文明のアイルランド起源 HPより07

遠東*のアリアン人Arya(*原文はFar Eastであるが明らかに現代の極東を指していないので遠東と訳す

 

マハーバーラタアルジュナと言うインドの英雄がメルの山を訪れた間、太陽と月は毎日左から右へと円を描いて通過したと報じている。そのような考えは南の赤道付近では絶対に起こらない。と言うのは極北地方でのみ太陽は地平線に沿って円盤を描くように回るからである。インドのアディティヤの神々への祈りにもある:長き暗闇が我等の上に来ないこと、そしてアグニが長い暗闇の中で余りに手間取った、と輝けるアグニのことを愚痴っている、これらすべては長いヒュペルボレオスの夜にのみ帰することが出来る。」
―アルフレッド・ローゼンバーグ著「20世紀の神話(1930年)」

 

f:id:caritaspes:20210308170758p:plain

支那西域チャルチャン(且末)で見つかった コーカサス系のミイラ

西方のゴートGothsが原始のスキタイや初期のアリアン人の民族移動と関係しているか或いは子孫かどうかに関係なく、彼等はエジプト、印度、そして支那に達することに成功した。最近の考古学的証拠は、白い肌の西洋人がパキスタンのインダス渓谷に沿って、印度のクシュに、そして支那のチャルチャン(且末)地域やタリム盆地に定住したことを示す。これら遠東(中東より東)の地域で長く埋葬された男女の髪の毛、衣服や従装具の検査で、彼等が明らかにデンマークノルウェイスウェーデンのノルマン人として特定される。

 

「保存されている遺体を研究した上海の医者は支那の金髪のミイラについて不可解な新情報に行きついた。その女性が誰であろうと、その筋肉には高い水準のコレステロールを含んだ状態で死んだ ―そして説明のつかない銀白色の半金属元素アンチモニーの痕跡がその肺にあった。」
―チャールス・ベルリッツ著「奇妙な、そして素晴らしい人間の世界World of the Odd and the Awesome

 

ペンシルベニア大学支那研究教授ヴィクター・メイアと考古学者J・P・マロリーMalloryが支那から戻った時、彼等は同僚に見てきたことを伝えた。砂漠の乾いた砂の中で乾燥され、完璧に保存された四千年前のミイラである。髪を後ろでくくり、入れ墨をした、背の高い金髪の白人女性、背の高い茶の顎鬚をした白人男性、ちっぽけな青い目をした白人の赤ん坊、格子縞の織った繊維と、染めた柔らかい羊毛でできた縁なし帽…四千年前の支那の荒野でコーカシア人が何をしていたのだろうか?」
―モーリス・コッテレル著「イエスアーサー王と聖杯の旅」

 

北インドのジャート族Jats(シークのエリート)はアリアンの最後の方の分派かも知れない。或いはもっと時代が下ったスキタイ人の移民の子孫の可能性もある。それだけは、その民族が西方からインドに来たというその話を常に伝え聞いてきたシークの歴史家やシークの人々によって確認されている。同様に支那月氏も西方からの来訪者と繋がりがあったように見受けられる。

 

f:id:caritaspes:20210308171316p:plain

「アリアン」戦士、北インドのシークはスキタイの遊牧民の末裔か、それとももっと以前の西半球からの来訪者か? 彼ら自身の歴史が後者だと訴えている。彼等の躯体、人相学、振舞い、そして気質は確かに古代バイキングやゴートのそれ、つまりノルマン人のそれとよく類似している。正にそのシークSikhと言う名前がスキタイを表わすSac或いはSakhの由来の可能性がある。

 

 

「ノルマンの神々はレヴァントの神々と同じであることを示す証拠は充分にある。広場、集会場、戦争、祭壇、生贄、婚礼、家庭生活は同じである。」
―「害悪?の聖職Priesthood of the Illes」

 

「これ等の原始アリアンのアトランティスの記憶と共に、ノルマンの起源の上でのみ理解される、これらのカルトの寓話、慣習、彫刻が現れるのである。王朝以前のエジプトでは白鳥の首と三つ葉模様をつけたノルマンの小舟を見出す。しかし漕ぎ手は後の支配者アモリ人で、既にセイスArchibald Sayceにより白い肌と青い目をしていたと認められている。彼等は嘗て厳密に同質な、そして徐々に地域全体を制圧した狩人氏族として北アフリカを横断した。彼はそこから更にもう少し、シリアを横切って後にバビロンの場所となる地域に向けて移動した。ベルベル人の中に今日でもなお色白で青い目のものが居るのは、紀元五世紀のヴァンダルの侵略に帰するのではなく、有史以前のアトランティスのノルマン人の民族移動の波に帰するものである」
*アーチボルド・ヘンリー・セイス(1845~1933)は、イギリスの東洋学者、言語学者アッシリア学の代表的な研究者として知られ、またアナトリア象形文字解読の草分けであった。
―アルフレッド・ローゼンバーグ著「20世紀の神話(1930年)」

 

「アモリ人はエルサレムを創立し、後のガリラヤ、つまり、イエスが来た場所と言われる異教徒の地域にノルマン人のいわば機織りの緯糸(よこいと)を形成した。アモリ人はその後、ペリシテ人によって増強した。そのペリシテ人もまた未知のノルマンの船の設計を船首の斧と三つ葉の印と共に、シリアにもたらした。」
―同上

 

「紀元前2400年頃突然白い肌、赤みがかった金髪と青い目をした人間の浮彫細工が現れる。それはパウサニアスが後に報告した金髪のリビア人のことであった。テーベの石室の壁画にはエジプトを代表する四つの人種が見いだせる。即ちアジア人、黒人、リビア人、そしてエジプト人である。最後のエジプト人は赤みがかった染色が施され、その一方でリビア人は常に顎鬚で示され、目は青く肌は白い。純粋なノルマン人種はセニエSenye王朝の墓、カルナックにあるホルエムヘブの塔門の女性に示され、メディネット・ハブにある神殿の白鳥の小舟の人々の浮彫細工により、そしてフェニキア人の航海を創設したツァッカライ?Tsakkaraiにより示されている。金髪の肌の色の白い人間はメディネット・グーロブ?Gurobにある古墳に表れる。クフ王のピラミッドのマスタバでの1927年の一番最近の発掘調査では、メレスアネ王女と女王(紀元前2633-2564)が金髪で描かれているのが見つかった。伝説的で神話に包まれたニトクリス女王も同様に、金髪だったといつも言われる。これらはすべて、北アフリカの先史時代のノルマン人の伝統の民族の記憶である。」
*パウサニアス(115年頃~180年頃)は2世紀ギリシアの旅行家で地理学者。『ギリシア案内記』の著者として知られる。
―同上

 

「私はインド-ヨーロッパ人の熱烈な宗教性の反映について少し前もって述べたい。それはつまり、インド-ヨーロッパ語族がある共通の青銅器時代の核心から発しており、―彼らは主にノルマン種族の政体と精神に常に重要な影響を与えて来た、ということである。丁度インド人、ペルシャ人、サカ人(Sacaean)、アルメニア人、スラヴ人、バルト人の言語を比較することにより、そしてギリシャ人、イタリア人、ケルト人、チュートン人の方言を比較することにより、我々は共通の、或いは原始のインド-ヨーロッパ言語と言う結論に到達できるように、旧石器時代の終わりの部分を同じように近似させると、インド-ヨーロッパ言語の異なる民族の法律、法的慣習が原始のインド-ヨーロッパ的法律感覚を解き明かすのである。同様に、これ等の民族の宗教的形式を比較することから我々はインド-ヨーロッパ人の天性から発する特徴的な宗教的態度 ―神の力に対するインド-ヨーロッパ人や民族の特徴的な振舞い ―を特定することも出来る。だからそれはつまり、ある共通の宗教的態度であり、その態度(傾向)は元々すべてのインド-ヨーロッパ語族に特有のもので、それがインド-ヨーロッパの宗教的拘りの特徴を解き明かすのである。しかし実際全てのインド-ヨーロッパ人の国家はノルマン人種の精神的類型を鋳型にした異なる様式を示し、その共通の宗教的態度はノルマン人種の先天的な精神的性質から発したところの特徴的にノルマン的な宗教的こだわり(熱意)の中に特定できる可能性がある。」
―ハンス・F・K・ギュンターHans F. K. Günther著「インド-ヨーロッパ人の宗教的態度」
注意:これは一神教的性格を指すものではないと思われます。誤解無きように。―燈照隅

 

「エジプトとヨーロッパの間には、初期王朝の時代の間に貿易関係が確立したようである。そしてファラオの宮殿や墓に贅沢品をもたらすために商人が遥かな距離を旅した。我々は、第一王朝の確立以前に既にパキスタンの辺境から可成りの量のラピスラズリがエジプトに到着していたことにも注目していた。このように、カセケムイ王(第二王朝)の宝飾に使う黄金もまた、ルーマニアカルパチア山脈がその起源であることがわかっている。この様な遠隔地との繋がりが紀元前三千年の初め(カセケムイに通常当てられる時代)には疑いなく見られる。ドナウの北方からの黄金がエジプトに達することは高度に発達した国際貿易の仕組みの存在を語り、それには明らかに海運に導かれた部分がある。そしてこの印象は初期の青銅器時代のトロイ…大災害で破壊された錫と青銅からできた工芸品…の発見によりさらに強化される。古代世界で知られている唯一の錫の産地はヨーロッパである。それはボヘミアと西方の大西洋、北スペインとブリテンであった。一般に近東にもたらされた最初の錫はボヘミアからであったが、鉱物学者のジョン・デイトンはこの資源の主な産地としてブリテンを挙げ、納得できる反論をしている。主にブリテンでは、そしてそこでのみ、錫と銅が同じ鉱脈で見つかり、鉱石の形態で既に混ざっているからである。デイトンにしてみると、それが正しければ、この証拠は本当の青銅はブリテンで発明され、それは他の場所ではない、という意味にとれる。」
―エメット・スウィーニー著「イスラエルとエジプトの起源」

 

著者はその作品を通じて猶太と言う用語が最近の歴史に於ける言葉として使われたものを指さないことを主張し続けている。それが指すのは、アリアンであり「樹木の人類」である。これは古代猶太(或いは猶太)と言う言葉が遠東で見出される理由である。それは宗教的猶太人が世界の隅々まで旅したからではなく、アリアンこそがそれをしたからである。H・ウェストロップが次に説明しているように、である。

「キュロス大王とその継承者の下でのパレスチナの猶太人の入植(植民地化)は帰還と言うよりは寧ろまさに新たな占領のように見られるのである。明らかにユダヤに帰還できたものはユーフラテスを越えてこれまでにない位多かった。彼らの指導的階級はパリサイ人と言う称号を持って居たがその名前はペルシャとの提携から来た可能性がある…父系の名前はバラモンの神々と非常によく似たものである。ブラーマBrahmaとその配偶者サラ-イスワティSara-Iswati、その息子イクシュワカIkshwaka、そしてひ孫ヤドゥYaduである。平和の神殿の遺跡、タクト・ソルミTukht Solumi、がカシミールに設立され、ユクリアYuclia、ダウィドDawid、アラビArabi、クッシュCush、ヤヴァンYavanのような聖書と西アジアの多くの名前もまたインダスの地域に土着のものである。」
―「古代のシンボル崇拝」

 

悲しいことに古代民族のシンボリズムを分析したウェストロップや他の多くの著作家は「猶太」が今日その綽名で知られた人々と同じであると信じていた。宣伝工作に呑み込まれなかった、そしてより深く掘り下げた人々は、これが単に虚偽であることを知っている。

東方のスキタイの名前の一つはゲテスGetes或いはゲトスGetsで「ゴート」を暗示する。これらの民族はメソポタミアで、最も強大な古代王朝を築いたそこのグットGuts或いはグテアンGuteansと同じである可能性が非常に高い。然しながら次に引用する研究者は他の多くの研究者のように、誤解して東方から西半球への民族移動であったかのような印象を受けるのであるが、その他の点に関する彼の分析は最高に洞察に富んでいる。それは、何世紀にも亙って、世界の古代民族の起源、性質、動きについて我々が眞實を知らないことを寧ろ望んだ共犯者の歴史家によって、我々から隠されて来た。

「『タリムのミイラ』についての本の中の大胆な一節で、著者のジェームス・マロリーとヴィクター・H・メアは、これらの遊牧民の間にはそれ以前に信じられてきたよりも大きな結合力があった可能性を示唆している。彼等は支那の辺境に近い月氏遊牧民に関して次に掲げる段落のように書いている。

月氏は、ヘロドトスの時代に中央アジア西のオアシスと草原を支配したマッサゲタイと同等に見られてきた。此処でマッサはペルシャ語の「大きな」と言う言葉で、故に「大ガタエ(大月氏)」なのである。…他の研究者はこの言葉が、プトレマイオスの地理に記録されたギリシャ語でイアティオイIatioiと言う部族の名前を漢字に充てる試みを見て来た。元々の発音はグヮッティgwat-ti、ガッティgot-ti或いはグッシgut-siとして再構成され、これは、ゲタイGetae(ダキア人、バルカン半島黒海の北西の部族)、ガティGuti(メソポタミアの辺境民族)、クシャKusha(我々クシャ人)、月氏Gushi(漢書に出て来る民族で、クロランの人々と共に山賊と見做された)、或いはこれらのいくつか(全部ではない)の組み合わせで、ゴートGoths(北欧東欧のゲルマン部族)と少し離れた語彙的類似性を開かしめる。」「マロリーとメア(2000年)98~99頁」

「…音類似の部族名の比較は、単に一段落で取り上げたに過ぎないが、潜在的に大きな議論を呼び、古代ローマに於ける未開民族の侵略の性質、インドにおける強大なクシャン帝國、グティGuti民族の起源、メソポタミアグティの王達、ゴートとゲタイと月氏の類似性をもっと限定的に理解する一助となる。更に、これは少なくとも「スキタイ人」と命名された民族の中にはゲタイと言う一部族があった可能性を明かすものである。ならば自らをGets、Gats、Guts、或いはYutsと称した遊牧民族が存在したことにならないか?

これは月氏がゴート人と関係があると言う提案の最初のものではない。ユリウス・ハインリヒ・フォン・クラプロート(1783~1835)はその著書『アジア歴史地図(Tableaux historiques de l'Asie)』で次のように記す。

「YuetiやYutの名前はYutsやゴートを記憶に呼び起す。それはヨーロッパに来た。非常に可能性が高いのは、スカンジナビアにOdinと共に到達したYutesとは我々の時代よりも三世紀前に、未だ支那甘粛省北西に…まだ居住していた同じ民族、ということである。これはゴートの中央アジアの民族移動が他のゲルマン民族の移動の後であったと想定する。」

 

「このクラプロートによる月氏とゴートの間の特定はローマへの遊牧民移動に係った部族が現代の学者の主張よりも多かったことを暗示する。これは、ゴートがアラン族と共にフン族の圧力の下にヨーロッパに押し出されたということなのか?更に、これらの同じ部族がインドやペルシャの辺境に見られる部族なのか?南アジアのジャット(Jats)は我々を正しい方向に導いてくれる集団である可能性がある。何故なら彼等の定住は地理的にインド-スキタイ人インド亜大陸への定住に呼応するからである。この部族の生き残りの人々の慣習や特徴を調べることによって我々はゲタイGetaeが歴史に果たした役割をよりよく理解できるかもしれない。」
―サンディープ・S・ジュティSundeep S. Jhutti著「ゲト族The Getes」

 

 

f:id:caritaspes:20210308171541p:plain

チベットのラサ。「asa」の音節は(AsarやAserなどのように)スカンジナビアの言葉で「神」或いは「神聖な人」を意味する。7世紀までこの町の元の名前はラサRasaであり、これは「ゴート(即ちGothsの場所)を意味すると言われた。

 

注意:文中の太字強調は燈照隅が付加した。

※次回は「遠東のアリアン人Arya」の続き(後半)です