フリーメーソンと世界革命11(現代文)

15.オーストリアに於ける革命的フリーメーソン

 

オーストリアに於けるフリーメーソンは、1726年6月24日ヨハン・シュポルク伯[1]が、プラハ組合を設立したのが始まりである。当初多数のボヘミア貴族が会員となった。シュポルク伯に継いで大棟梁となったダヴィドは、(プラハの反乱で)反乱罪に問われて死刑の宣告を受けたが、社員の奔走の結果、死一等を減じて無期懲役刑に処せられた。女帝マリア・テレジアの夫ステファン大公[2]も、結社員であったが、女帝自身は、フリーメーソンを危険視してこれを好まなかった。

フリーメーソンの善行として挙げるべきことは、プラハに孤児院を設立したことである。

ヨーゼフ二世[3]1780年フリーメーソンが、外国と連絡を保持することを禁じ、1785年には組合数に制限を設けた。このほか、同帝はフリーメーソンに対し、あまり好意を持たず、その手記の中で、フリーメーソンを罵ったため、当時全欧州に十万を数えた社員全部の恨みを買った。1789~90年のトルコ戦は、フリーメーソンの仕事であった。この戦争の結果、オーストリア皇室の財宝及び軍隊は減少し疲弊した。ヨーゼフ二世は、いよいよフリーメーソンの勢力を殺ぐことを決心したが、この決心を実行するに先立ち、1790年2月49歳に達せずして崩じた。

レオポルド二世は、よくフリーメーソンの真相を知り、欧州各国の王室が、秘密結社の奴隷となっている事を看破し、ひそかにこの秘密勢力を打破しようと図った。帝の姉妹皇后マリー・アントワネットは帝に対し、フリーメーソンについて警戒すべきことを忠告した。帝もまたフリーメーソンを抑圧しようと決心したが、これを実行するに先立ち1792年3月45歳の若さで崩じた(フリーメーソンに弑されたとの説がある)。レオポルド二世の後を継いだ皇帝フランツ二世は、1794年に命令を発して、国内のフリーメーソンを圧迫した。1795年に発覚した皇室転覆の陰謀は、フリーメーソンの企てたもので、レオポルド二世の秘書官リーデル[4]もその一味に加わっていた。1801年には官吏(政府職員)がフリーメーソンに属することを禁じた。この命令は功を奏した。これで、当時フリーメーソンの中堅であった貴族、軍人、官吏、宗教家等が、結社を脱したために、結社は著しく衰えた。

その後1848年フェルディナンド帝[5]の時、1794年に閉鎖した或る組合は、再び建設された。同時に革命があったが鎮圧され、フリーメーソンの集会は、禁止される様になった。1869年にHumanitas(フマニタス)と言う組合がオーストリアハンガリーとの二か所に創設された。この組合は、政治的結社を厳禁するオーストリアでは、単なる慈善団体として活動し、ハンガリーにおいてフリーメーソン本来の(政治的)仕事を行った。

その後新しい組合が出来て、現在ウィーンに十四個、地方に十六個の組合がある。

要約すると、オーストリア及びハンガリーフリーメーソンは、君主制を廃して共和制を採用することに終始努力を続けてきたのである。旧オーストリアのイタリア語の地方に於ける、イタリア統一運動もまた、マッツィーニの遺志を承け継いだフリーメーソンの仕事であって、その指導者はすべてフリーメーソン社員であった。

 

[1] Johann von Sporck(1595~1679)はドイツの裕福で気前の良い貴族。プラハの宮殿に「Zu den drei Sternen(三ツ星へ)」と言うロッジをバプテズマのヨハネの日に創設し、自身が初代の大棟梁となった。

[2] マリア・テレジア(1717~1780)は神聖ローマ帝国皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ一世シュテファン(1708~1765)の皇后でオーストリア公。

[3] Joseph II(1741~1790)は、神聖ローマ帝国皇帝(在位:1765年 - 1790年)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。フランツ一世とマリア・テレジアの長男。マリー・アントワネットの兄にあたる。

[4] Andreas von Riedel(1748~1837)はレオポルド二世に仕え、フランツ二世の教育もしたが、フランツ二世の反啓蒙的態度とフランス革命フリーメーソンの活躍の影響で反貴族的自由主義を唱え、フランツ二世に逮捕され、60年の懲役を言い渡された。1806年に赦されてパリに移住し、そこで亡くなった。

[5] Ferdinand I(1793~1875)はオーストリアの皇帝(在位:1835年3月2日~1848年12月2日)、ハンガリーの国王フェルディナーンド5世(V. Ferdinánd、1830年9月28日 - 1848年12月2日)1848年の革命でリベラルな政策を採ったが、最終的には退位を余儀なくされた。

 

 

16.マイヤーリンクの悲劇
フリーメーソンの手中にあった皇太子ルドルフ)

 

皇太子ルドルフ[6]は、1889年1月30日、マイヤーリンクの猟舍(貴族が狩猟で使う館)で、その愛人の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラ[7]と共に死んでいるのを発見された。二人の死因は、自殺とも言い、他殺とも言い、判然としなかったが、著者の調査によると、ルドルフは英国エドワード七世がプリンス・オブ・ウェールズと呼ばれた(皇太子の)時代に、この人に勧められてフリーメーソン社員となった。フリーメーソン社員は、彼に対しハンガリーを独立させてその王になると言う任務を与え、その実行の日時までも決定されていたが、ルドルフは遂にこれを決行出来なかったために、彼はフリーメーソンの復讐と他方では皇帝に陰謀が発覚することを恐れ、恐怖の余り遂に自殺したのであった。即ち彼はフリーメーソンの傀儡となり、ついに非業の死を遂げたのである。

 

[6] オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の子で皇太子。

[7] Marie Alexandrine Freiin von Vetsera(1871~1889)マリー・アレクサンドリーネ・フォン・ヴェッツェラ男爵令嬢は、オーストリア=ハンガリー帝国のルドルフ皇太子の愛人。外交官だったアルビン・フォン・ヴェッツェラ男爵(ヴェチェラ・アルビン・ヤーノシュ])の娘としてウィーンで生まれた。

 

 

17.ウィーンの新大組合

 

(第一次)大戦後のオーストリア=ハンガリーの革命の結果、皇帝フランツ一世はその位を退き、スイスのベルケンに隠遁した。(六百余年前、その祖先ハプスブルグ家のルドルフは、当時混乱していたオーストリアから招請されて、このベルケンからオーストリアに赴き、帝位につき、国の秩序を立てたのである)。この退位により、ウィーンの大組合は、公然と承認を受け、1919年五月には、大棟梁以下役員の選挙を行い、六月には盛大なる儀式を挙行し、領袖は従来の仮面を脱ぎ、公然政治上の活動をするべきであると説いた。

ユダヤ人は、キリスト教徒しか採用しないドイツの組合に対して抗議し[8]、今や概ねその目的を達することを得たが、ユダヤ人はユダヤ人だけの組合を別に作っており、これには非ユダヤ人の加入を許さない。これで、ユダヤ人の唱える同権の意義がどんなものかがわかる。チェコの組合も革命後分離して独立した。大戦間チェコ実行委員会はフランス大組合内にあった。その長は現在のチェコ国大統領マサリックであった。このほか米国にもチェコ人の組合があって、その主張に基づき1917年のパリの大組合会議は、ボヘミア(ほぼ現チェコ共和国の版図)の独立を講和条件の一つとする事を決議した。(*後のズデーテン問題の伏線)

1919年8月発行のウィーンのフリーメーソン新聞[9]は、オーストリア死刑廃止を唱えられるようになったのはフリーメーソンの主張に基づくものだとのことであるが、死刑廃止は却(かえ)って人道に反するものである。「フリーメーソンでは、殺人は許されている」とは、セルビアの暗殺者の告白した所であるが、死刑が廃止されれば暗殺者は安心してその犯罪を敢行するに至るであろう。

 

[8] 原文:「ユダヤ人は、キリスト教徒を採用しないドイツの組合に対して抗議し」。文意から間違いと思われるので「を」に替えて「しか」に変更。

[9] “Wiener Freimaurer-Zeitung” August 1919、 30頁

 

 

18.ハンガリーに於ける革命的フリーメーソン

 

ハンガリーにおけるフリーメーソン組合の創設は、1848年であるが、同国の革命家は、既にそれ以前より外国のフリーメーソンと密接な関係を有し、且つよく知られた革命家は、大概外国の組合に加入し、密かにその支援を受けて居た。又同国の大組合は1870年になって始めて創設された。ハンガリーフリーメーソン社員数は、第一次大戦中に非常に急激に増加をした。ハンガリー大組合は、1913年、即ち戦争開始の前年、その組合数91、会員数6,526人を数えた。それが、1917年の終わりには、組合102、小組合14、会員7,447人となった。即ち12~13%の増加であって、その増加の度合は英国、スペイン及び米国の次に位置している。そして上記の現在の会員数は、実際に活動する会員のみを挙げたのであって、普通の会員も加えると、二万人にも達するであろう。

ハンガリーフリーメーソンが、革命的性質を帯びている事は、1848年のハンガリー革命の際の革命首謀者に対する社員の態度によって知る事が出来る。即ち此の革命は失敗したが、革命首謀者コシュート[10]その他は、イタリアに逃れ、同国の社員マッツィーニ、ガリバルディ等の援助を受け、対オーストリア戦争を画策した。コシュートは結社員の仲介によって、1859年にナポレオン三世と連絡を取るに至り、ナポレオンは二万人の軍勢でハンガリーに侵入する準備、コシュート達は、ジェノヴァハンガリー国民委員会を作り、ハンガリー脱走兵で構成するハンガリー軍をイタリアのピエモンテ州に作ろうとして、一度は失敗したが、最後には四千人より成る軍隊を編成した。しかしその後間もなくヴィラフランカの講和[11]が締結された。1859年の不利な戦争は主としてフリーメーソンの仕業であったが、ハンガリーフリーメーソンはその結果に満足せず、今度はイタリアのカヴール[12]ハンガリー革命家とが協同して、イタリア、ハンガリー戦争を計画したのであった。1866年の戦争にも、ハンガリーの結社員は関係して居た。

ハンガリーの結社員が、革命の企図を持っていることは、考えて見るとポルトガルの革命後、間もなくハンガリーの結社員が、ポルトガルの革命家で結社員であったリマをハンガリーに招待して、その秘密演説を聞いたことで、想像することが出来る。特に注目に値することは、ハンガリーの結社員が世界大戦勃発直前に、セルビアの結社員を訪問したことである。これにより、彼らは共に同一の目的に向かって、仕事をしていたことが分かる。

1919年1月のハンガリーフリーメーソン新聞「世界(Vilag)」は、英国の大棟梁コンノート大公を、ハンガリー王に推薦した。戦争間英国及び米国に在るチェコ人もまた、同大公をチェコ・スロヴァキア国王として仮想(見な)したことがある。

 

[10] Lajos Kossuth(1802~1894)コシュート・ラヨシュは19世紀ハンガリー王国の政治家・革命家。フリーメーソン(1852年に米國シンシナティの組合に参加)。

[11] イタリア統一戦争に際して、サルデーニャ王国を支援していたフランスが、突如単独でオーストリア帝国と結んだ和約。1859年11月10日にオーストリア帝国フランス帝国サルデーニャ王国の間でチューリッヒ条約締結で決着した。

[12] カヴール伯爵・カミッロ・ベンソ。初代統一イタリア王国の首相。ガリバルディ、マッツィーニと並ぶイタリア独立の三傑の一人。

 

 

19.ハンガリーの大組合及びその没落

 

世界大戦前後にハンガリーフリーメーソン社員のとった態度を観察するのは、価値あることと思う。1918年4月28日(西方戦場における独軍が、未だ勢いがよかった時期)にハンガリーの大棟梁ボカイ[13]が、ウィーンにおける大組合の会合に於て、次のような非常に憂国的な演説をした。「ハンガリーの敵は、又オーストリアの敵でもある。而もこの世界大戦乱に於て、オーストリア=ハンガリー国内の各民族を最も有効に保護しようとしているのは、即ち我が国王の軍である」云々と。ところが同年秋には、独軍の旗色が、次第に悪くなった。ハンガリーフリーメーソン結社員カーロイ伯[14]は、国王カールに対し、自分を首相とすべき旨を強要し、その目的を達した。この時にあたり(1918年11月)ボカイは、再び演説した。「我々フリーメーソン社員は、隣接国家と講和することを欲す。我々は辞書中から戦争と言う語を除去してしまうため、各国と同盟を締結することを欲す。我々は軍縮を撤廃する事を気にしない」と。カーロイの政府は大部分結社員で構成されたが、ハンガリー軍に対して、戦線より撤退し、武装を解除するよう命令した。

チェコ軍及びユーゴスラヴ族より成る軍隊は、直ちにハンガリー軍にならったため、三年半イタリア軍の攻撃に堪えた我が西南戦争も、ほんの短期間に完全に崩壊してしまった。即ち我がオーストリア=ハンガリー国の運命を封じたのは、ハンガリーフリーメーソンの叛逆である。

これは悪意に出たのか、暗愚の致す所であったかは、判別が難しいけれど、もしハンガリーフリーメーソンにして、敵、とりわけイタリア軍も自分と同様のことをするだろうと予期したのなら、それは大いなる誤算であった。

ハンガリーの放棄した陸地には、直ちにイタリア軍が侵入して来て、このためドイツオーストリア人の軍隊は、多大な犠牲を払わざるを得なかった。

戦争中、ハンガリーフリーメーソンが、その主要任務として最も力を注いだことは、憎悪心を緩和することであった。彼等は直接敵国のフリーメーソン社員と交流し、それによってフリーメーソン世界同盟を回復しようとした。憎悪心を緩和することは必ずしも悪いことではないが、それには、我々の敵が、ドイツ・オーストリアが屈服するまでは決して憎悪心を失わないものであることを考慮しなければならない筈であった。又ハンガリーフリーメーソン社員は、戦争中、敵国のフリーメーソン会議に参加した。要するに彼らはフリーメーソンの所謂「貴族とデモクラシーとの争闘」で、初めからデモクラシー側、つまり敵国側に立ったのである。彼等は従来公衆に対しては、自ら王政派であるかのように言いふらしてきたが、フリーメーソン新聞を見ると彼等は全く革命的共和党にほかならないことは、あのセルビアの同結社員と、密接な関係を持っていたこと、特にオーストリア皇太子暗殺を予知していた形跡があること、ポルトガルの革命家である結社員リマを歓迎したことなどにより明瞭である。

ハンガリーフリーメーソンがうまくいった時代は、僅か五ヶ月で、共産主義者のために追われることになった。ハンガリー大組合の範囲だったスラボニア(現クロアチア東部)、クロアチア及びフィウメ(現クロアチア領リエカのイタリア名)などの地方のフリーメーソン組合は、戦後セルビア又はイタリアの大組合に属することになり、それだけハンガリーフリーメーソンの勢力は減少した。この事実によると、依然いたるところ、民族観念が先に立っていたことを看取ることが出来る。しかし、唯ドイツのフリーメーソン社員のみは、愚かにも世界主義の理想を抱き、非常な不幸を見ることになったのである。

 

[13] Árpád Bókay(1856~1919)アルパド・ボカイは、ハンガリーの内科、薬理学者、大学教授。1902年に組合に入り、1915年から死ぬまでグランドロッジのグランドマスターであった。

[14] Graf Michael Karolyi(1875~1955)ミハーリー・アダム・ジェルジ・ミクロス・カロリー・デ・ナジカロリー伯爵は、ハンガリーの貴族の家に生まれた。1918年11月1日から16日まで首相を務め、1918年11月16日から1919年3月21日まで大統領を務めた。

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