ドイツ悪玉論の神話019

ボルシェヴィキ、皇帝を殺害

1918年7月17日、皇帝ニコライ二世とその家族が、猶太人ボルシェヴィキの一派により殺害された。皇帝退位後、ボルシェヴィキは皇帝とその家族をウラル山中の町、エカテリンベルクに政治犯として何か月間か連行し、チェーカーの監視の下、ある家で暮らしていた。皇帝とその妻アレクサンドラ、14歳の息子アレクシス、それに4人の娘、皇帝の担當医、料理人と二人のお付の者は、最期、その家の地下室に連行され、そこで射殺された。遺体はその後、シーツに包(くる)まれ、人里離れた鉱山の廃坑に放り込まれ、遺棄された。遺体は後に殺害が発覚してから回収された。皇帝の顔は人物特定できない様に潰されていた。彼らは、遺体を焼却しようとしたがそれには時間がかかり過ぎた。そこで、遺体に硫酸を浴びせて町の外の森の中の墓地に浅く埋葬された。実行犯は、ヤコフ(ヤンケル)・ユロフスキー、アレキサンダー・ベロボロドフ(Beloborodov)、フィリップ・ゴロショーキン(Goloschtschokin)の三人、全員猶太人である。皇帝とその家族の処刑はソヴィエト中央執行部議長の猶太人、ヤーコフ・スヴェルドロフ(本名はヤンケル・ソロモン)である。猶太人は遂にその目的を果たしたのだ。彼らは遂に皇帝の政権を革命を以って打倒し、そして、憎しむべき皇帝その人を殺害した。

f:id:caritaspes:20190329030049p:plain

ヤーコフ・スヴェルドロフ (本名はヤンケル・ソロモン) 皇帝とその家族の処刑を命令した 猶太人中央執行委員議長

f:id:caritaspes:20190329030135p:plain

ヤコフ(ヤンケル)・ユロフスキー 皇帝とその家族の殺人を実行した 猶太人チェーカーの長官

 

前に論じた様に、多数の分派が虐殺に駆り出された。数十万のコサックが集められ殺害された。命令は、全員の抹殺であり、最初に集められたときに逃避した者は追跡された挙句、動物の様に殺された。貴族も同様であった。20万人に上る教会関係者-司祭、修道士、修道女-は、組織的に「野獣の様な拷問」のすさまじい恐怖の中で殺害された。伝えられているところによると、彼らは、頭皮を剝がれ、首を絞められ、溺死させられ、磔にされ、或いは、殺人者の想像できる限りの恐怖の死にさらされた。皇帝政権の公務員は、数百人単位で封印したはしけに強制的に乗船させられ、そのはしけは、沖合に曳航され、乗船者が溺れるように沈められた。猶太人は今やあらゆることを支配し、憎き、しかし今やどうする事も出来なくなったロシア人に対して、彼らの心に抱く復讐の想像に自由に身を任せた。主に猶太人の、中でも最も低級で暴力的で、サディスト的な精神異常者からなるチェーカーの地方支部は、完全な自治権を得て、この悪夢の拷問と虐殺の執行について誰に報告する事も求められていなかった。チェーカーの隊員は誰でも自由に、何の咎めだても懲罰の心配もなく、誰でも好きな様に(政府の管轄外で)選び、殺す、強姦する、拷問することが、しかも想像し得る最もサディスティックなやり方でできたのだった。彼らはその行為の正當性を示すことを求められなかったのみならず、レーニンを含む彼らの最高指導者から、無慈悲に出来るだけ多数を殺害する事を鼓舞・推奨されたのだ。チェーカーは、意のままに処刑を継続する、想像を絶する暴力組織だった。

f:id:caritaspes:20190329030233p:plain

サンクトペテルブルクで装甲車の傍に立つチェーカーの隊員。皮の服装に注意。

f:id:caritaspes:20190329030320p:plain f:id:caritaspes:20190329030343p:plain

典型的なチェーカー隊員。
完全武装

 

ある第三者によると、チェーカーによる殺しが際立っている点は、彼らが「抑え難い激怒に煽情され」ていることにある。チェーカーの隊員は単に「階級の敵」を殺したのではなく、凄まじい狂乱の中で、殴る、刺す、切り刻む、切断する事を以って、襲い掛かった-男女子供の区別なく。1933年10月号の「Defender Magazine」の記事に彼らの殺人の狂乱が描かれている。
キリスト教徒は寝床から引きずり出され、拷問され、殺された。少しずつ切刻まれた者、鉄で焼き印を押された者、彼らの目は耐え難い苦痛のために突き出していた。頭、両手足だけが出る箱に入れた上、空腹のネズミを箱に入れて、胴体を齧(かじ)らせた。疲弊して死ぬまで、手または足を天井に釘付けされた者もいた。熱い鉛を口から流し込まれた者もいた。馬に繋がれて、猶太人の野次馬が投石し、蹴り殺す間、町の通りを引きずり回された者も多数いた。妊婦は、木に鎖で縛られ、その赤ん坊は、お腹を切って出された。

1919年の後半、赤軍は、白軍によってウクライナから一時、駆逐された。その時、白軍占領軍の特別委員により、大量殺人の捜査が行われ、そのうちの一つは、「ローバッハ(Rohrbach)取調べ委員会」であった。赤軍の占領中、多くの場所で公開処刑が行われた。1919年8月に白軍がキエフを確保した後、捜査を指揮する為、ポール・ローバッハが英國政府によって送り込まれた。ローバッハ委員会の人間がキエフの処刑場に入ったときに彼らが見た光景は、以下の通りだった。
「セメントの床は、血の洪水であった。それは、5~10センチの厚みで(凝血により)流れが止まっていた。それは、血と脳髄と頭蓋骨の破片の恐ろしい混合で、更に髪の毛の房と人体の他の部分が伴っていた。壁は全て何千発という銃弾痕だらけで血のはねで汚れていた。脳みそや頭皮の一部が壁にくっついていた。深さ・幅共に25センチ、長さ10メートルの溝は上の縁まで完全に血でいっぱいであった。死体の中には内臓が抉り出されたものや四肢が切り取られたもの、文字通り切刻まれたものもあった。目を抉られ、頭、顔と首、胴体は、深い傷だらけであった。更に、死体の中には胸にくさびを打ち込まれたものもあった。舌のない遺体もあった。片隅には、どこの死体に属するものか解らない大量の切断された四肢が見つかった。」

フランスの著者、ヴィコント・レオン・デ・ポンサンは1920年代に出版された「革命の背後の秘密力(The Secret Powers Behind Revolution)」[1]で、次の様に書いている。
「赤色テロルは、余りにも広範囲に及び過ぎて、チェーカーが抵抗を抑制する為に講じた手段全ての詳細をここで論じる事は不可能だが、中でも最も重要なのが、全ての社会的階級に於いて、人質を取る手段であった。これらの階級は、どの反ボルシェヴィキ運動(叛乱、白軍、ストライキ、村々の収穫供出の拒否など)についても責任があるとされ、即座に処刑された。この様に、猶太人のペトログラード特命委員会の委員、ウリツキーの暗殺に対して数千人が殺された。しかもこれらの不運な男女は、その死の前にチェーカーの刑務所で冷血な残虐性を示す様々な拷問で苦しめられた。」

その著書「Bloodlust of Bolshevism(血に飢えたボルシェヴィズム)」で、ウラジミール・ソロウーヒン(Vladimir Soloukhin)は、次の様に書いている。
これら猶太人のチェーカー隊員は「特に顔立ちが立派な少年、美しい少女に興味があった。これらの少年少女は最初に殺されるのだ。魅力的な人々は知的階級に多いだろう、と信じられていたからだ。また、セム人(猶太人)は、白人の美人に嫉妬し、彼女らを虐殺した(中略)猶太人のチェーカー隊員は、さまざまな拷問による殺人を好んだ。」

スタニスラフ・ゴヴォルーヒン監督がその記録映画、「我等が失ひしロシア」(The Ruusia We Lost)の中で、ヘルソン(ウクライナの町)の司祭がどの様に磔にされたか語っている。ペルミ(ウラル西部の町)の大司教アンドロニコフ(Andronnikov)が拷問を受けた。「彼の目玉は飛び出していた。耳と鼻は切り落とされていた。ハリコフ(ウクライナ東部の町)では、司祭ドミトリは、服を脱がされていた。彼が十字を切ろうとしたとき、その右手をチェーカー隊員は、切り落とした。

複数の情報筋がチェーカー隊員がハルコフで如何に被害者を並べてテーブルにその手を釘付けし、手首の周りをナイフで切り、手に熱湯を掛けて手の皮を引き抜いたか、について伝えている。これは、「手袋引き抜き」と呼ばれた。他所では、被害者の頭をアンヴィルに固定し、ゆっくりと蒸気ハンマーで押しつぶされた。そして次の日に同じ罰を受ける者たちは、それを見る事を強要された。

教会の高位聖職者の目は飛び出し、舌は切られ、そして生き埋めにされていた。被害者のはらわたを切り開き、続けて小腸を引っ張り出して電柱にそれを釘付けし、更に被害者を鞭打って小腸がすべてほぐれて死ぬまで電柱の周りを走らせるチェーカー隊員もいた。ヴォロネジの主教は、大きな釜の中で生きたまま茹でられ、その後、銃口を頭に突き付けられた修道僧たちはそのスープを飲むことを強要された。

特別な螺子(ネジ)釘で被害者の頭を潰したり、歯科医の道具で被害者の頭に孔を穿つチェーカー隊員もいた。頭蓋骨の上部をのこぎりで切りとり、行列の中で一番近い者が無理やりその脳みそを食べさせられ、行列の末端までそれを繰り返された。チェーカー隊員は家族全員を捕縛し、両親の目の前で子供に、また、夫の前で妻に拷問を加えた。」

以前ソヴィエトの役人だったミハイル・ヴォスレンスキーは、彼の著書「ノーメンクラツーラ(Nomenklatura)」(ストックホルム 1982)の中でチェーカー隊員の残虐行為について次のように記述している。
「ハリコフで頭皮を剝がれた人々がいた。ヴォロネジでは、拷問を受けた被害者は樽に入れられ、更にその樽は、内側に釘先が突き出る様に外から釘が打たれた上で転がされた。額に図形(普通は魔術に使う五芒星)の焼き印を押される被害者がいた。ツァリーツィン(ヴォルゴグラード)とカムイシンでは被害者の手をのこぎりで切断した。ポルタヴァとクレメンチュークでは、被害者は串刺しにされた。オデッサでは、生きたまま焼かれた(中略)或いは、切り刻まれた。キエフでは、被害者を腐乱死体と共に棺桶に入れ、生き埋めにし、半時間後に掘り出した。」

チェーカー隊員のこれら猶太人は、今やどうする事も出来ず、彼らの支配に身を委ねる憎むべきロシア人を拷問してサディスティックな喜びに浸った。彼らの拷問の手段は、その邪悪な想像力の及ぶ範囲で限りなく残酷であった。

                                                              ********

 (次回は引き続き残虐の手口・規模と「敵対エリートとしての猶太人」について)

[1] Freemasonry and Judaism: Secret Powers Behind Revolutionと同書?

 

次回 ドイツ悪玉論の神話020   前回 ドイツ悪玉論の神話018