ドイツ悪玉論の神話100

(注意:内容がえぐいので苦手な人・感受性の高い人は読む時間・場所にお気をつけください)

 

次の証言はロシアが来た時に東プロシャで起こった事について、独逸軍が非戦闘員の人々を保護しようとロシア軍を押し戻したあとの独逸の兵隊によるものだ。

「私は、装甲歩兵の兵隊で、その頃最も近代的な独逸の戦車、パンサーで訓練されていた。戦車の乗員の生き残りがコットブスの予備軍に再構成され行動を起こす準備万端だった。

1945年の1月中旬、我々は、フランクフルトのオーデル川沿いの学校の建物に移動した。ある朝我々は、歩兵の武器、銃、バズーカ砲、サブマシンガンを支給された。

次の日、我々は、ノイシュテティーンに進行するよう命令を受けた。我々は最初のおよそ百キロを運搬車で、その後、一日150キロの強行進軍で移動した。

我々は、ノイシュテティーンの西の森の中に用意されている戦車を引き継ぐ予定だった。行軍が二日と二晩続いた後、10人程の隊員がちょうど夜明け前に森に着いた。

戦車二両が即刻動かせるようになり、森に来る道を守備し、一方で他の同志は疲れ果てて少し眠った。お昼までに全ての戦車、約20両が準備できた。

我々の任務は、前線を構築し、ロシア軍から村や町を奪還する事にあった。私の小隊の戦車三両は前庭のついた列車の駅がある郊外を攻撃した。我々が対戦車砲をいくつか破壊したところでロシア軍は投降した。

家々から次々とロシア兵が現れた。彼らは、前庭に集められ、約200人が密着して座っていた。その時、予期しないことが起こった。

何人かの独逸女性がロシアの兵隊めがけて走り寄り、彼らを食器のナイフとフォークで刺したのだ。捕虜を保護するのは我々の責任であった。我々はこれを許せなかった。しかし、私がサブマシンガンを空に向けて撃つまで、女性たちは、引き下がらなかった。そして、我々にこんな野獣を保護しようとするのか、と罵った。彼女らは、我々に家に入って(ロシア兵が)何をしたか見に来るように急き立てた。

我々は、そうした、2~3人ずつ、そして、凄まじい衝撃を受けた。我々はこれまでにそのような、全く信じられない、残忍なものは見た事が無かった!裸で死んだ女性たちが多くの部屋で横たわっていた。腹部に鍵十字の傷が切り込まれた、腸が突き出したもの、胸が切り落とされ、顔は殴打されてドロドロになり、腫れて膨れていた。

手足を家具に縛り付けられ、虐殺されているものもあった。帚の柄が一人の陰部から突き出ているもの、枝帚が突き出ているもの、など。當時24歳の私には、それは、衝撃的な光景で、ちょっと理解しがたいものだった!

そこで、女性が話し始めた。母親は、その十代と12歳の娘がロシア兵20人に強姦されるところを目撃しなければならなかった事、そして、娘たちは、代わって、彼女らの母親や、祖母までも、強姦されるのを見せられた。

抵抗しようとした女性は、残虐に拷問され、殺された。慈悲の欠片もない。多くの女性は地元の人ではなかった。彼らはロシア軍から逃げて他の町から来た人々だった。

彼女らは、また、RAD(國家労働奉仕団) からの少女たちに起こったことも話してくれた。RAD の小屋がロシア軍に接収されたのだった。少女たちに対する残虐行為が始まった時、彼女らの何人かが小屋の床下に這って隠れることが出来たそうだ。夜になってから、彼女らは逃げ出して知っていることを話してくれた。逃げた少女は三人居た...

我々が解放した女性は筆舌に尽くしがたい状態であった。彼女らは、疲れ果てていて、顔は、混乱した、空っぽの表情をしていた。話すことが出来ない人もいたし、走って行っては走って戻り、同じ言葉を何度も何度もうめいていた。

この獣の様な残虐行為の結果を見て我々は恐ろしく動揺し、戦う決意をした。我々は勝利はおぼつかない事は知っていた。しかし、最後の銃弾が尽きるまで戦う事が我々の神聖な義務であった...」

この獣のような残忍性は、独逸に進撃するロシア軍を鞭打って、拷問、殺人、強姦、破壊の狂乱に邁進させた、スターリンの猶太人宣伝工作員イリヤ・エレンブルグの言葉の直接の結果であろう。独逸人が住んでいたところではどこでも同様の残虐行為が、日常茶飯事になった。

チェコスロヴァキアでも独逸人が引き上げる中、残虐行為はぞっとする恐ろしいものであった。「多くの独逸人が(プラハの)ヴァーツラフ広場で大きな宣伝ポスターから足で吊るされ、そして、偉大な人道主義者(前のチェコ大統領、エドヴァルド・ベネシュ)が近寄ってきた時、生きている松明を作るために彼ら独逸人のガソリンで濡らされた體に火がつけられた。」ルイ・マルチャルコ(Louis Marschalko)(ハンガリーの作家)

「女子供は、橋から川に投げ込まれた。独逸人は街路で銃殺された。二千人から三千人の人々が殺されたと推定される。」F.A. ヴォイト、マンチェスターガーディアン紙のベルリン特派員

「彼らが殺さなかった残りの独逸人は全ての財産を放棄し、彼らの祖先が千年に亙って住んだ土地を去ることを強要された。」「公式のチェコの村の名前の登記簿で、500近い(独逸人の)村々は、もう登記には現れない。何故なら彼らは文字通り、その景色から消え去ったからである。」ミュンヘン報告、1965年

「彼(アイゼンハワー将軍)の指揮下のフランス植民地(黒人)兵団が独逸の町、シュトゥットガルトに入った時、「彼らは独逸女性を地下鉄に集め、その二千人くらいを強姦した。」「PM 記者(憲兵隊の記者?)でさえ、『しぶしぶその話を大筋で確認した。』」Peace Action 1945年7月

1945年5月5日に独逸が降伏した後で、大虐殺が本格的に始まった。一千五百万人の独逸人が東プロシャ、ポーランドの一部、チェコスロヴァキアユーゴスラヴィアハンガリー、そしてルーマニアを含む東欧の彼らの祖先の家を去ることを強要され、全ての財産を置いて独逸に向かった。彼らのうち、三百万人が独逸への移動中に残酷な暴力、大量殺人、大規模強姦、飢餓、曝露(野ざらし)により亡くなった。

「神よ!ああ、私は独逸人を嫌う...」アイゼンハワー将軍は、1944年9月に妻に宛てた手紙の中で書いている。そして彼は、繰り返しそのような感情を他の人に露わにした。そして、独逸の軍人だけでなく、すべての独逸人についてであった。550万人の独逸の兵士がアイゼンハワー指揮下の米軍により捕虜になった。終戦の一か月前、アイゼンハワーは、独逸の捕虜の扱いに関する特別命令を発布した。次の特定の声明が彼の命令の中に含まれていた。
「捕虜の囲いの中は、避難所や他の慰労する施設を提供しないこととする。」これらの独逸の戦時捕虜はライン川に沿った何もない原っぱに有刺鉄線で囲まれた屋根もなく避難所もないところに集められた。彼はまた、集められてから6日間独逸人捕虜に水や食糧を与えないこと、そしてその後も、米軍は手元に膨大な食糧の備蓄があったにも拘らず、ごく少量の食事しか与えないことを命令した。捕虜は雨や雪の中、地べたに寝て、しかも医療も提供されなかった。米軍に捕囚されている間に、この様な飢餓、壊疽、凍傷、曝露により、170万人の独逸人捕虜が亡くなったと推定される。

(次回は猶太人の違法な復讐旅団のお話です)

 

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