女イルミナティ07

論説2 女イルミナティと他の秘密結社 ―テンプル騎士団の力

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             マイケル・サリオンのサイト

           ホームページ:http://www.femaleilluminati.com/article-2.html

 

「それ以来の全ての革命家と殺人者 ―クロムウェル、フランスのアンリ四世の殺人者、ポルトガル・ブラジル・スウェーデンの策謀者、それに勿論ロベスピエールとダントンを含む― は、単一の「テンプル騎士団」結社の一部であった。」―エドワード・バーマン*著「暗殺者:イスラムの聖なる殺し屋」
*Edward Burman(1947~)はアメリカの著作家

イルミナティの著者の番組に於いて著者はテンプル騎士団が死の姉妹の主な触手の役割を果たしたことを証明した。著者は如何にして騎士団がエジプトのアテン信仰者とゲオーニームと繋がるか、如何にしてアイルランドのカルディー人Culdeanの修道士を経由して有史以前の西方のドルイドとバードから取り上げた智慧の集成に到達し利用できるようになったかを示した。彼らの風変わりな身なり、長髪、奇異な伝承、暗示的記号は、その裏で工作する、テンプル騎士団の始まりよりも更に千年も前にブリテンに住み着いていた更に邪悪な結社の門前に我々を導くのである。

勿論、長期に亙って静止しているものは、普通の大衆の世界にも秘密結社の世界にも何もない。短期或いは長期の個人結社員同士或いはある影の結社の支部全体同士の敵対は勿論のこと、大小の論争、確執、大変動がこれまで全ての階層で起きて来た。血で血を洗う喧嘩や戦いで公衆の知るところとなるものがある一方で、仕事で動き回る一般の人々には見えないところで起きるものもある。追及者の中にはこれらの出来事について秘密結社の活動が如何に影響し、世界史を形づくって来たかを示す並外れた本を書いた者もいたのである。著者は下に、近代史の最も邪悪で強大な秘密結社であるテンプル騎士団の歴史と敵対者に関する推薦本の小さな一覧を供する。(註:論説2の章末に載せます)

今少し、権謀術数に長けた(マキアヴェリ的な)テンプル騎士団の富、影響力と支配を過去・現在の著述家のご厚意で見てみよう。

「…テンプル騎士団は王達や君主たちの召使いで仲間となった。ハナから彼らは信頼される宮廷の知り合いであった…。テンプル騎士団の財政的取引は彼らを王族の財務に直接繋いだ。その王族の財務も屡々任されたのである。13世紀の初期よりずっとパリのテンプル騎士団は実質上フランスの国王の財務担当者であった。」―ピーター・パートナー*著「殺された魔術師」
*Peter David Partner (1924~2015) は英国の歴史家。専門は中世のローマと中東史である。

テンプル騎士団は身分の低い貴族の、自分たちがよく知っている仕事をする、家事召使いや官僚を提供したような部類が出身である。その結果として王達はテンプル騎士団の事に影響力があった。英国のリチャード一世とフランスの聖ルイはどちらもテンプル騎士団の大棟梁役の候補者を推挙した。」―同上

教皇アレクサンデル三世は、テンプル騎士団の特権に於いて、全ての教皇の中で最も気前が良かったが、それは騎士団からお金を借りていたからである。この時以来テンプル騎士団教皇の会計係で、医療福祉係であった。彼らはまた十字軍税の集金に関わった…。騎士団の結社は屡々教皇の護身役や腹心の中に居た。」―同上

「どちらの騎士団(テンプル騎士団ホスピタル騎士団)も西方からの大金や物納補助金を支配しただけでなく、東方でも十字軍の国家の政府から寄進された相当広大な荘園を支配した。」―同上

「…一世紀半に亘り、軍事結社(騎士団)の大棟梁に相談せずに、聖地での重要な決定は出来なかった。」―同上

テンプル騎士団の領地は解散後、エルサレム聖ヨハネ騎士団に授与されたが、聖ヨハネ騎士団の継承者であるマルタ騎士団は残りの収入(源)の一部を(その後も)未だ享受していた。」―同上

「彼らは現実問題として生き残りのためにヨーロッパ中の物資供給網の構築に深く関わり、また、農場経営、造船、馬育成、城郭建築、武器製造、経理(会計)に関わった。最後には彼らは自前の聖職者を持つようになり、政治や戦争の領域に深く関わる教皇の特権が与えられた。彼らは自らの利権のための力となり、教皇の個人的軍隊となり、それ以外のヨーロッパの王族やパレスチナの貴族たちへの忠誠から脱した。」―ジェームス・ワッサーマン*著「ソロモン神殿」
*James Wasserman(1948~2020)は、アメリカの著述家でオカルト主義者。O.T.O(Ordo Templi Orientis/東方聖堂騎士団)の一員、セレマ(アレイスター・クロウリーの流れを汲む)であった。

「騎士団はまた、結局のところ、ヨーロッパから聖地への危険な経路を旅をする者や、ヨーロッパのテンプル騎士団の拠点に於ける信託預金によってその財産を守ろうとする者にとって金融事業者として機能し、極端に裕福となった。このようにしてテンプル騎士団は近代の当座預金のような業務をするようになった。巡礼者はヨーロッパでお金を預けてその預金証書を受け取った。巡礼者は旅を進めるに従い、また聖地に到着するとテンプル騎士団の拠点で必要に応じて現金を引き出すことが出来た。」―同上

テンプル騎士団はヨーロッパに於いて、慈善的寄付で霊的な利益を手に入れようとした裕福な貴族たちによる寄進で広大な地所を蓄積した。」―同上

「13世紀の初めまでにテンプル騎士団はヨーロッパの国際金融業者となり、フランスの皇室とヴァチカンの財務担当者に任命された。」―マイケル・ハワード著「オカルト(秘教)の陰謀Occult Conspiracy」

「殆ど即座にテンプル騎士団はヨーロッパのあらゆる王家の金融業者となった。彼らは窮乏した君主にお金を低金利で貸し付け、また商業金融業者にお金を移動(融資)した…。彼らは両替商となり、君主の間の外交を仕切る強大な資本家となった。イングランドではテンプル騎士団の大棟梁に、全ての他の小修道院長や修道院長に優る優先権が付与された。」―ニコラス・ハッガー著「西洋の秘史Secret History of the West」

「…テンプル騎士団はヨーロッパ中に九千を超える荘園を保有し、更に製粉工場や市場も保有していた。これらの収入を生み出す財産に加えて、テンプル騎士団は他の収入源があった。団員が獲得或いは共有した戦利品は騎士団のものになった。二百年に亙るその存在の間、二万人以上の入会者が土地やお金を持参金として騎士団にもたらしたのであった。―ジョン・J・ロビンソン*著「血統に生れてBorn in Blood」
*John J. Robinson(1918~1996)はアメリカの著作家。注意:John Robinson(1739~1805)とは別人。

テンプル騎士団は様々な規模の荘園を北はデンマークスコットランドオークニー諸島、そして南はフランス、イタリア、スペインに至るヨーロッパ中に所有するに至った。イングランドウェールズだけで彼らは五千以上の不動産(領地)を持って居た。彼らはまたエチオピアに大きな存在感を打ち立ててその利権をアフリカに拡大したのだが、そのエチオピアではエッセネ派のエノク文書が幾世紀も後になって再発見された。」―クリストファー・ナイト*、アラン・バトラー共著「ヒラムの鍵再訪The Hiram Key Revisited(2010年)」
*Christopher Knight:詳細不明

「…テンプル騎士団は1154年までにイングランドで揺るぎなく支配確立し、その時すでに重要な土地、特権と免責を与えられて居た。これはテンプル騎士団がその巨大な権力、富と影響力の構造を打ち立てる土台であった。」―トーマス・パーカー*著「イングランドにおけるテンプル騎士団(1963年)」
*Thomas William Parker:詳細不明

「彼らはその国の金融代理人としての能力に於いて…一時は王たちの行政に直結する一部となった…。経済的案件に於いてテンプル騎士団はそのもっとも重要な役割を果たした。効率よく管理している自らの領地と製品により裕福で、利益を得る元の貿易や商業活動に常に積極的で、自ら効率的に創意工夫して金融の問題に深く関わったテンプル騎士団は熟練した会計士となり、優れた管理者となり、活発な信用の発行者となった…。ごく実際的な意味において12世紀後半から13世紀の全ての期間、彼らはイングランドの最も巨大な金融業者であり、猶太人など容易く霞んでしまう程であったが、最後にはイタリア商人たちによって自らが霞んでしまう存在になったのである。」―同上

イングランドテンプル騎士団は、継続的に、そしてかなりの速度でその不動産を拡大し、國の屈指の大地主となった。」―同上

「農業はイングランド中で営まれ、それは騎士団の最も重要な経済であったが、その他にテンプル騎士団は貿易と商業活動と金融操作にも携わった。羊毛、そして規模は小さいがフランダースやフランスに送られた穀物は主な輸入品であった。農業ほどではなかったが、貿易よりもさらに重要であったのがテンプル騎士団の数々の金融活動であった。通貨の交換、現金や貴重品の預金としての受け容れ、資金の移転、現金や信用手段の発行、信託の執行、貸付の実行は組織的に広く営まれた。実際、13世紀の後半にイタリア商人に取って代わられるまで、テンプル騎士団は西欧に於いて一番の金融業者であった。イングランドに於いて彼らの主な顧客は王族たちであった。」―同上

テンプル騎士団イングランド国王との緊密な関係はまた、特権の付与と国王の経済と同様に政治・行政の官吏や顧問としての登用にも見られる。彼らの宗教的特権と教会のあらゆる類の税の免除、それに教皇の権威を除く全ての教会の権威からの独立は、ステファン国王からエドワード一世に至る全ての国王により付与され、繰り返し肯定・確認された彼らの政治的特権、更に世俗の租税の免除と通常の封建的重責(義務)の免除、また、それに加えてその家臣と賃借人同様、その所有地と人員、更にの管轄権の免除も与えられたのであった。これらの特権はテンプル騎士団を地域の教会と世俗の権威から独立させ、教皇と国王にのみ責任があるようにした。國王達はテンプル騎士団を、使節や顧問として、そして王家の収入の集金人や保管人として頼りがいがあり実務に役立つと考えていた。」―同上

テンプル騎士団は、最後には余りにも裕福となったので、王国の領域内で運営する領主の中には彼らの支援に完全に頼り切る者も現れた。英国の王族の中にはテンプル騎士団への莫大な借金の担保として、自身の領地の財務を騎士団のロンドン本部に手渡す者もいた。これはテンプル騎士団に(領主の)決定権(裁量権)への巨大な影響力を与えることとなり、彼らはすっかり戦争をする領主の仲裁者として振舞うようになった。」―アラン・バトラーとステファン・デフォー共著「明かされたテンプル騎士団

「『テンプル騎士団が帝國を始めるきっかけとなった財政的な推進力は一体どこから来たのか』について我々には尋ねる資格がある。1128年にトロイの会合に参加した9人の騎士たちは、正統派の説明によると、『貧乏』であった。実際、彼らは『キリストとソロモンの神殿(テンプル)の貧乏な騎士たち』であったため、これがその団体の選んだ名前に反映されたのであった。たとえ、創設者の騎士たち自身が中流の貴族の血筋でなかった(もっと下層であった)としても、彼らには極めて裕福な支援者が居り、その中の一人は途方もなく裕福なシャンパーニュ伯爵ユーグ*であったに違いない、何事も真実からは遠からず、である…。しかしシャンパーニュ伯のお金を全て以てしてもテンプル騎士団の戦場に於ける手柄の資金としてすら充分ではなかったはずである。」―同上
*シャンパーニュ伯ユーグ(在位:1093~1125)ブロワ家のフランス貴族。シャンパーニュ伯領は1314年にフランス王領に統合された。(?これはテンプル騎士団が禁令されて間もなくですね ―燈照隅コメント)

テンプル騎士団は聖なる兵士の集まりとは似ても似つかなかった。彼らは巨大な規模の国際金融に関わるようになり、その時代までに存在した最大の商船団を動かしていた。テンプル騎士団は町と言う町を所有し、支配し、さらに重要なことには、その貸金の策謀により、彼らに対する重い債務を抱えた多くの国家の王様達もまた支配した。」―アラン・バトラー著「女神の都市」

「彼らは『貧乏なキリストの兵士仲間』として舞台に登場したが、これ以上不正確な記述はない。その幹部にはヨーロッパで最も裕福な人々が居たことがわかるはずだ。つまり、顧客がブランシュ・ド・カスティーユやアルフォンス・ド・ポワティエやアルトワ伯ロベールであるロンドンやパリの主要な銀行家であった。アラゴンのハイメ1世の財務大臣ナポリ王カルロ1世の財務大臣、それにフランス国王ルイ7世の財務大臣は全員がテンプル騎士団であった。」―アドナン・オクタル*(アドナン・ホカ、ハルン・ヤヒヤ)著「テンプル騎士団
*Adnan Oktar (1956~)又はアドナン・オクタル、別名アドナン・ホカAdnan Hoca、ハルン・ヤヒヤHarun Yahya、は、トルコの宗教の指導者で、創造論者、陰謀論者。

「…テンプル騎士団キリスト教國に九千の荘園或いは領地を所有していた。他にも絶え間ない慈善事業への遺贈や敬虔な人間からの現金の寄付など、大きな収入と莫大な富があった。エーカー(現イスラエルのアッコ)の司教・ジャック・ド・ヴィトリ*は次の様に言う。『彼らはまた、東方・西方の両方で莫大な広さの農園、町、村に恵まれており、その収入から毎年いくらかを聖地の防衛のためにエルサレムにある彼らの団体の本部に送っていた。』」―チャールス・G・アディソン**著「テンプル騎士団の歴史(1842年)」
*原文はJames de Vitry。Jacques de Vitryの間違いと思われる
**Charles Greenstreet Addison(1812~1866)はイギリスの弁護士で、歴史、旅行、法律の作家。

「我々は依然にヘンリー1世とステファン王とその王妃の王様のテンプル騎士団への寄付の説明をした。ヘンリー2世の敬虔な寄付金はこれを大幅に上回るものであった。この君主は、自らの魂の善と自国の福祉を記念して、ロンドンのベイナーズ城*の近く、フリート川の畔の場所をその川の流れもろとも、水車(粉ひき工場)を建てるためにテンプル騎士団に寄進し、またフリート街近くの家屋敷と聖クレメントの教会も寄進した。」―同上
*原文はBainard’s Castle、Baynard’s Castleの間違いと思われる

テンプル騎士団は、その驚くべき富に加えて、この国の中で大きな特権と義務の免除を受けた。ジョン王の治世、彼らは大蔵大臣の裁量罰金*すべてから逃れ、また、国王或いはその最高判事の前を除いて、答弁を強要されない特権を得た。ヘンリー三世は彼らの占有地(占領地域)に於けるfree warren(地域住民に対する自由支配権?)を与えた。そして、その有名な治世9年目の2月9日付の勅許によりヘンリー三世は、その先代たちと他の寄進者のすべての寄付をテンプル騎士団に対して追認した。」―同上
*原文:amerciaments in the Exchequer。amerciamentは正式に定められた罰金以外に、裁判所や他の当局の裁量で課せられた罰金のこと。

「これらの特定の特権に加えて、テンプル騎士団ローマ教皇の大勅書の権威の下に様々な義務の免除や有利な条件(利益)を享受していた…。彼らは十分の一税(農園に課せられた税)の義務を…免除され、寧ろ、司教の同意の下に受け取っていた可能性もある。テンプル騎士団の団員は司教や司祭が破門することは出来なかったし、聖座の特別な命令による場合を除き、傘下の教会を禁止することも出来なかった。」―同上

「聖地の後援の為の慈善寄付集めに任命されたテンプル騎士団の団員は誰でも、(聖域の)禁制の敷かれた都市、城、村に着けば、教会は、彼らを歓迎してさっと開門することになっており(年に一度)そして神聖な典礼テンプル騎士団の名誉と聖なる兵士たちの崇敬に於いて行われることになっていた。聖域の特権が騎士団の住まいにも乱用され、様々な教皇の勅書により、誰もテンプル騎士団の家に逃げ込む者やその財産に手をかけてはならない、と厳粛に申し付けられた。」―同上

「1139年、教皇の勅書が教皇インノケンティウス2世 ―前クレルヴォーのシトー会修道士で、聖ベルナール(クレルヴォーのベルナルドゥス)の子分であった― により発せられた。この勅書によると、テンプル騎士団教皇以外に世俗的・聖職的に忠誠を誓う相手は一切ない。換言すれば、彼らは全ての国王、君主、高位聖職者、そしてあらゆる政治的宗教的権威のどちらの干渉からも完全に独立したことになった。彼らは、実質上、自らの法となり、自治的国際帝國となったのであった。」―マイケル・ベイジェント*、ヘンリー・リンカーン**、リチャード・リー***共著「聖なる血、聖なる盃Holy Blood, Holy Grail」
*Michael Baigent(1948~2013)は歴史家で、歴史とイエスの生涯に対する伝統的な認識を疑問視する多くの人気のある作品を出版した。
**Henry Lincoln(1930~)は英国の作家、テレビのプレゼンター、脚本家、俳優。
**Richard Harris Leigh(1943~2007)は、米NJ州で英国人の父親と米国人の母親の間に生まれた小説家。短編小説作家。人生の殆どを英国で過ごした。

イングランドでは…テンプル騎士団の団長は国王の議会に定期的に呼ばれ、全ての宗教団体の長と見做され、国内の全ての小修道院長や修道院長よりも優先権を取った。ヘンリー二世とトマス・ベケット(Thomas à Becket)のどちらとも緊密な繋がりを維持し、テンプル騎士団は主権者(国王)とその追放された大司教*の和解に尽力した。ジョン王を含む歴代のイングランドの国王はテンプル騎士団のロンドンの会堂に屡々住み、騎士団の大棟梁は君主の脇に立ってマグナカルタの署名に立ち会った。」―同上
*トマス・ベケットカンタベリー大司教になった後、教会の自由を巡ってヘンリー二世と対立し、1164年に国外逃亡した。その後1170年に和解したが、同年、ヘンリー二世の息が掛かった司教を懲戒したことからヘンリー二世を激怒させ、その意を汲んだ騎士に暗殺された。

「宗教的団体のすべてが一般の在家の人々に貴重品の預け入れとして利用され、また在家の人々が現金の要るときにはお金を貸すように頼まれた。テンプル騎士団は、国王に医療福祉、財務担当者、現金の輸送者として利用されていたという同じ理由から、特にこれらの類の金融役務の提供者としてよく知られるようになり、騎士団は取り立て、安全な保管の仕組みを発展させ、西方の巨額の現金や他の貴重品を東方へ持ち込むための移送の仕組みを考案した。ロンドンとパリの新しい本部はどちらも商人の貴重品預け入れに多く利用された。…テンプル騎士団に預け入れられた金銭はその不手際に関する苦情が注目される程殆どない。」―ヘレン・ニコルソン*著「テンプル騎士団
*Helen Nicholson(1960~)は中世史学者。前カーディフ大学歴史学部長で軍事宗教結社と十字軍、それにテンプル騎士団の専門家。

「…テンプル騎士団は集団的に、数え切れないほどの教会の財源を凌駕する、ヨーロッパで最も裕福な団体となりつつあった。」フレディー・シルヴァ*著「最初のテンプル国家」
*Freddy Silvaは代替歴史、古代知識、聖なる場所などに関する著作家

「…テンプル騎士団は、ヨーロッパで起きていること全てにとって絶対的な中心であり続け、更には、彼らは部分的に我々が今日知るところの西側世界の形成に尽力したのであった。」―ステファン・デフォー著「騎士と金融業者」

「1250年までに、テンプル騎士団は大部分が秘密の閉じられた結社になり果てた。彼らの入会儀式は視界から隠され、同様にその活動(工作)と内部規則もそうなり、騎士団と関係のある大多数の人間は今や荘園の管理者、労働者と国際貿易・金融業者となった。犯罪者すら、貴重な技能や資源を持って居れば入会を許され…騎士団はヨーロッパ世界で一番の金融企業となった。王族や貴族はテンプル騎士団の財源から金を借りた。騎士団はまた、財政投資も、年金(定期預金)や恩給と同様に提供した。」―ハーシュマン*とイェイツ**共著「スコットランドが猶太であった時代When Scotland Was Jewish」
*Elizabeth Caldwell Hirschman(1949~)は歴史学・系譜学のアメリカ人?著作家
**Donald N. Yates(又はDonald Panther-Yates、1950~)は1/4アメリカ先住民を祖先に持つ米国の著作家