文明のアイルランド起源 HPより06

言葉の変遷

 

アイルランド語で「聖人」(niamh)は「天国」(neamh)と類似している」
―マッカファーティとバリーMcCafferty and Ballie著「ケルトの神々」

 

付録8に於いて著者は語源学の課題と取り組み、手短に親言語や元言語に関しての理論を検証する。この時点では我々は単にアリアン、後にはスキタイの東方への拡がりに関する多くの証拠が言葉と地名から見つかっているということを特筆することが出来るだけである。著者T・W・ロールストンT. W. Rolleston*は文化的拡散を示す多くの例を提供してくれる。
*アイルランドの作家、文学者、翻訳者であり、詩人として知られているが、幅広い文学および政治トピックについて出版している。アイルランド文学や工芸の出版・保存に貢献した草分けの一人。

「dunum」という語は今日ゲールの地名(Dundalk、Dunrobinなど)に非常にたびたびその痕跡を見ることが出来、要塞或いは城を意味するが、それはヨーロッパの地名に於けるもう一つの典型的なケルト要素である。それはフランスで大変な頻度で見られる。例としてLug-dunum(Lyons)、Viro-dunum(Verdun)がある。スイスにもみられる。例としてMinno-dunum(Moudon)、Eburo-dunum(Yverdon)など、そしてオランダでは、有名なライデン(Leyden)の町の名がケルト語のLug-dunumに帰する。英国ではこのケルト語の言葉は屡々その単純な訳語であるcastraに置き換わり、従ってCamulo-dunumはColchesterに、Bran-dunumはBrancasterとなる。スペインとポルトガルではdunumで終わる8つの言葉が古典の作家に言及されている。ドイツでは現代のKempton、Karnberg、LiegnitzがそれぞれCambo-dunum、Carro-aunum、Lugi-dunumのケルト語の形式に帰し、更に、Singi-dunumが現代のベオグラード(Belgrade)、Novi-dunumが現ルーマニアのIsaktscha、Carro-dunumが、南ロシアのドニエステル近くともう一つクロアチアの現Pitsmezaに帰する。Sego-dunumは現フランスのRodezで、これはバイエルンの(Würzburg)もまたそうで、イングランドにもSege-dunumがNorthumberlandの現Wallsend、で、この一語目SegoはスペインのSegorbe(Sego-briga)に跡を残している。Brigaはケルトの言葉でドイツ語のburgの起源であり、意味としてはdunumと同等である… もう一つの例としてはmagosと言う言葉は、平地で、アイルランドの地名の要素として非常によくあるもので、フランスでは豊富に見いだされ、フランス以外でケルトの國ではないところでは、Uro-magus、現スイスのPromasens、Broco-magus、現ラインラントのBrumath、そして既に記した現オランダのNimègueに、Lombardyとオーストリアに現れる。
―「ケルト人種の神話と伝説(1911年)」

 

この課題に関してさらに詳しくは第一巻の14章「古代人の失われた言語」を参照されたし。http://www.irishoriginsofcivilization.com/etymology-key-to-the-past.html

 

ヒクソス・サクソン・スキタイ

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スキタイ女王のデスマスク
コーカサス系の整った顔に注目

オシリスは神話によると西方から来た。彼は海から生まれた。彼はナイルデルタのデッドの町の地域の神として現れた。イシスは西方の女神と呼ばれることもあった。」
―ヘンリー・ビンクリー・ステイン著「エホバ以前の三万の神」

 

「語源学と東方歴史の教授のエジプトの歴史の書―ファラオは黒人ではなく白人であったことを詳述している」
―アーサー・ケンプ著「タイタンの行進」

 

第一巻で著者が ―ミレシアンのアイルランド侵略の章で― 示したように古代の記録はケルト人、いやもっと正確にはヨーロッパのゲール人である、スキタイはエジプトのデルタ地帯の貴族、同じくヒクソスと密接に連携していた。古いアイルランドの年記はエジプトに「ミレシアン」として暮らしていたスキタイの子孫について言及している。この名前は彼らの酋長ミルMil或いはマイルMileからつけられたもので、スコットランド人にはガセロスGathelosとして知られていた。

大多数の英国の歴史家はミレシアンについてそのエジプトからの撤退以後を取り扱いたがる。彼等はミレシアンのスペイン征服に集中し、彼等のナイル時代について語る歴史的伝承を避ける。この怠慢は我々に警鐘を鳴らす。然しながら点を繋ぐと、古代の國と人々の間の繋がりに関してだけでなく、世界の一番の秘密結社とその所謂「新世界秩序NWO」の起源に関しても、興奮するような物語が明るみに出る

著者の意見では所謂ヨーロッパのスキタイ人エジプト学者が言う処のエジプトの貴族階級「ヒクソス」の人々である。ヒクソスは聖書の所謂古代イスラエル人と同じである。著者の言うスキタイ-ヒクソスの繋がりが正しければ、我々は年記から文明の要素の西方から東方への変遷に強力な確証を持って居ることになる。

更に、我々は「サクソン」という言葉にも、研究者の中にはなぜサクソンと古代イスラエル人が全く同じものであったと信じる者がいるかも、もっと論理的な説明を提案できる。研究者の中には、サクソンと言う言葉はサカSaca(又はSaka、Sakai、Saga、Sageなど)が由来で、「スキタイ人」を意味すると信じるものもある。

真偽はさておき、この言葉で「Sacaの人」を意味するイサクIsaacと言う名前、もっと正しくはIsh Sac を得られる。旧約聖書によればイサクはアブラハムの息子で、そのアブラハムはその妻と共に最初のエジプトに入った「古代イスラエル人」である。イサクと言う名前はアブラハムとその子孫がスキタイ人であったことを示す。著者はこの可能性は高いと考えるが、この予言者とその偽りの移住に関する公式の説明を考慮すると、注意が必要である。この話には旧約聖書の話で見出すよりももっといろいろな話がある。

 

Sakaiはスキタイの中でも最も特筆すべき人々で、アルメニアに定住し、Sacae-Sani-Plinyの古参(長老)と呼ばれた。」
ーガイウス・プリニウス・セクンドゥス (Pliny the Elder ローマの歴史家)

*ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは、古代ローマ博物学者、政治家、軍人。ローマ帝国の属州総督を歴任する傍ら、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著した。一般には大プリニウスと呼ばれる。 甥に、文人で政治家のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスがおり、養子としている。

 

「サクソン人はアジアの古代Sacae人から下った子孫である」
―「カール大帝の家庭教師」アルビナス*
*アルクィンAlcuinのこと。彼は、Flaccus Albinus AlcuinusまたはEalhwine(735年頃~804年5月19日)としても知られ、英国のヨーク出身の学者、神学者、教会員、詩人、教師であった。彼はヨークでエグバートの学生になり、フランク王カール大帝の招きで、カロリング朝の宮廷で一流の学者および教師になり、780年代と790年代に宮廷の人物であり続けた。

 

「ノルマンのSacaeは後に印度に至り、宗教的叙事詩ヴェーダを伝え、それはまずは口伝で、しかし西紀300年頃の比較的遅い時代にバラモンによって古代サンスクリットの書式に変えられた。」
―マジソン・グラント著「偉大な民族の移動The Passing of the Great Race(1916年)」
*Madison Grantは、アメリカの弁護士、作家、および動物学者で、優生学者および自然保護主義者、科学的人種差別主義の擁護者、そして進歩主義時代の主要な思想家および活動家の1人としてその業績を知られた人物。

 

「彼らはその息子たちを五歳から十二歳にかけてたった三つのことに関して訓練した。それは、乗馬、弓道、真実を伝えることであった。」
ヘロドトス著「古代の歴史家、サカについて」

 

いずれにしても語源学はスキタイが本当にヒクソスの貴族たちと全く同一であったことを暗示する。従って、スキタイは聖書に出て来る古代イスラエル人と言うことになる。これに加えて、語源学は所謂「アングロ-サクソン」がスキタイ-ヒクソス-古代イスラエル人の子孫であることを暗示するのである。

我々は、古代のアイルランドの記録にあるように、ゲールのスキタイ人がエジプトに旅立ったことを疑う理由は何らないのである。ガリラヤに近い、スキトポリス(Scythopolis)という名の町は考古学者に発掘された。また我々はこの地域の他の場所にも、ナイルデルタ地域と同様に、定住地があると確信できる。従って、スキタイ人が所謂「古代イスラエル人」(エジプトのヒクソス)と密接に繋がっているのであるから、西方の地のサクソンを「古代イスラエル人」とすることは全く正しい。但し、一般的にイスラエル人が虐げられたが、神に鼓舞された平民で専横なエジプトの奴隷の主人に抑圧されたと信じている正統派の猶太人、キリスト教徒や英国のイスラエル人が言う理由によってではない。そのような前提は事実によって裏付けられておらず、今や、マックス・ディモントその他の指導的な猶太人歴史家によって公然と反論されているのである。それは、終始一貫して全く持続不能な捏造であった。

 

「マーチン・バーナルが黒いアテナに於いて特筆しているように、古代の末期以来、作家はエジプトからヒクソスを追放したエジプトの記録と聖書の出エジプト記の間の繋がりや、ギリシャのカドモスとダナオスの出生の伝説*を知っていた。紀元前四世紀のギリシャの歴史家、アブデラのヘカタイオスは…エジプト人のヒクソス追放、イスラエル人の出エジプト、カドモスとダナオスの出生の話は同じ話の三つの平行したものであるという観方をとった。」
*カドモスはギリシア神話の登場人物で、フェニキアテュロスの王アゲーノールとテーレパッサ(アルギオペーとも)の子。ダナオス はギリシア神話の登場人物で、エジプトの王ベーロスとアンキノエーの息子。
デイヴィッド・リヴィングストン著「瀕死の神The dying God」
*デイヴィッド・リヴィングストンは、1966年にカナダのモントリオールで生まれの歴史家。彼は、1987年にコンコルディア大学で西洋文明の研究を始め、そこで西洋の歴史における多くの奇妙な異常を最初に見出し、それが作品に結実した。探検家のリビングストンではない。

 

 

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スキタイ人のスキトポリス定住、エルサレムから目と鼻の先。ガリラヤ、ゴラン、サマリア、ヨルダン、スメリア、サッカラ、サハラ、ガダラ、アラビア、イラン、シリア、マレウィ、アマルナ、タイヤ、タリムなどの地名は、アイルランド起源、スキタイ人の存在、初期アリアン―西方の人であることを示す。スキタイ人のもう一つの名はアシュグザAshgzaであった。このashの音節はトネリコ(ナナカマドの仲間)ash treeから来て居り、guzaの音節はGoth とgoatから来ている可能性がある。

 

 

著者は個人的には、スキタイ人はヒクソスだけでなくクレタ人、ミケーネ人、ペリシテ人、それにメソポタミアのアモリ人とも繋がりがある可能性が高いと考える。また、西半球からのアリアンはスキタイ人の時代よりもはるか以前に東欧とアジアにも足を踏み入れたと信じている。スキタイ人は、大災害の時代以降にブリテン島とスカンジナビアから離れた中の一団と信じている。それは第13王朝の間にエジプトに行くことを決断した堕落した、しかし強大な好戦的集団であった。

 

 

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「…全員深い青い目で、明るい赤毛をしていた。」
ヘロドトス著「スキタイ人の出現について」

 

「これらセレイSereiは背が高く、金髪と青い目をしていたと言われ、荒々しくあまり理解できないようなしゃべり方をしていた。」
プリニウス*著「スキタイ人或いはシアーSeersについて」
*前出(Pliny the Elder ローマの歴史家)

 

ヨーロッパの「サゲSages」 ―サカSaca、Saka、或いはスキタイ人― は嘗て西方アリアンと繋がりがあった高度に進んだゲール人或いは「ケルト人」部族であった。彼らの集団の一つは、下エジプトのヒクソス貴族と連携していたと信じる。アクエンアテンの崩壊(紀元前1400年)の後、スキタイ-ヒクソス-アテン信仰者は西に進み、後にスペインとアイルランドを占領した。この征服者 ―アイルランドの神話ではミレシアンとして知られている― は、ドルイドの破壊の原因であった。彼等のエリートの一人がアテン信仰者の王女メリタテン、アクエンアテンとネフェルティティの娘であった。王女はスコタとしても知られ、その名前はスクティScuti 或いはスクトScutに由来し、それはスキタイが元々知られていたところの名前であった。ミレシアン―アテン信仰者の征服の後、アイルランドはスコタと言う名前を付けられた。その後、アイルランド人はその王女の名前をスコットランド(「スコタの國」或いは「スコット(スキタイ人)の國」に付けた。スキタイ-ヒクソス-アテン信仰者は紛れもなく旧約聖書の「古代イスラエル人Israelites」であり「古代猶太人Judites」なのである。彼等のシンボリズム(記号)の研究でこれには疑う余地はない。(さらに詳しくは次を参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Scythians

 

スキタイ人イリンIrinの名前をスコティアScotiaに変えた ―後者は11世紀までその名前を残した」
―エリザ・バート・ギャンブル*著「神 古代の考え或いは宗教に於ける性」
*Eliza Burt Gamble(1841–1920)はアメリミシガン州の教師で作家。進化論を用いて女性の主張を正当化した女性活動家。

 

公式の歴史はスキタイ人(「サルマティアンSarmatians」と言う偽名の下)はブリテン島の征服の間ローマ人に傭兵として使われたことを認めている。しかし、これは半分しか真実ではない。実際にはローマの軍隊を傭兵として採用したのはスキタイ-サルマティアン人、いや、もっと正確に言えば、アテン信仰者であったのだ。スキタイ人は紀元前700年にローマが起こるよりもずっと前に東欧と中東に於いて支配勢力なのであった。ローマの偉大な貴族の一族は最初から秘密の高位アテン信仰者の支配下にあった。彼等の召し抱える歴史家はローマ人とスキタイ人の繋がりについて真実の話を故意に逆にしたのである。

 

注意:文中の太字強調は燈照隅が付加した。