フリーメーソンと世界革命14(現代文)

第四部

24.世界革命に依るフリーメーソン共和国の建設

 

世界各国におけるフリーメーソンの革命的事業を通して観ると、その精神は常に同一である。即ち其の究極の目的は、共和国の建設にあるのである。

その一例を挙げれば、ベルギーのフリーメーソンの集会に「ベルギー共和国」なる議題の出ることは敢えて珍しいことではない。そして同国のフリーメーソンが、外国における革命的事件についても、多大な興味を感ずるということは、次の例でも明らかである。それは1911年、同国の有名な結社員フルネモン[1]が、演説して言ったことだが、「諸君は最近のポルトガル革命のニュースを聞いた時の我々の得意な感情を覚えているか。数時間かからずに、玉座は転覆され、国民は凱歌を奏し、共和国は宣言された。それは何も知らぬ一般の人に取っては、正に晴天の霹靂であった」云々と。南米ブラジルの最後の皇帝ペドロ二世を没落させた者は、フリーメーソン結社員デオドロ・ダフォンセカ元帥[2]で、その革命運動は全てフリーメーソン組合の画策する所だった。フランスのフリーメーソンの委任に基づき、1917年仏英両国の代表者として、ギリシャ王コンスタンティノスの退位を強要し、これをフリーメーソン社員のウエニゼロス[3]に替えたフランス代表者ジョンナール[4]は、同じく結社員である。当時コンスタンティノス王が即時退位しなければアテネ市を焦土と化すだろうと、彼を脅した。要するに古来幾多の革命は計画的に、執拗に、持続的に比類ない精力で準備され、全世界の君主を廃位しようとしているのである。この計画の起原は決して昨今の事ではなく、実にフリーメーソンの発展と共に、次第に成就して来たものである。即ち単に精神的メーソンについて言えば、1740年にその起原があり、更にまた職工組合について考えるなら、オリヴァー・クロムウェルの1648年及び1688~89年の光栄ある革命[5]をも引き合いに出すことが出来る。しかしこれ等の事件について述べることは、話が余りに横道に入り過ぎるので、ここでは割愛する。(*この一文はメーソンが職工時代から反君主制だったことを示唆するのか?

1740年フランスフリーメーソンの棟梁ダンタン公[6]は、或る演説の際に「フリーメーソンは全世界に共和政体を採用させるために創設されたものだ」と述べた。此の演説を紹介したウィルヘルム・オールは、既に当時1789年のフランス革命の精神が、フランスのフリーメーソンの中に窺われること、および同様の精神と理想が当時ドイツの知識階級に不用意に輸入されて居たことを認めている。

フリーメーソンに関するフランスの著書La Franche-Maçonne(1744年)、及びLes Franc-Maçons écrasés(1746年)は、表面上フリーメーソンに反対の様で、その実はフリーメーソンを説明宣伝するものと認められるが、この二書は既に世界共和国の思想、及び1789年の革命(フランス革命)のプログラムの大筋、並びに「自由」及び「親睦(友愛)」の標語を書き表している。その後王朝の没落後、更にこれに「平等」の標語が付け加えられたのである。

ここで一言説明しておきたいのは、フリーメーソンの中では「平等」は全く行われていないことである。即ち各階級の間には厳格な隷属服従の関係が存在するからである。ウィルヘルム・オールはフランスフリーメーソンを指揮する顧問(Conseil de l’Ordre)の制度は、一種の寡頭政治であって、一般にフランスのフリーメーソン内では貴族主義が行われて居り、すべての結社の上級の機関、例えばRitual-Kollegium は、その機関が授けた第三十三階級に属する社員だけで組織される。つまり全く非民主的な機関であることを書いている。

フリーメーソン内には「自由」もないのである。即ち言論の自由は全くない。国家の行う検閲とは比較にならない程、厳格な検閲制度がある。これは特にフランスで厳重であって、ドイツでは一般に結社員がその沈黙の誓約を遵守すべきことについて、各自の責任観念に任せている。1894年1月1日、フランスの組合Grand Orientは、その回章[7](かいしょう 回覧)で明瞭に、次の様に言っている。「如何なる事由があっても(許可なく勝手に)、結社員は結社及びその内容については決して公表してならない、と言うことについて、領袖並びに演説者はあらゆる機会に、社員の注意を喚起する必要がある。そして公表をするにしても、明確な許可を受け、又指示された方法によるべきものである」と。

フランスのフリーメーソン社員は、思想の自由を有せないのである。即ち彼等は必ず共和主義、及び反僧侶主義でなければならない。又勝手に結社から脱退することが出来ない。つまり本人にその意志がなくても、組合が必要と認めれば、その人は死ぬまで社員であらねばならない。これに反し、結社員を組合から追放することは、その長の勝手である。ミュッフェルマ[8]は、1915年発行のイタリアのフリーメーソンに関する著書中に、その一例を挙げている。「1914年12月4日社員にしてベルノ[9]の組合の領袖たるドクター・B.[10]は、イタリアの棟梁から電報で社員を免ぜられた。しかもこれについては何等の抗弁も、審問も行われないのであった」と。フリーメーソン結社内における「自由」の実際については、尚無数の例を挙げることが出来るが、上に掲げた所で既に十分であろう。

次に標語の第三たる「親睦(友愛)」の実際はどうか。これは社員相互間ではどうか、こうか行われているが、この相互間においても激しい闘争の行われることがあるのを見ると、フリーメーソンの理想まではまだかなりの距離のあることを感じざるを得ない。オーストリアの蔵相であったシェーンボルン[11]は、1789年のフランス革命について、次のような意見を発表した「この革命は自由、平等、博愛に対する憧憬を以て開始されたが、その終局はギロチン(処刑台)の絶え間ない働きで終わり、且つ惨憺たる戦争で、フランスおよび全欧州を荒廃に帰した」と。誠に至言と言うべきである。

話は大分横道に入ったが、本節の主題に復帰しよう。人類を強者の支配より解放しようと言うのは、イルミナティ組合の目的でもあった。この組合は十八世紀の後半に大いに活動し、且つフリーメーソンといくつもの共通点を有して居たものである。既に当時に於て世界同胞及び世界共和国の思想は、その魔力を表し、偉大な思想家、例えばカントの様な人物も賛同したのである。しかしドイツの各階級に、共和政体が拡がったのは、十九世紀に入ってからの事であった。つまりこの思想はフリーメーソン社員で革命家であるマッツィーニによって代表された。彼の一派は全欧州に行き亘って居た。マッツィーニの説に従えば、共和政体は唯一の正当なる政体であって、マッツィーニ自身は彼の備える道徳及び才能により、国民の指導教養に任じ、且つその代表たるべき者と考えている。しかも自由を掛け声に始まった革命運動も、その自由の使徒が一旦支配権を掌握すれば、専制主義となってしまうのである。

フランス革命の惨事のために著しくその評判を失墜した共和思想は、十九世紀の中葉イタリアにおいて存続し、その後同世紀の終わりには再びフランスに移った。フランスでもイタリアでもドイツの封建皇帝政治は間もなく没落して、社会民主主義が行われるようになり、その時は欧州平和の脅威たるアルザス・ロレーヌ問題も好都合に解決されるだろうと期待して居た。この思想はフランス革命百年紀念のために、1889年にパリで開催の世界フリーメーソン会議では、一層明瞭に表明された。その際社員フランコリンは次の要旨の演説を為し、参列者の大喝采を浴びた。

十八世紀にも1789年の革命を経験しなかった国家でも、君主主義及び宗教が没落すべき日は遠くない。この日に於て、すべての不正は正され、すべての特権は除去され、すべての暴力で併合された国(「アルザス・ロレーヌ」、「ポーゼン(現ポズナン)」、「ガリツィア」等)は、自決権を獲得するであろう。その時は国境その他の境で、隔絶されている全世界のフリーメーソンは、これ等の境を撤廃して合同することが出来るであろう。これが我々の眼前に横たわる光栄ある将来の理想である。この日を一日も速やかに実現させることは、我々の任務である。

右の演説は、フリーメーソンがドイツ革命、共和国の建設、及びフリーメーソンの四海同胞の実現を予期していることを語っているものである。

世界共和国の思想は、1900年、パリの第二回世界フリーメーソン会議においては、全会議の基礎観念として特に明瞭に表明された。つまりこの会議での演説者で、これに関する意見を述べない者はなかった。ある社員は、世界フリーメーソンの事務所を創設し、それでフリーメーソンの理想の実現、それに世界共和国の建設のため、全世界の結社員の協力に資するように、と言う提議をした。彼は有名なるアルキメデスの言葉、「私に拠点を与えよ、然らば私は全世界を混乱に陥れるであろう」を引用し、且つこう言った。「全世界のフリーメーソンの結束は、我々に取って所謂拠点を与えるものである。我々はそれにより世界を混乱に陥れることが出来る」と。実に意味深長な言葉である。この提議は熱心な賛同を博し、会員一同は世界共和国の万歳を唱えるに至った。そしてその一委員長は、この万歳の叫びは決して無駄に終わるものではないと確言し、またある社員は各国の代表者が帰国後先ず第一に報告すべきは、「各代表者が如何に世界共和国の建設に対し満場の賛意を表したかということである」と述べた。この際注意すべきは、ポルトガルフリーメーソンの代表者の演説であった。彼は演説の最後に言った「私は帰国後ポルトガルフリーメーソンの集会でフランスフリーメーソン万歳、世界共和国万歳を唱えても、誰も疑問に思うものがないことを確信する」と。当時(1900年)ポルトガルはまだ王国であった。その後十年で同国フリーメーソンの企図は成功し、共和国になったのである。

その後万国フリーメーソン会議は屡々開催され、世界共和国建設について画策し、また各国において幾多のフリーメーソンの陰謀が行われた。そしてそれ以後各国の新聞(その大部はフリーメーソンの手中にある)は連合し、又フリーメーソンの勢力を有する国家は互いに協力し、その終局において世界最大のフリーメーソン社員たるエドワード七世が努力し、且つ切望した所の中欧諸国の包囲が実現されることになった。その後セルビアフリーメーソン社員の銃弾は、計画通り発射されることになったのである。

有識者」はチュートン帝国[12]の没落を、時計を手にして計算することが出来た。此の両帝国は全世界のフリーメーソン結社(Gross orient)から死刑の宣告を受けていたからである。国内における叛逆は、終に常勝軍の背後を刺した。このようにして我々の敵が熱望した所の共和国は成立したのである。

 

[1] Léon Furnémont(1861~1927)は、ベルギーの弁護士・政治家・国会議員

[2] Marschall Deodoro da Fonseca(1827~1892)は、ブラジルの軍人。軍事クーデターを指揮して皇帝ペドロ2世を退位させ、ブラジルの初代大統領となった。

[3] Eleutherios Venizelos [Ελευθέριος Βενιζέλος](1864~1936)ヴェニゼロスは、ギリシャの政治家。君主制から共和制への移行期間を通じて9期12年に亘り断続的に首相を務めた。

[4] Charles Célestin Auguste Jonnart(1857~1927)はフランスの政治家。1894年にパ・ド・カレーから元老院議員となり、公共事業相、アルジェリア総督、そして1911年ブリヤン内閣で外務大臣第一次大戦中は外務委員、大戦後、ギリシャコンスタンティヌス王を退位させる連合国の中心人物であった。

[5] 名誉革命のことと思われる

[6] 原文・原典はHerzog von Autin。Herzog von Antinの間違いと思われる。フランス語:duc d’Antin(ダンタン公)はルイ14世の寵姫モンテスパン侯爵夫人のひ孫になる公爵Louis de Pardaillan de Gondrin(1707~1743)で、フランスの廷臣。フリーメーソンであった。

[7] 順に回して見せる文書、書状。ふつう、あて名が列記してある。回文。回状。

[8] Dr. Leo[pold] Müffelmann(1881-1934)はLudwig Müffelmannの息子。ジャーナリストで著名なフリーメーソン

[9] Belluno。ヴェネチアの北方約60キロにあるイタリアの町。

[10] 原典による。原文はベー。「B」のドイツ語読みであろう。   

[11] Friedrich Erwein Maria Carl Franz Graf von Schönborn(1841~1907)フリードリッヒ・シェーンボルンはオーストリアの政治家・法務大臣。1890年代のチェコとドイツの和解に大きくかかわった人物。

[12] チュートンとは古代欧州に存在した部族の名称で、ラテン語のテウトネス族から来た言葉で、ユトランド半島(現在のデンマークの辺り)が原住地とされる。そこから転じて、ゲルマン系の諸族を示す言葉となった。中世以降、テュートン(チュートン)はチュートン騎士団のように、ドイツ人の別称として使われた。この言葉は、ドイツ(German)と言う言葉に付け加えて、規則正しく、秩序正しく、集団で協力する性質、と言う意味が含まれる。ちょうど、ラテンと言う言葉が楽天的で陽気、と言う意味が含まれるようにその対句として使われる。

ここで言うチュートン帝國とはつまり、ドイツ・オーストリア=ハンガリー両帝國のことである。

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