文明のアイルランド起源 HPより08

遠東のアリアン人Arya(続き)

アリアンの東欧、エジプト、アジア、そしてアメリカにおける存在を明かす証拠はずっと隠されて来た。そこに存在する支配者たちが文明の真の起源が広く知られることを欲しないのである。彼等は文明の要素の西から東への移動に関する問題が決して学界によって切り出されないように注意を払ってきた。然しながら、歴史の公式な総意のお決まりの説に陥る意志のない多くの明敏な研究者たちは煙幕や偽情報を見透かして来たのである。彼等の発見は、先史時代の民族移動と古代の人々の間の繋がりと来れば、視界から隠されていたすべてに関する洞察を与えてくれるのである。

 

「中東の文明に先駆けるヨーロッパの大陸の原始の文明の存在は、伝統的な歴史作家、特にキリスト教支配の時代のヨーロッパに於いて、相当大きな程度で無視されて来た。」
―アーサー・ケンプ著「巨人の行進March of the Titans」

  

f:id:caritaspes:20210310105350p:plain

 

f:id:caritaspes:20210310105421p:plain

 

オシリスの戴冠とアメンタ(エジプトの黄泉の國)に向かう途中冥界を通過する間の魂の審判を下す手続き、である。オシリスと言う名前は正しい呼び方ではない。神の名はアシールAsir、アサールAsar、或いはアサーリAsariである。もっと正確を期すれば、彼はAs Ari、即ちアリアンの主或いは純粋な者、である。sarの音節はアッカディアンAkkadianとカルデアンChaldeanで「白い」或いは「肌が白い」を意味する。それは、シャー、シャカ、パシャ、カイザー、サー、シーレ、ツァーなどのような言葉の語源である。ノルマンの言語に於いてはAsarは守護神であり、エトルリアのAisarと同じである。ペルシャ語でzarは「古い」を意味する。ペルシャの至高の人神はザラストルストラZarastristraである。トネリコ(ナナカマドの類)Ash tree(Yggdrasil)はアースガルズ*では、ノルマンの神々の國或いは苑の木である。この他にもシャーマンshaman、サルマティアンSarmatians、サラワティSarawati、サラーSarah、ザラーZarahなどの言葉や名前についても考慮すればよい。
*アースガルズ(古ノルド語 Ásgarðr, 簡略表記 Asgard)は、北欧神話に登場するアース神族の王国。 死すべき定めの人間の世界・ミズガルズの一部であるともいわれる。

我々は、アサリAsariが唐棹(からさお:脱穀用の器具)と小鎌(又は戦闘用ラッパ?lituus)を携えているのを見る。これら二つのものは多くのことを意味するが、第一に地と王権を象徴する。彼等はまた西方ドルイドとも繋がっている。ファラオの像の多くは羊飼いの杖に見える物を共に表している。然しながらこの死者の書が解き明かしてくれる像に於いては、我々は、西方ドルイドにより儀式に使われるのとそっくり同じの聖なる小鎌を見るのである。オシリスは大地、農業、植物の神であるので彼が収穫のための小鎌と脱穀のための唐棹を携えているのは勿論意味のあることである。

教皇の牧杖(crosier又はpastoral staff)はドルイドによっても使われ、ローマの占い師やヒンドゥーの神ヒエラルファhieralphaが持って居るラッパの謎にも答えてくれるものである。」
―W・ウィンウッド・リーデW.Winwood Reade著「イシスの仮面The Veil of Isis」

 

 

f:id:caritaspes:20210310164119p:plain

図はエジプトのアリッシュの町である。西方アリアンを暗示する可能性がある語根を持つ多くの地名(アルメニアやイランのような)の例の一つである。アフリカの名前そのものも「西」を意味するアパリカAparicaが由来である可能性がある。この種の、ケルト語が語源の名前ははるか前の時代、或いは、数百年の間北アフリカに存在した西ゴート王国の時代が起源かも知れない。白い肌のゴートがアフリカに存在したことは今日ではよく守られている秘密である。(詳細は次の二つのリンク:
https://infogalactic.com/info/Ariana
http://en.wikipedia.org/wiki/Vandals

 

エジプト人自身が彼らの祖先は遥か遠い昔に母国の文明と筆記の技術と洗練された言語を持って来てナイルの奥に定住したよそ者であると主張している。彼等は日没の方向から来て、もっとも古代の民族だ。
―シケリアのディオドロス「古代ギリシャの歴史家」

 

「現代の学者がエジプト初期の歴史についての参考本を編纂したとき、彼等は周到にエジプトの王朝以前の天界の統治者について証言する古代の証拠の印象的な本体のことについての言及を避けた。」
―トニー・ブッシュビー著「聖書の秘密」

 

「古典時代の考古学者は古代の民族移動が先史時代にも行われたことで一致している。然しながら彼らは屡々その日付や係わった国については寧ろお茶を濁すのである。」
―ラルフ・エリス著「イエス:最後のファラオ」

 

「古代の人々の宗教は世界中すべてで一つ、偉大な同胞団、普遍的信仰、であったと思われる。その原始の時代にはあまりにも厳粛で威厳があった古代の神聖さからそれを変容しようとする、そして虚偽の教義のミサを指図する僧侶と神学者の衝動こそが変なのである。」
―E・バレンシア・ストレイトンValentia Straiton著「北方の天国の船」

 

エジプト人は、世界に向けて神学を規定した卓越した哲学者であった。そして天の物体を好奇心と同様に畏怖を以て観察したカルデアが最初の占星術者として起こった。そして彼らは神聖な発見をし、自らを神の解釈者と呼んだ。」
―W・ウィンウッド・リーデ著「イシスの仮面より、或いはドルイドの謎」

 

「…エジプトはその初期の職人芸に於いて極めて特異であり、古い王朝からの建築は一番立派で、その各々の遺跡の質と規模はそこから次の千年を通じて低下する。」
―ラルフ・エリス著「エジプトのエデン」

 

「王朝以前のエジプト人、つまり、彼等の北アフリカに土着のその階層は白または薄い肌の色の人種に属し、毛髪も薄い色で、多くの特徴が古代リビア人に似ていたが、彼等は後の歴史時代にはナイル川の西岸に非常に近い地域に住んでいた。」
―E・A・W・バッジE. A. W. Budge著「新石器時代と古典時代のエジプト」

 

「オックスフォード大学人間解剖学部にある(ナイル上流の)テーベ地方からの収集物の古代の頭蓋骨の中には、躊躇うことなく、ノルマン人種のものと考えられる種がある。」
―L・H・ダッドレー・バクストンL. H. Dudley Buxton著「アジアの民族」

 

「…『古典時代のエジプト』の著書である有名なエジプト学者(ウォルター・B・エメリー教授)…は王朝以前の時代に生きていた個体の遺骸を発見した。これらは地元の人種集団よりも大きな縦長の頭蓋骨を示し、毛髪は薄い色で背が高く、がっしりした体格であった。エメリーはこの種はエジプトの土着ではなく、この国で聖職と政治の重要な役割を果たしていた、と言明した。この種族は一般の人々から距離を置き、貴族階級とシェムス・ホル、即ち「ホルスの使徒」に係る学者とのみ混血した…シェムス・ホルは王朝以前のエジプト(紀元前三千年頃まで)に於いて支配的な聖職階級として認識されており、トリノパピルスやアビドスの王たちの一覧に於いても言及されている。」
―ヴィットリオ・ディ・セザーレとアドリアノ・フォルジオーネVittorio Di Cesare and Adriano Forgione著「マルタ:母なる女神の頭蓋骨」

 

「古代の遺跡に於いて白人種のことが語られるのを見出すのは特異である。ドイツの博学者ブルグシュ博士はタムホウTam-hou(白い人)と言う言葉に注目した。それはキリスト以前2500年の日付の銘板に起こるので、人民を指すには疑義がある。ブルグシュは彼らの跡をリビアに辿った。シャンポリオンはタムホウTamh’ou*をヨーロッパ人の祖先の種と認識した。M・デヴェリアは、ホルス、即ち神が白人種を先導し手引きしていることの象形文字ヒエログリフ)の記録について述べている。未だ、数百マイルに亘って多くのケルトの遺跡が北アフリカにあるため、彼は起源のケルト人がエジプトに存在した、今の言葉で言えばウェールズ人とアイルランド人が嘗てエジプトにいた、ことを主張する。」
*Tam-hou、Tamh'ouの記述は原典通りとした
―ジェームス・ボンウィック著「エジプトの信仰と近代思想(1878年)」

 

「これらの青い目をした薄い肌色の民族が誰であるか単に誰も知らない、彼等が何処から来たかも…人類学的には彼等はコーカシア人種と名付けられている…エリオット・スミスは、これらの人種は現代の世界が驚くナイル川畔の驚異的建築を成し遂げるのに充分な、いやそれ以上に知識を持って居た、と結論付けている」
―ジェラルド・オファレルGerald O’Farrell著「ツタンカーメンの欺瞞」

 

ドルイドは初期のヘブライ人やエジプト人と同じように赤道の牡牛の形態の下にそして、直立した一枚岩の形態ヘルメスの柱「ギルガル」で、神々を礼拝した。それらの多くが今日のパレスチナで見られる。」
―フランク・ヒギンズ著「古代フリーメーソン

 

 

f:id:caritaspes:20210310164241p:plain

2010年現在、ファラオ、とりわけ有名な第18王朝のファラオの西方祖先に関する真実が輝き出した。ツタンカーメンのDNAは、西方起源であることがわかった。(2010年のレポートはこちら:http://www.eutimes.net/2010/06/king-tuts-dna-is-western-european/

新たに解った事実で、あのツタンカーメンを黒人ファラオとして描くためにその祖先の非西方化のあらゆる攻撃的出版の努力は一体何であったのか問題が起こる。エジプト文明が黒人アフリカ人王たちの発明品であると世界に説得するために労を厭わなかった、国連の支援したシェイク・アンタ・ディオプなる山師とその一派に一体何の意味があったのだろう。例えば、この「ツタンカーメン王の新しい顔」と題したナショナルジオグラフィックの醜聞じみた表紙に注目して貰いたい。

 

 

いずれにしても最近の発見は学界の専門家に西方の國と人種との関係に於けるエジプトの歴史はその初めから誤りであったことを認めるように強いるのである。(詳しくはこちら:https://www.irishcentral.com/roots/history/dna-ancient-egyptians-ireland

「数多くの学術分野からの厖大な証拠を以て知識武装したディオプは、ケメット(古代エジプト)の黒人起源を証明するための詳しい情報を発表した。会議の報告からディオプが会議の進行を牛耳っていたことは明らかであり、彼の頑強な議論に押し返されて多くの参加者は会議中にその立場を変更した。」

 

さて、学者はツタンカーメンの石室内部に潤沢に見つかったアイルランド式の組み糸飾りや黄金の首飾りにより多くの意味を見出していたかもしれない。首飾りはアイルランドで古代の王様に造られたものと全く同じ装飾であった。

我々はあの有名ですぐにそうと判る「ツタンカーメン」の黄金の仮面を畏敬の念を持ってみるが、是非思い出してほしいのは、多くの人が間違って信じるように導かれている、あの仮面は実際にツタンカーメンの顔を描いたものではないことである。それは彼の兄スメンクカーラーのものである。よく解るように、エジプトの歴史とくると我々は欺瞞の迷宮に彷徨ってしまうのである。私の意見では今こそ真実が出て来る時だと思う。(詳しくはこちら:http://en.wikipedia.org/wiki/Smenkhare

 

・さらに確固とした、アリアンの東方での存在の証拠は付録II:文明の西方起源を肯定する最近の発見:http://www.irishoriginsofcivilization.com/recent-discoveries.html
を参照のこと。)