文明のアイルランド起源 HPより14

カナーン人とは誰であったのか?

 

「今世紀の間、カナーン人の神々の研究により、ヤハウェへの理解が強力に形づくられて来た。」
―マーク・S・スミス*著「古代の神の歴史」
*Mark Stratton John Matthew Smith (1956~)はアメリカの古代史・聖書学者

 

カナーン人と古代イスラエル人が基本的に異なる文化の人々であると言う、長きに亙る支配的な模範形式にも拘らず、今の考古学的資料はこの見方に疑いを投げかける。その地域の物質的な文化は鉄器I時代(1200~1000BC)に於ける古代イスラエル人とカナーン人との間に多数の共通点を示す。記録は古代イスラエル文化は大部分がカナーン人の文化と重なり、そしてそこから導かれたことを示唆する…端的に言うと、古代イスラエル文化はその性質に於いて大まかにカナーン人の文化であった。今手に入る情報を基にすると、鉄器時代カナーン人と古代イスラエル人の間に根本的な文化的分離があったという主張はできない。」
―同上

 

付録8(http://www.irishoriginsofcivilization.com/etymology-key-to-the-past.html)で著者は言葉と名前の問題に関して、それらが神話拡散者と詐欺師の手でどれだけ酷い痛手を蒙ったかを取り上げた。ここで著者はカナーンカナーン人と言う言葉に関する欺瞞を強調する。公式には、カナーンと言う名前は地理的な場所と一人の人物、ノアの孫を指す。このいわゆるカナーンはその息子を通して多くの部族の父とされている。即ち、エブス人Jebusites、ヒビ人Hivites、アルキ人Arkites、ギルガシ人Girgashites、ツェマリ人Zemarites、アモリ人Amorites、シニ人Sinites、アルワド人Arvadites、ハマト人Hamathitesである。あまり知られていない伝説の一つはカナーンを、スーダン人やヌビア人のようなアフリカの黒い肌の民族の父としている。

場所に関して言えば、カナーンは今日のイスラエルパレスチナレバノンに当たる地域と、ヨルダン、シリア、エジプトの北西の一部も同様に定義する。換言すれば、紀元前六世紀以降、カナーンの地はユダヤと改名され、その後、ローマ人の到着の後には再びパレスチナとその名を変えられた。古代の文書ではこの言葉は通常「Kana」或いは「Kanan」のように「K」で綴られた。KohenやCainのように、それは「蛇の僧侶」を意味した。我々は、これを古代アリアンの長老を表す名付け方として認識する。カナーンの地は長らく古代フェニキア人やアッカド人と関連して来たが、それは、著者の予測では西半球に起源を有した根拠となる。

所謂古代イスラエル人の時代以前はカナーンアッカド帝國(紀元前2300年)の一部であった。そこはまた、アマル人Amarru、マルツ人Martu、アモリ人の地でもあった。後には、フルリ人Hurriansの地ともなった。後にその伝説が所謂旧約聖書のレヴィ族Levitesの間で見つかった謎のルヴィアンLuvian又はルウィアンLuwianによってもよく出歩く場所となった可能性がある。その場所は、ティリアン(テュロス人)やペリシテ人もよく訪れ、出歩く場所であった。紀元前二千年までにカナーンはエジプトの手に落ちたが、ヒクソスの王の治世(第17王朝)の間はそこは分割され、半自治政府の統治する地域であった。

ヘブライアブラハム一族とその妻サラは、主の命令によりカナーンの地に入ったことになっている。彼らはその地に外から入り、彼らの相続するものとして取った(奪った)。

 

「國より出で、家族とも父の家からも離れ、我の指し示す地へ行け。」
―創世記12:1

 

「そして主はモーゼに言われた、「イスラエルの子らに命令し、伝えよ『カナーンの地に行け、そこが代々の土地としてあなた方の手に入るであろう』」」
民数記34:1~2

 

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我々が、聖書で使われてきたようなカナーン人と言う言葉に誤って帰していた可能性を発見してから、事は寧ろ複雑になった。それはこの図に示されている地域にいた人々を指していないかもしれず、更に、抑もこの図の地域すら指していないかもしれないのである。換言すれば、付録8で示したように、この古代の言葉は蛇の僧侶とその知識を指しており、他の多くの言葉や称号と同じように、神話拡散者により盗用され、故意に誤解された可能性があるのである。

マーク・S・スミスは、その作品「聖書の一神教の起源:イスラエル多神教の背景とウガリトの文書」の中でカナーンの歴史の研究者を悩ませる主な問題の性質について次のように説明している。

「『カナーン人』と言う用語の学術上の広範な使用にも拘らず、著者は大体に於いてそれを避けた…それは度々分析を曇らせる誤解を招く用語であり、読者に警告したい。現在の学界の雰囲気では『アモリ人』同様、『カナーン人』、『ウガリト人』、『古代イスラエル人』の関係を巡る議論を逃れることは不可能である。『ウガリト人』と『カナーン人』と言う看板はウガリト人の文書の発見以来、議論の絶えない問題となっている。1960年代にA・レイニー*は、ウガリトの文書の一つがカナーン人を他の異国人、特にエジプト人とAsh*** 出身の者と共に言及しているため、ウガリト人はカナーン人ではないと論じている。レイニーはまた、「ウガリトの息子たち」や「カナーンの息子たち」と言う言及があるアッカド人の文書をウガリトの遺跡から引用している。レイニーのこの先導に従って、D・R・ヒラーズ***はウガリト人の文書はイスラエルに於ける発展をカナーン人の文化との比較に於いて打ち立てるためには使えないのではないか、と提案した。ウガリト人とカナーン人が同じであることの否定は、厳密に言うとその通りであるが、言語学的範疇を基礎とするとこれら二つの間には強い関係があることが正しいと主張することが出来る…つまり、「西セム人」と言う言葉の方が「カナーン人」より好ましい…」
*Anson Frank Rainey (1930~2011)はテルアビブ大学の古代近東文化とセム言語学の教授
**アッシュ地方? 詳細不明
***D.R. Hillers(1932~1999)は、ジョンズ・ホプキンス大学セム系言語及び近東学の教授

 

スミスは更にこの問題について急所を突いて次の様に続けている。

「N・P・レムシュ*Lemcheはレイニーやヒラーズよりさらに追求する。彼はウガリトがカナーンの一部でないと言うレイニーの論に反論する。レムシュによるとテュロスの王(EA151)からの手紙の一つにウガリトをカナーンの地に含めているものがある。然しレイニーはこの解釈に重大な疑問を持つ。「カナーン人」の用語の歴史的重要性の更なる問題も存在する。レムシュは「カナーン人」自身によって使われた記録には「カナーン人」が全く現れない。「古代の西アジアの文書に『カナーン人』は常にその文書自体の社会や国家に属さない人間を指していたが、カナーンはその人間自身の國とは異なる國と考えられた。」
*Niels Peter Lemcheは、コペンハーゲン大学の聖書学者。研究分野には、初期のイスラエルとその歴史、旧約聖書、および考古学との​​関係が含まれる。

 

レムシュは聖書の「カナーン人」の使い方を、大部分がバビロン捕囚以後に跡付けされた人為的作り物として見ている。レムシュは聖書や他の近東の文書に於ける矛盾するカナーン人の記述を取り上げてそれをそのような人々も文化も存在しなかったことの証拠としている。実際にはレムシュは沈黙の議論(歴史的記録の根拠がない結論)に頼っている。更にレムシュは、「古代近東のカナーン人は自分たち自身がカナーン人であることを知らなかった。」と主張する。しかしながら、エジプトからHatti(ヒッタイト)やメソポタミアに至る外国の王室が「カナーン人」と言う言葉を用いたが、この言葉で指定された人々が自分たち自身をこの名前で知らなかったというのは妙なことに思えるのである。この言葉は「カナーン」の人には第一の自己呼称として機能しなかったからかも知れない。(つまり、個々の家系単位、都市、町、或いは地域が第一の自己呼称だったからかもしれない。)

カナーン人についてのこれらの主張から我々は何を論理的に結論するべきであるか? その用語が特定の民族や集団を表すのではなく、寧ろ賢者の長老を表すと認識し、人種的疑問を捨ててしまうのが正しい可能性はないだろうか? これらは、西方にその起源を有するルヴィアンLuviansや蛇の僧侶のことである可能性はないのだろうか?