フリーメーソンと世界革命16(現代文)

26.フリーメーソンと戦時集会

 

次に述べたいことは、世界大戦中にフリーメーソンが行った集会の中から二~三のものを挙げて彼等の目的を明らかにし、更に世界のフリーメーソンが、常に早期の講和に反対して来たことを明らかにするため、二~三の例証を記述する事にしようと思う。

1914年11月、ドイツの前宰相ビューロー公が、イタリアの参戦を阻止する為、イタリア―オーストリア二国間に仲介を斡旋した際、これを妨げたものは世界のフリーメーソンであった。1915年2月12日、パリで開かれた英仏伊の高級社員の会合に於て、イタリアの参戦を決議した。1915年9月20日イタリアの各都市に、法王ベネディクト十五世が、講和のために努力していることを嘲笑する意味のポスターが貼付された。これはイタリアのグランド・オリエント(大東社)の仕事であった。1916年5月28日ジェノヴァで開いたフリーメーソンの高級幹部の会合で、更に法王の講和に反対すること、および連合国に対して忍耐を勧告することを決議した。この秘密集会には、英国の大棟梁コンノート大公、フランスの大棟梁ペラン将軍[1]及びポルトガルの大棟梁リマも参加した。1916年12月中旬、ローマにフリーメーソン会議を開いた際、会員リッカルディ[2]は、セルビア及びベルギーの独立を回復し、アルザス・ロレーヌをフランスのものにするまでは戦わねばならないと力説した。1917年4月にパリで開いた万国フリーメーソン会議では、如何にしてドイツ国内に反君主的運動を起こすべきかの問題を審議した。

ストックホルムに開いた社会民主党の会議も、これと同じ目的で開かれたものの様である。当時これに加わったドイツの社会民主党シャイデマン[3]は、ドイツを民主化する要求を携えてドイツに帰った。即ちシャイデマンは、連合国のフリーメーソンのただの伝言役だったのである。当時はドイツを共和国化すべしと唱えるのは時期尚早と認識し、まず民主化を唱えさせたのである。

1917年6月下旬、パリに開いたフリーメーソンの世界会議には、ドイツを除く多数の国々のフリーメーソン社員が参加し、講和条件としてアルザス・ロレーヌをフランスに還付する事、ポーランドチェコスロヴァキア両国の建設、オーストリア=ハンガリー国を解体して圧迫された民族を解放することを討議した。その他、この会合の目的は、各国の統一を図ること、即ち国際連盟の創設にあった。

世界フリーメーソンの最後の大会合は、1918年9月下旬、パリで開催され、フランスグラントリアンに属する300個の組合のほか、フランス大組合に属するもの、及び外国から多数の代表者が参列した。この会合にもコンノート大公、ペラン将軍[4]、及びリマが出席した。この会合の席上で、連合諸国に対し尊敬、感謝、感嘆の意を表し、且つ必ず勝利すべき事を表明した。尚国際連盟を作り、これにはフリーメーソン式の政府を有する国家のみを参加させるべき希望を述べた。これに依ると、フリーメーソンは既に1918年の9月に、確実な勝利を予期して居たのである。

ドイツの社会民主党ファーター[5]は、マグデブルグの労兵会議で、ドイツの崩壊が如何に準備されたかを報告した。即ち「我々に取っては、この革命は決して突然来たものではない。我々は1918年1月25日以来、既に計画的にこの準備を進めたのである。この事業は困難で且つ危険であった。我が社会民主党は、ストライキは革命に導くものではないことを見抜き、他の道をとった。我々は戦線に出たわが党員を逃亡させ、これを編成して、これに偽造紙幣、金員及び宣伝文書を持たせて、諸方面、就中戦線に派遣し、兵卒を軟化させ、こうして崩壊は徐々に、しかも確実に実行された云々」。

1918年10月5日、バーデンの宰相マックス[6]は講和の提議をした。マックスの父は、フリーメーソンの大棟梁であった者で、従ってマックスと、フリーメーソンとの関係も浅くはないわけである。ところがこのマックスの平和提議も、直ちに世界フリーメーソンの退ける所となった。結社員ポンデクサー[7]は、米国上院に於て「ロイド・ジョージ、及びクレマンソーは、休戦を呑まないであろう」との期待を述べた。又彼の同僚ロッジは「平和は米英仏軍がドイツ国内に入った後に討議されるべきものだ」と言った。要するに我が平和提議は、他の平和の意思表示と同様に、嘲笑を以て葬り去られたのである。

ドイツ国民が、この種の世界フリーメーソンの行為について、何等知る所がなかったのは、ドイツフリーメーソンが自分たちに対する誹謗を恐れ、政府に迫ってこの種の記事を公表することを禁止させたためである。戦争中、ドイツのフリーメーソンは、敵国側のフリーメーソンの行為について、沈黙を守ったため、敵国側フリーメーソンの反独墺宣伝を間接に助けたことになる。しかも今日、ドイツフリーメーソンが、敵国との旧関係を回復しようとしつつあるのを見ては、ドイツ国民として憤慨に堪えないところである。1918年8月、ウィーン発行のフリーメーソン新聞の報じた所では、1870年以来、閉鎖されて居たアルザス・ロレーヌのフランス組合は、再び建設され、ドイツフリーメーソン社員は、同地方から駆逐されたのに、ケルンには新たに英国の組合が設置され、ドイツの社員はこれと交際しているとのことである。ドイツ国民は、民族的見地からすれば、世界上において最も義務心なき国民である、との嘆きを発せざるを得ない。

 

[1]  原文:ペラン、原典:Périn。ペタンの間違いか?Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain(1856~1951)は第一次大戦で活躍したフランス軍将軍。第二次大戦中はドイツと休戦してドイツ占領地域以外のフランスを統治した。戦後、ナチスに協力したとして非難され、終身刑となったが近年その業績が見直されている。ペタン以外の該当者確認できず。カール・ハイセの元々の文章からPérinとなっていることは確認済み。

[2]原典:Riccardi。

[3] Philipp Heinrich Scheidemann(1865~1939)はドイツの政治家。ドイツ社会民主党党首として第一次大戦直後首相を務めた。ドイツ革命に際して共和国設立宣言した人物。原典ではフリーメーソン?となっている。

[4] ペタン?

[5] Albert Vater(1859~1923)は社会民主党の政治家で、マグデブルクのKPD(共産党) の共同設立者。健康と経済的困窮から1923年にピストル自殺。

[6] Prinz Maximilian Alexander Friedrich Wilhelm von Baden(1867~1929)マックス・フォン・バーデンはプロイセンの将軍であったバーデン大公子ヴィルヘルムの長男。自由主義者として知られ、1918年10月に独逸帝國宰相に任命され、連合国との休戦交渉を託された。彼はヴィルヘルム二世が帝位を保持できないと悟って居り、ホーエンツォレルン家を救うために退位を促した。しかし間に合わず1918年11月9日にドイツ共和国成立が宣言された。1928年にバーデン大公家を継いだが、翌年にコンスタンツで死去した。

彼の父親は1859~1863年プロシャ大組合「Zur Freundschaft」(To Friendship)の大棟梁で、「ewigen Orient(永遠のオリエント)」に参加し、1897年までその名誉大棟梁であった。(原典より補足)

[7] 原文:ポイントデクスター、原典:Pointdexter(誤りと思われる)。Miles Poindexter(1868~1946)マイルズ・ポンデクスターはアメリカの政治家で作家。共和党員、後に進歩主義者。下院議員を一期(1909~1911)務め、1910年に再選されたが上院議員にえらばれたため辞職。上院議員としては1923年まで務めた。1913年に進歩党に参加したが、1915年には共和党に復帰。1920年に大統領選挙に立候補した。1923~28年、駐ペルー大使。

 

27.ウィルソンのフリーメーソン的平和条件

 

世界大戦勃発の責任は、主としてフリーメーソン社員の負うべきものである事は、公平な読者の充分に理解したことと信ずる。但し本書に挙げた例証は、単に従来公表されたものの一部に過ぎない。読者にしてフリーメーソンの雑誌、パンフレット、特に秘密書類を見られたならば、この例証の数は正に千倍にも達するであろう。しかしながら恐るべき破壊、荒廃を伴った世界大戦は、フリーメーソン本来の目的ではなくて、その主とする所は、その思想、中でもヨーロッパ君主制の没落、更に世界共和国の建設を実現すべき世界革命にあったのである。果たして、それならばウィルソンの平和条件(十四箇条)も、その主要項目に於て、フリーメーソンの目的に適応して居らねばならぬ筈である。ウィルソン自身、フリーメーソン社員であるのであるから、なおさらそうである。実際ウィルソンの平和条件を熟読して見ると、その主な条項は、確かにフリーメーソン的精神に充たされていることがわかる。もっともその中には、表面上フリーメーソンの原則と、何等関係のない様に見える規定も少なくないが、これは戦争の結果、必然的に出来たもので、誰が作っても当然書く様な事柄なのである。故にこの種の規定については論じないことにする。

ウィルソン平和条件の第一条、「講和談判の公開」は、判断力のない国民にとっては、純フリーメーソン式の標語である。フリーメーソン社員は、秘密を厳守すると言う誓いの下に、万事秘密裡に仕事をしているものであるのに、講和談判の公開を叫ぶのは、群衆を眩惑した後、古来のやり方で、その後の仕事を進めていこうと考えているのである。そしてパリ講和会議は、1919年1月、談判開始にあたり、専門的事由によって、遺憾ながら談判を公開することが出来ないと声明した。

第二条「船舶航行の完全な自由」も、英国が決して海上の支配権を放棄する考えがない事が明らかであるから、一つの空文に過ぎない。例えばトルコでは、ダーダネルス海峡の航行の自由を要求しているに拘らず、英国はスエズ運河もしくはジブラルタル海峡の支配権を放棄することなどは、その気振りも見せないのである。

第四条の「ミリタリズム(軍国主義)の廃止」は、フリーメーソンがあらゆる機会にしてきた要求である。1914年12月13日、フランスグラントリアンの最高会議顧問の宣言中にも、如何なる対価を払ってもプロシャの軍国主義を撃滅しなければならないと、力を込めて書いてある。ここで注意を要することは、フランスも、英国も平和成立後、依然その厖大な陸海軍を保持していることである。(ドイツは動員を解いたのに)

第八条は「アルザス・ロレーヌの還付」に関する事項で、過去40年間、フリーメーソンが絶えず要求していた事柄である。この要求は、ドイツのフリーメーソン社員の参列した席上でも行われたのである。

第九条は、イタリア国境の改正に関する事項で、大棟梁マッツィーニは既に五十年前にこれを提議し、世界フリーメーソン社員は、主義上これに同意したのである。オーストリア=ハンガリー国内各民族の自治も、従来フリーメーソンの絶えず唱えた所である。

第十二條「トルコの分割」も、フリーメーソンの考慮した事柄である。即ちマッツィーニは、五十年前に次の様に言った、「ヨーロッパにおいて専制主義を保持し、民族主義を否定する国は、オーストリア=ハンガリー国及びトルコの二大帝国であって、前者はその頑固なること、欧州の支那と称すべく、後者はアジア主義の代表者、兼国教王国として欧州の進歩を阻害するのである」と。

最後の大十四條「各国の合同」(国際連盟、世界共和国)は、明瞭にフリーメーソン式の事項であって、過去三十年間のフリーメーソンの会議で、屡々且つ詳細に研究された所である。この四海同胞の理想が現実において如何なる状態にあるか。現在の飢餓、困憊、乱暴なる強制的平和は、即ちそれであって、我々は所謂専制君主を追って、フリーメーソンの要求を充たし、それによってウィルソンの手よりパンを得ようとしたのであるが、その結果は前述の通りである。

全世界のフリーメーソンは、同一の目標に向かい、努力している単一な世界同盟であるか否かは、戦争前屡々論議せられた所である。ドイツのフリーメーソンの有力者は、世界のフリーメーソンはその形式は区々であるが、同一体であると主張した。今やフリーメーソンの宿望は達せられた。社員の言を藉(か)りて言えば、すべての不正、特権は除かれ、すべての虐げられた国々は、再び自決権を回復した。従って世界の大組合は統一し、彼等の「将来の理想」は達成されたのである。フランコリンは、1889年6月17日、これを将来の理想として述べていた。

フリーメーソン社員は、古き世界を粉砕することに成功したが、果たして、新たに人類の殿堂を建設し得るだろうか、どうだろうか。

 

 

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