文明のアイルランド起源 HPより12(第一部・終)

ドルイド古代イスラエルの繋がり

ドルイドは白いローブに、詩人は青いローブに身を包んだ。首領ドルイドイスラエルの高僧の胸当てとよく似た12の宝石が付いた黄金の胸当てを纏った。そのような胸当てはストーンヘンジの墳墓の一つで遺骨の上にあるのが見付かっている。」
フレデリック・ハベルマンFrederick Haberman 著「我々の祖先の追求Tracing Our Ancestors」

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今日の世界のエリートたちは
アリアンの高い伝統から取り込んだ古代の知識によって力を得たのであった。

 

今示したように、そして続けて示すように、記号と偶像、それに東方の人々(シュメール人エジプト人古代イスラエル人など)により使われてきた語法は、ドルイドの正典がその由来である。

それらはアイルランドで完璧の域まで研究された星の霊的認識が由来で、それがドルイドにより世界中に伝播されたのである。これらの古代の旅人は訪問した部族を驚かせた。古代の民族はドルイドを知り、尊敬し、そして多くの人々が真実の探求のため、彼らの学寮に集ったのであった。

神話拡散者は古代のドルイドとアメン信仰者のシンボリズム(記号)を合体することに抵抗できなかったであろうけれども、それは彼等自身の創作ではなかった。異教の女神の伝統の中心思想とその関係はユダヤが起源ではなく、ラビは彼らの経典に現れる「女神」の心象を説明するのに次の様に困難を感じたのである:

「その女性はルビーに優りやんごとなきなり。汝が望める凡ゆるものもまたこの女性に比ぶべくもなし。その右手に長寿を その左手に富と名誉を携ふなり。その常道は喜びに至る道、そしてその道程は泰平への道なり。よく奉ずる者にとり、この女性こそは命の樹、それを離さぬ者皆幸せなり。」(*燈照隅訳)
―「箴言3:15~18」[1]

 

 

ドルイド教と猶太キリスト教

「首領のドルイドは今ローマ教会や英国教会の司祭が着けているのと全くよく似た帯、そして少し前まで我々の大学の学生が公の試験で着けるのを強制されていた帯を着けていた。
―W・ウィンウッド・リーデ「イシスの仮面:又はドルイドの謎」

 

ローマ教皇古代ローマの世俗(異教)の高位の僧侶に当によく似ており、ラテン語ではその称号は同じで、最高神祇官Pontifex Maximusである。その本部は恐らく首領ドルイドのものの模倣であろう。そしてその首領ドルイドは、既に述べたように聖職のことと同様、世俗のことにも至高の権力を持って居り、ローマの最高神祇官Pontifex Maximusが古代ローマの聖職者によって、教皇枢機卿によって囲まれていたように、主なドルイドの元老に囲まれていた。」
―同上

 

文明の主な要素の西方起源であったことについての事実は暗号的に聖書や他の猶太キリスト教経典の中で言及されている。実際、先輩民族の祖先の伝統を同化、解体した、堕落した太陽崇拝の宗教の書物と伝統の至る所にドルイド教の要素を見出すことが出来るのである。そのより明確な例のうち、掻い摘んで一覧にすると次のようなものがある。

ノアとその箱舟
大洪水
人類に対する神の怒り
モーゼと山火事
イェホヴァ(ヤハウェ)の名前
イスラエルの12部族
荒野の青銅の蛇
命の樹と善悪
橄欖山とイチジクの木の言説
ゲッセマネ(苦難の)園
木で首を吊って自殺したユダ
ギルガルとシナイで12の石を円形に立てるモーゼ
ダビデゴリアテ
生誕と三人の賢者の訪問
ジョセフが「大工」であること
ヨハネによるイエスの洗礼
12歳の時に神殿に入るキリスト
33歳で死ぬキリスト
3年持ったキリストの使徒
油塗りと聖餐の儀式
12人の使徒
山上の説教
骸骨の丘の磔刑
留置・変容・復活
アリマタヤのヨセフ(イエスの伯父の設定)

 

勿論我々は猶太キリスト教ドルイド起源について、故意にしかも計算した誤解釈でキリスト教徒猶太教の大義を弱らせて、宗教の真の基盤が明るみに出ることを防いでいる、聖人ぶった神話拡散者からは何も告げられない。

ブリテンとローマに落ち着いた神話拡散者は宗教の起源に関する真の話を逆にした。彼らの思想的後継者はその欺瞞の仕事を続けている。彼らは偽って、文明の要素は最初東方から西半球に移動した、と主張する。この嘘が打ち砕かれて真の事実が明るみに出るまで、この世界には政治的にも精神的にも正常なことはあり得ない。

 

「注目すべきことに、聖マタイの福音書アイルランド版には、「東方から三人の賢者が来た」と言う一文が「東方からドルイドが来た」となっている。同様に、旧約聖書出エジプト記7:2の「エジプトの魔術師」は、「エジプトのドルイド」に変えられている。」
―ジェームス・ボンウィック著「アイルランドドルイドと古代アイルランドの宗教」

 

少し奇妙でありそうにない話によると、バビロン捕囚から解放された後、イスラエルの10の部族はエルサレム近くの聖なる王国に帰還しないことを決めた。そうではなく、西方に移動することに決めた。何という偶然の一致!

伝わるところでは、彼らはその指導者ジェレミアに従ってコーカサス山脈を越えて東欧に入った。そこから彼らは西方に向かい、その道すがら多くの民族や部族と接触し婚姻をした。学者の殆どは特に西側の貴族との間で、余りにも雑婚が進んだため、誰も正真正銘のイスラエル人集団のことを語れなくなった。実際、殆どの学者は所謂10支族がかなり以前に特定の区別可能な民族或いは人種として存在しなくなってしまったことを認めている。古代イスラエル人の血(DNA)が殆どの西洋人に存在していることは、しかしながら認めざるを得ないとしている。

これらの所謂イスラエル人は明らかに「イサクの息子たちSons of Isaac」として知られていた。この言葉はまた「イサクの息子たちIsaac’s Sons」とも表され、後に「サクソン」となった。従って、ブリテン島のイスラエル人似非歴史家たちは「アングロサクソン」が元々はユダヤ地方とパレスチナ地方からの「アリアンイスラエル人」であったと決めた。これは真実かも知れないが、歴史的に話すと、これらの所謂イスラエル人の民族移動は比較的最近起きた。正真正銘その資格を以て「古代イスラエル人」、「古代猶太人」、「猶太人」、「レヴィ人」の肩書を持つ人間が地上を歩いていた頃から以前の何世紀の間にあまりに多くのことがあったのである。

現代の先生方は古代の時代を「一連の神話」として用心して言及することにした。彼らはそれを打っ棄って比較的最近の歴史的時代と出来事に集中した。著者の作品の中で著者は問題になる猶太、古代猶太、レヴィ人、古代イスラエル人の言葉の穢れなき意味を探求し、ジェホヴァ、ヤハウェ、アドナイ、エロヒムなどの名前の真の起源を探求する。(詳しくはこちら:http://www.irishoriginsofcivilization.com/etymology-key-to-the-past.html

真実は、旧約聖書の所謂「古代イスラエル人」とは、実際はエジプトの裕福なファラオたちのことであった。最近15年の「猶太人」の祖先の調査で、結果としてこれが事実であることが証明された。最近の研究は、醜聞に満ちた神話拡散者と用語、称号、言葉の誤用を明らかにするのに役立った。アハメドオスマン、ムスタファ・ガダラ、ラルフ・エリスのお蔭で、前時代の天才的人類(ジークムント・フロイド、カール・アブラハムス、イマニュエル・ヴェリコフスキー、コミンス・ビューモント、コナー・マクダリなど)の多くの重要な歴史的理論が確認され、強化された。端的に言うと、我々は今や、誤って名付けられた「古代イスラエル人」と「古代猶太人」、所謂「12部族」の真の正体を知っている。我々はその昔、彼らが、エジプト学者の間で何十年もその起源が争点であった悪名高きヒクソスのファラオと同じであったことを知っている。

 

 

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聖パトリックの壁画:メーソン様式のせりもち(アーチ)が掛かった柱の間で、太陽の円盤から放射される光線の下に立っている。その右のアイルランドを表す女性は控えめで大人しく畏まって示されている。

 

「蛇で成功したと称せられる聖パトリックは、アイルランドに於いて前から存在するキリスト教の形態に対抗する正統派の究極の勝利を表す鮮烈な隠喩であり、それはオルファイツOrphites*のような宗派から成る。マイケル・ヴィニーのような敏感な観察者ですら、蛇が実際は異教のドルイドの隠喩でまた彼らの競争相手の宗教の象徴の隠喩であることに同意したのである。」
*Orphites は蛇とそれが象徴するWisdom(智慧)を信仰する一種のグノーシス主義の一派のこと
―ボブ・クィンBob Quinn著「アトランティスアイルランド人The Atlantean Irish」

  

大嘘を用達した者達

北-西方の(災害の時代に)壊滅した国々はエジプト人により、「死者の國」或いは「闇の國」として語られた。我々は、文明の中心を東方と強調するメーソンの伝説でそれと同じ思想を見出す。このずる賢い歴史の捏造は最終的には、あらゆる学校、大学、そして、アテン信仰者-猶太の伝統に毒された、虚偽を以て影響力のあるメーソンやその代理人による歴史本の教育課程で仄めかされた。西洋の歴史があらゆる西方の賢者の神聖な伝統を盗み、分解し、逆さまにした者たちによって誤って伝えられた、と言うことは現代人には決して思い浮かばない。

 

フリーメーソンでは北方は闇の居座るところ、命の反対側、全ての悪徳と欠陥の場である。北方では人間にその生で不完全な性質の状態を想起する、出来たままの、ごつごつした岩があり、それは、フリーメーソンの青写真の計画によると、猶太人の利害に適うようにハンマーと鏝(こて)を以て…「完全な立方体」に改善しなければならないのだ。」
―エーリッヒ・ルーデンドルフ将軍著「フリーメーソンの破壊」
ルーデンドルフ将軍は第一次大戦のドイツの英雄

 

「猶太の神殿を建てるためには、外壁となる石のみが使用できる*。従って、この「立体の完璧な極致」は南方を既に治めている。月のかすかな光が北方を照らしており、南方は眩しい陽の光の中に在る。しかし真のヤコブが束縛されていないのは東方である。そこには文化、光、智慧、そして全ての魂の死するものの座するところがある…。そこには戴冠したロッジの棟梁が居る。そして陽が東方に昇り、南方を通って西に至るように、また、猶太人アブラハムの配列に於いて東から西へ行く、全ての美と偉大さと特に再び奇妙な仲間の結社の「人類の愛」が存在するのである。我々北方の貧しき者は、これらすべてを当に受け取るところだ。フリーメーソンはその人類の友愛の中に、猶太人を通して、それを我々に与えるのだ。」
*中に壁や柱がない構造のことを言っている
―同上

 

[1] 実際の箴言ではwisdom「智慧」とunderstanding「理解」を受けて代名詞she「女性」が使われており、日本語訳聖書では「知恵」と訳されている。(以下英語聖書原文:ここでは、燈照隅がサリオンの意を受けて「この女性」と訳した)
箴言3:13~18 原文
Blessed is the man who finds wisdom, 知恵を見出す者に祝福あれ、
the man who acquires understanding, 理解を得るものに祝福あれ、

for she is more profitable than silver, その女性は銀よりも利益となり、
and her gain is better than fine gold. それで得るものは黄金にも優るのである。
She is more precious than rubies; その女性はルビーに優りやんごとなきなり。
nothing you desire compares with her. 汝が望める凡ゆるものもまたこの女性に比ぶべくもなし。
Long life is in her right hand; その右手に長寿を 
in her left hand are riches and honor. その左手に富と名誉を携ふなり。
All her ways are pleasant, その常道は喜びに至る道、
and all her paths are peaceful. そしてその道程は泰平への道なり。
She is a tree of life to those who embrace her, よく奉ずる者にとり、この女性こそは命の樹、
and those who lay hold of her are blessed. それを離さぬ者皆幸せなり。

 

 ※これで第一部が終わりです。次回より第二部です。ご期待ください。

 注意:文中の太字強調は燈照隅が付加した。

 

推奨リンク:

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Ingaevones - https://en.wikipedia.org/wiki/Ingaevones

The Goths - http://en.wikipedia.org/wiki/Goths

Gog and Magog (The Goths) - http://en.wikipedia.org/wiki/Gog_and_magog

The Gutar - http://en.wikipedia.org/wiki/Gutar

The Getae - http://en.wikipedia.org/wiki/Getae

Massagetae - http://en.wikipedia.org/wiki/Massagetae

Ossetians - http://en.wikipedia.org/wiki/Ossetians

Getica - http://en.wikipedia.org/wiki/Getica

The Wise or White Goths - http://en.wikipedia.org/wiki/Visigoths

Ostrogoths - http://en.wikipedia.org/wiki/Ostrogoths

Sarmatians - http://en.wikipedia.org/wiki/Sarmatians

Scythians - http://ossetians.com/eng/news.php?newsid=370&f=3

Scythians - http://en.wikipedia.org/wiki/Scythians

Scythians - http://www.cais-soas.com/CAIS/Anthropology/Scythian/introduction.htm

Scythians - http://www.sino-platonic.org/abstracts/spp127_getes.html

Sagartians - http://en.wikipedia.org/wiki/Sagartians

The Sabeans - http://en.wikipedia.org/wiki/Sabaeans

The Arimaspi- http://en.wikipedia.org/wiki/Arimaspi#Legendary_Arimaspi

The Iazyges - http://en.wikipedia.org/wiki/Iazyges

The Haddingjar - http://en.wikipedia.org/wiki/Haddingjar

The Hasdingi - https://en.wikipedia.org/wiki/Hasdingi

Salingi - https://en.wikipedia.org/wiki/Silingi

Sogdiana - http://en.wikipedia.org/wiki/Sogdiana

The Kurgans -  https://en.wikipedia.org/wiki/Kurgan

Kurgan Hypothesis - https://en.wikipedia.org/wiki/Kurgan_hypothesis

The Teutonic Knights - http://en.wikipedia.org/wiki/Teutonic_knights

History of the Teutonic Knights -  http://department.monm.edu/history/urban/books/PrussianCrusade2.htm

The Teutonic Knights (Germany) - http://www.deutscher-orden.de/

The Teutonic Knights (Austria) - http://www.deutscher-orden.at/

Teutonic Order Websitehttp://www.imperialteutonicorder.com/

The Lizard Union - http://en.wikipedia.org/wiki/Lizard_Union_

The Shield of the Trinity - http://en.wikipedia.org/wiki/Shield_of_the_Trinity
Knightly Orders and their Heraldry - http://almanachdechivalry.org/_wsn/page2.html

Order of the Thistle - http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_the_Thistle

Lord Lyon, King of Arms - http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Lyon

Shimon Perez Knighted - http://www.israeltoday.co.il/default.aspx?tabid=178&nid=17392

Order of St. Michael & St. George - http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_St_Michael_and_St_George

Order of the Garter - http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_the_Garter

Ariana - https://infogalactic.com/info/Ariana

Region of Aria (in Afghanistan) - https://infogalactic.com/info/Aria_(satrapy)

History of Persia - http://iranpoliticsclub.net/culture-language/mythology1/index.htm

More on the Medes - http://www.michaeltsarion.com/history-of-the-medes.html

Mithraism and Christianity - The Hidden Connections

Judaism & Egypt (Copper Scroll Revelations)

Moore's Hindu Pantheon

Arctic Homeland in the Vedas

 

 

文明のアイルランド起源 HPより11

イスラエルとイエス(二つのアイルランド語の言葉)

「勿論、イスラエルは存在した!その名前自体は青銅器時代後期のエジプトの石碑の中で既に使われており、カナーンの人々がファラオ・メルエンプタハのパレスチナへの軍事作戦で戦った相手として言及されている。しかし、これは聖書が扱っている所のイスラエルではないのである。
―トーマス・L・トンプソン*著「神話の過去:聖書の考古学とイスラエルの伝説」
*Thomas L. Thompson(1939~)はアメリカ生まれのデンマークの聖書学者であり、神学者。1993年から2009年までコペンハーゲン大学で神学の教授を務め、現在デンマーク在住。

 

イスラエルと所謂「古代イスラエル人」の起源についての真実は「文明のアイルランド起源」の書籍と課程で詳細に議論している。この「イスラエル」と言う言葉は三つの音節から成っている。Is、Ra、Elである。各音節は古代の三大信仰を指すように見られる。それらは、星、太陽、土星信仰である。然しながら、混成された音節はスキタイ人-アテン信仰者とヒクソス-アテン信仰者の間の同盟を指す可能性もある。

「Is」の音節の起源はIesa或いはEsa、即ち古代ドルイドの太陽神であった可能性がある。「Ra」の音節はアメン・ラー神を指す可能性があり、この神は古代エジプトの太陽神であった。そうすると、Israel と言う言葉は二つの太陽神の名前の混合の可能性がある。この場合、接尾辞「el」は、「使者の」或いは「僕の」を意味するかもしれない。古代イスラエル人(Israelite)は従って元々はエスス神(Esus)とラー神(Ra)の使者又は代理人であったことになる。イスラエルと言う言葉は、エジプトのアメン信仰とブリテンスカンジナビアドルイドのあいだに実際に繋がりがあったことを指摘するのである。

「神自身の名前のように族長の英雄の名前は非セム系である…そして近東で、いや実は世界で、最初の知られている文明に遡る。」
―ジョン・アレグロ著「選ばれし人々」
*John Marco Allegro(1923~1988)はイギリスの考古学者で、死海文書学者。その本とラジオ放送を通して死海文書を流行らせた人物。

 

「遺跡からは、王朝時代の極初期に、ラー神と呼ばれるもう一つの太陽神の形が下エジプトで知られ、崇拝されていたことが証明される。その神の起源と古い歴史については何も知られて居らず、彼の名前が意味するところは未だ以て満足のいく説明がなされていない。それはエジプトのものではないように思われる。」
―E・A・ウォリス・バッジ*著「ツタンカーメン:アメン信仰、アテン信仰、エジプトの一神教
*Sir Ernest Alfred Thompson Wallis Budge(1857~1934)は英国の考古学者。古代エジプトアッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務め、多くの業績を残したがその手法については議論を残している。

 

創世記(第32章27~28)には、イスラエルヤコブ(イサクの息子、アブラハムの孫)が「イスラエル」と神に改名された、と書いてある。創世記はまた、彼の双子の兄の名前がエサウであったと伝える。エサウエドムと名付けられ、その意味は「赤い人」であった。実際、このエサウ旧約聖書によると、所謂「エドム人」の始祖である。いずれにしても我々はエサウと言う名前を元々ケルト(スキタイ)と推量できるだろうか?それはゲール、ゴート、アリアンの偉大な首長エスス(Esus)のことなのか?興味深いことに創世記はエサウを狩人の達人と記述する。そしてこの記述は当然、西方の先住民の動物と森の神々であるエススEsusとハーンHerneを思い起こさせる。ヤコブイスラエル)とエサウの双子の兄弟の物語は、異教徒の人々の昔の伝説から取られたように見える。正典外のヨベル書に現れるその異説は、双子のホルスとセト*の間の争いについてのエジプトの物語を強くしのばせている。(*オシリスとセトの間違いか?

ホルスと言う言葉は多くの表し方がある。それはHoros、Heru、Hor、Haなどとしても見つかる。その言葉の意味は「境界」又は「円」を意味する。占星術に於いてはそれは地平線、太陽神が日々、年々通過する境界を指す。時間hour、地平線horizon、星占いhoroscopeはエジプトの太陽神の名前から来た。

ホルスの又の名はIusa或いはIusasである。この「I」の文字を「J」に転換するとJusa或いはJusasとなる。これは聖書のJesusの元である。彼はホルスの一つの変形に過ぎない、そしてそのホルスはアイルランドのIsa、Iesa、Hesusu、Esus 又はEsaの変形なのである。この古代の名前に多くの綴りや発音の変形があるからと言って、それが世界でもっとも有名な太陽神の多くの初期の類型であったという事実に変わりはない。

ケルトのHeus或いはEsusはゴールの謎の神であった。アイルランド式ではAesar、これは火を焚きつける者そして創造者と言う意味である。此処に我々はエトルリアのAesar、エジプトの太陽の牡牛Asi、ペルシャのAser、スカンジナビアのAesir、そしてヒンドゥのAeswarのことを思い起こすのである。バガヴァド・ギーターではこのAeswarのことを「彼はあらゆる死すべきものに内在する」と言う。」
―ジェームス・ボンウィック*著「アイルランドドルイドと古代アイルランドの宗教(1894年)」
*James Bonwick(1817~1906)は英国生まれの歴史教師・教育者。オーストラリアで活躍した。

 

「驚くべき事実は、サドカイの猶太人はメシアと言う名前に一向通じていなかったのに対し、ゴルゴダの丘で記憶に残るような出来事が起こる遥か以前にブリテン島ではこの名前は知られていた、と言うことである。すべてのブリテン人*の口にはそれはよく知られた名前であった。議論の余地のない事実はドルイドがその名前を世界で最初に宣したということだが…ドルイドの僧侶はその聖なる名前をどのようにして遥か以前に知っていたか、と言う問題はそれ自体が謎である。「イエスYesu」と言う名前はドルイドの三位一体説に神格として組み入れられていたのである。」
*キリスト教以前の英国人であるため、Britonをブリテン人と訳した。
―ジョージ・F・ジョウェット*著「失われた使徒たちの劇的出来事(The Drama of the Lost Disciples)」
*George Fuisdale Jowett(1891~1969)は英国生まれのカナダ人ストロングマン、ウェイトリフター、雑誌編集者、作家。全米ウェイトリフティング協会の共同創設者であり、Strengthマガジンの編集者であり、Jowett Instituteの会長でもあった。

 

コンスタンティヌス帝はニケーアに於いて支配的な精神であり、彼は究極新しい神を定めた…ブリテン派を取り込むため、彼は偉大なドルイドの神、ヘスス(Hesus)を東方の救いの神、クリシュナ(クリシュナはサンスクリット語でキリスト)に合体し、そこでヘスス・クリシュナHesus Krishnaを新しいローマの神の正式な名前とするようにした。」
―トニー・ブッシュビー著「真実の磔刑Crucifixion of Truth」

 

パウロはまたイエスのキリストと言う称号に重要な変更をも導入した。福音書Gospelは彼の直属の信者たちが彼を救世主(the Christ)と呼んだと伝え、彼を預言された救世主と見做していることを示した。パウロは絶対的な項を外し、恐らく自分の使命(伝道)をより独特で、猶太人による解釈から距離を離すことを強調するために、イエスを単にキリストと呼び、「救世主」(称号)を名前 ―イエス・キリスト― に変更した…多くの権威者がそれを議論し…パウロはローマの異教の謎の宗派に影響され、しかも彼はそこから自由に思想を借りて来た。」
―ピクネット*とプリンス**著「キリストの仮面」
*Lynn Picknett(1947~)は英国生まれの、超常現象、オカルト、歴史的および宗教的な謎に関する作家、研究者、および講師。
**Clive Princeは、超常現象、オカルト、歴史的および宗教的な謎についての作家、研究者、講師。

 

 

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ファラオを従えたホルス神とオシリス神。イエスと同じように、ファラオは神が作った肉体であった。彼はホルス神の人格化されたものであった。オシリス神は地平線から下の世界に沈んだ後の太陽のことであった。毎朝それが蘇ると、ホルス神、即ち「昇った者」とされた。毎年、太陽が冬至点に達するとそれはオシリス神とされた。それが再び春分まで昇ると再びホルス神となった。春分秋分点に達する太陽は「交錯(on the cross)」つまり「十字架に掛けられる」のである。(これについて詳しくは著者の他の本「天文神学と星座の神話」をお読みいただきたい。)

 

 

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ホルスの古代の異名はイウサIusaまたはイウサスIusasである。「I」の文字を「J」で置き換えると、これはJusa又はJusasとなり、そこからJesusが導かれる。従って、聖書の神の息子はエジプトの天の太陽が土台で、その太陽は、今度は古代ドルイド太陽王の異説なのであった。

 

 

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木を切るエススEsus。彼は聖書のイエスが部分的に土台となっている元々「大工」であった。彼は最も主要なドルイドの神で、その名前は、Esa、Hesa、Isa、Iesa、Iusa、Aesar、などのように多様に表される。彼は間違いなく後の時代のエジプトとキリスト教の大地と太陽の神(オシリスやホルスなどのような)の原型であった。更に、Esusは十字架に掛けられた神で、腕を大きく広げて空中に吊り下げられたように表現された。彼の肉体は槍で突き刺され、そのこぼれた血は大地を若返らせた。彼はタラニスTaranisとベルBelを含めて、ドルイド教の三位一体の一部分であった。ベルはバビロニアではバール神Ba’alとして、カナーンではベルとして見いだされる。彼の名前は「白」或いは「明るい」を意味した。ベルファストベオグラード(Belgrad、白い街)はこの神の名にちなんでいる。ノルマンの伝統ではオディン(Odin)を聖なる樹の近縁に見出すことが出来る。(詳しくはこちら:http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_deities

 

エススEsusは旧約聖書ではヤコブの長子エサウとして登場し、新約聖書ではイエスとして、棘の冠を冠って木(の十字架)で吊るされる神の子として登場する。これらの記号やその他のことは西方の古代アリアンに知られていた遥か昔からの神話の題材から取り出されたのであった。

 

 

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この図の左は「死者」を永遠の命に導くホルス。右は、「アリアン人」のキリスト/イウサス/ヘスス/イエサ(Christ/Iusas/Hesus/Iesa)である。イエスの名前は明らかにエジプトの名前Iusa又はIusasとしてのIesaの変形である。「J」の文字は「I」と取り替え出来る。これは、JewやJudahの言葉でも同様である。

 

 

文明のアイルランド起源 HPより10

赤い人

「…全員深い青い目と明るい赤い毛をしていた。」
ヘロドトススキタイ人の容貌について)

 

「そして彼はダビデを登場させ、世に出したのである。さて、彼は赤く、その上美しい出で立ちで見るに善きものであった。」
―ドナルド・レッドフォード博士著「古代のエジプト、カナーンイスラエル

スキタイは「ケルト」であり、と言うよりはもっと正確に言うと、ゲール(Gaels)であった。このゲールと言う言葉は「純粋」や「白さ」を暗示した。ゴートと言う言葉にはよく似た意味がある。ゴートの一集団はヴィシゴートとして知られ、その意味は「白い」或いは「賢い」ゴートである。(詳しくはこちら:http://en.wikipedia.org/wiki/Visigoths

 

「殆どすべての文化の英雄を指す言い伝え…は白人、長身、顎鬚、そして ―屡々、突如として― 出て来る土着の民により、律法、技術、有益な情報を授ける、常に優秀であると記述されるのである。」
―D・S・アランとJ・B・ディレアー著「大地が殆ど死んだ時」

 

 

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右側の図はゴートを表したモザイク画である。薄い肌色はチュートン民族、濃い髪はケルト民族からである。ケルトとチュートンは元は古代西方の親戚の民族である。

 (詳しくはこちら:https://en.wikipedia.org/wiki/Ingaevones

 

ゴート(ジュートJuteと同じく)と言う言葉は字義としては「ゴートの人」、「善き人」、「神の人」を意味する。音節gotは(get或いはgutも同じく)山羊を指す。ゴート(Goth)と言う言葉は故意に誤訳され、「大量の人間」或いは「押し寄せる人々」を意味するようになった。これとよく似て、同様に馬鹿げているが、スキタイ人と言う言葉は誤訳され、スキタイが馬の背に乗って駆け、侵略する野蛮なヨーロッパ人であることを世界に信じさせる試みの中で「槍の人間」を意味するようになった。実際、アイルランドスコットランドの年記が紹介するように、古い時代には(フェニウス・ファーサFenius Farsa*の下での)スキタイ人は世界中で言語の集団と難解な教えを擁し、紀元前1400年頃にはスキタイのある特異な集団がエジプトで特権的な客人であった。(フェニウス・ファーサについて更に詳しくはこちら:http://en.wikipedia.org/wiki/Fenius_Farsa
*FéniusFarsaidは、アイルランドの神話のさまざまな異本に登場するスキタイの伝説的な王。

 

「スペインの古代の人々と川の名前は…疑いなくフェニキア人によりつけられた、ゲール人と対照されたとき、その言語のフェニキア語での特定の同等に満足な証拠を示す、例外なく。」
サー・ウォルター・ベンサム著「ゲール人とキンブリ族(1834年)」

 

「ヴァレンシー大佐に、偉大な学問の先覚者と呼ばれたムッシュー・ゲベリンの言うには、ホメロスやヘシオドス以前のギリシャ或いはペラスゴイ人*はケルト人から源を発し、同じケルト人から、ラテンやエトルリア人も発したのである。これは紛れもない事実で誰も反論できないと思う。」
*古代ギリシャ先住民族
―ゴドフリー・ヒギンズ著「ケルトドルイド

 

「聖書に出て来る人々や王国、そして註者に想定された東方のものは、実際には西方で見出されるであろう。」
―アンナ・ウィルクス著「カルディアのウルUr of the Chaldees」

 

ヘブライアイルランドの言語が互いに多くの言葉を交換していることは嘗てヘブライ語を話した人間がケルトと呼ばれる人々と共通の起源を持って居ることと同じように真実である。」
―同上

 

ケルト語とラテン語の締めくくりの言葉は異なるが、ラテン語の語根の形態がケルト語で発見できることはとても好奇心をそそられる。ラテンの最も古い家系の正式な名前はケルト語を土台に形成された。例えば、クラウディウス、カトゥルス、カト、ポンペイウス、ルクルス、カミルス、マルクス、などなど。」
―同上

 

ウェールズの熱狂者はその言葉の偉大な古さを主張するが、言語学者アイルランド語に傾倒する。『すべてのケルト言語の中でラテン語から最も消されたもののように思われ』、しかも『もっとも古いアイルランド語はただ単に現代のErse語だけでなく、Manx語の源流であることがわかっている』とエルトンElton*は主張する。アッシャー**はそれが一番ヘブライ語に近いと気付いた。オフラハーティ***はそれをフェニキアまで追跡した。サー・ウィリアム・テンプル****はそれを一つの原始の言語と見做した。H・オブライエン*****はヘブライ語の由来はこの原始言語と見た。ハミルコ******から我々は彼の時代のカルタゴ人がアルビオンの島(ブリテン島)のことよりも聖なる島のことを『ヒベルニHiberniが広く住んでいた』島としてより重く考えていたことを理解すべきである。」
*Elton 詳細不明
**James Ussherは、1625年から1656年の間、アーマーのアイルランド教会大司教で、全アイルランドの首座大司教。彼は多産の学者であり、教会の指導者であった。
***Roderic O'Flaherty (Irish: Ruaidhrí Ó Flaithbheartaigh, 1629–1718又は1716) は、アイルランドの歴史家。その著書オギュギアOgygiaでフェニキア人がアイルランド人の祖先であるという仮説を立てた。
****初代准男爵サー・ウィリアム・テンプルは、17世紀イングランドの外交官、エッセイスト。ジョナサン・スウィフトパトロンでもあった。
*****H.O'Brien 詳細不明
******Hamilco 詳細不明
―ジェームス・ボンウィック著「アイルランドドルイドと古代のアイルランドの宗教(1894年)」

 

「アリアンとセム系族の言語は根本的に違っていたが、それらの間にはいくつかの繋がる点がある。アリアン言語は遥かに優れていた。」
―エルンスト・ルナン*著「ダビデ王の時代までのイスラエルの人々の歴史」
*Joseph Ernest Renan (1823~1892) は、フランスの宗教史家、思想家。

 

「…メンフィスで崇められている多くの神はヘロドトスによるとフェニキアの神々であると考えられていた。」
―サミュエル・シャープ*著「エジプトの神話とエジプトのキリスト教
*Samuel Sharpe (1799~1881) は英国のユニテリアンの銀行家。余暇を語源学と聖書の翻訳に費やし、かなりの貢献をした。

 

上の左側の図では金髪に顎鬚のノルマン種の男の写真である。この男は日光により赤く日焼けした。古代には西方の人が航海や馬の背に揺られて近東やアジアに到着すると、その突き刺すような青い目と刺青と銅の宝飾類を以て、神々とされ、「赤い人」と言われた。これは聖書では「エドム人」とされている。

 

「経典(聖書?)に於いてはフェニキアエドムと密接に関係しており、両方とも「赤い人」を意味する…さらに彼らは、イスラエルの前に王達がおり、最も古い先史時代の最も高い文明を持った初期民族であった。」
―コミンス・ビューモント著「先史時代ブリテンの謎」

 

「巨人のことでもう一つ観察される特徴は、アダム人やエドム人がそうであったように、ほぼ常に巨人は赤毛と描かれていることである。このアダム人やエドム人の名前はヘブライ語のadom又はedom即ち赤又は血色の良い、から来ている…同じことが同株のフェニキアにも当てはまり、その名前は赤又は人参色を意味する言葉が由来で、血色の良い顔の人々と記されている。」
―同上

 

「…多くの登場人物が彼らに支配的な「赤さ」によって聖書の文章に暗示された…ダビデ王は、全く何の明確な理由もなく、赤かったと言われる。」
―ラルフ・エリス著「ソロモン:シバの女王の鷹」

 

「ローマ人の奴隷制に対する気まぐれな態度は…教皇グレゴリウス一世の…最初の英国人との出会いについての有名な逸話により、よく示されている。彼はその金髪の美女に連れられ、ローマの市場を通過するときに彼らが売りに出されていることに注目し、彼等がどのような人間か尋ねる。返事は「Angli」(アングロ或いはイギリス人)であった。機知にとんだグレゴリウスは、彼等はangeli(天使)のように見えるので適切な名前だ、と言って駄洒落に興じるのである。」
―トーマス・カーヒルThomas Cahill著「如何にしてアイルランドは文明を救ったか」

 

「ザグロスの山で、そしてチグリスの平野中で…髪の色の薄い…後にアッシリアと呼ばれるところに留まった…グティGuti(ゴートGoth)に似た人々が住んでいた。」
―C・レナード・ウーリーC. Leonard Woolley*著「シュメール人
*Sir Charles Leonard Woolley(1880~1960)は、イギリスの考古学者。メソポタミアのウルの発掘はウーリーのよく知られた業績である。

 

ギリシャの歴史家は、ピタゴラス学派が実際、アバリスとして知られた西方スキタイ人によって閃きを得たことを知っていた。そのアバリスと言う名前は、恐らく「アリ又はアーリアの偉大な人」を意味するAb Ariのことであったに違いない。いずれにしてもアバリスは明確に西方の達人である。僧侶を意味するabbeやrabbiもアバリスと同じ語根から来た。更に重要なことには、rabと言う言葉が「西」や「西方」を意味し、ラビrabbisやレヴァイトLevitesが元々西方アリアンの僧侶に関連していることを明かしていることである。

 

「…ヒメリウスはアバリスのことを、スキティアからのサゲと語るが、次の記述からギリシャ人にはよく知られている。『アバリスは弓矢を携えて、肩にはえびら(矢筒)をぶら下げて、胴体を格子縞の肩掛けにくるみ、足の裏から腰まで届くズボンを穿いて、アテネに来た。』キケロは自然の秘密の知識を告白したディウィキアクス(ドルイド僧侶で唯一名前を知られている人物)を知って居たが、彼はヒュペルボレオス人と見做された。これらの人々はタタール(韃靼)から来たスキタイであり得ようか?トゥーラーン人の放浪者としてバビロンの平野に来たり、アッシリアセム系の征服者にその宗教と楔形文字を与え、そのカルデアンの信仰をエジプトとヨーロッパにさえ伝え広めたと言う賢者の子孫であり得ようか? それは、もっと(他の?)可能性があると思われる。」
―ジェームス・ボンウィック著「アイルランドドルイドと古代アイルランドの宗教(1894年)」

 

「…ギリシャまで旅した一人のアバリス、ドルイド人でシェトランド島の原住民が居た。そのギリシャで彼は、その知識、礼儀正しさ、明敏さ、そして実業の遠征、中でも彼がアテネの言葉で話す楽々さと優美さ、それも、(ヒメリウスが言うところの)彼が学術の社会リュケイオンで育てられたと誰もが信じるような態度で、ピタゴラスと友情を結んだのであった。
―W・ウィンウッド・リーデ著「イシスの仮面」

 

スキタイ人、アテン信仰者、テンプル騎士団

 

ドルイド的宗教はブリテン島だけではなく、全ての東方地域でも同様に席捲した。」
エドワード・ヴォーン・ケニーリーEdward Vaughan Kenealy「神の書」

 

上で述べてきたように我々は西方のスキタイ人の一部がエジプトのアテン-セト信仰者と嘗て一時期、密接な連携をしたことを信じている。実のところ、これらのスキタイ人はエジプトのアテン信仰者であったと信じるに値する理由が存在する。アテン信仰者が猶太キリスト教フリーメーソン両方の源流であるので、テンプル騎士団のようなメーソン結社がスキタイ人やセト-アテン信仰者を暗示する記号を使うのを見ても驚かないのである。

著者の予測では、テンプル騎士団の当にその記章(二人の騎士が一頭の馬にまたがって西方に向かっている)がスキタイ-ヒクソス或いはスキタイ-アテン信仰者の地の繋がりを記念している。

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テンプル騎士団のスペイン支社の結社員
白いチュニック(外衣)と 赤い二重の十字架の飾りに注目

所謂「ロレーヌの二重十字架」は我々には同じ約束を暗示するもう一つの有名なメーソンの表章に見える。興味深いことに、フランスのロレーヌの家のシャルル・ド・ロレーヌは明らかにアダム・ヴァイスハウプトとそのイルミナティの主な後援者であった。ヴァイスハウプトの政治・社会的な主義がアメリカの大統領ジョン・アダムス、ベンジャミン・フランクリントーマス・ジェファーソンそれにその他の多くの世界中で影響力のある人物にも同様に影響したことは知られている。

イルミナティの結社員、もっと正確に言えばアテン信仰者の表章アメリカの銀行紙幣に現れ、殆どの町や市の建築物にも現れる。

興味深いことに、ベンジャミン・フランクリンの暗号名は「モーゼ」であった。アメリカの一ドル札の彼の個人的な意匠は出エジプトの時にエジプトを去る古代イスラエル人が描かれている。

 

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シャルル・ド・ロレーヌはイルミナティの後援者であった。イルミナティが反王政主義者であったと想像する研究者は悲惨なほど誤解させられている。それは秘密結社のエリート結社員が与えようとした印象ではあったが、真実ではあり得ないのである。ヨーロッパの王家は、そうであったように、そして今でもそうであるが、世界の有名な秘密結社を裏とする表の権力なのである。彼等の利害は正統な宗教や君主を顛覆することでもなければ人間を自由にする事でもない。この考え方は、騙されやすい、誤解させられた下位の階級の結社員だけに存在するものである。

 

 

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テンプル騎士団表章:西方に向かう一頭の馬にまたがる二人の騎士。この奇妙な記号に関して多くの馬鹿げた説明が長年に亙って供されてきたが、我々はこの表章が昔からのスキタイ-ヒクソス若しくはスキタイ-アテン信仰者の同盟を表していると信じている。つまり、大昔のアイルランドの年記に述べられているように、ヨーロッパのゲール人と下エジプトのエジプト人との古代の聯盟である。馬はスキタイの勢力拡張の象徴であった。スキタイ人がヒクソスであったとすれば、或いはその同盟者であったとすれば、彼等は勿論アテン信仰者であった。エジプトに歓迎された学者や傭兵として入ると、彼等は有力なエジプト人の家系、例えばアクエンアテン・ファラオに婚姻した。此処までのことはアイルランドスコットランドの年記で確認できる。気が狂った暴君アクエンアテンの廃位と追放の後、アテン信仰者は祖先の住んでいた西方に向けて移動した。アテン信仰者のスペインとアイルランドへの到達はおよそ紀元前600年頃の日付で「ミレシアン」の侵略と言う扱いの歴史に記録されている。ミレシアンはゲール人とされて居り、それは伝統的に彼らが「ケルト」であったことを意味する。ゲールと言う言葉はスコットランドのマイル王Mileの名前 ―ガセロスGathelos或いはゲイテロスGaythelos― が由来との説を主張される。アイルランドの彼らの祖先は、著者の想定ではエジプトのアメン信仰者の密接な同盟者であった、巨石文化のドルイドであった。これがドルイドをアテン信仰者或いはミレシアンに敵対させることになった。そしてこれは、何故ドルイド(巨石文化のアイルランド人)とミレシアンの間で急速な総力戦となる反感を見るか、を説明する。(これについて詳しくは第一巻のこの話題に関する「アテン信仰者の到来The Atonists Arrive」と題する章を参照ください)

 

「トゥアハ・デ・ダナーン*は、ゲールに道を譲り、ケルトの想像上の神々である地下世界の主となった、古代のアイルランド住民である。トゥアハ・デ・ダナーンの名前はケルト人に先立つアイルランドの先住民に与えられた名前であることは疑う余地がなく、巨石建造物を築いて来たのは彼等に違いないと言うことである。彼等の起源の不確かさはその奇異な石の建造物から彼らは謎に包まれている…ケルトが巨石文化の人々をアイルランドから駆逐したのであれば、大陸で同じことが起きなかった理由はなく、その(ヨーロッパの)ケルトが支配していた地域の多くには未だ巨石文化の遺跡が残っているのである。」
*トゥアハ・デ・ダナーンまたはダーナ神族は、ケルト神話で語られるところでは神の一族とされる一族。トゥアサ・デー・ダナンとも表記される。
―ジャン・マルカル著「ケルト人」

 

「サルマティアンはスキタイ人と繋がりのある部族で、ロシア南部の草原地帯をうろつき、支配し、死者をクルガンと言う塚に葬ったが、これはケルトのケアンによく似ている…今では彼等はアマゾン族と連携していたと考えられている。と言うのは彼らの女性は戦士、僧侶であること、そして戦いでは巧みに馬を乗りこなすことが知られていたからである。彼らは主として金髪であった。アーサー王の伝説は、ブリテン島に傭兵としてローマ軍に付き添ったサルマティアンの馬乗りから起こったということも信じられている。」

 

 

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ロレーヌの十字架は、「二重十字架」とも言われる。これは、今日に至るまで世界の王家と主要な秘密結社により維持されて来た、古代のアテン信仰者たちの間の同盟を暗示すると信じられる。アテン信仰は、猶太―キリスト教の根本である。それはまたイエスアクエンアテンをも示す。―つまり、キリストと、キリストの前のキリストである。三つ葉模様の装飾はドルイド教への先祖がえりである。

 

 

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ヨーロッパの盾形紋章は、ドルイドの樫の葉(左右13枚ずつ)、メーソンの市松模様、獅子の頭、ドルイドの三本線、ロレーヌの二重十字架、アテン信仰者の不死鳥、そしてアテン信仰者のピラミッドを描いた王冠を含んでいる。この意匠がアイルランドの樫の葉で取り囲まれていることが最も示唆に富むものである。

 

 

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前のアメリカの大東社フリーメーソン結社のホームページ。明らかに彼らは、自分たちの結社員の中にアメリカの大統領や建国の父たちが含まれていること、そして彼らが今もホワイトハウスに影響力があることを強調したがっているのである。

 

文明のアイルランド起源 HPより09

ペルシャのアリアン人(Arya)

 

「ザグロスの山で、そしてチグリスの平野中で…髪の色の薄い…後にアッシリアと呼ばれるところに留まった…グティGuti(ゴートGoth)に似た人々が住んでいた。」
―C・レナード・ウーリーC. Leonard Wooley著「シュメール人

 

 

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山羊の角を持つ混成動物の権力の指輪。この指輪は古代ペルシャ(現イラン)で王様と魂の権威の至高の象徴であった。ペルシャはアリアンの國であった。今の國の名前―イラン―はファールシー語で「アーリア人」を意味する。指輪は最高神アフラ・マズダからの授かりものと考えられた。アフラとペルシャ王の精巧な描写が示すようにペルシア人は西方起源であった。彼等の祖先であるエラム人とメディア人はスキタイ人と密接な関係があった。(詳しくはこちら:http://iranpoliticsclub.net/culture-language/mythology1/index.htm

 

 

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アフラ・マズダの古代の彫像二点。ノルマン人の特徴が最も顕著である。マズダと言う言葉は「知識」或いは「智慧」の意味がある。
アフラ・マズダについて詳しくは:http://en.wikipedia.org/wiki/Ahura_Mazda

 

 

 

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アワン朝のシュシナク(インシュシナク?)イランでもっとも古い神話の王の一人である。彼の一族は八千年以上も遡ることが出来る。その頭飾りには様式化された角が付いている。角の頭飾りは最終的に王冠となった。神話の王様の容貌は目立って西方風である。ペルシャの影響力は、遠くバビロニア、インド、アフガニスタンとその近隣地域に及んだ。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Bactria

 

「人は、ペルシャ人がすべての彼等(ドルイド?)の魔術を習ったと思うであろう。」
プリニー著「ドルイドについて」

 

「紀元前六世紀より続々とイランはペルシャ人によるアリアンの広大な拡張をした。アルシャマArshamaの治世、インド-ヨーロッパ族の歴史で最も偉大な人物の一人、スピタマ(ゾロアスター或いはザラトストラ)が現れた。アリアン人少数派の行く末を案じ、彼は北欧の西に於いてごく最近復活し始めた考えを持ち始めた。即ち、親戚同士の同族結婚により民族を守ろうとしたのである。しかしアーリア人の支配貴族階級は広範囲にまばらに散らばっていたため、ゾロアスターは信仰の共同体を拘束するイデオロギーを作り出すことで、この命令を強化しようとした。アフラ・マズダと言う永遠の光の神を広大無辺な(普遍の)考え方、つまりあらゆる場所で神聖なアーリア人の保護者にしたのである。彼にはオリエントの神々や後のローマの神々のような特別な住まいも神殿もなかった。彼は単に完璧なる神聖な白(自体)であった。彼の敵は、世界支配のために彼と戦うよう定めを負った闇のアーリマンである。」

―アルフレッド・ローゼンバーグ著「20世紀の神話(1930年)」

 

古代ギリシャの作家がアッシリア人をアラム人或いはシリア人と区別することを欲し、ギリシャ人はアッシリア人を「レウコシリ」と呼ぶが、これは「白い」或いは「金髪の」を意味し、今もメソポタミアに住むまさに浅黒いシリア人から区別するためである。」
―ヘルマン・ホー博士Dr. Herman Hoeh著「明白な真実(1963年1月)」

 

「1907年、多数の粘土銘板が(現トルコの)ボアズキョイの宮殿保管庫跡で発見された。ボアズキョイは古代ヒッタイトの都でアナトリア高原の北にある。これらの粘土板には「ミトラ」の名前の最初に記録された言及が含まれていた。ミトラは天の主と共にヒッタイトと近隣国ミタンニとの間の条約の守護者として呼び出された。条約の日付は紀元前14世紀の頃のものである。」
―M・J・ヴェルマセレン著「ミトラ人、秘密の神」

 

「インド-ヨーロッパ語族は奴隷制を信じていないし、それは全能の主への虐げられた奴隷の哀願を全く含んでいないが、寧ろ神と人間が構成する共同体の信頼する成果を信じていた。プラトンはその書饗宴(188c)の中で『神と人間の間の相互共同体(フィリア)』のことを語っている。チュートン人は全幅の信頼を置くその神の友情のこと、アストヴィンastvinやフルトルイfulltruiを、オデッセイ(XXIV,514)の中のヘレネスと共に確信していて、同じ確実性が『神の友人たち(theoi philoi)』と言う言葉にも表現されているのが解る。インドのバガヴァド・ジータ(IV, 3)の中ではクリシュナ神が人間アルジュナを友人と呼んでいる。ゼウスのような最高神は『神々と人類の父』として崇拝され、それは家族の父親として、ゼウス・ヘルケイオスとしてであり、専横者としてではない。この考え方は神々の名前の中にも表わされている。つまり、インド人とジャウス・ピタールDjaus pitarそれにローマ人とジュピターである。インドの神ミトラMitraの名前は、イランのミトラMithraに呼応するもので、『友人』を意味する。ゾロアスターに確立されたマズダ信仰は道徳的に行動する人間を普遍の神、アフラ・マズダの友人と呼び、その神はアケメネス朝時代にはペルシャ帝国の神となった。プラトン(Laws,IV,716)によると謙遜と自己抑制の人間は中でも特に『神の友人』なのである。」
―ハンス・F・K・ギュンター著「インド-ヨーロッパ人の宗教的姿勢The religious Attitudes of the Indo-Europeans」

 

角のある人神
 

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「『吼える獅子』…このポルティコ・ドッタヴィア通りのガイウス・マニリウスの邸宅(ロレンツォ・マニッロの邸宅)の浮彫細工は獅子(ローマの象徴)が鹿を捕えたところを示す」
―「ローマ、クノップフ案内書(1994年)」

 

スキタイ人と言う言葉は語根Sacaが由来で、それはまた聖なるsacred、sacrament、sage、saga、stagなどの言葉が由来とする語根でもある。この語根は古代アイルランドのstagの神を指す言葉の変形である可能性が最も高い。このstag神はまたケルヌンノスCernunnos或いはハーン(ヘルネ)Herneとしても知られる。Zak或いはZtakhと言う言葉は「stag」を意味する。スキタイ人の又の名はScutsであり、それはScotsともなり得る。

 

「この祖先のsakには地理的制限がなく、有名な、特に今でも世界の驚異である記念碑的建築物の場所に現れる。」
―スーザン・B・マルティネス博士Susan B. Martinez Ph.D.緒「小人の失われた歴史」

 

「シベリアのシャーマン(霊媒師)の中には鹿のように着飾ったり、鹿の枝角を頭にかぶったりするものがある。実際、鹿或いは雌鹿は北極地方の文明の聖なる動物であった可能性があり、しかも氷河期の間にそれは地中海地域まで南に拡がった…これらの行動は古代スキタイ人の人々には多く共通している。事実、多くのアジアのスキタイ人の墳墓、特に東アジアのもので、アルタイの東、パジリクの墳墓で注目されたが、鹿の枝角、或いは馬頭を鹿角状の飾りで飾ったもので敬意を払われた人や動物を表わす像が見付かっている。」
―ジャン・マルカル著「ケルトの女性たち」

 

牡鹿、山羊、雄羊のような角のある動物はスキタイ人、ゴート、西方の國のドルイドの先住者にとって聖なるものであった。牡鹿や雌鹿の絵は多くの盾の紋章やまた多くの古い栄華を誇る家系の紋章に見られる。

 

「ホルスの神は屡々雄羊と山羊の両方の角で表される」
―フランク・ヒギンズ著「古代のフリーメーソン

 

「生きている男根としてのオシリスの意味は、メンデスと言う彼が崇拝されていた他の場所と結びつけ、聖なる山羊と結びつけるのである。」
―エーリッヒ・ノイマン著「意識の起源と進化」

 

「幕屋の屋根は山羊の毛でできていた。」
―ロバート・フェザー教授著「クムラン(遺跡)の銅製巻物の謎」

 

 

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角の生えた山羊の神として描かれたバッカス或いはディオニソス(酒の神)。この神はアリアンのハーン或いはケルヌンノスギリシャ・ローマ版であり、角のある神はキリスト教の神話拡散者にサタン(悪魔)として悪魔化された。ケルヌンノスの神殿や像は組織的にブリテンとヨーロッパ中から跡形もなく消されてしまった。

 

 

 ※          ※          ※          ※

 

 

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神聖な古代エジプトの町メンデスの雄羊の神。二組の角(雄羊と山羊のもの)、太陽の円盤とそれを守る蛇に注目しよう。シュメールの神話ではエンキの神が角の生えた山羊で象徴されていた。エンキはバビロニアではエアEaとして知られていた。エンキと言う言葉は、「大地の主」と言う意味であると信じられている。そうすると、エンキはアイルランドの森の神ハーンと同様のものである。

 

 

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アイルランドの神ハーン(角付きの神)はケルヌンノスやニコーNikorとしても知られた。この像はグンデストルップの大釜(Gundestrup cauldron)のものである。ハーンは固有の棘の冠を被る。インドでのハーンの同格神は動物の神シバ・パシュパティである。ハーンは蛇と首輪、智慧と王権の象徴を携える。この種の首輪はエジプトの墳墓でも見つかっており、例えばツタンカーメンのものがある。牡鹿はアリアンの象徴である。stagと言う言葉はSagaの語源とも考えられスキタイを意味する。

 

 

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先史時代の大きな牡鹿の洞窟壁画。牡鹿と雌鹿は、イチイの木を食べることが出来、食べても食中毒にならない唯一の動物であった。イチイの木はドルイドにとって最も神聖な木の一つであった。猶太(Jew)は元々は「イチイの木の人(Man of the Yew)」を意味していたもので、それはドルイドの賢者を暗示するものであった。

 

 

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山羊を脇にするマーキュリー。マーキュリーはギリシャの神エルメスのローマ版であった。エルメスは、アイルランドの神ハーンを取り込んだものであった。エジプトの神々の中ではトートがハーンと同格神である。インドでは彼はシバ神であり、オルペウス教徒にとってはオルフェウスであった。

 

 

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山羊の鼓腸症と角を持つパン神(牧神)。パンは更にもう一つの森の神起源の一種である。ミケランジェロはモーゼを山羊の角と共に描いて(彫って)いる。この偉大な彫刻家は角が神性と智慧の象徴であることを知っていたのだろうか?彼は、我々に「古代イスラエル人」の偉大な指導者モーゼは自分達の民族と同じ、西方から来たと知らせているのだろうか?

 

 

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ミケランジェロの山羊の角を持った古代イスラエル人モーゼの描写は古代アリアンとスキタイ人の神を表わす。サミュエル記(16:1-13)の記述を思い出してみよう。それは、次の様にある:祭司ツァドックは膏の入った角を幕屋から出して来てソロモンに塗った。そこで我々は古代世界の王様たち、同様にメシアは、神聖な角に入った油で聖別したのを見た。

 

 

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子羊と羊飼いの杖を持った色白のイエス。キリスト以前の異教の伝統から剽窃、切り取りがされなかったキリスト教の聖像や神学の外観などは殆ど一つもない。

 

 

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雄羊とローマの神マーキュリー。この像は多くのキリスト教の子羊を抱いているイエスの肖像とよく似ている。

 

 

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山羊の頭の飾りをつけたフェニキアの肥沃の神タスキオTascio。古代には、山羊は神性を象徴した。

 

 

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崇拝する雌鹿を持つローマの女神ディアナ。狩りと森の女神で、この女神は古代ドルイドダヌが土台であった。雌鹿と共に居るエジプトのイシス神の像もある。これらは殆どの歴史の本では見つからない。イシス神もディアナ女神も両方ともに月と繋がりがある。

 

 

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山羊の玉座「ゴチック」の首領や貴族階級に使われた。

 

 

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初期の英国の硬貨:山羊の象徴が使われている。この動物はゴート族、フェニキア人、ヒッタイト、それにその他のアリアン文化の主な部族の印であった。山羊は屡々十字架や様々な星の記号の近くに描かれた。

 

 

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バフォメットの偶像(エリファス・レヴィにより想像されたもの)はテンプル騎士団によって崇拝されたと主張されている。アテン信仰者のテンプル騎士団とメーソンはドルイドのあらゆる集成の相応しくない継承者であった。彼等の儀式と階級の殆どはユダヤの伝統から導き出されたように見えるのであるが、実際のところはアイルランドとアリアンの伝統から導き出されたものである。彼等のバフォメットは単にハーン神の一表現に過ぎない。ゴートgoatと神godの言葉は同じ語根から来た。猶太-キリスト教の源流についての真実を隠すことに余念がない神話拡散者によって悪魔化される以前は山羊の像は神を表していた。これは、既に述べたように、最も初期に崇拝された神は森の神ハーン神であったためである。ハーン神は入門者の精神世界への門番であり、手引きであった。この偶像は男性的なものと女性的なものの極性の統一を表している。

 

文明のアイルランド起源 HPより08

遠東のアリアン人Arya(続き)

アリアンの東欧、エジプト、アジア、そしてアメリカにおける存在を明かす証拠はずっと隠されて来た。そこに存在する支配者たちが文明の真の起源が広く知られることを欲しないのである。彼等は文明の要素の西から東への移動に関する問題が決して学界によって切り出されないように注意を払ってきた。然しながら、歴史の公式な総意のお決まりの説に陥る意志のない多くの明敏な研究者たちは煙幕や偽情報を見透かして来たのである。彼等の発見は、先史時代の民族移動と古代の人々の間の繋がりと来れば、視界から隠されていたすべてに関する洞察を与えてくれるのである。

 

「中東の文明に先駆けるヨーロッパの大陸の原始の文明の存在は、伝統的な歴史作家、特にキリスト教支配の時代のヨーロッパに於いて、相当大きな程度で無視されて来た。」
―アーサー・ケンプ著「巨人の行進March of the Titans」

  

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オシリスの戴冠とアメンタ(エジプトの黄泉の國)に向かう途中冥界を通過する間の魂の審判を下す手続き、である。オシリスと言う名前は正しい呼び方ではない。神の名はアシールAsir、アサールAsar、或いはアサーリAsariである。もっと正確を期すれば、彼はAs Ari、即ちアリアンの主或いは純粋な者、である。sarの音節はアッカディアンAkkadianとカルデアンChaldeanで「白い」或いは「肌が白い」を意味する。それは、シャー、シャカ、パシャ、カイザー、サー、シーレ、ツァーなどのような言葉の語源である。ノルマンの言語に於いてはAsarは守護神であり、エトルリアのAisarと同じである。ペルシャ語でzarは「古い」を意味する。ペルシャの至高の人神はザラストルストラZarastristraである。トネリコ(ナナカマドの類)Ash tree(Yggdrasil)はアースガルズ*では、ノルマンの神々の國或いは苑の木である。この他にもシャーマンshaman、サルマティアンSarmatians、サラワティSarawati、サラーSarah、ザラーZarahなどの言葉や名前についても考慮すればよい。
*アースガルズ(古ノルド語 Ásgarðr, 簡略表記 Asgard)は、北欧神話に登場するアース神族の王国。 死すべき定めの人間の世界・ミズガルズの一部であるともいわれる。

我々は、アサリAsariが唐棹(からさお:脱穀用の器具)と小鎌(又は戦闘用ラッパ?lituus)を携えているのを見る。これら二つのものは多くのことを意味するが、第一に地と王権を象徴する。彼等はまた西方ドルイドとも繋がっている。ファラオの像の多くは羊飼いの杖に見える物を共に表している。然しながらこの死者の書が解き明かしてくれる像に於いては、我々は、西方ドルイドにより儀式に使われるのとそっくり同じの聖なる小鎌を見るのである。オシリスは大地、農業、植物の神であるので彼が収穫のための小鎌と脱穀のための唐棹を携えているのは勿論意味のあることである。

教皇の牧杖(crosier又はpastoral staff)はドルイドによっても使われ、ローマの占い師やヒンドゥーの神ヒエラルファhieralphaが持って居るラッパの謎にも答えてくれるものである。」
―W・ウィンウッド・リーデW.Winwood Reade著「イシスの仮面The Veil of Isis」

 

 

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図はエジプトのアリッシュの町である。西方アリアンを暗示する可能性がある語根を持つ多くの地名(アルメニアやイランのような)の例の一つである。アフリカの名前そのものも「西」を意味するアパリカAparicaが由来である可能性がある。この種の、ケルト語が語源の名前ははるか前の時代、或いは、数百年の間北アフリカに存在した西ゴート王国の時代が起源かも知れない。白い肌のゴートがアフリカに存在したことは今日ではよく守られている秘密である。(詳細は次の二つのリンク:
https://infogalactic.com/info/Ariana
http://en.wikipedia.org/wiki/Vandals

 

エジプト人自身が彼らの祖先は遥か遠い昔に母国の文明と筆記の技術と洗練された言語を持って来てナイルの奥に定住したよそ者であると主張している。彼等は日没の方向から来て、もっとも古代の民族だ。
―シケリアのディオドロス「古代ギリシャの歴史家」

 

「現代の学者がエジプト初期の歴史についての参考本を編纂したとき、彼等は周到にエジプトの王朝以前の天界の統治者について証言する古代の証拠の印象的な本体のことについての言及を避けた。」
―トニー・ブッシュビー著「聖書の秘密」

 

「古典時代の考古学者は古代の民族移動が先史時代にも行われたことで一致している。然しながら彼らは屡々その日付や係わった国については寧ろお茶を濁すのである。」
―ラルフ・エリス著「イエス:最後のファラオ」

 

「古代の人々の宗教は世界中すべてで一つ、偉大な同胞団、普遍的信仰、であったと思われる。その原始の時代にはあまりにも厳粛で威厳があった古代の神聖さからそれを変容しようとする、そして虚偽の教義のミサを指図する僧侶と神学者の衝動こそが変なのである。」
―E・バレンシア・ストレイトンValentia Straiton著「北方の天国の船」

 

エジプト人は、世界に向けて神学を規定した卓越した哲学者であった。そして天の物体を好奇心と同様に畏怖を以て観察したカルデアが最初の占星術者として起こった。そして彼らは神聖な発見をし、自らを神の解釈者と呼んだ。」
―W・ウィンウッド・リーデ著「イシスの仮面より、或いはドルイドの謎」

 

「…エジプトはその初期の職人芸に於いて極めて特異であり、古い王朝からの建築は一番立派で、その各々の遺跡の質と規模はそこから次の千年を通じて低下する。」
―ラルフ・エリス著「エジプトのエデン」

 

「王朝以前のエジプト人、つまり、彼等の北アフリカに土着のその階層は白または薄い肌の色の人種に属し、毛髪も薄い色で、多くの特徴が古代リビア人に似ていたが、彼等は後の歴史時代にはナイル川の西岸に非常に近い地域に住んでいた。」
―E・A・W・バッジE. A. W. Budge著「新石器時代と古典時代のエジプト」

 

「オックスフォード大学人間解剖学部にある(ナイル上流の)テーベ地方からの収集物の古代の頭蓋骨の中には、躊躇うことなく、ノルマン人種のものと考えられる種がある。」
―L・H・ダッドレー・バクストンL. H. Dudley Buxton著「アジアの民族」

 

「…『古典時代のエジプト』の著書である有名なエジプト学者(ウォルター・B・エメリー教授)…は王朝以前の時代に生きていた個体の遺骸を発見した。これらは地元の人種集団よりも大きな縦長の頭蓋骨を示し、毛髪は薄い色で背が高く、がっしりした体格であった。エメリーはこの種はエジプトの土着ではなく、この国で聖職と政治の重要な役割を果たしていた、と言明した。この種族は一般の人々から距離を置き、貴族階級とシェムス・ホル、即ち「ホルスの使徒」に係る学者とのみ混血した…シェムス・ホルは王朝以前のエジプト(紀元前三千年頃まで)に於いて支配的な聖職階級として認識されており、トリノパピルスやアビドスの王たちの一覧に於いても言及されている。」
―ヴィットリオ・ディ・セザーレとアドリアノ・フォルジオーネVittorio Di Cesare and Adriano Forgione著「マルタ:母なる女神の頭蓋骨」

 

「古代の遺跡に於いて白人種のことが語られるのを見出すのは特異である。ドイツの博学者ブルグシュ博士はタムホウTam-hou(白い人)と言う言葉に注目した。それはキリスト以前2500年の日付の銘板に起こるので、人民を指すには疑義がある。ブルグシュは彼らの跡をリビアに辿った。シャンポリオンはタムホウTamh’ou*をヨーロッパ人の祖先の種と認識した。M・デヴェリアは、ホルス、即ち神が白人種を先導し手引きしていることの象形文字ヒエログリフ)の記録について述べている。未だ、数百マイルに亘って多くのケルトの遺跡が北アフリカにあるため、彼は起源のケルト人がエジプトに存在した、今の言葉で言えばウェールズ人とアイルランド人が嘗てエジプトにいた、ことを主張する。」
*Tam-hou、Tamh'ouの記述は原典通りとした
―ジェームス・ボンウィック著「エジプトの信仰と近代思想(1878年)」

 

「これらの青い目をした薄い肌色の民族が誰であるか単に誰も知らない、彼等が何処から来たかも…人類学的には彼等はコーカシア人種と名付けられている…エリオット・スミスは、これらの人種は現代の世界が驚くナイル川畔の驚異的建築を成し遂げるのに充分な、いやそれ以上に知識を持って居た、と結論付けている」
―ジェラルド・オファレルGerald O’Farrell著「ツタンカーメンの欺瞞」

 

ドルイドは初期のヘブライ人やエジプト人と同じように赤道の牡牛の形態の下にそして、直立した一枚岩の形態ヘルメスの柱「ギルガル」で、神々を礼拝した。それらの多くが今日のパレスチナで見られる。」
―フランク・ヒギンズ著「古代フリーメーソン

 

 

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2010年現在、ファラオ、とりわけ有名な第18王朝のファラオの西方祖先に関する真実が輝き出した。ツタンカーメンのDNAは、西方起源であることがわかった。(2010年のレポートはこちら:http://www.eutimes.net/2010/06/king-tuts-dna-is-western-european/

新たに解った事実で、あのツタンカーメンを黒人ファラオとして描くためにその祖先の非西方化のあらゆる攻撃的出版の努力は一体何であったのか問題が起こる。エジプト文明が黒人アフリカ人王たちの発明品であると世界に説得するために労を厭わなかった、国連の支援したシェイク・アンタ・ディオプなる山師とその一派に一体何の意味があったのだろう。例えば、この「ツタンカーメン王の新しい顔」と題したナショナルジオグラフィックの醜聞じみた表紙に注目して貰いたい。

 

 

いずれにしても最近の発見は学界の専門家に西方の國と人種との関係に於けるエジプトの歴史はその初めから誤りであったことを認めるように強いるのである。(詳しくはこちら:https://www.irishcentral.com/roots/history/dna-ancient-egyptians-ireland

「数多くの学術分野からの厖大な証拠を以て知識武装したディオプは、ケメット(古代エジプト)の黒人起源を証明するための詳しい情報を発表した。会議の報告からディオプが会議の進行を牛耳っていたことは明らかであり、彼の頑強な議論に押し返されて多くの参加者は会議中にその立場を変更した。」

 

さて、学者はツタンカーメンの石室内部に潤沢に見つかったアイルランド式の組み糸飾りや黄金の首飾りにより多くの意味を見出していたかもしれない。首飾りはアイルランドで古代の王様に造られたものと全く同じ装飾であった。

我々はあの有名ですぐにそうと判る「ツタンカーメン」の黄金の仮面を畏敬の念を持ってみるが、是非思い出してほしいのは、多くの人が間違って信じるように導かれている、あの仮面は実際にツタンカーメンの顔を描いたものではないことである。それは彼の兄スメンクカーラーのものである。よく解るように、エジプトの歴史とくると我々は欺瞞の迷宮に彷徨ってしまうのである。私の意見では今こそ真実が出て来る時だと思う。(詳しくはこちら:http://en.wikipedia.org/wiki/Smenkhare

 

・さらに確固とした、アリアンの東方での存在の証拠は付録II:文明の西方起源を肯定する最近の発見:http://www.irishoriginsofcivilization.com/recent-discoveries.html
を参照のこと。)

文明のアイルランド起源 HPより07

遠東*のアリアン人Arya(*原文はFar Eastであるが明らかに現代の極東を指していないので遠東と訳す

 

マハーバーラタアルジュナと言うインドの英雄がメルの山を訪れた間、太陽と月は毎日左から右へと円を描いて通過したと報じている。そのような考えは南の赤道付近では絶対に起こらない。と言うのは極北地方でのみ太陽は地平線に沿って円盤を描くように回るからである。インドのアディティヤの神々への祈りにもある:長き暗闇が我等の上に来ないこと、そしてアグニが長い暗闇の中で余りに手間取った、と輝けるアグニのことを愚痴っている、これらすべては長いヒュペルボレオスの夜にのみ帰することが出来る。」
―アルフレッド・ローゼンバーグ著「20世紀の神話(1930年)」

 

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支那西域チャルチャン(且末)で見つかった コーカサス系のミイラ

西方のゴートGothsが原始のスキタイや初期のアリアン人の民族移動と関係しているか或いは子孫かどうかに関係なく、彼等はエジプト、印度、そして支那に達することに成功した。最近の考古学的証拠は、白い肌の西洋人がパキスタンのインダス渓谷に沿って、印度のクシュに、そして支那のチャルチャン(且末)地域やタリム盆地に定住したことを示す。これら遠東(中東より東)の地域で長く埋葬された男女の髪の毛、衣服や従装具の検査で、彼等が明らかにデンマークノルウェイスウェーデンのノルマン人として特定される。

 

「保存されている遺体を研究した上海の医者は支那の金髪のミイラについて不可解な新情報に行きついた。その女性が誰であろうと、その筋肉には高い水準のコレステロールを含んだ状態で死んだ ―そして説明のつかない銀白色の半金属元素アンチモニーの痕跡がその肺にあった。」
―チャールス・ベルリッツ著「奇妙な、そして素晴らしい人間の世界World of the Odd and the Awesome

 

ペンシルベニア大学支那研究教授ヴィクター・メイアと考古学者J・P・マロリーMalloryが支那から戻った時、彼等は同僚に見てきたことを伝えた。砂漠の乾いた砂の中で乾燥され、完璧に保存された四千年前のミイラである。髪を後ろでくくり、入れ墨をした、背の高い金髪の白人女性、背の高い茶の顎鬚をした白人男性、ちっぽけな青い目をした白人の赤ん坊、格子縞の織った繊維と、染めた柔らかい羊毛でできた縁なし帽…四千年前の支那の荒野でコーカシア人が何をしていたのだろうか?」
―モーリス・コッテレル著「イエスアーサー王と聖杯の旅」

 

北インドのジャート族Jats(シークのエリート)はアリアンの最後の方の分派かも知れない。或いはもっと時代が下ったスキタイ人の移民の子孫の可能性もある。それだけは、その民族が西方からインドに来たというその話を常に伝え聞いてきたシークの歴史家やシークの人々によって確認されている。同様に支那月氏も西方からの来訪者と繋がりがあったように見受けられる。

 

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「アリアン」戦士、北インドのシークはスキタイの遊牧民の末裔か、それとももっと以前の西半球からの来訪者か? 彼ら自身の歴史が後者だと訴えている。彼等の躯体、人相学、振舞い、そして気質は確かに古代バイキングやゴートのそれ、つまりノルマン人のそれとよく類似している。正にそのシークSikhと言う名前がスキタイを表わすSac或いはSakhの由来の可能性がある。

 

 

「ノルマンの神々はレヴァントの神々と同じであることを示す証拠は充分にある。広場、集会場、戦争、祭壇、生贄、婚礼、家庭生活は同じである。」
―「害悪?の聖職Priesthood of the Illes」

 

「これ等の原始アリアンのアトランティスの記憶と共に、ノルマンの起源の上でのみ理解される、これらのカルトの寓話、慣習、彫刻が現れるのである。王朝以前のエジプトでは白鳥の首と三つ葉模様をつけたノルマンの小舟を見出す。しかし漕ぎ手は後の支配者アモリ人で、既にセイスArchibald Sayceにより白い肌と青い目をしていたと認められている。彼等は嘗て厳密に同質な、そして徐々に地域全体を制圧した狩人氏族として北アフリカを横断した。彼はそこから更にもう少し、シリアを横切って後にバビロンの場所となる地域に向けて移動した。ベルベル人の中に今日でもなお色白で青い目のものが居るのは、紀元五世紀のヴァンダルの侵略に帰するのではなく、有史以前のアトランティスのノルマン人の民族移動の波に帰するものである」
*アーチボルド・ヘンリー・セイス(1845~1933)は、イギリスの東洋学者、言語学者アッシリア学の代表的な研究者として知られ、またアナトリア象形文字解読の草分けであった。
―アルフレッド・ローゼンバーグ著「20世紀の神話(1930年)」

 

「アモリ人はエルサレムを創立し、後のガリラヤ、つまり、イエスが来た場所と言われる異教徒の地域にノルマン人のいわば機織りの緯糸(よこいと)を形成した。アモリ人はその後、ペリシテ人によって増強した。そのペリシテ人もまた未知のノルマンの船の設計を船首の斧と三つ葉の印と共に、シリアにもたらした。」
―同上

 

「紀元前2400年頃突然白い肌、赤みがかった金髪と青い目をした人間の浮彫細工が現れる。それはパウサニアスが後に報告した金髪のリビア人のことであった。テーベの石室の壁画にはエジプトを代表する四つの人種が見いだせる。即ちアジア人、黒人、リビア人、そしてエジプト人である。最後のエジプト人は赤みがかった染色が施され、その一方でリビア人は常に顎鬚で示され、目は青く肌は白い。純粋なノルマン人種はセニエSenye王朝の墓、カルナックにあるホルエムヘブの塔門の女性に示され、メディネット・ハブにある神殿の白鳥の小舟の人々の浮彫細工により、そしてフェニキア人の航海を創設したツァッカライ?Tsakkaraiにより示されている。金髪の肌の色の白い人間はメディネット・グーロブ?Gurobにある古墳に表れる。クフ王のピラミッドのマスタバでの1927年の一番最近の発掘調査では、メレスアネ王女と女王(紀元前2633-2564)が金髪で描かれているのが見つかった。伝説的で神話に包まれたニトクリス女王も同様に、金髪だったといつも言われる。これらはすべて、北アフリカの先史時代のノルマン人の伝統の民族の記憶である。」
*パウサニアス(115年頃~180年頃)は2世紀ギリシアの旅行家で地理学者。『ギリシア案内記』の著者として知られる。
―同上

 

「私はインド-ヨーロッパ人の熱烈な宗教性の反映について少し前もって述べたい。それはつまり、インド-ヨーロッパ語族がある共通の青銅器時代の核心から発しており、―彼らは主にノルマン種族の政体と精神に常に重要な影響を与えて来た、ということである。丁度インド人、ペルシャ人、サカ人(Sacaean)、アルメニア人、スラヴ人、バルト人の言語を比較することにより、そしてギリシャ人、イタリア人、ケルト人、チュートン人の方言を比較することにより、我々は共通の、或いは原始のインド-ヨーロッパ言語と言う結論に到達できるように、旧石器時代の終わりの部分を同じように近似させると、インド-ヨーロッパ言語の異なる民族の法律、法的慣習が原始のインド-ヨーロッパ的法律感覚を解き明かすのである。同様に、これ等の民族の宗教的形式を比較することから我々はインド-ヨーロッパ人の天性から発する特徴的な宗教的態度 ―神の力に対するインド-ヨーロッパ人や民族の特徴的な振舞い ―を特定することも出来る。だからそれはつまり、ある共通の宗教的態度であり、その態度(傾向)は元々すべてのインド-ヨーロッパ語族に特有のもので、それがインド-ヨーロッパの宗教的拘りの特徴を解き明かすのである。しかし実際全てのインド-ヨーロッパ人の国家はノルマン人種の精神的類型を鋳型にした異なる様式を示し、その共通の宗教的態度はノルマン人種の先天的な精神的性質から発したところの特徴的にノルマン的な宗教的こだわり(熱意)の中に特定できる可能性がある。」
―ハンス・F・K・ギュンターHans F. K. Günther著「インド-ヨーロッパ人の宗教的態度」
注意:これは一神教的性格を指すものではないと思われます。誤解無きように。―燈照隅

 

「エジプトとヨーロッパの間には、初期王朝の時代の間に貿易関係が確立したようである。そしてファラオの宮殿や墓に贅沢品をもたらすために商人が遥かな距離を旅した。我々は、第一王朝の確立以前に既にパキスタンの辺境から可成りの量のラピスラズリがエジプトに到着していたことにも注目していた。このように、カセケムイ王(第二王朝)の宝飾に使う黄金もまた、ルーマニアカルパチア山脈がその起源であることがわかっている。この様な遠隔地との繋がりが紀元前三千年の初め(カセケムイに通常当てられる時代)には疑いなく見られる。ドナウの北方からの黄金がエジプトに達することは高度に発達した国際貿易の仕組みの存在を語り、それには明らかに海運に導かれた部分がある。そしてこの印象は初期の青銅器時代のトロイ…大災害で破壊された錫と青銅からできた工芸品…の発見によりさらに強化される。古代世界で知られている唯一の錫の産地はヨーロッパである。それはボヘミアと西方の大西洋、北スペインとブリテンであった。一般に近東にもたらされた最初の錫はボヘミアからであったが、鉱物学者のジョン・デイトンはこの資源の主な産地としてブリテンを挙げ、納得できる反論をしている。主にブリテンでは、そしてそこでのみ、錫と銅が同じ鉱脈で見つかり、鉱石の形態で既に混ざっているからである。デイトンにしてみると、それが正しければ、この証拠は本当の青銅はブリテンで発明され、それは他の場所ではない、という意味にとれる。」
―エメット・スウィーニー著「イスラエルとエジプトの起源」

 

著者はその作品を通じて猶太と言う用語が最近の歴史に於ける言葉として使われたものを指さないことを主張し続けている。それが指すのは、アリアンであり「樹木の人類」である。これは古代猶太(或いは猶太)と言う言葉が遠東で見出される理由である。それは宗教的猶太人が世界の隅々まで旅したからではなく、アリアンこそがそれをしたからである。H・ウェストロップが次に説明しているように、である。

「キュロス大王とその継承者の下でのパレスチナの猶太人の入植(植民地化)は帰還と言うよりは寧ろまさに新たな占領のように見られるのである。明らかにユダヤに帰還できたものはユーフラテスを越えてこれまでにない位多かった。彼らの指導的階級はパリサイ人と言う称号を持って居たがその名前はペルシャとの提携から来た可能性がある…父系の名前はバラモンの神々と非常によく似たものである。ブラーマBrahmaとその配偶者サラ-イスワティSara-Iswati、その息子イクシュワカIkshwaka、そしてひ孫ヤドゥYaduである。平和の神殿の遺跡、タクト・ソルミTukht Solumi、がカシミールに設立され、ユクリアYuclia、ダウィドDawid、アラビArabi、クッシュCush、ヤヴァンYavanのような聖書と西アジアの多くの名前もまたインダスの地域に土着のものである。」
―「古代のシンボル崇拝」

 

悲しいことに古代民族のシンボリズムを分析したウェストロップや他の多くの著作家は「猶太」が今日その綽名で知られた人々と同じであると信じていた。宣伝工作に呑み込まれなかった、そしてより深く掘り下げた人々は、これが単に虚偽であることを知っている。

東方のスキタイの名前の一つはゲテスGetes或いはゲトスGetsで「ゴート」を暗示する。これらの民族はメソポタミアで、最も強大な古代王朝を築いたそこのグットGuts或いはグテアンGuteansと同じである可能性が非常に高い。然しながら次に引用する研究者は他の多くの研究者のように、誤解して東方から西半球への民族移動であったかのような印象を受けるのであるが、その他の点に関する彼の分析は最高に洞察に富んでいる。それは、何世紀にも亙って、世界の古代民族の起源、性質、動きについて我々が眞實を知らないことを寧ろ望んだ共犯者の歴史家によって、我々から隠されて来た。

「『タリムのミイラ』についての本の中の大胆な一節で、著者のジェームス・マロリーとヴィクター・H・メアは、これらの遊牧民の間にはそれ以前に信じられてきたよりも大きな結合力があった可能性を示唆している。彼等は支那の辺境に近い月氏遊牧民に関して次に掲げる段落のように書いている。

月氏は、ヘロドトスの時代に中央アジア西のオアシスと草原を支配したマッサゲタイと同等に見られてきた。此処でマッサはペルシャ語の「大きな」と言う言葉で、故に「大ガタエ(大月氏)」なのである。…他の研究者はこの言葉が、プトレマイオスの地理に記録されたギリシャ語でイアティオイIatioiと言う部族の名前を漢字に充てる試みを見て来た。元々の発音はグヮッティgwat-ti、ガッティgot-ti或いはグッシgut-siとして再構成され、これは、ゲタイGetae(ダキア人、バルカン半島黒海の北西の部族)、ガティGuti(メソポタミアの辺境民族)、クシャKusha(我々クシャ人)、月氏Gushi(漢書に出て来る民族で、クロランの人々と共に山賊と見做された)、或いはこれらのいくつか(全部ではない)の組み合わせで、ゴートGoths(北欧東欧のゲルマン部族)と少し離れた語彙的類似性を開かしめる。」「マロリーとメア(2000年)98~99頁」

「…音類似の部族名の比較は、単に一段落で取り上げたに過ぎないが、潜在的に大きな議論を呼び、古代ローマに於ける未開民族の侵略の性質、インドにおける強大なクシャン帝國、グティGuti民族の起源、メソポタミアグティの王達、ゴートとゲタイと月氏の類似性をもっと限定的に理解する一助となる。更に、これは少なくとも「スキタイ人」と命名された民族の中にはゲタイと言う一部族があった可能性を明かすものである。ならば自らをGets、Gats、Guts、或いはYutsと称した遊牧民族が存在したことにならないか?

これは月氏がゴート人と関係があると言う提案の最初のものではない。ユリウス・ハインリヒ・フォン・クラプロート(1783~1835)はその著書『アジア歴史地図(Tableaux historiques de l'Asie)』で次のように記す。

「YuetiやYutの名前はYutsやゴートを記憶に呼び起す。それはヨーロッパに来た。非常に可能性が高いのは、スカンジナビアにOdinと共に到達したYutesとは我々の時代よりも三世紀前に、未だ支那甘粛省北西に…まだ居住していた同じ民族、ということである。これはゴートの中央アジアの民族移動が他のゲルマン民族の移動の後であったと想定する。」

 

「このクラプロートによる月氏とゴートの間の特定はローマへの遊牧民移動に係った部族が現代の学者の主張よりも多かったことを暗示する。これは、ゴートがアラン族と共にフン族の圧力の下にヨーロッパに押し出されたということなのか?更に、これらの同じ部族がインドやペルシャの辺境に見られる部族なのか?南アジアのジャット(Jats)は我々を正しい方向に導いてくれる集団である可能性がある。何故なら彼等の定住は地理的にインド-スキタイ人インド亜大陸への定住に呼応するからである。この部族の生き残りの人々の慣習や特徴を調べることによって我々はゲタイGetaeが歴史に果たした役割をよりよく理解できるかもしれない。」
―サンディープ・S・ジュティSundeep S. Jhutti著「ゲト族The Getes」

 

 

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チベットのラサ。「asa」の音節は(AsarやAserなどのように)スカンジナビアの言葉で「神」或いは「神聖な人」を意味する。7世紀までこの町の元の名前はラサRasaであり、これは「ゴート(即ちGothsの場所)を意味すると言われた。

 

注意:文中の太字強調は燈照隅が付加した。

※次回は「遠東のアリアン人Arya」の続き(後半)です

文明のアイルランド起源 HPより06

言葉の変遷

 

アイルランド語で「聖人」(niamh)は「天国」(neamh)と類似している」
―マッカファーティとバリーMcCafferty and Ballie著「ケルトの神々」

 

付録8に於いて著者は語源学の課題と取り組み、手短に親言語や元言語に関しての理論を検証する。この時点では我々は単にアリアン、後にはスキタイの東方への拡がりに関する多くの証拠が言葉と地名から見つかっているということを特筆することが出来るだけである。著者T・W・ロールストンT. W. Rolleston*は文化的拡散を示す多くの例を提供してくれる。
*アイルランドの作家、文学者、翻訳者であり、詩人として知られているが、幅広い文学および政治トピックについて出版している。アイルランド文学や工芸の出版・保存に貢献した草分けの一人。

「dunum」という語は今日ゲールの地名(Dundalk、Dunrobinなど)に非常にたびたびその痕跡を見ることが出来、要塞或いは城を意味するが、それはヨーロッパの地名に於けるもう一つの典型的なケルト要素である。それはフランスで大変な頻度で見られる。例としてLug-dunum(Lyons)、Viro-dunum(Verdun)がある。スイスにもみられる。例としてMinno-dunum(Moudon)、Eburo-dunum(Yverdon)など、そしてオランダでは、有名なライデン(Leyden)の町の名がケルト語のLug-dunumに帰する。英国ではこのケルト語の言葉は屡々その単純な訳語であるcastraに置き換わり、従ってCamulo-dunumはColchesterに、Bran-dunumはBrancasterとなる。スペインとポルトガルではdunumで終わる8つの言葉が古典の作家に言及されている。ドイツでは現代のKempton、Karnberg、LiegnitzがそれぞれCambo-dunum、Carro-aunum、Lugi-dunumのケルト語の形式に帰し、更に、Singi-dunumが現代のベオグラード(Belgrade)、Novi-dunumが現ルーマニアのIsaktscha、Carro-dunumが、南ロシアのドニエステル近くともう一つクロアチアの現Pitsmezaに帰する。Sego-dunumは現フランスのRodezで、これはバイエルンの(Würzburg)もまたそうで、イングランドにもSege-dunumがNorthumberlandの現Wallsend、で、この一語目SegoはスペインのSegorbe(Sego-briga)に跡を残している。Brigaはケルトの言葉でドイツ語のburgの起源であり、意味としてはdunumと同等である… もう一つの例としてはmagosと言う言葉は、平地で、アイルランドの地名の要素として非常によくあるもので、フランスでは豊富に見いだされ、フランス以外でケルトの國ではないところでは、Uro-magus、現スイスのPromasens、Broco-magus、現ラインラントのBrumath、そして既に記した現オランダのNimègueに、Lombardyとオーストリアに現れる。
―「ケルト人種の神話と伝説(1911年)」

 

この課題に関してさらに詳しくは第一巻の14章「古代人の失われた言語」を参照されたし。http://www.irishoriginsofcivilization.com/etymology-key-to-the-past.html

 

ヒクソス・サクソン・スキタイ

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スキタイ女王のデスマスク
コーカサス系の整った顔に注目

オシリスは神話によると西方から来た。彼は海から生まれた。彼はナイルデルタのデッドの町の地域の神として現れた。イシスは西方の女神と呼ばれることもあった。」
―ヘンリー・ビンクリー・ステイン著「エホバ以前の三万の神」

 

「語源学と東方歴史の教授のエジプトの歴史の書―ファラオは黒人ではなく白人であったことを詳述している」
―アーサー・ケンプ著「タイタンの行進」

 

第一巻で著者が ―ミレシアンのアイルランド侵略の章で― 示したように古代の記録はケルト人、いやもっと正確にはヨーロッパのゲール人である、スキタイはエジプトのデルタ地帯の貴族、同じくヒクソスと密接に連携していた。古いアイルランドの年記はエジプトに「ミレシアン」として暮らしていたスキタイの子孫について言及している。この名前は彼らの酋長ミルMil或いはマイルMileからつけられたもので、スコットランド人にはガセロスGathelosとして知られていた。

大多数の英国の歴史家はミレシアンについてそのエジプトからの撤退以後を取り扱いたがる。彼等はミレシアンのスペイン征服に集中し、彼等のナイル時代について語る歴史的伝承を避ける。この怠慢は我々に警鐘を鳴らす。然しながら点を繋ぐと、古代の國と人々の間の繋がりに関してだけでなく、世界の一番の秘密結社とその所謂「新世界秩序NWO」の起源に関しても、興奮するような物語が明るみに出る

著者の意見では所謂ヨーロッパのスキタイ人エジプト学者が言う処のエジプトの貴族階級「ヒクソス」の人々である。ヒクソスは聖書の所謂古代イスラエル人と同じである。著者の言うスキタイ-ヒクソスの繋がりが正しければ、我々は年記から文明の要素の西方から東方への変遷に強力な確証を持って居ることになる。

更に、我々は「サクソン」という言葉にも、研究者の中にはなぜサクソンと古代イスラエル人が全く同じものであったと信じる者がいるかも、もっと論理的な説明を提案できる。研究者の中には、サクソンと言う言葉はサカSaca(又はSaka、Sakai、Saga、Sageなど)が由来で、「スキタイ人」を意味すると信じるものもある。

真偽はさておき、この言葉で「Sacaの人」を意味するイサクIsaacと言う名前、もっと正しくはIsh Sac を得られる。旧約聖書によればイサクはアブラハムの息子で、そのアブラハムはその妻と共に最初のエジプトに入った「古代イスラエル人」である。イサクと言う名前はアブラハムとその子孫がスキタイ人であったことを示す。著者はこの可能性は高いと考えるが、この予言者とその偽りの移住に関する公式の説明を考慮すると、注意が必要である。この話には旧約聖書の話で見出すよりももっといろいろな話がある。

 

Sakaiはスキタイの中でも最も特筆すべき人々で、アルメニアに定住し、Sacae-Sani-Plinyの古参(長老)と呼ばれた。」
ーガイウス・プリニウス・セクンドゥス (Pliny the Elder ローマの歴史家)

*ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは、古代ローマ博物学者、政治家、軍人。ローマ帝国の属州総督を歴任する傍ら、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著した。一般には大プリニウスと呼ばれる。 甥に、文人で政治家のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスがおり、養子としている。

 

「サクソン人はアジアの古代Sacae人から下った子孫である」
―「カール大帝の家庭教師」アルビナス*
*アルクィンAlcuinのこと。彼は、Flaccus Albinus AlcuinusまたはEalhwine(735年頃~804年5月19日)としても知られ、英国のヨーク出身の学者、神学者、教会員、詩人、教師であった。彼はヨークでエグバートの学生になり、フランク王カール大帝の招きで、カロリング朝の宮廷で一流の学者および教師になり、780年代と790年代に宮廷の人物であり続けた。

 

「ノルマンのSacaeは後に印度に至り、宗教的叙事詩ヴェーダを伝え、それはまずは口伝で、しかし西紀300年頃の比較的遅い時代にバラモンによって古代サンスクリットの書式に変えられた。」
―マジソン・グラント著「偉大な民族の移動The Passing of the Great Race(1916年)」
*Madison Grantは、アメリカの弁護士、作家、および動物学者で、優生学者および自然保護主義者、科学的人種差別主義の擁護者、そして進歩主義時代の主要な思想家および活動家の1人としてその業績を知られた人物。

 

「彼らはその息子たちを五歳から十二歳にかけてたった三つのことに関して訓練した。それは、乗馬、弓道、真実を伝えることであった。」
ヘロドトス著「古代の歴史家、サカについて」

 

いずれにしても語源学はスキタイが本当にヒクソスの貴族たちと全く同一であったことを暗示する。従って、スキタイは聖書に出て来る古代イスラエル人と言うことになる。これに加えて、語源学は所謂「アングロ-サクソン」がスキタイ-ヒクソス-古代イスラエル人の子孫であることを暗示するのである。

我々は、古代のアイルランドの記録にあるように、ゲールのスキタイ人がエジプトに旅立ったことを疑う理由は何らないのである。ガリラヤに近い、スキトポリス(Scythopolis)という名の町は考古学者に発掘された。また我々はこの地域の他の場所にも、ナイルデルタ地域と同様に、定住地があると確信できる。従って、スキタイ人が所謂「古代イスラエル人」(エジプトのヒクソス)と密接に繋がっているのであるから、西方の地のサクソンを「古代イスラエル人」とすることは全く正しい。但し、一般的にイスラエル人が虐げられたが、神に鼓舞された平民で専横なエジプトの奴隷の主人に抑圧されたと信じている正統派の猶太人、キリスト教徒や英国のイスラエル人が言う理由によってではない。そのような前提は事実によって裏付けられておらず、今や、マックス・ディモントその他の指導的な猶太人歴史家によって公然と反論されているのである。それは、終始一貫して全く持続不能な捏造であった。

 

「マーチン・バーナルが黒いアテナに於いて特筆しているように、古代の末期以来、作家はエジプトからヒクソスを追放したエジプトの記録と聖書の出エジプト記の間の繋がりや、ギリシャのカドモスとダナオスの出生の伝説*を知っていた。紀元前四世紀のギリシャの歴史家、アブデラのヘカタイオスは…エジプト人のヒクソス追放、イスラエル人の出エジプト、カドモスとダナオスの出生の話は同じ話の三つの平行したものであるという観方をとった。」
*カドモスはギリシア神話の登場人物で、フェニキアテュロスの王アゲーノールとテーレパッサ(アルギオペーとも)の子。ダナオス はギリシア神話の登場人物で、エジプトの王ベーロスとアンキノエーの息子。
デイヴィッド・リヴィングストン著「瀕死の神The dying God」
*デイヴィッド・リヴィングストンは、1966年にカナダのモントリオールで生まれの歴史家。彼は、1987年にコンコルディア大学で西洋文明の研究を始め、そこで西洋の歴史における多くの奇妙な異常を最初に見出し、それが作品に結実した。探検家のリビングストンではない。

 

 

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スキタイ人のスキトポリス定住、エルサレムから目と鼻の先。ガリラヤ、ゴラン、サマリア、ヨルダン、スメリア、サッカラ、サハラ、ガダラ、アラビア、イラン、シリア、マレウィ、アマルナ、タイヤ、タリムなどの地名は、アイルランド起源、スキタイ人の存在、初期アリアン―西方の人であることを示す。スキタイ人のもう一つの名はアシュグザAshgzaであった。このashの音節はトネリコ(ナナカマドの仲間)ash treeから来て居り、guzaの音節はGoth とgoatから来ている可能性がある。

 

 

著者は個人的には、スキタイ人はヒクソスだけでなくクレタ人、ミケーネ人、ペリシテ人、それにメソポタミアのアモリ人とも繋がりがある可能性が高いと考える。また、西半球からのアリアンはスキタイ人の時代よりもはるか以前に東欧とアジアにも足を踏み入れたと信じている。スキタイ人は、大災害の時代以降にブリテン島とスカンジナビアから離れた中の一団と信じている。それは第13王朝の間にエジプトに行くことを決断した堕落した、しかし強大な好戦的集団であった。

 

 

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「…全員深い青い目で、明るい赤毛をしていた。」
ヘロドトス著「スキタイ人の出現について」

 

「これらセレイSereiは背が高く、金髪と青い目をしていたと言われ、荒々しくあまり理解できないようなしゃべり方をしていた。」
プリニウス*著「スキタイ人或いはシアーSeersについて」
*前出(Pliny the Elder ローマの歴史家)

 

ヨーロッパの「サゲSages」 ―サカSaca、Saka、或いはスキタイ人― は嘗て西方アリアンと繋がりがあった高度に進んだゲール人或いは「ケルト人」部族であった。彼らの集団の一つは、下エジプトのヒクソス貴族と連携していたと信じる。アクエンアテンの崩壊(紀元前1400年)の後、スキタイ-ヒクソス-アテン信仰者は西に進み、後にスペインとアイルランドを占領した。この征服者 ―アイルランドの神話ではミレシアンとして知られている― は、ドルイドの破壊の原因であった。彼等のエリートの一人がアテン信仰者の王女メリタテン、アクエンアテンとネフェルティティの娘であった。王女はスコタとしても知られ、その名前はスクティScuti 或いはスクトScutに由来し、それはスキタイが元々知られていたところの名前であった。ミレシアン―アテン信仰者の征服の後、アイルランドはスコタと言う名前を付けられた。その後、アイルランド人はその王女の名前をスコットランド(「スコタの國」或いは「スコット(スキタイ人)の國」に付けた。スキタイ-ヒクソス-アテン信仰者は紛れもなく旧約聖書の「古代イスラエル人Israelites」であり「古代猶太人Judites」なのである。彼等のシンボリズム(記号)の研究でこれには疑う余地はない。(さらに詳しくは次を参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Scythians

 

スキタイ人イリンIrinの名前をスコティアScotiaに変えた ―後者は11世紀までその名前を残した」
―エリザ・バート・ギャンブル*著「神 古代の考え或いは宗教に於ける性」
*Eliza Burt Gamble(1841–1920)はアメリミシガン州の教師で作家。進化論を用いて女性の主張を正当化した女性活動家。

 

公式の歴史はスキタイ人(「サルマティアンSarmatians」と言う偽名の下)はブリテン島の征服の間ローマ人に傭兵として使われたことを認めている。しかし、これは半分しか真実ではない。実際にはローマの軍隊を傭兵として採用したのはスキタイ-サルマティアン人、いや、もっと正確に言えば、アテン信仰者であったのだ。スキタイ人は紀元前700年にローマが起こるよりもずっと前に東欧と中東に於いて支配勢力なのであった。ローマの偉大な貴族の一族は最初から秘密の高位アテン信仰者の支配下にあった。彼等の召し抱える歴史家はローマ人とスキタイ人の繋がりについて真実の話を故意に逆にしたのである。

 

注意:文中の太字強調は燈照隅が付加した。