フリーメーソンと世界革命02(原文)

    フリーメーソンと世界革命

第一部

1.概要

 

墺國皇儲暗殺者裁判の結果、暗殺の計畫は、佛國のフリーメーソンの結社に依つて立案された斗(ばか)りでなく、暗殺者の一部もフリーメーソン結社員であることが解り、又之に用ひた資金もフリーメーソンから支給されたといふことが確認せられた。フリーメーソンが、斯くの如き、許すべからざる犯罪に加擔したと云ふ非難のあるのは、一応尤のことであるが、此の非難はフリーメーソン結社の眞相及び組織を知らないから起るのであつて、これを研究したものにはフリーメーソンとしては當然のことであつて、何ら不思議がないのである。

フリーメーソン結社は、元來左官、石工、大工の組合であつて、他の凡ての組合と同じく、其棟梁は建築術の秘密を職人及び徒弟に傳授したものである。此の古き職工フリーメーソンの現存する規約書は、13、14世紀頃のものであつて、獨逸の外、イングランド及びスコットランドでも隆盛であつたが、建築術の衰退と共に、此の職工フリーメーソンも衰へたのである。そこで1717年に於て、倫敦及びウェストミンスターにある四個の古き職工フリーメーソン組合は、相合して一ツの大組合を組織して、一人の大棟梁を選定し、同時に若干の學者、神學者等の援助を受けて、組合の儀式及び憲法を改造した。フリーメーソンなる名稱、古きメーソンの紋章、秘密の記號(記號、言葉、身振、手振等)、並に神話的の歴史は、依然として保存せられ、組合の規約書は之を改定して活版に附せられた。(1723年)

結社員の第一の義務は、服従であつたが、それより以前と異つた所は、全人類の一致する宗教を奉ぜねばならぬといふ義務であつた。其意義は、結社員は其民族および信仰如何に拘らず、善良にして忠實、名譽を重んじ、公明正大でなければならぬと云ふことである。此の全人類の一致せる宗教を奉ずることに依つて、メーソンは常に互に離反せんとする人類の間に一致の中心となり、且つ忠實なる友誼を造り上げる手段となるのである。組合の仕事と何等關係のない人物を採用する様になつてから、フリーメーソンは著しき變革を遂げた。即ち古き職工メーソンから精神的メーソンとなつた。併し、元來簡單明瞭なる言葉を以て記述せられてあつた結社員の義務は茲に至つて故意に不明瞭なる言葉を以て書きあらはした爲めに、區々なる[1]意義解釋を生ずる様になつた。例へばフリーメーソン結社員は、一定の前提の下に於て、謀反及び革命を煽動する權利を令して居る。たゞその事が、フリーメーソン自身の仕事に不利を齎(もたら)さないことを要する。中には此解釋に於て、場合に依つては謀叛を爲す義務を令するとさへ云ふものがある。例へばフリーメーソンの機關新聞フリーメーソン、クロニクル(1875年倫敦發行)は次の様に記載して居る。

若し吾人が、フリーメーソンは如何なる情況に於ても、悪政府に對して武器を取つて反抗してはならないといふならば、夫れは彼等の最高にして又最も神聖なる市民としての義務を毀損することになる。謀叛は、一定の場合に於ては、一の神聖なる義務である。

此の種の意見は、一人に止らず、多數の權威あるフリーメーソン新聞は、略ぼ同様なる意見を述べて居る。組合に關係のない人々を結社員に採用した結果、フリーメーソンは非常に迅速の發達を遂げた。英國の大組合設立後、直ちに全歐洲にフリーメーソンが行き亘り、凡ての首府には大組合が創立された。而も斯くの如く迅速に發達を遂げた秘密結社は、上述の如き謀反の權利を屡々實行した爲に、國家治安の維持上、間もなく壓迫を蒙るに至つた。例へばナポリ(1731年)ポーランド(1734年)オランダ(1735年)佛國(1737年)に於ては、組合が創立せらるゝや否や禁止せられた。墺太利に於ては、フリーメーソンは1794年以來禁止せられ、之を犯すものは結黨罪に問はれる。之にも拘らず、組合の數は漸次増加したのである。

結社員たらんとするものは『高尚なる思想を持し、自覺して、人類の使命を果す爲めに努力すること』を要する。即ち彼は社會的建設、及び人道の完成に努力せねばならぬ。此立派なる要求が、事實に於いて如何に行はれて居るかは後に記述する。

フリーメーソン結社員は、ロッヂ即ち世界民的組合に編入せられて居る。この組合は更に合して大組合を組織して全世界に普及して居る。フリーメーソンが秘密結社であるかどうかといふことは、甚だ議論の多い問題である。フリーメーソン結社員自身は、フリーメーソンは秘密結社ではなく單に公開しない結社であつて、秘密としていることは其の記號及び儀式であると主張する。結社員は沈黙宣誓をする。而してフリーメーソンの記號の大部は、結社員が此誓を破つた場合に受くべき重罪を思ひ出させるものである。例へばこれらの記號は、斬首、心臓摘出、腹部切開等を意味して居るが、夫れは單に象徴的の意味を持つて居るものであるか、どうかと云ふことは確證がない。

組合員は、通常三階級に別れて居る。即ち見習、職人、棟梁であつて、この區分は職工メーソン時代に起つたものである。大組合中の或るものは、11階級、25階級、並に夫れ以上の高級階級を合して居る。例へば最も廣く行はれて居るスコットランド組織は、33階級を合して居る。併し又95階級より成る大組合もある(各上級の幹部から命令を受ける)。獨逸のフリーメーソン社員は、此等の多數の階級の存することは否認して居るが、事實に於いて此等の高級組織は實在して居り、その大部分は獨逸の組合で承認して居るのである。

フリーメーソン結社員は、一定の記號、言葉、及握手法に依つてお互を見分ける。結社員が生命上の危険、及其他の非常なる困難に陥つた場合は、危急信號を爲すことを許されている。此場合、結社員は之に援助を與ふる義務を有する。斯くの如き危急信號が、現に世界大戦中に大なる役目を勤めたことは、疑ひの余地がない。即ち方(まさ)に死地に陥りつゝあつた社員にして、此種の方法に依つて、他の社員に救助せられた例は少くない。尤も組合及び大組合の間でも、絶えず權力爭が行われているのは勿論であつて、度々會議を開いて、これ等の爭議を解決しやうと努め、相當の効果を得て居る。世界における結社員全部の結合を計らんとする世界會議も開かれた。其際世界大組合の基礎たるべき國際的事務所を開設することになつた。

次に全世界におけるフリーメーソン組合の數に就て略述しやう。獨逸には現在8個の大組合554個のヨハネ組合及び五個の獨立組合がある。會員の數は、58,000人である。匈牙利(ハンガリー)には大組合1個、組合102個、會員7,500人。英國グレートブリタニヤでは、倫敦に「英國研究大組合」があつて、之に3,155個の組合が属して居る。會員の數は約400,000人、(スコットランド高級會員を含む)。大棟梁はエドワード七世[2]の弟コンノート大公[3]である。(因に此コンノート大公は、嘗て在英國及び米國チェコ人の一部から、将來のチェコ・スロヴァキア國[4]の國王に擬せられて居た)

英國フリーメーソンの社員の數は、世界大戦間に、約150,000人を増加した。スコットランドでは、エヂンバラにスコットランド大組合があつて、830個の組合、會員約50,000人を算する。アイルランドの大組合はダブリンに在つて、組合510個、會員約18,000人を有する。佛國では大組合(Grand Orient de France)に、470個の組合が属して居る。會員の數は1917年には33,000人であつた。(佛國の會員數は世界大戦前の十年間に約二倍に増加した)。此外巴里に佛蘭西大組合があつて、最高會議即ちConseil Supremeを合して居るが、獨逸の大組合同盟は此顧問を認めて居らない。この大組合に属する組合は153個ある。1919年に佛國に新たに一個の大組合が出來て、大に戦爭を煽動した。特に注意に價するのは羅馬(ローマ)にある伊太利大組合であつて、此の大組合は約500の組合を合して居つて、大に戦爭を煽動したことは獨逸のフリーメーソンも認めて居る所である。

以上の外、和蘭(オランダ)、白耳義(ベルギー)、丁抹デンマーク)、瑞典スウェーデン)及び諾威(ノルウェイ)にも大組合がある。瑞典、諾威の組合は、特に社員の基督教上の智識を要求して居る。此のことは若干の獨逸の組合に於ても同様である。瑞西(原文は瑞典、原典はSchweiz、スイス)では大組合アルピナAlpina)があつて、其大棟梁であつた、第33階級カルティエ・ラ・タン[5]は、世界フリーメーソンに於て、指導的地位を占めて居る人である。葡萄牙ポルトガル)の大組合の長は1910年の同國革命の主謀者と目されて居る。其他大組合のある國は、西班牙(スペイン)、露西亜(ロシア)、波蘭ポーランド)、巴爾幹(バルカン)諸國である。

米國の組合制度は特に大なる發展を遂げ、大組合の數100、組合の數16,000に達して居る。同國の結社員數は、獨逸のフリーメーソンから承認されて居らぬ組合を算入すると否に依つて50万から200万人の差がある。(世界大戦間同國の社員數は約50万人の増加を見たと、同國のフリーメーソン雑誌が報じて居る。仏蘭西戦線に参加した米國フリーメーソン社員は25万人であつて、獨逸のフリーメーソン社員の數の四倍に達して居る)、フリーメーソンの亜米利加(アメリカ)に輸入されたのは1833年であつて、その後殆ど歴代の大統領は結社員であつた。(例へばジョージ・ワシントン、マッキンレイ、タフト、ルーズベルト及びウィルソン。)尤もウィルソンに就ては異論があるけれども、少くも彼の親近者及び信用ある顧問が、フリーメーソン社員であつたことは事實である。(例へば副大統領マーシャル、ランシング國務長官、ハウス大佐[6]、パーシング将軍[7]労働組合首領ゴンパーズ[8]、其他無數)。其他の米大陸諸國に於ても、多數の大組合及び組合がある。

アフリカの黒人共和國リベリアにも、1867年以來一個の大組合がある。豪州には大組合5、組合739、社員50,000がある。日本にすらフリーメーソンの制度が擴められて居る。支那では孫逸仙孫文)が世界フリーメーソンの中でも優秀な人物と目されて居る。フリーメーソン側の調査に依ると、全世界に於けるフリーメーソン組合の數は、24,788で、社員數は2,358,140人である。此社員の大多數は新聞記者、商人、銀行家、辯護士、實業家、學者、議員等の有力者なることを考ふると、この結社の世界に及ぼす影響如何に偉大なるものであるかを窺ふことが出來る。

次にフリーメーソン相互の關係及び彼らが到る處勢力獲得に努め、且つ諸國の有力者を自黨に引き入れることに努力して居る事を見ると、此等の人々は世界戦爭の勃發にも與(あず)かつて力があるのではないかと言ういふ疑が起る。尚吾人が過去二世紀間に於ける歴史上の有力なる人物は、殆ど凡てフリーメーソン社員であつた事を考へると、此疑ひは更に深くなるのである。ボルテール、ナポレオン、ポアンカレ、フランクリン、ワシントン、ルーズベルト、及びウィルソン、マッツィーニ[9]、及びガリバルディ[10]、エルネスト・ナタン(ネイサン)[11]、ソンニーノ[12]、サランドラ[13]ダヌンチオ[14]は、一條の連鎖をなして居るのである。此際世界のフリーメーソンから最大の社員として目せられ、且つ賞賛せられて居るエドワード七世も、忘るべからざるものである。

此疑問が理由あることか否かは、事實に就てフリーメーソンの政治上の目的を検討する必要がある。先づ獨逸のフリーメーソンは、其大多數は政治に關係して居らないといふことは、彼等が屡々辯じた所に依つても信用するに足るやうであるが、羅典(ラテン)系およびアングロ亜米利加系のフリーメーソンの最高幹部の一人なるカルティエ・ラ・タンは、巴里の萬國フリーメーソン會議(1900年8月31日~9月2日)において、彼の創設した萬國フリーメーソン事務所(瑞西・ノイエンブルク)の目的は、全世界のフリーメーソンの力を合一せしむるにあること、而してその目的はフリーメーソンが世界を紛亂に陥れる爲めに必要なる據点たらしむるのにあると述べて居る。又彼は世界の各方面より集つた社員らに對し、簡單にして且つ力強き言葉を以て最後の目的を説明した。それは即ち「世界共和國の建設」である。之に對しそれは第33階級に属する此の盡力者の言であつて、フリーメーソンの生活に於いて優秀なる地位を占むるには相違ないが、單に個人の意見に過ぎないといふものがあるかも知れないが、これは當らない。何となれば獨り此人のみならず、仏、英、瑞(スイス)、伊、米の指導者の地位に立つ結社員の大部は、之れと同様の考えを持つて居るからである。其他の國に於ても同様と思われる。巴里に於ける第一回萬國フリーメーソン會議(1889年7月16、7日)は、佛蘭西大革命百年紀念の爲めに催されたものであるが、此の席上に於て既に以上と同様の意見が表明された。即ちフリーメーソンの目的は、無神論的の世界共和國の建設である。當時演説者フランコリン[15]は、卒直に次の様に述べた。

十八世紀も、1789年をも合しなかつた各國にも、君主政治及び宗教の没落する日が來るであらう。此の日は最早遠くはない。吾人は此の日を期待して居るのである。此日に於て、フリーメーソン的四海同胞の實が挙げらるゝであらう。これ即ち吾人の将來に對する理想である。此日の一日も速に來たらんことを努めるのは吾人の責任である。

尚ほ疑念を懐く読者の爲めに、世界大戦勃發のすぐ前にあつた次の様な例を挙げやう。此れはフリーメーソンが現在に至るまで、何れの時代にも、この根本的観念を保持し、到る處に於てそれが表現されて居ることを知らしめんが爲である。

1912年5月25日~27日ルクセンブルグに於て、萬國フリーメーソン會議が開かれ其の席上に於て再び世界フリーメーソンの合一を主目的とすべき事を表明した。之は眞の世界平和を齎らすべきフリーメーソン的世界強國の建設の爲めには、欠くべからざる豫備條件である。(1912年ルクセンブルグ會議公報)

此會議に於ける第一の議題となつたものは、ノイエンブル[16]に萬國フリーメーソン事務所を建設し、各國の大組合より其代表者を此所に派遣するといふことであつた。其目的については匈牙利のフリーメーソンの有力者ヘヴェシー[17]が次の様に述べて居る。即ち

世界フリーメーソンの同盟に依つて、世界を動かすが如き重大問題に對して、全世界のフリーメーソンは合一せる偉大なる勢力を及ぼし、フリーメーソン的の意義、即ち共和政體に有利なるが如く時事問題を解決すべきである。

此の提案は主義として可決せられたが、フリーメーソン社員は愼重の態度を取つて之に對する決議は行はなかつた。同席上に於て、またフリーメーソン社員が到る處に於て大事業を行ひつゝあること、併し一般民衆は毫も之を承知して居らないといふ事も説明された。(此の事は全世界に於ける議會に、多數のフリーメーソン社員が居るといふ事を知れば、容易に了解される事である)

フリーメーソンの世界同盟は、遂に實現された。即ち第33階級カルティエ・ラ・タン、及同結社員にして葡萄牙の革命家たる第33階級リマ[18]は、同盟の成立を畫策し、1913年8月25日~31日、瑞西・ベルンにエスペラント會議を召集したる機會を利用し、フリーメーソン世界同盟を創設し、エスペラント語をその世界語と決定した。

右と同時にハーグでは、第六回萬國フリーメーソン會議が開かれた(1913年8月23日~25日)此會議への案内状には次の様な文句がある。

フリーメーソン國民の連繋を實現せしめんとする吾人の理想は、近年著しく多數の同情者を得るに至つた。……吾人は従來の象徴に過ぎざりしフリーメーソンの世界連鎖を現實にせんとする不撓(ふとう)の意思を、更に高調するものである。……この種の運動は已に多くの障害を排除するを得た……吾が多數の宣傳者は之が爲の傾向を民間に馴致しつゝある。』

此の種の實例は尚多數にあるが、以てフリーメーソンの差當つての目的が世界フリーメーソン同盟の成立にあることを了解することが出來るのである。又之と同時に此等の結局の目的が世界共和國の創立にあるといふことも明瞭となつたのであらう。之が爲には民衆を煽動して従來の權威たる支配者、彼等の所謂暴君に反抗せしむるの必要があつた。君主政治は消滅し、各國民は精神的に解放せられ、改造せられ、且支配權を國民の手に掌握すべきであつた。此の暁に於て各國民の頭に立つべきものは何人であるかといふ疑問を生ずるが、フリーメーソンに取ては此の問題は頗る解決の容易な事である。即ちフリーメーソンを除いて、この任に當るものはないのである。既に佛國に於て、又近くは1910年葡國(ポルトガル)に於て成功した事(革命)が、獨逸及墺太利に行はれない筈はない、此處に於て初めて神聖なるデモクラシーの同盟が成立し、滅亡せられたる世界の永久平和が確保せらるゝであらう。この機會に於て、平和主義者が仏蘭西大組合と密接なる關係を持つて居るといふことを注意する必要がある。

世界戦爭勃發の頃に、フリーメーソン會議と平和主義者の會議とが、殆ど同時に行はれた(例へば1913年海牙(ハーグ)の平和會議、同年のフリーメーソン會議)事は、最も注目に値する現象である。此の両會議に於て重立たる人等は共通である。例へば平和主義者兼結社員フリート[19]は獨逸カイザーの大反對者であつた。之に反して平和主義者ランマシュ博士[20]及びフェルスター博士[21]は結社員ではなかつたが、自ら知らずにフリーメーソンの影響を受けて居つた。ランマシュ博士はウィルソン大統領を盲信し、彼が皇帝顧問たりし關係上、獨逸人に取りては多大の損害を與へた。1911年より1914年に亘る間、戦爭の危機刻々迫り來れる時に方り、平和主義者は必死となりて平和維持に努めたが、一方に於てはフリーメーソン社員たるデルカッセ[22]ポアンカレ[23]、ブリアン[24]、ミルラン[25]等は、志を同じくせる英露の政治家と共に、頻りに世界戦爭を惹き起すべく努力して居たことは、一奇と云ふべきである。之等の糸を操つた者は誰であるか。平和主義者と雖も誰の爲に仕事をして居るかを知らなかつた。平和主義は我々獨逸人に向てのみ説かれた。獨逸だけがミリタリズムを廃し、皇帝を除いて、共和國を設立せよと云ふわけで、露國の帝國主義も、英國の世界統治も問題とされなかつたのである。

 

[1] ばらばらで纏まりのないさま。

[2] Edward VII:Albert Edward(1841~1910)、アルバートエドワードはまたサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代イギリス国王・インド皇帝(在位:1901 - 1910)

[3] コノート公。ヴィクトリア女王の三男。英国王エドワード7世の弟。

[4] チェコスロヴァキア。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の一部だった。現在のチェコとスロヴァキア。

[5] エドゥアール・カルティエ=ラ=タン(1855~1925)。スイスの政治家で過激民主主義者。

[6] エドワード・マンデル・ハウスはアメリカの外交官、政治家、ウッドロー・ウィルソン大統領の顧問。

[7] ジョン・パーシング(John Pershing)は第一次大戦の欧州派遣米国軍総司令官。

[8] サミュエル・ゴンパーズ(Samuel Gompers)は労働運動指導者。米國労働総同盟の設立に尽力した。

[9] Giuseppe Mazzini(1805~1872)は、イタリア統一運動時代の政治家、革命家。カヴール、ガリバルディと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人で急進主義者。

[10] Giuseppe Garibaldi(1807~1882)は、イタリア王国成立に貢献した軍事家。

[11] Ernesto Nathan(1848~1921)イタリアのペーザロ出身のユダヤ人の母とドイツ起源の帰化ユダヤ人の父の間にロンドンで生まれ、若くしてイタリアの綿工場経営する傍らマッツィーニに傾倒したイタリアの政治家。

[12] Sidney Costantino, Baron Sonnino(1847~1922)はユダヤ人の父とウェールズ出身の母の間に生まれたイタリアの政治家で新聞社を創業し、またイタリア統一銀行を作った第19代イタリア首相。

[13] Antonio Salandra(1853~1931)はイタリアの保守政治家で1914~1916年の第33代首相。

[14] Gabriele D'Annunzio, Principe di Montenevoso(1863~1938)初代モンテネヴォーソ大公ガブリエーレ・ダンヌンツィオは、イタリアの詩人、作家、劇作家。ファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで有名。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)

[15] 原典:Frankolin 詳細不明。

[16] スイスの町ヌーシャテル(Neuchâtel)のドイツ名。

[17] George de Hevesy(1885~1966)ゲオルク・ド・ヘヴェシーはハンガリー出身のユダヤ人化学者。

[18] セバスティアン・デ・マガリャンイス・リマ (Sebastião de Magalhães Lima)。ポルトガルの弁護士・ジャーナリスト・政治家。共和主義者で社会主義的傾向が強かった。

[19] Friedアルフレート・ヘルマン・フリートはオーストリアのジャーナリスト。1911年にノーベル平和賞を受賞

[20] Heinrich Lammaschハインリッヒ・ランマシュは敗戦当時のオーストリア=ハンガリー帝國の首相。

[21] Friedrich Wilhelm Foerster(1869–1966)はナチスに反対したことで知られる独の教育学者、平和主義者。

[22] Théophile Delcassé(1852~1923)テオフィル・デルカッセはフランスの政治家。第一次大戦後の外相。

[23] Raymond Poincaré(1860~1934)レイモン・ポアンカレはフランス大統領(1913~20)

[24] Aristide Briand(1862~1932)アリスティード・ブリアンは、フランスの政治家。ケロッグ・ブリアン協定(パリ不戦条約)で知られる。

[25] Alexandre Millerand(1859~1943)アレクサンドル・ミルランはフランスの政治家。

f:id:caritaspes:20191202004441p:plain