ドイツ悪玉論の神話018

第五章 赤色テロル

今日、猶太人支配のメディアでは、「ホロコースト」と言う言葉(アルファベットでは大文字のHで始まる)は、ナチス独逸の手で第二次大戦中に猶太人に起こったとされることを指す。しかし、本當の20世紀のホロコーストは、1917年のロシア革命の間とその後に猶太人によってロシアの人々に加えられたものであった。これは、歴史上、最も血塗られた話の一つであり、その中で、何百万人と言うロシアのキリスト教徒が殺害されたのだった。新しい猶太人の領主様の目的は、上流階級・有産階級、合わせてブルジョアとして知られる階級を男・女・子供も含めて完全に除去する事であった。最も知識豊かな、最も有能な、最も高い成就をしていた部分の人々が、全滅させられ、無知な労働者と農民が残された。皇帝とその家族でさえ、猶太人に殺害された。彼らの新しいマルクス主義の理想郷をもたらすために古き良きロシア文化は、完全に根絶し、新しいマルクス主義文化に置き換えなければならなかった。ボルシェヴィキの猶太人がこの階級の皆殺しを完了するまでに、トルストイプーシキンドストエフスキーチェーホフ、それにゴーリキーなどで代表される「古き良き」ロシアは、単純に、存在しなくなったのだ。

國家の掌握が終わると、猶太人は支配を政府機関やロシア社会の隅々にまで拡張し始めた。反対派を克服し、ロシアの民衆を制圧するために1917年12月に「反革命・妨害と闘う特命委員会」(イニシャルを略して「Cheka(チェーカー)」)と呼ばれる秘密警察機構が設立された。この時は未だボルシェヴィキ以外に半ダースを超える政治政党(全て猶太人支配)が存在していた。そのうちの一つが、社会主義革命党、左派SR党であった。この左派SR党がボルシェヴィキに反旗を翻したとき、チェーカー は350人の党員を集めてあっさり銃殺した。皮肉にもSR党の党員も殆どが猶太人であった。

1918年8月17日、若い士官候補生が同じ士官候補生の友人が処刑されたことの報復にペトログラードチェーカーの猶太人長官、モイセイ・ウリツキーを暗殺した。そのすぐあと、1918年8月28日、左派SR 党員の猶太人女性、ファニー・カプランは、チェーカーによる党員の仲間の処刑に激怒してレーニン暗殺に成功直前まで行った。これら二つの事件に端を発して後に「赤色テロル」として知られるようになるボルシェヴィキの血なまぐさい迫害のうねりが始まった。

赤色テロルは、中央執行委員会の猶太人議長、ヤーコフ・スヴェルドロフの公式な布告によりレーニンの暗殺未遂後数時間で発動された。布告は、「革命の全ての敵に対する無慈悲な集団テロ」を求めた。政治政党は全て禁止され、およそ800人の左派・右派双方のSR 党員が集められて射殺された。加えて、最初の一年で6,300人に上る政敵も射殺されたと報告されているが、この数字は、ほぼ確実にかなり低く抑えられたものだろう。

 

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ヤーコフ・スヴェルドロフ、猶太人 中央執行委員議長 赤色テロルを発動した。また、皇帝一家殺害を命令した。


節操無き強姦・拷問・即決処刑と殺人のすさまじい嵐がロシア全土でこれまで聞いた事が無い規模でチェーカーにより実行された。クラークと呼ばれた貧農民、少数民族、貴族、ブルジョア、地主、軍の将官、知識人、芸術家、聖職者、反対派の仲間、そして、少しでも疑念を持たれたその他の人々、全ての人々が粛清された。ボルシェヴィキの指導者は、「プロレタリアート独裁」への道を拓くには、赤色テロルにより、社会の一群、特にこれまでの「支配階級」を抹殺する事が必要である、と公言している。猶太人でウクライナチェーカーの長官であったマーティン・ラットシスは、新聞で次のように説明している。
「『赤色テロル』:我々はブルジョアを階級として根絶することに取り組んでいる。被疑者が武器や言論でソヴィエトに立ち向かったかどうかを見るのに、有罪の証拠の文書は見るな。そうではなく、被疑者に、どの階級に属するか、出自は、教育は、そして職業は何かを問え。これらの質問こそ、被疑者の運命を決めるものだ。これこそが、赤色テロルの意味であり、本質である。」

チェーカーは、急激に発展し、巨大で非常に残忍な國家安全機構になった。その機構はその後、何度か名前と共にチェーカーからGPU、NKVD、そして最後にKGB と変化したが、本質的にその使命は同じであった。チェーカーの事務所は、あらゆる市町村に設置された。1921年までに20万人を数える「共和國國内防衛隊」と呼ばれるチェーカーの一部門が、警察と巨大なグラグ(強制労働収容所)組織の運営を任された。

チェーカーが、正確に何人の死について責任があるか、知る術はないが、確実に二千万人規模に達するだろう。これには、強制的な集団化、故意の飢餓(次に詳述)、粛清、除名、流刑、処刑、収容所における大量死、等の犠牲者が含まれる。

ハーバード大学歴史学者、リチャード・パイプス(自身猶太人)は、その著書「ロシア革命」(1990)で、「(チェーカーの)職員の四分の三が猶太人で、多くは何の仕事もできない有象無象で、猶太人社会からも疎外されていたが、猶太人仲間を傷つけないよう注意深いだけの者たちであった。」と確認している。

 

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チェーカーの長官、フェリックス・ジェルジンスキー


ロシアの詩人で作家のウラジミール・ソロウーヒン(Vladimir Soloukhin)は、「Bloodlust of Bolshevism(血に飢えたボルシェヴィズム)」で、チェーカーの50%は、猶太名そのままの猶太人で、25%が、ロシア名を名乗った猶太人であった、と書いている。残りの25%は、ラトヴィア人、ポーランド人、ジョージアグルジア)人、それに他の少数民族だったが、ロシア民族の隊員は希だった。更に、猶太人以外の隊員でもかなりの隊員の妻が猶太人であった。で、結論?は、チェーカーは猶太人の組織だった、今や猶太人の支配する國家の強制執行部門として構成された組織だった、という事だ。これらチェーカーの隊員は自身がロシア民族ではなかったので、ロシア人を殺すことに何ら良心の呵責を感じなかった。実のところ、彼らはロシア人に対する深く、焼けるような憎悪を隠し持ち、復讐の機会を今か今かと待ち望んでいたのだ。

チェーカーで管理職に就いているのは全てが猶太人であった。最初の長官は、モーゼズ・ウリツキー、猶太人であったが、ほどなく暗殺された。彼の後継は、ポーランド共産主義革命家で、貴族出身のフェリックス・ジェルジンスキーだった。ジェルジンスキーは、(教会に行かない)ローマカトリックであったが、所謂、「猶太化された非猶太人」であった。彼が半分は猶太人であったとする者もいる。彼は、イディッシュを話し、家族もイディッシュを話したので、恐らくそうであったろう。ジェルジンスキーの直下の部下は猶太人、I.S. ウンシュリフトであった。チェーカーの拷問部門はゲンリフ・ヤゴーダとユーリ・アンドロポフが長年支配した。どちらも猶太人である。そして、最後にラヴレンチー・ベリヤが支配した。彼はやはりロシア人ではなく、彼の上司スターリンと同じくジョージア人であった。

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ユーリ・アンドロポフ

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ラヴレンチー・ベリヤ

 

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ゲンリフ・ヤゴーダ


チェーカーについて、フェリックス・ジェルジンスキーは、次の様に語ったと引用されている。
チェーカーは、裁判所ではない。我々は組織されたテロを支持し闘う。チェーカーは、仮令、その剣が時に偶然、罪なき人の頭を打とうとも、革命を防衛し、敵を征服するのだ。」

 

グラグ(強制労働収容所)の創設

マチアス・バーマン(Matvei Berman)とナタルフィ・フレンケル(Natalfy Frenkel)ともに猶太人のチェーカー隊員が、悪名高いグラグ(強制労働収容所)を創設した。それは、史上最大の強制収容所群で恐怖の奴隷労働制度であり、何百万ものキリスト教徒ロシア人が虐殺されたところだった。後にできたナチスの強制収容・奴隷労働制度など、これに比べれば小さなものであるが、「強制収容所」という用語は、専ら、猶太人支配の共産主義ロシアとではなく、ナチス独逸と関連付けられている。

今日、アウシュビッツの名前は誰もが知っているが、コルィマ、マガダン、ソロヴェツキー諸島、シベリアの大量死の大中心地などについて、誰が聞いたことがあるだろう? アレクサンドル・ソルジェニーツィンの作品を読んだ人だけであろう。これらについて、大手主流メディアでは一切言及していない。しかし、これらの場所ではアウシュビッツナチスの全ての収容所を合わせたよりも幾何級数的にもっと多数の人々が亡くなった。アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、全ての収容所は、ラパポート、ソルツ(Soltz)シュピーゲルグラス(Spiegelglas)などと言う名前の猶太人によって、指揮されていた、と語っている。

しかしながら、國際猶太は、非常に長い間、そして今もって、この様な情報が一般的な知識とならない様に念を入れ続けているのだ。ソルジェニーツィンの中でも「収容所列島」や「イワン・デニーソヴィチの一日」が冷戦期に出版されたとき、ソルジェニーツィンは、ノーベル賞を受賞しただけでなく、ソヴィエト体制の暴力性と非人間性を暴露したことを熱烈に称賛されたにもかかわらず、その中での猶太人の役割については決して強調されないままであった。彼の本は全て英語を含む多言語で出版され、英國でも米國でも非常に販促されたものだ。

ところが、彼の最後の著書はそうはならなかった。「Two Hundred Years Together」(初版ロシア 2003年)は、ロシア人の中で猶太人が200年に亙って生活したことについての本である。この本の中でソルジェニーツィンは、ロシア革命の猶太的本質を暴き、そして革命とその後の二千万人に上るロシアキリスト教徒の大量殺人の犯人が猶太人であったことを確認している。この本は、他の全てのものとは異なり、まだ英語版が出版されていない。それどころか、どの出版社も出版する事に興味すら示していない。英語圏では猶太人が出版業界を支配しており、彼らは、この本を英語で出版する意図など全くないのだ。更に、彼らは、非猶太出版社がこの本の英語版を出版する事に対して猛烈な圧力をかけているのだ。この種の情報は、今日、タブーとなっており、その抑制は厳しく徹底されている。しかしながら、事実は事実であり、遅かれ早かれ、誰かがこの本を英語に訳すだろう。すでにネットには部分的に英語に翻訳されたものが投稿され、出回っている。

(次回は皇帝殺害と具体的なキリスト教徒虐殺の手口、少し内容がグロくなります。)