フリーメーソンと世界革命13(現代文)

22.北欧諸国に於けるフリーメーソン

 

スウェーデンの歴史にも、フリーメーソンの殺人事件がある。いまその記憶を呼び起こすのは、フリーメーソンは自分たちの目的達成の爲なら、状況に依っては犯罪的手段をも敢て辞さないと言うことを明らかにしたいからである。

フランス革命時の事であるが、スウェーデン王グスタフ三世は、ルイ十六世と同盟者であったが、ルイ十六世が1791年6月ヴァレンヌに蒙塵[1](もうじん:退避)した時、グスタフ三世は軍を率いてフランス国境に進み、ルイ十六世を救い出そうとした。ところが王の弟ジェーデルマンランド大公(スウェーデンフリーメーソンの大棟梁)は、フリーメーソン社員のアンカーストレム[2]に王を弑させた(1792年3月16日)。これはパリの弁護士で結社員であったカデ・ドゥ・ガシクール[3]が、革命の際フリーメーソンの真相を見破り、同社より脱退した後で、公表した事である[4]。又他の社員の記述によると、グスタフ三世及びルイ十六世の殺害は、既に1786年フランクフルト・アム・マインフリーメーソン集会で決議されていたとのことである[5]

ストックホルム」のスウェーデン大地方組合は、1760年の創立で、それ以前ヨハネ組合は、既に1731年に存在して居た。現在ではアンドレアス組合13個、ヨハネ組合28個を数え、会員数は14,811人である。これ等全部の長は、スウェーデン王グスタフ五世で、地方大棟梁は古来の慣例に従って、皇太子がなっており、その他の皇族も高級の階級を有している。スウェーデンフリーメーソンの教義については、既に記述した通りに、その宣誓、罰則は非常に厳しいものである。またスウェーデンフリーメーソンは遠くユダヤのソロモン王に始まるとし、首長の職はその子孫が継承すべきものとされている。ところで、現時のスウェーデン王室は、フランス元帥ベルナドット[6]の後裔である。ベルナドットは、1810年王位継承者に選ばれ、1818年カール十四世として、スウェーデン王の位についたのである。彼は1763年、フランスのポー(Pau)に生まれ、彼の父は名もなき田舎弁護士であった。そして彼の両親は、ユダヤの血を引いた人々であったとのことであるが、果たして事実とすれば、世界歴史上の一つの皮肉と言わざるを得ない。或は計画的に行われたことかも知れない。

スウェーデンノルウェイ王オスカル二世は、両国及び英国のフリーメーソンで名誉の地位を占め、当時のプリンス・オブ・ウェールズ、後のエドワード七世を初めてフリーメーソンに加入させたのが此のオスカル二世であった。しかし彼はフリーメーソン中に多数の敵があり、フリーメーソンの新聞などで、彼を攻撃する者が少なくなかった。又ノルウェイ人は彼の施政振りに満足して居なかった。そこで王に対し穏便な提議や、希望が出されたが、その効果が無いと見ると、遂に王を廃してしまった。この際スウェーデンノルウェイ両国の関係について商議した所は、カールスタード[7]の組合であった。スウェーデンの政治家の大多数及び社会民主党の領袖は、当にフリーメーソン社員である。

ノルウェイの現国王ホーコンも、フリーメーソン社員であるが、格別特別な地位を占めていない。現在の同国フリーメーソンの長は一市民である。結局のところ民主主義の時代精神を考慮して、王室とフリーメーソンとを引き離すことを奨めていることがわかる。ノルウェイの大地方組合は、スチュアード組合1、アンドレアス組合3、ヨハネ組合12があり、社員4,800人を数える。

デンマークの大地方組合は、国王クリスチャン十世で、ほぼノルウェイと同数の社員、即ち4,735人を有する。デンマークにおいても王政を廃止しようとする運動が始まった。この共和運動の主唱者は、(デンマーク大組合保証人、)[8]宰相サーレ(Dr. Zahle[9])、その人である。

 

[1] 天子が危険を避けて居所から他所へ逃れていくこと。

[2] Jacob Johan Anckarström(1762~1792)は下級貴族の出で、グスタフ3世の元近衛士官。絶対王制を敷いた王を憎むようになり、暗殺と革命を謀ったが王の暗殺により国民から憎悪の的となり、投獄され、死刑を宣告された。3日間の鞭打ちの後、右手を切断された上で1792年4月27日、アンカーストレムは市中を引き回しの後、公開斬首刑となった。その後、彼の遺族は、改名の許可を得た後に、贖罪として病院を建設、国家へ寄贈した。

[3] L. Ch. Cadet-Gassicourt(1769~1821)シャルル・ルイ・カデ・ドゥ・ガシクールはルイ15世の御落胤とされるフランスの弁護士・薬剤師。フランス革命にも積極的に関わったが、革命側にも批判的であった。革命中ヴァンデミエールの反乱(王党派民主勢力の叛乱)に加わったとして欠席裁判で有罪判決を受け、三年間姿を隠したが、最終的にセーヌ県の刑事陪審からこの判決は破棄された。その後、薬剤師としてパリで活躍した。

[4] 「Die Freimaurerei Österreich-Ungarns(オーストリア=ハンガリーフリーメーソン)1897年ウィーン」の185頁に引用されている「Le tombean de Jacques Molay etc.,(ジャック・モレーの墓他)1704年パリ」の一節。原典:https://elementsdeducationraciale.wordpress.com/2013/02/08/le-tombeau-de-jacques-de-molay/

[5] 同上、189頁

[6] 平民出身のフランス海軍軍人。ナポレオンと共に革命軍で活躍し、1794年に少将、中将と革命軍の最高位に上り詰めた。その後1897年以降、政治家としても活躍したが、ナポレオンが天下を取った「ブリュメール18日のクーデター」には加担しなかった。1809年、瑞露戦争に敗北したスウェーデンでクーデターが起こり、グスタフ4世を追放して王の叔父のカール13世を擁立したが、嗣子が居らず、迎えた王太子が急逝した爲、ベルナドットに白羽の矢が立った。1810年スウェーデン議会に選ばれ、王太子となった。

[7] スウェーデンの首都ストックホルムから西約200キロにあるベーネル湖畔の町。

[8] 原典:Der Herr Ministerpräsident und Br. Dr. Zahle, Großsiegelbewahrer der Großen Landesloge von Dänemark.(直訳:當にそれは総理大臣であり、同志サーレ博士、デンマーク国の大ロッジの偉大なシール保持者なのだ。)より追補。

[9] Carl Theodor Zahle(1866~1946)サーレは、デンマークの弁護士で政治家。1895年、彼は自由党からデンマーク議会の下院議員に選出され、1905年に社会民主党を他の政治家と共同設立した。1909~1910、1913~1920にデンマークの首相を務めた。

 

 

23.ドイツに於ける王政共和主義的フリーメーソン

 

少々奇妙なこの表題は、以下述べる事実によって、解明されるだろう。

君主政治の行われていた間、三個の古代プロシャ組合は、皇室に対し恭敬の限りを尽くし、あらゆる機会に、カイザーに対する恭敬の意を表明するように努めた。その他多数の組合は、既にその名称で忠君愛国の思想を表わしている。(歴代の君主や、皇室の名を組合の名に冠していた者が多数である)。これらの組合は、ドイツフリーメーソン大組合(在ベルリン)に属している。実際ドイツの組合は、皇室に忠実であって、数百人のドイツ将校も社員となっていて、大戦中二千人以上の社員は鉄十字章[10]を受けた。その他、各地の組合は、戦争に対する国民の決心を促す演説を行ったり、或いは潜水艦の資金を寄付したり、戦争の被災・被害者に対して援助をしたりした。しかしこれらのことはフリーメーソン自らが誇る程、賞讃に値するものでも何でもない。

敵国の大組合との関係は、唯仏伊両国の大組合との関係は断絶したが、その他の諸国との関係は単に休止したに過ぎない。もし落ち着いて冷静にフリーメーソンの忠君の精神を検討して見れば、何等忠君の例として挙げるべきものがないのを発見するだろう。1913~14年に、英独のフリーメーソンは、互いに訪問を交換し、戦争の惨害を防ぎ止めようとしたと言う者があるが、その結果は寧ろドイツの不利となったくらいであって、決してドイツのフリーメーソンの忠君の精神の例証とすることは出来ない。

三個の古代プロシャ組合には、フリードリヒ大王以後多数のホーエンツォレルン家の王族が入会した。フリードリヒ大王自身は、ハンブルクの組合に入会したが、組合の秘密については、何等知る所がなかった。そして結社の事業には大いに疑いの目を向け、常に一定の条件をつけなければ、保護を与えなかった。フリードリヒ・ウィルヘルム二世は1814年に会員となったが、フリーメーソンの秘密・目的・手段は、遂に知らずに終わった。彼もまた常にフリーメーソンを疑って居たが、彼の多くの臣下が、結社員となった為、差し当たり大なる危険はなかった。ウィルヘルム一世もこの戦術を踏襲し、多数の信用ある官吏を入社させ、それによりフリーメーソンの国家に危険な性質を除こうと図った。しかも1864年王はフリーメーソンに対し、その政治に関係することを止めなければ閉鎖を命ずる、と、威嚇せざるを得なかった。フランス大組合は、ウィルヘルム一世を評して言った「彼は一向真面目にフリーメーソンの義務を尽くさなかったにも拘らず、全世界に広く行き渡っているこの組合の長となることを有利と認めた」と。

ドイツフリーメーソンの間に、最も評判の良いのはフリードリヒ三世であった。彼は皇太子時代に、長い間フリーメーソンの長となって居った。多数の組合は、彼の名を冠してその名誉を表彰した。しかしながら彼もまた多くの点について、結社員と意見を異にし、とりわけその規定中の穏当でない点を除こうと思ったが、この改正意見はすべて社員が反対したため、遂に大棟梁の職を辞めざるを得なくなった。これらの事実が示す様に、ドイツのフリーメーソンが、君主主義であったと言う意見は正当でない。

ドイツのフリーメーソン社員は、言いたいことをそのまま言い表すことは出来ないかもしれないので、代わりにイタリアのフリーメーソン社員が貴族の社員についてどう考えているかを観察して見よう。1892年イタリアの結社員ボヴィオ[11]は、当時のまだ若かったカイザーウィルヘルム二世を指して、「重病患者」だと言っているが、善良なドイツ人の中でもビスマルクの罷免について、不満を抱いた者が多かったので、ボヴィオ以上に激しい発言でカイザーを罵ったかもしれないから、これは各別問題とするに足りないが、社員サッフィ[12]はある時、早く若い(社会民主的)ドイツが封建的ドイツ帝国に代わって生まれ出ることを期待すると述べた(1889年)。イタリアのフリーメーソン新聞は、ウィルヘルム二世により古代プロシャ大組合の長に任命されたフリードリヒ・レオポルド親王を罵倒した。さらにイタリアのフリーメーソンは、カイザー・フリードリヒ三世のために葬儀を行ったが、そのやり方が一種特有であった。つまり同じ頃にイタリアの革命家で大棟梁だったペトローニ[13]が死んだので、両者の葬儀を同時に行ない、しかも十八年間監獄に囚禁されたペトローニを上位とした。これは間違いと言うよりは、むしろ計画的な侮辱であったと言わねばならない。

フランスの結社員は、君主は即ち専制君主であり、君主はいかに善良な人であっても、フリーメーソンの原則を実行することは出来ないと主張する。実際共和政体を採用することが、フリーメーソンの一つの主要な原則だとしたならば、フランス社員の主張する所は当然であって、君主は速やかにその位を退いて、フリーメーソンの王侯にその地位を譲るほかはないわけであるが、その暁に於て、果して専制主義の君主を戴くのとどちらが幸福であるかは、近き将来が示すであろう。

尊敬すべき第三十三階級パイク[14]は、次の様に述べた。「我が秘密結社の領袖は、世界各国の有力者をしてフリーメーソンの仕事に参与させた。(しかも結社の事に関しては必要以上には知らせなかった)。これは彼等が結社に反抗し、結社の仕事の邪魔をしない様にする為であった。従って各国の有力者が、フリーメーソンを社会事業の機関にしたり、フリーメーソンは宗教及び政治とは全く関係のないものだと説明したりしても、領袖連は平気にこれを看過したのである」と。

次にドイツのフリーメーソン新聞に表われた所を、二、三紹介しよう。ウィルヘルム一世が、フリーメーソンが政治に関与するのを咎めて、それを止めなければ結社の閉塞を命ずると言って威嚇した頃、あるフリーメーソン紙は、激しくこれを罵って、次の様な事を書いた。「我が最高級の結社員の中には、フリーメーソンについて、とても珍妙な意見を持っているものがいる様だ。即ち同じ権利、義務を持っているはずの社員の結社を、弱い足を載せる足台と心得ている。……オリンピアの神々でも、必要な場合だけに義務的な礼拝をする様な人々のやり口には、顰蹙して逃げ出さざるを得ないであろう。」(1864年11月24日フライマウレル・ツァイツング)。他の新聞も同様なことを書いたが、これ等は古い例に過ぎないから略する。しかし最近のフリーメーソン新聞でも格別変わったことはない。例えばヘロルド新聞[15]は、叛乱罪及びその他の犯罪のために処刑されたスペイン人フランセスコ・ファレー[16]に四ページ半の讃辞を贈った。(1909年12月5日同新聞)。人には、色々な考えがあるから、その良い所は取り上げて、保護を加えるのは良いだろう。しかしながら少数者が暴力で多数者を強制しようとするのに対しては、これを容赦することは出来ない。威力は、威力をもって制圧するよりほかに方法はないと。尚ヘロルドの記者は、ファレーの友人である無政府主義者と親密な文通をしており、この者から直接ファレーの事を知得したとのことである。

以上はフリーメーソン紙の記事の二、三を挙げたに過ぎないが、次にフリーメーソンの指導者たる大棟梁の行動について観察して見よう。ドイツのフリーメーソン大棟梁等は、イタリアのフリーメーソンの高等政治的性質を有することをよく承知しているにも拘らず、彼等と最も密接な関係を保持し、しかもドイツの専制主義を呪うような手紙でも、喜んで受け取っていた。ザクセンの大組合の如きはイタリア大棟梁レンミ[17]を賞讃して、イタリアのみならず、全世界のフリーメーソンの王だと言った。このような場合、ドイツ以外の国のフリーメーソンは、専制君主に統治されるドイツを憐みの微笑をもって見下したことは想像に難くない。このような不見識な外国崇拝に対しては、真のドイツ人として許すべき社員ウィルヘルム・オール[18]は、激しい言葉で罵倒した。

ドイツのフリーメーソン領袖は、フランスのフリーメーソンに対しても、同様に常に阿付迎合[19](あふげいごう)の態度を取ったために、フランスのフリーメーソン社員は、戦争前から一般フランス民と共に、ドイツの没落を確信するようになった。ドイツフリーメーソンは、1914年5月31日、セルビアの最高会議を承認したのであるが、その後四週間にしてオーストリア皇太子はセルビアフリーメーソン社員によって暗殺された。当時ドイツの下級の社員の中には、もとよりこの暗殺事件を予知した者はなかったに違いないが、上級の社員は既にこの事件を予知しながら、いや、予知したがために、この承認問題を急遽決定したと想定される節が少なくないのである。

 

 [10] 鉄十字章(Eisernen Kreuzes I. (erster) Klasse)はプロイセン及びドイツが四度の戦争で制定した軍事功労賞であり、最下級の鉄十字章二級鉄十字章の上位に位置した。

[11] Giovanni Bovio(1837~1903)はイタリアの哲学者・国会議員。1895年にイタリア共和党を創立。フリーメーソンであった。

[12] Aurelio Saffi(1819~1890)はイタリア統一時代に活躍した政治家。英国に亡命しながらマッツィーニに霊感を受けてイタリアの共和制に貢献した。

[13] Giuseppe Petroni(1807~1882)はイタリア大東社の大棟梁(1871~80まで)。

[14] Albert Pikeのこと。

[15] Der Herold

[16] 原文・原典:Enrico Ferrer フェレールは間違いと思われる。Francisco Ferrer Guardia(1859~1909)ファレーはスペイン、バルセロナの教育者。1883年までにフリーメーソン社員となり、1885年スペインの共和制暴動に参加し、パリに亡命。1901年、バルセロナに戻り、近代学校(Escuela Modernaエスコーラ・ムデルナ)を設立。その後、バルセロナで1909年8月に起きた「悲劇の週」と呼ばれる無政府主義者の暴動の策謀者として逮捕され、軍法会議の結果、1909年10月13日に処刑された。この処刑に対しては、欧州の国々から「証拠もなく冤罪である」と、多くの批判が寄せられた。(報道新聞をフリーメーソンが握っていた爲)

[17] Adriano Lemmi(1822~1906)はイタリア共和主義者の銀行家。マッツィーニの親友でハンガリーのコシュートとシンシナティに同行した。1860年に「アダミ・レンミ会社」を設立し、ガリバルディから南部の鉄道網とタバコの専売権を与えられた。1885年にイタリア大東社の大棟梁となり、古代スコットランド儀式の司令官となった。生涯その地位にあった。また、イタリア各地のロッジを統合した。

[18] Wilhelm Ohrのこと。

[19] 相手の機嫌をとり、気に入られようとしてへつらいおもねること。

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