」に見えるかを説明してくれる。部外者の研究者は過誤でメーソンの記号にあるのはこれですべてと信じている。それが彼らが信じることになっているのである。実際メーソンの記号は、その構成と配列のすべてに於いて、ユダヤ教の起こりよりも遡る。著者が示すようにメーソンのような猶太密教は、エジプトのアテン信仰の形式に於ける堕落したアイルランドドルイド教に外ならないのである ―ユダヤ教のエホバが光の主であるアテンに外ならないように。(この長大な物語については、著者の「文明のアイルランド起源」のサイトを:http://www.irishoriginsofcivilization.com/

論説4では著者は背景を詳述し、ゲオーニームが仕える者について、そして、メーソンのように、彼らは実在して活動している女龍宮廷の支部であることを説明する。

「古代の中心的な秘儀に於ける女性の完全な参加はこれまでに認められていたよりもずっと根深く、多くの高い地位の女性がエジプトの神殿の最も内密な秘儀に完全に通じた者であった。」―トニー・ブッシュビー著「聖書における秘密」

メーソンの起源に関する多くの虚偽の理由については著者の女イルミナティの番組で説明している。著者はメーソンの記号が実際何を示しているのか明かし、誰が最も高い階層から支配し、指示しているかを明かした。

論争の的となろうが、著者はメーソンが我々が信じるように誘導されているような男性優位の組織ではないことを示した。逆に、メーソンの男性優位の親結社は、幾世紀にも亙ってその存在が秘密にされて来た至高に強大な女の少数集団により元々設立され支配された。著者が個人的に頻りに興味をそそられるのはこのメドゥーサ的?(medusan)蛇の姉妹の同胞Serpentine Sisterhood(或いは龍宮廷)の存在と歴史なのである。著者はこの集団の歴史が古代シリアやパルティアやエジプトだけでなく、大洪水以前の世界 ―そう、アトランティスまで遡れるのではないかと信じている。

これらの影のカバルは、捕食者の類である。一度この本当の悪の本質についての事実を手に入れれば、我々は彼らに対抗し、破壊することすら可能である。悲しいことに我々の殆どは、その悪が、特に社会経済的権力ピラミッドのより高いところから発して蠢いていることに関して恐ろしいほど無知なのである。この物に溢れた現代においては我々は極端にこの手の課題に対して後ろ向きなのである。

我々は衰微の状態や我々の世界の兄弟姉妹の窮状について、非常に気がかりになるものである。それは良いが、しかし、我々がこの深い草むらに居て、我々の良き働きを破壊するために動いている捕食性の虎を理解し損なっていて、一体我々の人道主義にどれほどの価値があるのだろうか? その起源、習性、意図について我々は何を知っているのか? あちら側は我々について非常によく知って居り、そのことが今までずっとその巨大な勝負ごとに勝ってきた理由なのである。この状況は変えなければならない、しかも早急に!

イルミナティの番組は、何十年もの間の骨の折れる努力の結果である。それは、我々が全員が巻き込まれている物議を醸す世界の絵をゆっくりと張り合わせたものである。発掘現場の考古学者のように、結果として羊皮紙が、壺がどのように見えるものかはわからないものだ。組み終わるまで、徐々に破片を組み立てて、そして漸くその前に立ってそれが過去の世界について何を伝えてくれるかがわかるのである。これが著者が何年もの間してきたことであり、それは非常に価値のある取り組みであった。

それは偉大な研究である。何故ならそれは、あまりに長い間、我々の世界を病ませ悩ませて来た病的な犯罪一家を暴露し、そして何が起きようと終わらせなければならない古くからの意識上の戦争に対抗し阻止するからである。

  (これで論説1は終わりです。次回から論説2です ―燈照隅)