ホロコーストの解説 E.マリンズ

ホロコーストの解説

                  ユースタス・マリンズ(Eustace Mullins)

 キリスト教徒保護リーグ報告書

第40号

1981年11月-12月

 

ホロコースト――完全に燃えるという意味から1)火災で完全に焼き尽くされた犠牲者 2)火で完全に焼き尽くすこと。オクスフォード英語辞典

 

ドイツにおけるホロコーストの被害者であった、と言うユダヤ人の主張が本当であるならば、彼等は火ですっかり焼き尽くされたということである。この猶太人の主張は受け入れられない、何故なら生き残りが余りにも多いからである。猶太人は自ら主張するように焼き尽くされたことはないばかりでなく、この(出来事ではなく)非出来事から40年後、ホロコーストの生き残りと主張する猶太人の数はホロコーストがあった時代に生きていたユダヤ人の数よりも多いのである。イリノイ州の小さな郊外、スコーキー(Skokie)には何千人と言う健康なユダヤ人がホロコーストの「生き残り」を称して住んで居る。

30年以上に亙り、アメリカの選挙民は、合衆国で公務に就くものは誰でもイスラエル国家への忠誠を誓わねばならないというお決まりの慣習を、知らされないまま受け容れているのである。これら選挙民の中にはこれらの公職に就くものが更にホロコースト神話に儀式的服従しなければならないこと、そして六百万人のユダヤ人が第二次大戦中にドイツによって殺されたという教義に対する永遠の信仰を誓わなければならないことを知るものも殆どいない。国際シオニズムの統治する世界紙、ワシントンポストの1981年10月29日の社説に掲載されたように「イスラエルの国家を支持することを拒否するものはすべて600万人のユダヤ人殺害に同調することを認めるものである。」

ウェブスターの辞書は、反逆を次の様に定義する。つまり「国家を裏切る、或いは転覆者の属する国家に対して国家の政府を屈服せしめる犯罪。」合衆国の公職に就き、合衆国の憲法を守る宣誓をしたもので、次いで外国の政府に忠誠を誓い、その外国政府に忠誠の行為をしたものは、重い反逆の有罪者であり、死刑に処せられるものである。誓う相手がイスラエル国家であれば状況は尚更甚だしい、何故なら1948年建国以来、イスラエル国家は合衆国市民に対する戦争状態を維持して来たからである。戦争の目的が相手国民を服従させ、その財産を差し押さえ、国民を奴隷化することならば、合衆国に対するイスラエルの活動は絶えまない戦争行為の従事としか言い表すことが出来ない。従って、アメリカ中のシオニスト協力者は、合衆国の敵に対してその戦時に、支援と慰労を提供しているのである。これらの叛逆行為は死刑を以てしか懲罰できないものである。

シオニスト協力者がユダヤ人を支援しているたった一つの言い訳は、彼等がホロコーストの被害者であったことである。不運にも、この言い訳は、ガス室がなかった事とドイツ人にユダヤ人「絶滅」計画がなかったことが明かされて今や破壊されてしまって居る。1952年、著者は「血と黄金」の中で次のように記した:「ヒトラーが600万人のユダヤ人を殺したという主張は、世界年鑑の彼等自身の数によって間違っていることが示されている。ドイツの降伏後間髪を入れず、飛行機に満載のアメリカの編集記者や特派員が強制収容所に飛び、そこで巨大な骨の山を見せられた。これらはロシアの戦争捕虜の残骸であったが、これが映像に撮られてアメリカ中で「ユダヤ人の骨」として見せられた。世論に影響を与える最も不快な試みの一つとしてユダヤ人所有の映画館ではこれらの悍ましい写真が繰り返し繰り返し上映された。」

もう一度繰り返すが、我々はこの馬鹿げた骨の写真のように氾濫するユダヤ人の宣伝工作で充たされている。中には第一次大戦中に撮られたと確認されたものもあり、日常茶飯事になって居る。血税で支援されている公共放送機関は、最近一連の「ホロコースト」映画を、毎日その前の日よりさらに信じられない様な映画を放送した。その一つにはユダヤ人の老女がアウシュヴィッツから帰還し、彼女は40歳で投獄されたと主張する。「それは死の収容所だった」と彼女は語気を強める。ドイツ人は「毎日全員を殺した」けれども彼女はそこで4年間居たと言う。そこで彼女はどの様にして生き残ったのか尋ねられた。「私は収容所に隠れていた。でも3年間何も食べるものが無かった。」と彼女は説明した。

この驚くべき発言の後、彼女は平和に並んでいる兵舎(収容小屋)を指さし、金切り声で「でもちょっと見て!それが本当に起こったのをあなた方自身、見ることが出来るわ!」と言った。困惑した視聴者は田舎の快い風景だけを見ながら、明らかに600万人のユダヤ人がガス室に行進させられる姿を眼前に思い浮かべることを期待されていた。

殆ど全てのユダヤ人「生き残り」は自分たちが「死の収容所」に3~4年住んで居た一方で、「すべての人が殺された」と主張する。これらの収容所が本当にそうであったならその「労働収容所」では誰も生き残れなかったというのが明らかに思われる。それぞれの収容所の入り口には「Arbeit Machs du Frei[1]」「働けば自由になれる」と言う看板が掛けられていた。

1981年9月26日のNation 誌に、ドイツの武装(国防)大臣アルバート・シュペアはユダヤ人が第二次大戦中にドイツ人によって殺されたことを認めたので、「本当に600万人殺されたのか?」と言う冊子の配布者は罰せられるべきだと言う南アフリカユダヤ人団体の指導者からの要求に応えて「それは出来ない」と言った。ユダヤ人が殺されたことを「白状する」嘘をつく様に迫るユダヤ人の圧力に屈することをシュペアは拒否したが、彼はこの問題に関するある種の「集団的な罪」を認めつつ、しかしホロコーストの活動に関して直接的認識があったことは否定した。彼の「罪」の受け容れはユダヤ人煽動家、サイモン・ウィゼンタールの賞賛をもたらし、そこでウィゼンタールはシュペアの新しい本「潜入」を是認した。しかしながら、この本は労働収容所としての強制収容所を否定した。シュペアはその9頁に「工場の検査の時、私は強制収容所の捕虜たちが工場でドイツ人労働者に混じって働いて居るのを見た。」と記述している。

ここで注意したいのは、シュペアはこれらの労働者をユダヤ人として認識すらしていないことである。41頁で彼は「(1943年3月のマウトハウゼンでの)私の検査の時、私はやはり天然の石でできた兵舎の土台に高価な御影石の擁壁が建てられているのに驚いた。すべてが清潔で規則正しかった。言うならば、平均的な対空兵舎の水準であった。収容所は、その石組の正門と中世城郭の庭、その疑似歴史的な壁と塔で、殆ど浪漫的な印象であった。」

戦場のドイツの兵隊は決してその強制収容所労働者のような快適な空間を楽しむことはなかった。タイム誌の上級編集委員オットー・フリードリヒは1981年9月の月刊アトランティック(Atlantic Monthly)に収容所の生き残りの書いたものをそのまま土台にした記述として、そして決して彼らの存在を薔薇の絵の様に描いているとは非難できない記述として記事を書いている。「アウシュヴィッツ王国」で彼は、次の様に書いている。「アウシュヴィッツは通常考えられないような複雑な社会であった。そこには専用サッカースタジアム、専用図書館、専用写真館、所内交響楽団があった…死の収容所にあるべき理由もない病院もあり、しかもアウシュヴィッツの病院は、二十人の医師と三百人以上の看護婦が居る、かなりの規模に拡張されたのであった。」

フリードリヒは自分自身の書いたものが示唆することに全く注意を向けなかった。即ち、大きな近代的病院を伴った「死の収容所」など、死の収容所であるはずはなく、それは健康収容所であった、と。すべての収容所にはそれぞれ独自の交響楽団があり、彼が第二次大戦を通じて勤務した合衆国空軍の二十二の基地のどこにもなかったような快適環境があった。フリードリヒは又アウシュヴィッツにはそこの労働者専用の売春宿もあったと書いている。そして、写真館。そこではガス室に送り込まれるために集められた何百万ものユダヤ人の写真を現像できたと? そのような写真は展示されたこともない。記事の後半でフリードリヒは、アウシュヴィッツは実際には大戦を通じて、セメント工場、石炭鉱山、製鐵工場を擁する、三十四の外部収容所を網目に繋ぐ巨大な工業複合体に成長した、と書いている。I.G. Farben[2]はそこに巨大な合成ゴム工場を操業していた。

アドルフ・ヒトラーは激烈なる宗教的人間であり、我が闘争に次の様に書いている。「私は今日、自分が全能の創造主の意思に従って行動していると信じて居るのであるから、自分自身をユダヤ人から守ることにより、主の御業の爲に戦って居る… ユダヤ人の世界ボリシェヴィキ化に対する戦いには、ソヴィエトロシアに対する明瞭な態度が必要である。魔王を以てしなければ悪魔は駆逐出来ないのだ。」

戦争中、二方面で戦う一方で、ユダヤ人の非常に巧妙な作戦によってヒトラーはこれらの熱烈な感情から逸脱する油断をしてしまった。連合国がドイツの市民(非戦闘員)に対する爆撃テロを計画して居ることを知ってユダヤ人はドイツの町から避難することが必要であった。多くのナチス官僚との緊密な連絡を通して、ユダヤ人社会の指導者たちはユダヤ人が「東方への移住」で退去することを計画した。シュペアですらその計画を承認したが、「東方に移住を決心した健康で丈夫なユダヤ人は、その旅程を中断して軍需産業労働をしなければならない」と明示した。その結果が町からうんと離れた田舎に労働収容所が設立され、ユダヤ人はドイツ人子女が焔と焼夷弾の中に呑み込まれた恐ろしい爆撃の悲劇からユダヤ人達を逃れさせたのである。第二次大戦中、ドイツでは、よく計画された虐殺作戦(無差別爆撃)の中でホロコーストがあった一方で、避難したユダヤ人は大量に生き残ったのである。

戦後、ユダヤ人は持ち前の眞實を曲解悪用する天才を以て事実を完全に逆転してしまった。ドイツの非戦闘員が町で呑み込まれたホロコーストではなく、今や被害者は、「死の収容所」で「抹殺」されたユダヤ人なのである。ユダヤ人の待避、つまり「東方への移住」がユダヤ人の指導者の要望であったことから多くのユダヤ人は今や自分たち自身の宣伝工作を信じて居り、ユダヤ人の指導者を欧州ユダヤの「抹殺」を計画したとして告発して居る。従って、ユダヤ人の指導的知性であるハンナ・アーレントは「エルサレムアイヒマン」の中で苦々しく次の様に書いている。「ユダヤ人が住んで居た所にはどこでも認知された指導者が居りこの指導がほとんど例外なく、どの道ナチスと協力関係にあったのである。」勿論、彼等は余りにも成功裏に協力したので、百万人のドイツ人子女がドイツの町で大量に空襲で死んだ一方で、ユダヤ人の命は一つとして奪われなかったのである。連合軍によるベルリンの空襲爆撃は余りにも多くのドイツ人家族を殺したのでアイゼンハワーは今日そこで「ベルリンの気狂い屠殺者」という皮肉を込めたあだ名で記憶されているのである。ケルン、ハンブルクドレスデンその他のドイツの町の爆撃で生じた火事嵐(つむじ風)は第二次大戦最大の残虐行為として語り継がれている。

ユダヤ人のホロコーストが発明されたのは、第二次大戦の眞の残虐行為を隠すためであった。そのもっとも早い時期の応用はソ連陸軍がカチンの森で一万四千人のポーランド人将校を組織的に殺害したことの発見を隠すために意図された。これらのポーランド人将校はポーランドの人々の中で最も高い教育を受けた、手腕のある部分であった。スターリンポーランド共産主義支配を容易ならしめる為に彼らの抹殺を指令した。後に列をなしたユダヤ人が田舎の地域に行進させられて処刑された、と言う物語の発想となったのはカチンの虐殺なのである。実際、ホロコースト神話の発明の基本的目的は、ソヴィエトロシアがニュルンベルク裁判においてカチンの森虐殺について言及されることの困惑を回避する為であった。ルーズベルトの親共産主義政権はロシアがカチンの憂鬱を隠すことをほう助する為に勇敢に戦った。ジェームス・ポール・ウォーバーグによって戦争上納事務局に配属されたエルマー・デイヴィスはその放送でこの残虐行為について言及するのを拒否した。一方で、W. アヴェレル・ハリマンはニュルンベルク裁判が結審する迄その話が印刷されない様に協力した。1943年5月21日の「ユダヤ人のコメント」は、ドイツのこの虐殺の発見を次の様に嘲笑った。「ソヴィエトにより殺されたと称する一万人のポーランド将校の物語の世間をあっと言わせる成功の後、ドイツの宣伝相は更なる連合国側分断の可能性を探っている。」

ドイツの多くの都市におけるドイツ民間人の灰化のみならず、広島・長崎の原子爆弾投下の中での何十万人の日本の民間人の灰化、キールハウル作戦、これはアイゼンハワーの命令によってソヴィエトの処刑者に引き渡された百万人の反共ロシア人の処刑、それに他の多くの恐怖など、ユダヤの指導する連合国が犯した多くの残虐行為のためにこれ等の恐怖を打ち消すドイツの残虐行為を発明することが必要であったのである。ユダヤ人の「殲滅」話は命令されたように思われる。どんな数字にも何等根拠がなかったので当初は、千二百万人のユダヤ人が殺されたと予報された。ユダヤ人の中の賢明な人間が、大きすぎる数は信用されない可能性が大きく、従ってホロコーストの主張そのものを無効にするので、百万を超える数字は進めるべきでないと示唆した。ニューヨークのユダヤ人作家の中に六百万という数字を発表するものが居て、時を経ずこれが余りにも広がる潮流になったため、ユダヤ人はそれで固定しなければならなくなり、それ以来これが標準的数字として残ったのである。自分からホロコースト歴史家を買って出たルーシー・S・ダヴィドヴィチは、「ホロコースト読本」に恥じらいつつ5,933,900と言う数字を示している。勿論誰もこれを実情の六百万の数字に丸めることに反対しない。下院議員ジョージ・G・サドウスキーはマーシャル計画に反対して次の様に述べた。「一千万人のユダヤ人が殺され、拷問され、奴隷労働収容所に送られ…そしてこれは何をも意味しない(無視される)のである」(下院議事録:1948年2月23日)

連合国の空襲爆撃の恐怖からユダヤ人を守る一方でドイツ人は戦争の緊急事態のためユダヤ人を概ね彼ら自身の趣向に放っておくことを余儀なくされた。この結果、ユダヤ人は戦争と普遍的荒廃のさ中に彼らの闇市利得と拾い物の才能で繁栄した。ヴェルナー・ゾンバルトが書いたように、「戦争はユダヤ人の収穫である。」ルーシー・ダヴィドヴィチが「ユダヤ人に対する戦争」の中でユダヤ人利得者のことを「この新しい階級――密輸者、地下世界の新興金持――はゲットーで急成長した十数件のカフェ、レストラン、ナイトクラブの顧客になった。彼等は飲食やダンスで楽しい時を過ごしたのだった」と書いている。

収容所内ではユダヤ人囚人は、囚人の管理責任を完全に引き受けていた。彼等は、収容所をユダヤ人の生き残りと勝利の最も強力な方法にその生徒たちを晒し、訓練する学校に変換した。一片の食べ物、着衣、あらゆる性的悦楽、それに人生のあらゆる面が最も悪徳な物々交換とより強い立場への操りの手段となった。フリードリヒはそのうちの一つを「アウシュヴィッツ王国」に引用している。強制収容所の存在...は我々に世界全体が強制収容所と同様であることを教えてくれた。世界は正義や道徳に統治されているのではない。犯罪が罰せられることもなく美徳が報われることもないのである。世界は力で支配されている。我々は、何か新しい、化け物のような文明の土台を築いているのである。

実際、ユダヤ人は収容所を 彼ら自身のため、彼ら自身が中世のゲットーから現れて以来失われていた厳しい教育である、最も厳しいタルムードの訓練学校に作り直す機会にして使った。今や彼らが収容所に再現した彼らの遺伝子の原動力の源の中で激怒した彼らは、パンドラの箱から出てきた最も荒廃した病気の様な戦争で引き裂かれた地球上の国家に身をゆだねた時、避けられない戦争の終結に向けた準備をしたのであった。彼らが無力なキリスト教徒の上に下った時、彼らは即座に「新しい怪物のような文明」を創造したのであった。ユダヤ人の一人が「収容所を去った時、私は即座に自分が誰とでも渡り合うことが出来ると分かったのだ」と自慢するように。

この力の源の学校の卒業生は急激に多くの国々で裕福にそして影響力のある住民となった。全員が全員、彼らは狂信的なシオニストであった。彼らは自分たちが奴隷化し操ることにした「ゴイム」つまり異教徒の家畜、の軽蔑に於て団結した。1948年にイスラエル国家の設立で彼らは即刻合衆国の政府をテル・アヴィヴの属国に転換し、世界一偉大な国の富を他国での自分たちの目的を進めるために使いだした。あらゆる機会に、彼らはホロコーストの神話を利用して自分たちの目的を果たそうとした。ゴイムはユダヤ人の「絶滅」の物語や映画の氾濫に圧倒された。アン・ロイフはその著書「記憶のない世代」の62頁で「毒ガスが高価で不足すると彼らは幼児や子供を直接燃え盛る焼却炉に投げ入れた。」と書いている。彼女は我々にドイツ人がその「焼却炉」でどのような燃料を使ったかを語り損ねている。ユダヤ人は続けざまにドイツ人が何百万人ものユダヤ人を投棄処理した「近代技術」のことを書き、変わることなく、この「技術」のお決まりの挿絵は、二つ一組の、19世紀の遺物と思われるような、一日にせいぜい2~3体しか焼却できないような小さな焼却炉であった。人間の火葬には華氏2,200度の温度が最初の90分間、1,800度の温度が次の60~150分間必要であり、それでも骨までは燃えない。燃料の供給が不足していたため、ドイツはこれらの焼却殺人の被害者のどんな計画に着手する為にも必要な燃料を供給できなかったであろう。

そこでユダヤ人は被害者に関する化学薬品の実験の不気味な話を持ち出し始めた。実際、ワシントンポスト紙は最近、無力な犠牲者が強烈な苦痛と吐き気、痙攣、抜け毛、その他多数の責め苦のような症状を起こす化学薬品を与えられる一連の恐怖の物語を掲載した。しかしながら、この犠牲者はナチス強制収容所に於けるユダヤ人ではなかった。犠牲者はワシントンにある国立健康研究所の患者で、そこでは政府の医者が多数の化学薬品を癌の治療のために患者に試していたのである。犠牲者の殆どはその癌を幾らも治癒することなく、苦しみの中で死んでいった。アメリカの刑務所では多様な物質の科学的試験を囚人に行うことが長年にわたって続けられていた。我々の政府は何百万ドルもの金額を「ナチス戦争犯罪者」の追跡に充当している一方で、これらの刑務所や病院に於ける化学物質の実験は絶えることなく続けられていたのである。

ナチス狩り」のサイモン・ウィゼンタールは、第二次大戦を通じてゲシュタポ代理人であったことが明るみに出たにもかかわらず、ワシントンではカルトの名士となった。最近では彼一人だけがホロコースト神話を生かし続けているという彼の主張に対する仲間のユダヤ人の多くから増大する批判に遭っている。もうすぐ彼はすべての神話は自分が創作したと主張しかねない。その間、イスラエル国家の支援のために破産の縁に追い詰められたアメリカの人々は、その救済の見通しすら見つけられずにいるのである。

今や合衆国はドイツの市民集団により計画された、四千億ドルに上る額の訴訟の可能性に直面する。この主張は西ドイツがイスラエル国家に「六百万人のユダヤ人の抹殺」の「補償」として支払いを強要された一千億マルクを超える金額が土台となって居る。この主張が虚偽であるばかりでなく、それは合衆国により引き続いた西ドイツの軍事占領のみのためにドイツの人民に恐喝強要されたのであった。ドイツは、以前の収容所の守衛のすべての起訴事案の中で彼らはユダヤ人囚人の「殴打と蹴り」でしか告発されていないと指摘する。彼らの誰も実際のガスに曝した事では告発されていない。西ドイツの首都ボンの報道情報局のクルト・ベッカーは1981年7月8日のニューズウィーク誌で次の様に記述している。1980年の12月31日の時点で、西ドイツはイスラエル国家に630億ドイツマルク(300億ドル)を支払い、更に未だ95億ドルを支払うことを約束させられている。加えて、ドイツの企業はイスラエルに更に多額の何十億ドルというユダヤ人「労働者」への賠償を支払い、また数十億ドル価値の電気系統、電話系統、それに他の技術的贈与を行って居る。

これと対照的に、第一次大戦後、賠償委員会はドイツに300億ドルの支払い要求を提出し、それは戦争でドイツと戦った全ての國で分配されることになって居た。この要求に対して、たった数百万ドルしか支払われていない。然しイスラエル国家は西ドイツから第一次大戦でドイツと戦った全ての国家の要求額を超える額を既に取り立てている。東ドイツ民主共和国はドイツのイスラエル国家への賠償の存在を否定して来ており、全く支払はしていおらず、イスラエル国家に対して何十億ドルもの賠償金を西ドイツに支払わせる唯一の責任ある国家として合衆国が残されることとなった。ドイツ政府はアメリカの占領軍が居なければこの金額を支払ったはずはなく、にもかかわらずアメリカの納税者はロシアからの侵略に対抗する為に西ドイツに軍事力を維持して居ると聞かされてきた。この我々の軍事集団の代理人の説明の茶番さ加減は、アメリカ軍が(西ドイツへの)ロシアの進行を僅か2~4時間!遅くすることしかできないと言うことを認めた時に暴露されたのであった。

アメリカの軍隊が西ドイツに対してイスラエルに支払う様に要求した支払額は西ドイツの経済問題に重くのしかかり、ドイツ国内での反米感情の増大に関わっていた。西ドイツ駐留の多くの黒人兵士のため、多くのドイツ人が公然と合衆国の「雑種文化」を冷笑し、我々(アメリカ)を「ムラトの国家」と呼んでいる。

アメリカの占領軍の力により維持された独裁的な性格故に、ドイツ人はその中でホロコースト神話に対して疑問を抱くことを許されず、ドイツの愛国者はこのイスラエルの意を酌んだ陰謀を暴露する唯一の方法は、イスラエルに支払った「ホロコースト」の賠償金を全て利息も含めて返済することを求めて合衆国を訴えることであると信じて居る。この要求は間もなく國際法廷の場にもたらされるであろう。一方、アメリカ人は、不安定なイスラエルの力によって為された要求から発した彼ら(西ドイツ)の崩壊する経済を救うためにどの様な行動をとるべきか決めなければならないのである。唯一、ホロコーストのペテンの完全なる暴露だけが、増大を続けるイスラエル国家への支払の約束から我々の政府官僚職員を解放するであろう。

 

[1] Arbeit Macht Frei の間違いか?

[2] IG・ファルベンインドゥストリーは、戦間期ドイツの化学産業トラストである。略称はIGファルベン 。 ブナを大量生産したヒュルス社を設立し、デュポンやインペリアル・ケミカル・インダストリーズと協定する関係にあった。IGファルベンは第二次世界大戦後、独占解消のため解体された。ヒュルスは1998年デグサと合併した。