女イルミナティ08

多くの偽情報をつかまされた、或いは意図的に嘘吐きの作家はテンプル騎士団が最後にはその素晴らしい富を失い、恒久的に解散させられたと述べる。これは完全な欺瞞である。この印象を与える公的な或いは個人の記録は、現在に至るまで何世紀もその親方に忠実に仕えて来た彼ら自体の代理人である指名された聖職者軍団(騎士の従者、元帥、軍曹、執事長、執事、牧師など)により作文され、手を加えられたのである。

テンプル帝國を動かした大かたが匿名で官僚的聖職者は、巨大な富、権力、知識と影響力の普遍的副次結社を成した。彼らとその雇い人は法律を超えるところで工作する。歴史的記録の二、三を改変することなど彼らにとっては公園を散歩するようなものである。14世紀初めの騎士団の大粛清と離散の後、そのかなりの世界の持ち分財産の証拠と同様に、彼らの雇人であるテンプル騎士団の上役の正体と居場所を隠すことが、彼らの義務であった。(これら狡猾な聖職者については論説3を参照:http://www.femaleilluminati.com/article-3.html

彼らの途方もない富の推定額には、密接に関係していた別団体のものは含まれない。それらの団体は、シトー会、ホスピタル騎士団マルタ騎士団)、シオン修道会、キリスト騎士団、モンテザ騎士団*、コロンブス騎士団、オプス・デイなどである。最盛期のテンプル騎士団の総資産は1.1兆ドルを超えた可能性があり、これは教皇や他の如何なる組織よりも裕福であったことになる。
*原文Order of Montessa。Order of Montesaの間違いと思われる

テンプル騎士団の巨万の富はまた、聖地に滞在した間に物資供給をしたキリキアの海賊*(ペルシャ系)やイタリアの裕福な商人たちとの秘密の商取引からも来た。多くのイタリア商人と裕福な人間は、テンプル騎士団と密接に関連する集団であるホスピタル(病院)騎士団を作り上げた。ホスピタル騎士団マルタ騎士団と言う名前で今も存在する。その本部はヴァチカン市國近くのローマにある。彼らはまた、プロテスタントの仮面で ―エルサレム聖ヨハネ騎士団― として、マルタ騎士団の故アンドリュー・バーティーの血族である、エリザベス二世女王を首領とし、後援者として活動している。何という偶然の一致だろうか!
*Cilician piratesは、紀元前二世紀からポンペイウスの時代まで地中海を支配した海賊。アナトリア半島小アジア)の南の付け根に当たるキリキア(Cilicia)を拠点としたことからこの名がある。また、この用語はヨーロッパ人が地中海の海賊を指す一般的な呼び名として長く使われた。

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キリキア(Cilicia)の位置

テンプル騎士団の富はまた、エデッサ[1]の貴族との通謀からも来た。この頭目こそが、今では野心家のエデッサ王イザスと明かされている、他ならぬ聖書のイエスである*。この王の母親は強大な母系女王アディアベネのヘレナであり、この女王が著者の意見では、東方イルミナティの最高の首領であった。このエデッサの貴族が最も古いシオン修道会の輝かしい支部であったはずだと著者は信じるのである。
*ラルフ・エリスがエデッサ王イザス=イエス・キリストと言う研究結果を発表した。この説の真偽に拘らず、エデッサ王イザス(マヌ王)が存在したことはその肖像の刻印された紀元一世紀の硬貨が発掘され、確かなようであるが、これに関する情報は頗る少ない。(燈照隅コメント)

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エデッサ國(Country of Edessa)の位置
(図の右上、緑の部分)

エデッサの王族は頗る裕福で、紀元1世紀には彼らはローマ帝国全土の(領有を)主張していた。彼らの子孫が最初の9人のテンプル騎士たちを雇ってエルサレムの神殿の丘とその付近で失われた遺物と宝を手に入れるように依頼した可能性がある。この通謀は恐らく教皇によるテンプル騎士団の迫害と、彼らの究極の教皇キリスト教放棄の理由であった。彼らの指導者が、イザス王とその母親を頂点にしてナザレの第四宗派Nazarene Fourth Sectと提携したなら、何故テンプル騎士団のメーソンが非常に政治的に自由主義的になったかが説明できるのである。(詳しくは、論説4を参照:http://www.femaleilluminati.com/article-4.html

テンプル騎士団の富の説明は、自らが本部と活動の舞台をヨーロッパ、英国とアメリカに移すにつれ、必要な隠蔽が出来たことで最初の十字軍でシオン修道会テンプル騎士団と提携した、よく解らないバビロニアのゲオーニームのことには普通言及しない。最近エッセネ派の「銅の巻物」(所謂死海文書の一つ)でクムランの砂漠の下から見付かった次の証拠は、この議論に確証を与えるものだ。

「フェザーの議論は非常に充分に、このエジプトからのイスラエル人の移民が、出エジプトの間に何故、如何にして偶然にも宝物と宝探しの地図を携えていたのか、についてよく説明している。可能性として存在するのは、この宝の一部は実際エジプトの王子としてモーゼ自身の財産であり、恐らくまた、一神教の神官階級の財産でもあり、モーゼの時代にまだ存在し、それによってモーゼが確認したものであった、と言うことである。」―エレンズ教授Prof. Ellens著「ロバート・フェザー*のクムランの銅の巻物の謎の序論:エッセネ派アクエンアテンの秘宝の記録Introduction to Robert Feather’s The Mystery of the Copper Scroll of Qumran: The Essene Record of the Treasure of Akhenaten」
*Robert Featherは英国の考古学者、著作家ブロードキャスター。HP: http://www.robert-feather.com/

 銅の巻物だけがエッセネ派(ナザレ宗派)がエジプトのアテン信仰者に遡る途方もない富を持って居たことを示す詳述を提供する。フェザー教授は、その金と銀の合計額は、今の通貨で換算すると15億ドル以上であると推計する。この富が、紀元70年のローマによるエルサレム第二神殿破壊後、伝えられるところではイスラエルの数ヶ所に隠され、爾来、所在が全く分からなくなっていたのである。ゲオーニームシオン修道会テンプル騎士団と協力してお宝を探し、そしてテンプル騎士団はその回収の助力でかなりの報酬を得たと著者は信じている。シオン修道会は彼らに褒賞として世界中の財宝、土地と城を与えた。多くのヨーロッパの王族たち ―所謂黒い貴族― はシオン修道会或いはエデッサの君主の子孫である。

テンプル騎士団の富はまた、もう一つの源からも来た ―それは貸金業である。それは、テンプル騎士団の起こり以前のイタリアの金融業者から取り入れられた。キリスト教徒としてテンプル騎士団は公然と利息を付けた金貸しは出来なかったけれども、彼らはこの問題を高利貸しで儲けていたフランス、スペイン、ポルトガルの猶太人と秘密裡に共謀して克服した。

猶太人銀行家が蓄えた厖大な富は、従って、彼等自身のものではなかった。猶太人の寡頭支配者は長きに亙ってテンプル騎士団の上役と「持ちつ持たれつ」の関係*を続けて来たが、それは未だこれから広く認められるべき事実である。彼らの金貸しと金融の活動は、テンプル騎士団が名目上のみのキリスト教徒であった明らかな証拠を提供してくれる。キリスト教イスラム教、猶太教は長きに亙り、このエリート階層の秘密結社にとって役に立つ窓口として使われて来たのである。
*原文「a “tassel to purse” relationship 飾り房と巾着の関係」意味がよく解らないJargon?

 

[1] エデッサ(現シャンルウルファ(トルコ語:Şanlıurfa)、通称ウルファ(Urfa))は、メソポタミア上流の古代の都市(国家)でヘレニズム時代にセレウコス朝創始者であるセレウコス朝初代王ニカトルによって造られ、マケドニアの古都エデッサに因んで名づけられた。後にオスロエネ王国の首都となりローマのオスロエネ地方の首都として継続した。古代の後期にはキリスト教の神学の著名な中心となり、エデッサの教理問答の学派の本拠となった。十字軍の時代にはエデッサ国(エデッサ伯國)の首都であった。

この都市はカブール川の支流を成すデイサン川の堤に位置し、中央にある高い砦、シャンルウルファ城Şanlıurfa Castleで防御されていた。

古代のエデッサは今のトルコのシャンルウルファ地方にあるウルファの前身である。今の街の名前は恐らくUrhay或いはOrhay、つまりセレウコス朝初代王ニカトルによる再建の前のその場所のアラム語の名前から来たものである。セレウコス-パルティア戦争でセレウコス朝が敗北後、エデッサはオスロエネ王国の首都となり、ヘレニズムとセム系文明の混ざった文明となった。オスロエネの名前そのものも恐らくOrhayに関連するものである。

共和制ローマは紀元前69年からオスロエネ王国とその首都エデッサに影響力を行使し始めた。212年若しくは213年にローマの属州となったが、オスロエネ地方の王達も243年若しくは248年まで存在した。古代の終わりにはエデッサはローマとササン朝ペルシャの重要な国境の町となった。ササン朝のシャープール一世による三度目のローマ領内占領に於いてこれに抵抗した。260年のエデッサの戦いでシャープールにローマ皇帝ウァレリアヌスが敗北し、皇帝が生きて捕縛され、これはローマの国家にとって前代未聞の災難となった。古代後期のヴェローナ・リスト(ローマの属州の一覧)にはローマのオスロエネ地方の首都としてエデッサの名前がある。ローマの兵士で歴史家のアンミアヌス・マルケリヌスは街の恐るべき要塞化と、359年のシャープール二世の攻撃に如何に成功裡に抵抗したかについて記述している。

街はギリシャとアラム(シリア)の神学と哲学の中心であり、有名なエデッサ学派を主催した。エデッサは602年~628年のビザンチンササン朝ペルシャ戦争でペルシャの手に陥ちる迄ローマ領であったが、609年にペルシャが支配した。ローマは627年と628年に回復したが、638年にイスラムのカリフ・ラシダンにより再び失い、10世紀中ごろに一時的に回復するまでローマの支配下には戻らなかった。

ビザンチン帝国は再び1031年に支配を回復したが、長続きせずその世紀の終わりまで何度も支配が入れ替わった。第一次十字軍の成功でエデッサ國が設立され、十字軍はセルジュクトルコから街を取った。この国は1144年のエデッサ陥落まで生き残り、その後、ザンギー朝の創始者イマードゥッディーン・ザンギーに占領され、エデッサのマタイによると多くのエデッサ人が殺された。ザンギー朝は1514年のチャルディラーンの戦いのあと、結局1517年にオスマン帝国に吸収された。