フリーメーソンと世界革命14(原文)

第四部

24.世界革命によるフリーメーソン共和國の建設

 

世界各國に於けるフリーメーソンの革命的事業を通覧するに、其精神は常に同一である。即ち其終極の目的は、共和國の建設にあるのである。

其一例を擧ぐれば、白耳義のフリーメーソンの集會に「白耳義共和國」なる議題の出ることは敢て珍しいことではない。而して同國のフリーメーソンが、外國に於ける革命的事件に就ても、多大の興味を感ずると云ふことは、次の例でも明かである。即ち1911年、同國の有名なる結社員フルネモン[1]は、演説して曰く「諸君は最近の葡萄牙革命の報を得たる時の吾人の得意の感情を記憶するか。數時間を出でずして玉座は顛覆せられ、國民は凱歌を奏し、共和國は宣言せられた。それは何も知らぬ一般の人に取つては、正に晴天の霹靂であつた」云々と。南米ブラジルの最後の皇帝ペドロ二世を没落せしめたる者は、フリーメーソン結社員デオドロ・ダフォンセカ元帥[2]で、其革命運動は総てフリーメーソン組合の畫策する所であつた。佛國フリーメーソンの委任に基き、1917年佛英両國の代表者として、希臘王コンスタンティノスの退位を強要し、之に代るにフリーメーソン社員たるヴェニゼロス[3]を以てしたる佛國代表者ジョンナール[4]は、同じく結社員である。彼に當時コンスタンティノス王が、即時退位しなければ雅典市を焦土と化せしむべしと威嚇した。要するに古來幾多の革命は計畫的に、執拗に、持続的に比類なき精勵を以て準備せられ、全世界の君主を廃せんとして居るのである。此計畫の起原は決して昨今の事ではなく、實にフリーメーソンの發展と共に、次第に成就して來たものである。即ち單に精神的メーソンに就て云ふも、1740年に其起原を求むることを得べく、若し又職工組合に就て考へるならば、オリヴァー・クロムウェルの1648年及1688~89年の光栄ある革命[5]をも引證することが出來る。併し之れ等の事件に就て述べることは、話が餘りに横道に入り過ぎるから、茲には全然省略する。

1740年佛國フリーメーソンの棟梁ダンタン公[6]は、或る演説の際に「フリーメーソンは全世界に共和政體を採用せしむる爲に創設されたものだ」と述べた。此演説を紹介したウィルヘルム・オールは、既に當時に於て1789年の佛蘭西革命の精神が、佛國フリーメーソンの中に窺はれること、及同様の精神及理想が當時獨逸の智識階級に不用意に輸入せられて居たことを認めて居る。

フリーメーソンに關する佛國の著書La Franche-Maçonne(1744年)、及びLes Franc-Maçons écrasés(1746年)は、表面フリーメーソン反對の様で、其實はフリーメーソンを説明宣傳せるものと認められるが、此二書は既に世界共和國の思想、及1789年革命(佛蘭西革命)のプログラムの大綱、並「自由」及「親睦(友愛)」の標語を書き表はして居る。其後王朝の没落後、更に「平等」なる標語が之に附け加へられたのである。

此處に一言説明して置きたいのは、フリーメーソンの中では「平等」は全く行はれていないことである。即ち各階級の間には厳格な隷属服従の關係を存して居るからである。ウィルヘルム・オールは佛國フリーメーソンを指揮せる顧問(Conseil de l’Ordre)の制度は、一種の寡頭政治であつて、一般に佛國のフリーメーソン内では貴族主義が行はれて居り、凡て結社の上級の機關、例へばRitual-Kollegium は、其機關から附與する第三十三階級に属する社員のみを以て組織される。即ち全く非デモクラシーの機關であることを書いて居る。

フリーメーソン内には「自由」もないのである。即ち言論の自由は全くない。國家の行ふ検閲とは比較にならぬ程、厳格な検閲制度がある。之は特に佛國に於て厳重であつて、獨逸では一般に結社員が其沈黙の誓約を遵守すべきことに就て、各自の責任観念に委せて居る。1894年1月1日、佛國の組合Grand Orientは、其回章[7](かいしょう 回覧)を以て明瞭に、次の様に云つて居る。「領袖並に演説者はあらゆる機會を捉へて、結社員は如何なる事由ありとも(許可なく勝手に)、結社及其内容に就ては決して公表してならないことに就て、社員の注意を喚起するを要する。而して此公表をなすには、明確なる許可を受け、又示されたる方法に依るべきものである」と。

佛國のフリーメーソン社員は、思想の自由を有せないのである。即ち彼等は必ず共和主義、及反僧侶主義でなければならぬ。又勝手に結社から脱退することが出來ない。即ち本人は其意志がなくても、組合に於て必要と認むれば、其人は死に至るまで社員たらねばならない。之に反し、結社員を組合から放逐することは、其の長の勝手である。ミュッフェルマ[8]は、1915年發行の伊太利のフリーメーソンに關する著書中に、其一例を擧げて居る。「1914年12月4日社員にしてベルノ[9]の組合の領袖たるドクトル・B.[10]は、伊太利の棟梁から電報で社員を免ぜられた。而も之に就ては何等の抗言も、審問も行はれないのであつた」と。フリーメーソン結社内に於ける「自由」の實際に就ては、尚無數の例を擧げることが出來るが、上に掲げた所で既に十分であらう。

次に標語の第三たる「親睦(友愛)」の實際は如何。之は社員相互間に於てはどうか、かうか行はれて居るが、此の相互間に於ても劇しい闘爭の行はれることがあるのを見ると、フリーメーソンの理想まではまだ可なりの距離のあることを感ぜざるを得ない。墺國の蔵相たりしシェーンボルン[11]は、1789年の佛蘭西革命に就て、次の如き意見を發表した。「此革命は自由、平等、親睦(博愛)に對する憧憬を以て開始されたが、其終局はギロチン(処刑台)の間断なき働きを以て終り、且惨憺たる戦爭を以て、佛國及全歐洲を荒廃に帰せしめた」と。誠に至言と云ふべきである。

話は大分横道に入つたが、本節の眼目に復帰しやう。人類を強者の支配より解放しやうと云ふのは、亦イルミナティ組合の目的であつた。此組合は十八世紀の後半に於て大に活動し、且フリーメーソンと幾多の共通點を有して居たものである。既に當時に於て世界同胞及世界共和國の思想は、其の魔力を表はし、偉大なる思想家、例へばカントの如きも之に賛したのである。しかし獨逸の各階級に、共和政體の拡がつたのは、十九世紀に入つてからの事であつた。即ち此思想はフリーメーソン社員にして革命家たるマッツィーニに依つて代表せられた。彼の一派は全歐洲に行き亘つて居た。マッツィーニの説に従へば、共和政體は唯一の正當なる政體であつて、マッツィーニ自身は彼の具備せる道徳及才能に依り、國民の指導教養に任じ、且其代表たるべき者と考へて居る。而も自由を以て始まつた革命運動も、自由の使徒が一旦支配權を掌握すれば、専制主義となつてしまうのである。

佛国革命の惨事の爲に著しく其聲價を失墜した共和思想は、十九世紀の中葉伊太利に於て存続し、其後同世紀の終りには再び佛國に移つた。佛國でも伊太利でも獨逸の封建皇帝政治は間もなく没落して、社會民主主義が行はるゝに至るべく、然る時は歐洲平和の脅威たるアルザス・ロレーヌ問題も、好都合に解決されるだらうと期待して居た。此の思想は佛國革命百年紀念の爲に、1889年に巴里に於て開催した世界フリーメーソン會議に於ては、一層明瞭に表明された。其際社員フランコリンは次の要旨の演説をなし、参列者の大喝采を受けた。

十八世紀をも將又1789年の革命をも経験せざりし國家に於ても、君主主義及宗教の没落すべき日は遠くない。此日に於て、凡ての不正は正され、凡ての特權は除去せられ、凡ての暴力を以て併呑せられたる國(「エルサス・ロートリンゲンアルザス・ロレーヌ)」、「ポーゼン(現ポズナン)」、「ガリツィア」等)は、自決權を獲得するであらう。然る時は國境其他の隔障に依つて、隔絶せられたる全世界のフリーメーソンは、之等の隔障を撤廃して合同することが出來るであらう。是れ吾人の眼前に横はれる光栄ある将來の理想である。此日を一日も速に實現せしめんことは、吾人の任務である。

右の演説は、フリーメーソンが獨逸革命、共和國の建設、及フリーメーソンの四海同胞の實現を豫期せることを語つて居るものである。

世界共和國の思想は、1900年、巴里の第二回世界フリーメーソン會議に於ては、全會議の基礎観念として特に明瞭に表明せられた。即ち此會議に於ける演説者にして、之に關する意見を述べぬものはなかつた。或る社員は、世界フリーメーソンの事務所を創設し、以てフリーメーソンの理想實現、及世界共和國の建設の爲め、全世界の結社員の協力に資せんことを提議した。彼は有名なるアルキメデスの言、「予に據點を與へよ、然らば予は全世界を混亂に擠(おとしい)るゝであらう」を引用し、且曰く「全世界のフリーメーソンの結束は、即ち吾人に取り所謂據點を與へるものである。吾人は之を以て世界を混亂に擠(おとしい)るゝことが出來る」と。實意味深長なる言である。此提議は熱心なる賛同を博し、會員一同は世界共和國の萬歳を唱ふるに至つた。而して其一委員長は、此の萬歳の叫びは決して徒爾に終るものではないと確言し、又或る社員は各國の代表者が帰國後先づ第一に報告すべきは、「各代表者が如何に世界共和國の建設に對し満腔の賛意を表したかと云ふことである」と述べた。此際注意すべきは、葡萄牙フリーメーソンの代表者の演説であつた。彼は演説の最後に云つた「予は帰國後葡萄牙フリーメーソンの集會で佛國フリーメーソン萬歳、世界共和國萬歳を唱ふるも、誰も怪しむ者のないことを確信する」と。當時(1900年)葡萄牙はまだ王國であつた。其後十年にして同國フリーメーソンの企圖は成功し、共和國になつたのである。

其後萬國フリーメーソン會議は屡々開催せられ、世界共和國建設に就て畫策し、又各國に於て幾多のフリーメーソンの陰謀が行はれた。而して爾後各國の新聞(其大部はフリーメーソンの手中に在り)は聯合し、又フリーメーソンの勢力を有する國家は互に結合し、其終局に於て世界最大のフリーメーソン社員たるエドワード七世が努力し、且切望した所の中欧諸國の包囲が實現さるゝに至つた。其後セルビアフリーメーソン社員の銃弾は、計畫通り發射せらるゝことゝなつたのである。

有識者」はチュートン帝國[12]の没落をば、時計を手にして計算することが出來た。此両帝國は全世界のフリーメーソン結社(Gross orient)から死刑の宣告を受けて居たからである。國内に於ける叛逆は、終に常勝軍の背後を刺した。斯くて吾人の敵が熱望した所の共和國は成立したのである。

 

[1] Léon Furnémont(1861~1927)は、ベルギーの弁護士・政治家・国会議員

[2] Marschall Deodoro da Fonseca(1827~1892)は、ブラジルの軍人。軍事クーデターを指揮して皇帝ペドロ2世を退位させ、ブラジルの初代大統領となった。

[3] Eleutherios Venizelos [Ελευθέριος Βενιζέλος](1864~1936)ヴェニゼロスは、ギリシャの政治家。君主制から共和制への移行期間を通じて9期12年に亘り断続的に首相を務めた。

[4] Charles Célestin Auguste Jonnart(1857~1927)はフランスの政治家。1894年にパ・ド・カレーから元老院議員となり、公共事業相、アルジェリア総督、そして1911年ブリヤン内閣で外務大臣第一次大戦中は外務委員、大戦後、ギリシャコンスタンティヌス王を退位させる連合国の中心人物であった。

[5] 名誉革命のことと思われる

[6] 原文・原典はHerzog von Autin。Herzog von Antinの間違いと思われる。フランス語:duc d’Antin(ダンタン公)はルイ14世の寵姫モンテスパン侯爵夫人のひ孫になる公爵Louis de Pardaillan de Gondrin(1707~1743)で、フランスの廷臣。フリーメーソンであった。

[7] 順に回して見せる文書、書状。ふつう、あて名が列記してある。回文。回状。

[8] Dr. Leo[pold] Müffelmann(1881-1934)はLudwig Müffelmannの息子。ジャーナリストで著名なフリーメーソン

[9] Belluno。ヴェネチアの北方約60キロにあるイタリアの町。

[10] 原典による。原文はベー。「B」のドイツ語読みであろう。   

[11] Friedrich Erwein Maria Carl Franz Graf von Schönborn(1841~1907)フリードリッヒ・シェーンボルンはオーストリアの政治家・法務大臣。1890年代のチェコとドイツの和解に大きくかかわった人物。

[12] チュートンとは古代欧州に存在した部族の名称で、ラテン語のテウトネス族から来た言葉で、ユトランド半島(現在のデンマークの辺り)が原住地とされる。そこから転じて、ゲルマン系の諸族を示す言葉となった。中世以降、テュートン(チュートン)はチュートン騎士団のように、ドイツ人の別称として使われた。この言葉は、ドイツ(German)と言う言葉に付け加えて、規則正しく、秩序正しく、集団で協力する性質、と言う意味が含まれる。ちょうど、ラテンと言う言葉が楽天的で陽気、と言う意味が含まれるようにその対句として使われる。

ここで言うチュートン帝國とはつまり、ドイツ・オーストリア=ハンガリー両帝國のことである。

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フリーメーソンと世界革命13(現代文)

22.北欧諸国に於けるフリーメーソン

 

スウェーデンの歴史にも、フリーメーソンの殺人事件がある。いまその記憶を呼び起こすのは、フリーメーソンは自分たちの目的達成の爲なら、状況に依っては犯罪的手段をも敢て辞さないと言うことを明らかにしたいからである。

フランス革命時の事であるが、スウェーデン王グスタフ三世は、ルイ十六世と同盟者であったが、ルイ十六世が1791年6月ヴァレンヌに蒙塵[1](もうじん:退避)した時、グスタフ三世は軍を率いてフランス国境に進み、ルイ十六世を救い出そうとした。ところが王の弟ジェーデルマンランド大公(スウェーデンフリーメーソンの大棟梁)は、フリーメーソン社員のアンカーストレム[2]に王を弑させた(1792年3月16日)。これはパリの弁護士で結社員であったカデ・ドゥ・ガシクール[3]が、革命の際フリーメーソンの真相を見破り、同社より脱退した後で、公表した事である[4]。又他の社員の記述によると、グスタフ三世及びルイ十六世の殺害は、既に1786年フランクフルト・アム・マインフリーメーソン集会で決議されていたとのことである[5]

ストックホルム」のスウェーデン大地方組合は、1760年の創立で、それ以前ヨハネ組合は、既に1731年に存在して居た。現在ではアンドレアス組合13個、ヨハネ組合28個を数え、会員数は14,811人である。これ等全部の長は、スウェーデン王グスタフ五世で、地方大棟梁は古来の慣例に従って、皇太子がなっており、その他の皇族も高級の階級を有している。スウェーデンフリーメーソンの教義については、既に記述した通りに、その宣誓、罰則は非常に厳しいものである。またスウェーデンフリーメーソンは遠くユダヤのソロモン王に始まるとし、首長の職はその子孫が継承すべきものとされている。ところで、現時のスウェーデン王室は、フランス元帥ベルナドット[6]の後裔である。ベルナドットは、1810年王位継承者に選ばれ、1818年カール十四世として、スウェーデン王の位についたのである。彼は1763年、フランスのポー(Pau)に生まれ、彼の父は名もなき田舎弁護士であった。そして彼の両親は、ユダヤの血を引いた人々であったとのことであるが、果たして事実とすれば、世界歴史上の一つの皮肉と言わざるを得ない。或は計画的に行われたことかも知れない。

スウェーデンノルウェイ王オスカル二世は、両国及び英国のフリーメーソンで名誉の地位を占め、当時のプリンス・オブ・ウェールズ、後のエドワード七世を初めてフリーメーソンに加入させたのが此のオスカル二世であった。しかし彼はフリーメーソン中に多数の敵があり、フリーメーソンの新聞などで、彼を攻撃する者が少なくなかった。又ノルウェイ人は彼の施政振りに満足して居なかった。そこで王に対し穏便な提議や、希望が出されたが、その効果が無いと見ると、遂に王を廃してしまった。この際スウェーデンノルウェイ両国の関係について商議した所は、カールスタード[7]の組合であった。スウェーデンの政治家の大多数及び社会民主党の領袖は、当にフリーメーソン社員である。

ノルウェイの現国王ホーコンも、フリーメーソン社員であるが、格別特別な地位を占めていない。現在の同国フリーメーソンの長は一市民である。結局のところ民主主義の時代精神を考慮して、王室とフリーメーソンとを引き離すことを奨めていることがわかる。ノルウェイの大地方組合は、スチュアード組合1、アンドレアス組合3、ヨハネ組合12があり、社員4,800人を数える。

デンマークの大地方組合は、国王クリスチャン十世で、ほぼノルウェイと同数の社員、即ち4,735人を有する。デンマークにおいても王政を廃止しようとする運動が始まった。この共和運動の主唱者は、(デンマーク大組合保証人、)[8]宰相サーレ(Dr. Zahle[9])、その人である。

 

[1] 天子が危険を避けて居所から他所へ逃れていくこと。

[2] Jacob Johan Anckarström(1762~1792)は下級貴族の出で、グスタフ3世の元近衛士官。絶対王制を敷いた王を憎むようになり、暗殺と革命を謀ったが王の暗殺により国民から憎悪の的となり、投獄され、死刑を宣告された。3日間の鞭打ちの後、右手を切断された上で1792年4月27日、アンカーストレムは市中を引き回しの後、公開斬首刑となった。その後、彼の遺族は、改名の許可を得た後に、贖罪として病院を建設、国家へ寄贈した。

[3] L. Ch. Cadet-Gassicourt(1769~1821)シャルル・ルイ・カデ・ドゥ・ガシクールはルイ15世の御落胤とされるフランスの弁護士・薬剤師。フランス革命にも積極的に関わったが、革命側にも批判的であった。革命中ヴァンデミエールの反乱(王党派民主勢力の叛乱)に加わったとして欠席裁判で有罪判決を受け、三年間姿を隠したが、最終的にセーヌ県の刑事陪審からこの判決は破棄された。その後、薬剤師としてパリで活躍した。

[4] 「Die Freimaurerei Österreich-Ungarns(オーストリア=ハンガリーフリーメーソン)1897年ウィーン」の185頁に引用されている「Le tombean de Jacques Molay etc.,(ジャック・モレーの墓他)1704年パリ」の一節。原典:https://elementsdeducationraciale.wordpress.com/2013/02/08/le-tombeau-de-jacques-de-molay/

[5] 同上、189頁

[6] 平民出身のフランス海軍軍人。ナポレオンと共に革命軍で活躍し、1794年に少将、中将と革命軍の最高位に上り詰めた。その後1897年以降、政治家としても活躍したが、ナポレオンが天下を取った「ブリュメール18日のクーデター」には加担しなかった。1809年、瑞露戦争に敗北したスウェーデンでクーデターが起こり、グスタフ4世を追放して王の叔父のカール13世を擁立したが、嗣子が居らず、迎えた王太子が急逝した爲、ベルナドットに白羽の矢が立った。1810年スウェーデン議会に選ばれ、王太子となった。

[7] スウェーデンの首都ストックホルムから西約200キロにあるベーネル湖畔の町。

[8] 原典:Der Herr Ministerpräsident und Br. Dr. Zahle, Großsiegelbewahrer der Großen Landesloge von Dänemark.(直訳:當にそれは総理大臣であり、同志サーレ博士、デンマーク国の大ロッジの偉大なシール保持者なのだ。)より追補。

[9] Carl Theodor Zahle(1866~1946)サーレは、デンマークの弁護士で政治家。1895年、彼は自由党からデンマーク議会の下院議員に選出され、1905年に社会民主党を他の政治家と共同設立した。1909~1910、1913~1920にデンマークの首相を務めた。

 

 

23.ドイツに於ける王政共和主義的フリーメーソン

 

少々奇妙なこの表題は、以下述べる事実によって、解明されるだろう。

君主政治の行われていた間、三個の古代プロシャ組合は、皇室に対し恭敬の限りを尽くし、あらゆる機会に、カイザーに対する恭敬の意を表明するように努めた。その他多数の組合は、既にその名称で忠君愛国の思想を表わしている。(歴代の君主や、皇室の名を組合の名に冠していた者が多数である)。これらの組合は、ドイツフリーメーソン大組合(在ベルリン)に属している。実際ドイツの組合は、皇室に忠実であって、数百人のドイツ将校も社員となっていて、大戦中二千人以上の社員は鉄十字章[10]を受けた。その他、各地の組合は、戦争に対する国民の決心を促す演説を行ったり、或いは潜水艦の資金を寄付したり、戦争の被災・被害者に対して援助をしたりした。しかしこれらのことはフリーメーソン自らが誇る程、賞讃に値するものでも何でもない。

敵国の大組合との関係は、唯仏伊両国の大組合との関係は断絶したが、その他の諸国との関係は単に休止したに過ぎない。もし落ち着いて冷静にフリーメーソンの忠君の精神を検討して見れば、何等忠君の例として挙げるべきものがないのを発見するだろう。1913~14年に、英独のフリーメーソンは、互いに訪問を交換し、戦争の惨害を防ぎ止めようとしたと言う者があるが、その結果は寧ろドイツの不利となったくらいであって、決してドイツのフリーメーソンの忠君の精神の例証とすることは出来ない。

三個の古代プロシャ組合には、フリードリヒ大王以後多数のホーエンツォレルン家の王族が入会した。フリードリヒ大王自身は、ハンブルクの組合に入会したが、組合の秘密については、何等知る所がなかった。そして結社の事業には大いに疑いの目を向け、常に一定の条件をつけなければ、保護を与えなかった。フリードリヒ・ウィルヘルム二世は1814年に会員となったが、フリーメーソンの秘密・目的・手段は、遂に知らずに終わった。彼もまた常にフリーメーソンを疑って居たが、彼の多くの臣下が、結社員となった為、差し当たり大なる危険はなかった。ウィルヘルム一世もこの戦術を踏襲し、多数の信用ある官吏を入社させ、それによりフリーメーソンの国家に危険な性質を除こうと図った。しかも1864年王はフリーメーソンに対し、その政治に関係することを止めなければ閉鎖を命ずる、と、威嚇せざるを得なかった。フランス大組合は、ウィルヘルム一世を評して言った「彼は一向真面目にフリーメーソンの義務を尽くさなかったにも拘らず、全世界に広く行き渡っているこの組合の長となることを有利と認めた」と。

ドイツフリーメーソンの間に、最も評判の良いのはフリードリヒ三世であった。彼は皇太子時代に、長い間フリーメーソンの長となって居った。多数の組合は、彼の名を冠してその名誉を表彰した。しかしながら彼もまた多くの点について、結社員と意見を異にし、とりわけその規定中の穏当でない点を除こうと思ったが、この改正意見はすべて社員が反対したため、遂に大棟梁の職を辞めざるを得なくなった。これらの事実が示す様に、ドイツのフリーメーソンが、君主主義であったと言う意見は正当でない。

ドイツのフリーメーソン社員は、言いたいことをそのまま言い表すことは出来ないかもしれないので、代わりにイタリアのフリーメーソン社員が貴族の社員についてどう考えているかを観察して見よう。1892年イタリアの結社員ボヴィオ[11]は、当時のまだ若かったカイザーウィルヘルム二世を指して、「重病患者」だと言っているが、善良なドイツ人の中でもビスマルクの罷免について、不満を抱いた者が多かったので、ボヴィオ以上に激しい発言でカイザーを罵ったかもしれないから、これは各別問題とするに足りないが、社員サッフィ[12]はある時、早く若い(社会民主的)ドイツが封建的ドイツ帝国に代わって生まれ出ることを期待すると述べた(1889年)。イタリアのフリーメーソン新聞は、ウィルヘルム二世により古代プロシャ大組合の長に任命されたフリードリヒ・レオポルド親王を罵倒した。さらにイタリアのフリーメーソンは、カイザー・フリードリヒ三世のために葬儀を行ったが、そのやり方が一種特有であった。つまり同じ頃にイタリアの革命家で大棟梁だったペトローニ[13]が死んだので、両者の葬儀を同時に行ない、しかも十八年間監獄に囚禁されたペトローニを上位とした。これは間違いと言うよりは、むしろ計画的な侮辱であったと言わねばならない。

フランスの結社員は、君主は即ち専制君主であり、君主はいかに善良な人であっても、フリーメーソンの原則を実行することは出来ないと主張する。実際共和政体を採用することが、フリーメーソンの一つの主要な原則だとしたならば、フランス社員の主張する所は当然であって、君主は速やかにその位を退いて、フリーメーソンの王侯にその地位を譲るほかはないわけであるが、その暁に於て、果して専制主義の君主を戴くのとどちらが幸福であるかは、近き将来が示すであろう。

尊敬すべき第三十三階級パイク[14]は、次の様に述べた。「我が秘密結社の領袖は、世界各国の有力者をしてフリーメーソンの仕事に参与させた。(しかも結社の事に関しては必要以上には知らせなかった)。これは彼等が結社に反抗し、結社の仕事の邪魔をしない様にする為であった。従って各国の有力者が、フリーメーソンを社会事業の機関にしたり、フリーメーソンは宗教及び政治とは全く関係のないものだと説明したりしても、領袖連は平気にこれを看過したのである」と。

次にドイツのフリーメーソン新聞に表われた所を、二、三紹介しよう。ウィルヘルム一世が、フリーメーソンが政治に関与するのを咎めて、それを止めなければ結社の閉塞を命ずると言って威嚇した頃、あるフリーメーソン紙は、激しくこれを罵って、次の様な事を書いた。「我が最高級の結社員の中には、フリーメーソンについて、とても珍妙な意見を持っているものがいる様だ。即ち同じ権利、義務を持っているはずの社員の結社を、弱い足を載せる足台と心得ている。……オリンピアの神々でも、必要な場合だけに義務的な礼拝をする様な人々のやり口には、顰蹙して逃げ出さざるを得ないであろう。」(1864年11月24日フライマウレル・ツァイツング)。他の新聞も同様なことを書いたが、これ等は古い例に過ぎないから略する。しかし最近のフリーメーソン新聞でも格別変わったことはない。例えばヘロルド新聞[15]は、叛乱罪及びその他の犯罪のために処刑されたスペイン人フランセスコ・ファレー[16]に四ページ半の讃辞を贈った。(1909年12月5日同新聞)。人には、色々な考えがあるから、その良い所は取り上げて、保護を加えるのは良いだろう。しかしながら少数者が暴力で多数者を強制しようとするのに対しては、これを容赦することは出来ない。威力は、威力をもって制圧するよりほかに方法はないと。尚ヘロルドの記者は、ファレーの友人である無政府主義者と親密な文通をしており、この者から直接ファレーの事を知得したとのことである。

以上はフリーメーソン紙の記事の二、三を挙げたに過ぎないが、次にフリーメーソンの指導者たる大棟梁の行動について観察して見よう。ドイツのフリーメーソン大棟梁等は、イタリアのフリーメーソンの高等政治的性質を有することをよく承知しているにも拘らず、彼等と最も密接な関係を保持し、しかもドイツの専制主義を呪うような手紙でも、喜んで受け取っていた。ザクセンの大組合の如きはイタリア大棟梁レンミ[17]を賞讃して、イタリアのみならず、全世界のフリーメーソンの王だと言った。このような場合、ドイツ以外の国のフリーメーソンは、専制君主に統治されるドイツを憐みの微笑をもって見下したことは想像に難くない。このような不見識な外国崇拝に対しては、真のドイツ人として許すべき社員ウィルヘルム・オール[18]は、激しい言葉で罵倒した。

ドイツのフリーメーソン領袖は、フランスのフリーメーソンに対しても、同様に常に阿付迎合[19](あふげいごう)の態度を取ったために、フランスのフリーメーソン社員は、戦争前から一般フランス民と共に、ドイツの没落を確信するようになった。ドイツフリーメーソンは、1914年5月31日、セルビアの最高会議を承認したのであるが、その後四週間にしてオーストリア皇太子はセルビアフリーメーソン社員によって暗殺された。当時ドイツの下級の社員の中には、もとよりこの暗殺事件を予知した者はなかったに違いないが、上級の社員は既にこの事件を予知しながら、いや、予知したがために、この承認問題を急遽決定したと想定される節が少なくないのである。

 

 [10] 鉄十字章(Eisernen Kreuzes I. (erster) Klasse)はプロイセン及びドイツが四度の戦争で制定した軍事功労賞であり、最下級の鉄十字章二級鉄十字章の上位に位置した。

[11] Giovanni Bovio(1837~1903)はイタリアの哲学者・国会議員。1895年にイタリア共和党を創立。フリーメーソンであった。

[12] Aurelio Saffi(1819~1890)はイタリア統一時代に活躍した政治家。英国に亡命しながらマッツィーニに霊感を受けてイタリアの共和制に貢献した。

[13] Giuseppe Petroni(1807~1882)はイタリア大東社の大棟梁(1871~80まで)。

[14] Albert Pikeのこと。

[15] Der Herold

[16] 原文・原典:Enrico Ferrer フェレールは間違いと思われる。Francisco Ferrer Guardia(1859~1909)ファレーはスペイン、バルセロナの教育者。1883年までにフリーメーソン社員となり、1885年スペインの共和制暴動に参加し、パリに亡命。1901年、バルセロナに戻り、近代学校(Escuela Modernaエスコーラ・ムデルナ)を設立。その後、バルセロナで1909年8月に起きた「悲劇の週」と呼ばれる無政府主義者の暴動の策謀者として逮捕され、軍法会議の結果、1909年10月13日に処刑された。この処刑に対しては、欧州の国々から「証拠もなく冤罪である」と、多くの批判が寄せられた。(報道新聞をフリーメーソンが握っていた爲)

[17] Adriano Lemmi(1822~1906)はイタリア共和主義者の銀行家。マッツィーニの親友でハンガリーのコシュートとシンシナティに同行した。1860年に「アダミ・レンミ会社」を設立し、ガリバルディから南部の鉄道網とタバコの専売権を与えられた。1885年にイタリア大東社の大棟梁となり、古代スコットランド儀式の司令官となった。生涯その地位にあった。また、イタリア各地のロッジを統合した。

[18] Wilhelm Ohrのこと。

[19] 相手の機嫌をとり、気に入られようとしてへつらいおもねること。

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フリーメーソンと世界革命13(原文)

22.北欧諸國に於けるフリーメーソン

 

瑞典の歴史にも、フリーメーソンの殺人事件がある。今其の記憶を喚起しやうとするのは、以てフリーメーソンは其の目的達成の爲め、状況に依つては犯罪的手段をも敢て辞せないと云ふことを明らかにせんが爲めである。

佛蘭西革命時の事であるが、瑞典王グスタフ三世は、ルイ十六世と同盟者であつたが、ルイ十六世が1791年6月ヴァレンヌに蒙塵[1](もうじん:退避)した時、グスタフ三世は軍を率ゐて佛國々境に進み、ルイ十六世を救ひ出さうとした。然るに王の弟セーデルマンランド大公(瑞典フリーメーソンの大棟梁)は、フリーメーソン社員アンカーストレム[2]をして王を弑せしめた(1792年3月16日)。之は巴里の辯護士にして結社員たりしカデ・ドゥ・ガシクール[3]が、革命の際フリーメーソンの眞相を看破し、同社より脱退したる後、公表した事である[4]。又他の社員の記述に依ると、グスタフ三世及びルイ十六世の殺害は、既に1786年フランクフルト・アム・マインフリーメーソン集會に於て決議されたとのことである[5]

ストックホルム」の瑞典大地方組合は、1760年の創立で、其以前ヨハネ組合は、既に1731年に存在して居た。現在ではアンドレアス組合13個、ヨハネ組合28個を算し、會員數は14,811人である。之等全部の長は、瑞典王グスタフ五世で、地方大棟梁は古來の慣例に従ひ、皇太子が成つて居り、其他の皇族も高級の階級を有して居る。瑞典フリーメーソンの教義に就ては、既に記述した通りに、其宣誓、罰則は頗る峻厳を極めたものである。又瑞典フリーメーソンは遠く猶太のソロモン王に始まるとなし、首長の職は其子孫の継承すべきものとされて居る。所で、現時の瑞典王室は、佛國元帥ベルナドット[6]の後裔である。ベルナドットは、1810年王位継承者に選ばれ、1818年カール十四世として、瑞典王の位に即いたのである。彼は1763年、佛國ポー(Pau)に生まれ、彼の父は名もなき田舎辯護士であつた。而して彼の両親は、猶太の血を承けた人々であつたとの事であるが、果して事實とせば、世界歴史上の一つの皮肉と云はざるを得ない。或は計畫的に行はれたことかも知れない。

瑞典諾威王オスカル二世は、両國及び英國フリーメーソンで名譽の地位を占め、當時のプリンス・オブ・ウェールズ、後のエドワード七世を始めてフリーメーソンに加入せしめたのは即ち此オスカル二世であつた。併し彼はフリーメーソン中に多數の敵を有し、フリーメーソンの新聞等で、彼を攻撃する者が少なくなかつた。又諾威人は彼の施政振りに満足して居なかつた。そこで王に對し穏便な提議や、希望が致されたが、其効果なきを見るや、遂に王を廃してしまつた。此際瑞典諾威両國の關係に就て商議した所は、カールスタード[7]の組合であつた。瑞典の政治家の大多數及び社會民主黨の領袖は、當にフリーメーソン社員である。

諾威の現國王ホーコンも、フリーメーソン社員であるが、格別特種の地位を占めて居ない。現在の同國フリーメーソンの長は一市民である。畢竟デモクラシーの時代精神を考慮して、王室とフリーメーソンとを引き離すことを勉めて居ることがわかる。諾威の大地方組合は、スチュアード組合1、アンドレアス組合3、ヨハネ組合12を有し、社員4,800人を算する。

丁抹の大地方組合は、國王クリスチャン十世で、略ぼ諾威と同數の社員、即ち4,735人を有する。丁抹に於ても王を廃せんとする運動が始まつた。此の共和運動の主唱者は、(丁抹大組合保證人、)[8]宰相サーレ(Dr. Zahle[9])、其人である。

 

[1] 天子が危険を避けて居所から他所へ逃れていくこと。

[2] Jacob Johan Anckarström(1762~1792)は下級貴族の出で、グスタフ3世の元近衛士官。絶対王制を敷いた王を憎むようになり、暗殺と革命を謀ったが王の暗殺により国民から憎悪の的となり、投獄され、死刑を宣告された。3日間の鞭打ちの後、右手を切断された上で1792年4月27日、アンカーストレムは市中を引き回しの後、公開斬首刑となった。その後、彼の遺族は、改名の許可を得た後に、贖罪として病院を建設、国家へ寄贈した。

[3] L. Ch. Cadet-Gassicourt(1769~1821)シャルル・ルイ・カデ・ドゥ・ガシクールはルイ15世の御落胤とされるフランスの弁護士・薬剤師。フランス革命にも積極的に関わったが、革命側にも批判的であった。革命中ヴァンデミエールの反乱(王党派民主勢力の叛乱)に加わったとして欠席裁判で有罪判決を受け、三年間姿を隠したが、最終的にセーヌ県の刑事陪審からこの判決は破棄された。その後、薬剤師としてパリで活躍した。

[4] 「Die Freimaurerei Österreich-Ungarns(オーストリア=ハンガリーフリーメーソン)1897年ウィーン」の185頁に引用されている「Le tombean de Jacques Molay etc.,(ジャック・モレーの墓他)1704年パリ」の一節。原典:https://elementsdeducationraciale.wordpress.com/2013/02/08/le-tombeau-de-jacques-de-molay/

[5] 同上、189頁

[6] 平民出身のフランス海軍軍人。ナポレオンと共に革命軍で活躍し、1794年に少将、中将と革命軍の最高位に上り詰めた。その後1897年以降、政治家としても活躍したが、ナポレオンが天下を取った「ブリュメール18日のクーデター」には加担しなかった。1809年、瑞露戦争に敗北したスウェーデンでクーデターが起こり、グスタフ4世を追放して王の叔父のカール13世を擁立したが、嗣子が居らず、迎えた王太子が急逝した爲、ベルナドットに白羽の矢が立った。1810年スウェーデン議会に選ばれ、王太子となった。

[7] スウェーデンの首都ストックホルムから西約200キロにあるベーネル湖畔の町。

[8] 原典:Der Herr Ministerpräsident und Br. Dr. Zahle, Großsiegelbewahrer der Großen Landesloge von Dänemark.(直訳:當にそれは総理大臣であり、同志サーレ博士、デンマーク国の大ロッジの偉大なシール保持者なのだ。)より追補。

[9] Carl Theodor Zahle(1866~1946)サーレは、デンマークの弁護士で政治家。1895年、彼は自由党からデンマーク議会の下院議員に選出され、1905年に社会民主党を他の政治家と共同設立した。1909~1910、1913~1920にデンマークの首相を務めた。

 

 

23.獨逸に於ける王政共和主義的フリーメーソン

 

稍や、奇異なる此標題は、以下述ぶる事實に依つて、分明するであらう。

君主政治の行はれし間、三個の古代プロシャ組合は、皇室に對し恭敬の限りを盡し、あらゆる機會に、カイザーに對する恭敬の意を表明することを勉めた。其他多數の組合は、既に其名稱に於て忠君愛國の思想を表して居る。(歴代の君主や、皇室の名を組合の名に冠して居たものが多數である)。之等の組合は、獨逸フリーメーソン大組合(在伯林)に属して居る。實際獨逸の組合は、皇室に忠實であつて、數百人の獨逸将校も社員となつて居り、大戦中二千人以上の社員は鐡十字章[10]を受けた。其他、各地の組合は或は戦爭に對する國民の決心を促す爲めの演説を爲し、或は潜航艇資金を獻じ、或は戦爭の爲めに損害を受けたる人々に對して援助をなした。併し之等のことはフリーメーソン自ら誇稱する程、賞讃に値するものでも何でもない。

敵國の大組合との關係は、唯だ佛伊両國の大組合との關係は断絶したが、其の他の諸國との關係は單に休止したに過ぎない。人若し虚心平気にフリーメーソンの忠君の精神を検討して見るならば、何等忠君の例として擧ぐべきものゝないのを發見するであらう。1913~14年に、英独のフリーメーソンは、互に訪問を交換し、戦爭の惨害を防遏[11](ぼうあつ)しやうとしたといふ者があるが、其結果は寧ろ獨逸の不利となつた位であつて、決して獨逸のフリーメーソンの忠君の精神の例證とすることは出來ない。

三個の古代プロシャ組合には、フリードリヒ大王以後多數のホーエンツォレルン家の王族が入會した。フリードリヒ大王自身は、ハンブルクの組合に入會したが、組合の秘密に就ては、何等知る所がなかつた。而して結社の事業には大に猜疑の眼を向け、常に一定の條件を賦課するのでなければ、之に對する保護を與へなかつた。フリードリヒ・ウィルヘルム二世は1814年に會員となつたが、フリーメーソンの秘密・目的・手段は、遂に知らずに終つた。彼も亦常にフリーメーソンを疑つて居たが、彼の多くの臣下が、結社員となつた爲め、差し當り大なる危険はなかつた。ウィルヘルム一世も此戦術を踏襲し、多數の信用ある官吏を入社せしめ、以てフリーメーソンの國家に危険なる性質を除くことを圖つた。而も1864年王はフリーメーソンに對し、其政治に關係することを止めなければ閉鎖を命ずると、威嚇せざるを得なかつた。佛國大組合は、ウィルヘルム一世を評して云つた「彼は一向眞面目にフリーメーソンの義務を盡さなかつたにも拘はらず、全世界に廣く行渡つて居る此組合の長となることを有利と認めた」と。

獨逸フリーメーソンの間に、最も評判の良いのはフリードリヒ三世であつた。彼は皇太子時代に、長い間フリーメーソンの長となつて居つた。多數の組合は、彼の名を冠して其名譽を表彰した。併しながら彼も亦多くの點について、結社員と意見を異にし、就中其の規定中の穏當でない點を除かうと思つたが、此の改正意見は、凡て社員の反對によつて、終に大棟梁の職を辞するの餘儀なきに至つた。之等の事實に徴すると、獨逸のフリーメーソンが、君主々義であつたと云ふ意見は正當でない。

獨逸のフリーメーソン社員は、自ら欲するところを其儘云ひ表はすことが出來ないかも知れないから、伊太利のフリーメーソン社員に就いて、彼等が貴族の社員について如何なる考へを持つて居るかを観察して見やう。1892年伊太利の結社員ボヴィオ[12]は、當時の若きカイザーウィルヘルム二世を指して、「重病患者」だと云つて居るが、善良なる獨逸人の中でも、ビスマルクの罷免に就て、不満を抱いた者が多かつたので、ボヴィオ以上に劇(はげ)しい文句を使つてカイザーを罵つたかも知れないから、之は各別問題とするに足りないが、社員サッフィ[13]は或時若き(社會民主的)獨逸は、間もなく封建的獨逸帝國に代りて生まれ出ることを期待すると述べた(1889年)。又伊太利フリーメーソン新聞は、ウィルヘルム二世から古代プロシャ大組合の長に任命されたフリードリヒ・レオポルド親王を罵倒した。又伊太利のフリーメーソンは、カイザー・フリードリヒ三世の爲めに葬儀を行つたが、其やり方が一種特別であつた。即ち同じ頃に伊太利の革命家にして大棟梁たりしペトローニ[14]が死んだので、両者と葬儀を同時に行ひ、而も十八年間監獄に囚禁されたペトローニを上位とした。之は間違と云はんより、寧ろ計畫的の侮辱であつたと云はねばならぬ。

佛國の結社員は、君主即ち専制君主であつて、君主は如何に善良なる人であつても、フリーメーソンの原則を實行することは出來ないと主張する。實際共和政體を採用することが、フリーメーソンの一の主要なる原則だとしたならば、佛國社員の主張する所は當然であつて、君主は速に其位を退いて、フリーメーソンの王侯に其地位を譲る外はないわけであるが、其暁に於て、果して専制主義の君主を戴くと何れが幸福であるかは、近き将來が示すであらう。

尊敬すべき第三十三階級パイク[15]は、次のやうに述べた。「我秘密結社の領袖は、世界各國の有力者をしてフリーメーソンの仕事に参與せしめた。(而も結社の事に關しては必要以上には知らしめなかつた)。之は彼等が結社に反抗し、結社の仕事の邪魔をしない様にする爲であつた。従つて各國の有力者が、フリーメーソンを社會事業の機關にしたり、フリーメーソンは宗教及政治とは全く關係のないものだと説明したりしても、領袖連は平気に之を看過したのである」と。

次に獨逸のフリーメーソン新聞に表はれた所を、二、三紹介しやう。ウィルヘルム一世が、フリーメーソンが、政治に關與するのを咎めて、それを止めなければ、結社の閉塞を命ずると云つて威嚇した頃、或るフリーメーソン紙は、激しく之を罵つて、次の様な事を書いた。「我最高級の結社員中には、フリーメーソンに就て、頗る珍妙なる意見を持つて居る様だ。即ち此同一の權利、義務を持つて居る社員の結社を目して、弱い足を戴する足臺と心得て居る。……オリンピアの神々でも、必要な場合だけに義務的の禮拝をする様な人々のやり口には、顰蹙して逃げ出さゞるを得ないであらう。」(1864年11月24日フライマウレル・ツァイツング)。他の新聞にも同様な事を書いたが、之等は古い例に過ぎないから略する。併し最近のフリーメーソン新聞でも格別變つたことはない。例へばヘロルド新聞[16]は、叛亂罪及び其他の犯罪の爲に所刑された西班牙人フランセスコ・ファレー[17]に四ページ半の讃辞を呈した。(1909年12月5日同新聞)。人には、色々の考があるから、其の良い所は之を採り上げて、保護を加へるのは宜しい。併しながら少數者が暴力を以て多數者を強制せんとするのに對しては、之を容赦することは出來ない。威力は、威力を以て制壓するより外に方法はないと。尚ヘロルドの記者は、ファレーの友人なる無政府主義者と親密なる文通をして居り、此者から直接ファレーの事を知得したとのことである。

以上はフリーメーソン紙の記事の二、三を擧げたに過ぎないが、次にフリーメーソンの指導者たる大棟梁の行動に就て観察して見やう。獨逸のフリーメーソン大棟梁等は、伊太利のフリーメーソンの高等政治的性質を有することを能く承知して居るにも拘らず、彼等と最も密接なる關係を保持し、且つ獨逸國の専制主義を呪へる如き手紙でも、喜んで受け取つて居た。ザクセンの大組合の如きは伊國大棟梁レンミ[18]を賞讃して、伊國のみならず、全世界のフリーメーソンの王だと云つた。斯の様な場合、獨逸以外の國のフリーメーソンは、専制君主に統治される獨逸をば憐憫の微笑を以て見下したことは想像に難くない。斯くの如き不見識なる外國崇拝に對しては、眞の獨逸人として許すべき社員ウィルヘルム・オール[19]は、激烈なる言葉を以て罵倒した。

獨逸のフリーメーソン領袖は、佛國のフリーメーソンに對しても、同様に常に阿附迎合[20](あふげいごう)の態度を取つた爲に、佛國のフリーメーソン社員をして、戦爭前から一般佛國民と共に、獨逸の没落を確信するに至らしめた。獨逸フリーメーソンは、1914年5月31日、セルビアの最高會議を承認したのであるが、其後四週間にして墺國皇儲はセルビアフリーメーソン社員の爲めに暗殺された。當時獨逸の下級の社員の中には、固より此暗殺事件を豫知した者はなかつたに違ひないが、上級の社員は既に此事件を豫知しながら、否、豫知したが爲めに、此承認問題を急遽決定したと想定せらるゝ節が少くないのである。

 

 [10] 鉄十字章(Eisernen Kreuzes I. (erster) Klasse)はプロイセン及びドイツが四度の戦争で制定した軍事功労賞であり、最下級の鉄十字章二級鉄十字章の上位に位置した。

[11] 侵入や拡大などを、防ぎとめること。

[12] Giovanni Bovio(1837~1903)はイタリアの哲学者・国会議員。1895年にイタリア共和党を創立。フリーメーソンであった。

[13] Aurelio Saffi(1819~1890)はイタリア統一時代に活躍した政治家。英国に亡命しながらマッツィーニに霊感を受けてイタリアの共和制に貢献した。

[14] Giuseppe Petroni(1807~1882)はイタリア大東社の大棟梁(1871~80まで)。

[15] Albert Pikeのこと。

[16] 原典:Der Herold。

[17] 原文・原典:Enrico Ferrer エンリコ・フェレールは間違いと思われる。Francisco Ferrer Guardia(1859~1909)ファレーはスペイン、バルセロナの教育者。1883年までにフリーメーソン社員となり、1885年スペインの共和制暴動に参加し、パリに亡命。1901年、バルセロナに戻り、近代学校(Escuela Modernaエスコーラ・ムデルナ)を設立。その後、バルセロナで1909年8月に起きた「悲劇の週」と呼ばれる無政府主義者の暴動の策謀者として逮捕され、軍法会議の結果、1909年10月13日に處刑された。この處刑に対しては、欧州の国々から「証拠もなく冤罪である」と、多くの批判が寄せられた。(報道新聞をフリーメーソンが握っていた爲)

[18] Adriano Lemmi(1822~1906)はイタリア共和主義者の銀行家。マッツィーニの親友でハンガリーのコシュートとシンシナティに同行した。1860年に「アダミ・レンミ会社」を設立し、ガリバルディから南部の鉄道網とタバコの専売権を与えられた。1885年にイタリア大東社の大棟梁となり、古代スコットランド儀式の司令官となった。生涯その地位にあった。また、イタリア各地のロッジを統合した。

[19] Wilhelm Ohrのこと。

[20] 相手の機嫌をとり、気に入られようとしてへつらいおもねること。

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フリーメーソンと世界革命12(現代文)

20.ロシアに於ける革命的フリーメーソン

 

ピョートル大帝が、フリーメーソンに属して居たと主張するものがあるが、この事については証拠はなく、又諸種の理由により、どうも事実とは思われない。尤も彼の治世の末期(大帝は1725年死す)には、既にロシア及びポーランドに、フリーメーソンの組合があったろうと思われる。フリーメーソン紙の記述によると、1743年、露都の組合は解散を命ぜられたとある。ロシアに於けるフリーメーソンの全盛時代は、エカチェリーナ二世の時であった。女帝はフリーメーソンを愛した。従ってヨーゼフ二世と同じく、多くのフリーメーソン社員が彼女の周囲に集まった。之について1862年発行の或るフリーメーソン機関紙は、次の一挿話を掲げている。

 

女帝はある時警視総監に対し、フリーメーソンの長は誰であるかと尋ねた。警視総監は答えて「私はその長を知っております。若し陛下が御希望ならば、彼は即刻御前に罷(まか)り出るでありましょう。」と言った。そこで女帝は訝(いぶか)しげに「どうして汝はそれを知っているか」と尋ねたところ警視総監は答えた、「私自身が結社に属して居りますから、それを知らぬ筈はありません。」そこで女帝は笑いながら「そんなら私は全くお前たち結社員から、取り囲まれているのだね」と言われた。

 

この頃、ロシアには145の組合があったという事が信じられる。その内には「トルベツコイ[1]」公を長とするロシア組合の外、「ガガーリン[2]」侯を長とするスウェーデン地方組合、及びエラーギン[3]を長とする英国地方組合があった。そこでフリーメーソンは一種の流行となったが、その仕事、つまり個人の向上、社会事業のようなことは、そっちのけで、宴会その他の馬鹿騒ぎを演ずるに過ぎなかった。また社員となるものの選考も行わず、金を払ったために採用される者も珍しくなかったので、遂にはペテルブルグで、いずれかの組合に属していない者は、殆ど全く無いと言うありさまになり、御者や、召使いに至る迄組合を組織し、会員を集めるに至った。当時詐欺師及び、掏摸(すり)の王と称せられたヨーセフ・バルサモは、その生地パレルモを逃げ出した後、カリオストロ伯と称してその妻の美人ロレンザを伴って、全欧州を遍歴し、上流の善男善女に、エジプト式フリーメーソンを伝授した。この夫婦に誘惑された男女は少なくなかった。その品行において余り評判の良くなかったエカチェリーナ女帝さえも、この夫婦の犠牲となった者について、皮肉な喜劇を書いて、此の詐欺師及びその被害者を最も露骨に痛烈に攻撃し、同時にフリーメーソンの事もよくは書いていない。

1798年フランス革命の際、ロシアにおいても、一般にフリーメーソンを以て、革命の首謀者と見做している。

エカチェリーナ女帝は聡明で注意深い婦人であったので、自分で目撃もし、また、他国で起こった出来事を見て、1794年ロシアにおける組合に解散を命じたが、1796年の11月17日に崩御した。エカチェリーナ女帝の子パーヴェル一世は、フリーメーソン社員であったので、同社員は彼によって結社の禁止が解かれるだろうと思った。また同皇帝はフリーメーソンを召集して、親しく今後の処置について相談した。ところが帝は、その後さらに新たな禁令を出し、而も厳にこれを励行した。このように急激に、皇帝が態度を替えた原因は不明だが、その後、間もなくパーヴェル一世は殺害された。パーヴェル一世の子アレクサンドル一世は、彼自身フリーメーソン結社員であったとのことで、同帝の時代になってから、ロシアのフリーメーソンは再び活動を始め、その会員の数も急激に増加し、ロシアの一流人物は概ね同会員となった。ところが同結社の勢力が余りにも有力となったので、アレクサンドル一世はこれについて不安を感じ、殊に「アストライアー(ギリシャの女神)」と言う名の新しい組合が、フランスのスコットランド式高級組合に近づいたことから、それは取りも直さず組合が高級政治に関係すると言うのと同じことなので、帝はなおさらその将来を憂慮し[4]、遂に1822年8月6日、厳重な勅令を下し、すべての秘密結社(フリーメーソンを含む)を禁止した。その理由は、諸種の陰謀は、皆秘密結社の計画する所だと言うことであった。この禁止と同時に、官吏でありながらフリーメーソン結社員である者は脱退しない限り、職を免ぜられることになった。

当時のロシア結社員の活動振りについては、社員フリードリッヒス[5]の書いた左記の文を見ると大体これを諒解することが出来る。

 

1826年ニコライ一世は、更に禁令を発した。当時組合は、最早ロシア国内に現存しなかったのである。それにも拘らず、この禁令を出したのは1825年における十二月党の陰謀(デカブリストの乱)によるものである。

この党の領袖は「ペステリ[6]」、「セルゲイ・トルベツコイ[7]」公、「ニキータ・ムラヴィヨフ[8]」、「セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル[9]」、「ハコフスコイ[10]」侯、「ベストゥージェフ[11]」等で、何れもフリーメーソン社員であった。

 

右の事実によって、陰謀者はすべてフリーメーソンであったことが分かる。しかも彼等は何れも政治的秘密結社公益同盟の首領株で、この秘密結社は理想を実行するためには、暗殺をも辞さない、というものであって、アレクサンドル一世はこの結社の犠牲となったのである(1825年12月1日)。ニコライ一世は、その兄の暗殺者を厳罰に処し、多数の犯人は死刑に処せられ、その他の共犯者は遠くシベリアに流され、その地に悲惨な終わりを告げたのである。

1826年以後、ロシアのフリーメーソンについては何も聞くことがない。その代わりに他の秘密結社がいくつも現れ、爆弾その他を以てその理想を実現しようとした。そしてその背後には常にユダヤ人が居た。例えば冬宮殿の爆弾事件の首謀者は、ユダヤ人ハートマン[12]であり、1881年3月13日アレクサンドル二世を爆弾を以て暗殺したのは、ユダヤ婦人イェッセ・ヘルフマン[13]であり、市司令官トゥレポフはユダヤ婦人ヴェラ・サスリッチに殺され[14]、内務大臣シピャーギンは、ユダヤ人ボゴレロフに殺された[15]。(*注意:猶太人バルマショフの間違いである。脚註参照)

1905年の革命後、ロシアのフリーメーソンは、再びロシア国内の事件に活発に参与する様になった。1905年4月発行のフランスのフリーメーソン新聞アカシアは、「共和党及びフランスのフリーメーソン全部は、ロシア革命が間もなく成功を収めるべきことについて、多大の望みを持つものである」と記述している。1905年の革命が、フリーメーソンの事業であることについては、ブトミー兄弟[16]がその著書「フリーメーソン内のユダヤ人及び革命」、「フリーメーソン売国」(1905、1906年露都発行)中に記述している。

又ドイツのユダヤ人ベルンスタイン[17]は、1906年社会主義雑誌中に「ロシア革命のためユダヤ人が如何に活動したか、又現に活動しつつあるかは、世間周知のことである」と、述べている。

1905年のロシア革命は、当時ロシア国民が尚革命の恩恵を受けるほど進んで居なかったので、前記アカシア紙の希望は実現されなかった。その代わりフリーメーソンは、ロシア政府に対し公然フリーメーソンを承認すべきことを要求したが、首相ストルイピンは頑としてこの要求をしりぞけた。その理由は「フリーメーソンの目的とする社会事業は、政府の監督下にある公然の結社でも十分その目的を達成することが出来る。ところがフリーメーソンの政治上の目的は、ロシアで禁止された十九世紀の初め以来、今日に至る迄、少しも変更されていない」と言うことであった。このストルイピンは、1911年9月14日暗殺された。暗殺者は、ユダヤ人ヘルシコウィッケ・ボグロフ[18](ディミトリ・モーテルと称した)である。彼は秘密警察の一員にもぐり込み、或る劇場で皇帝の目前でストルイピンを射殺した。この暗殺によって、誰が利益を得たかは読者の判断に任せよう。

1906年~07年の露英協定と共に、フリーメーソンの国家、英・仏・伊と絶対的に密接なる連繋をとるべきだと主張する組合が、ロシア内に創設された。フリーメーソンは、ドイツを仇敵とみなして、計画的にドイツ・ロシア間の関係を疎隔しようと試みた。

1917年2月28日におけるニコライ二世の失脚も、ロシアのフリーメーソンが英仏の結社員の援助の下に、やった仕事である。政府の首班となったリヴォフ公[19]は、フリーメーソン結社員であり、之に代わったユダヤケレンスキー[20]も同じく結社員である。

 

[1] 原典:Fürsten Trubetzkoi。 有名な言語学者のニコライ・トルベツコイは1892年生まれのため別人で、その父のセルゲイ・ニコラエーヴィチと思われる。(未確認)

[2] 原典:Fürsten Gagarin。詳細不明。ガガーリンはロシアでも有力な貴族の家系。

[3] 原典:Elagin。詳細不明

[4] 原文:殊に或る新らしい組合が、佛國がスコットランド式高級組合の式を採用したのは、取りも直さず組合が高級政治に關係することになるので、帝は尚更其将來を憂慮し、(原典参照し訳変更。)

[5] 原典:Friedrichs。詳細不明

[6] 原典:Pestel。Pavel Ivanovich Pestel(1793~1826)は帝政ロシアの軍人。陸軍大佐。

[7] 原典:Sergei Trubezkoi。Sergei Petrovich Trubetskoy(1790~1860)は叛乱に参加せず、オーストリア大使館に亡命を求めた。

[8] 原典:Nikita Murawew。Nikita Mikhailovich Muravyov(1796~1843)は穏健派で直接叛乱には参加しなかったが首謀者であり、死刑を宣告されたが後に強制労働20年に減刑され、1835年にイルクーツクに追放となった。そこで死亡した。

[9] 原典:Sergei Murawew-Apostol。Sergey Ivanovich Muravyov-Apostol(1796~1826)は帝政ロシアの軍人。陸軍中佐。

[10] 原典:Fürst Chakowskoi。Petr Grigorievich Kakhovskii(1797~1826)カホフスキーの間違いではないかと思われる。帝政ロシアの軍人でミハイル・ミロラドヴィチ伯爵とシュトゥルレル大佐を殺害した。

[11] 原典:Bestuschew。Mikhail Pavlovich Bestuzhev-Ryumin(1801~1826)ベストゥージェフ=リューミンは帝政ロシアの軍人。陸軍大佐。

[12] 原典:Hartmann

[13] 原典:Jesse Helfmann。Hesya Helfman(1855~1882)ヘルフマンはアレクサンドル二世を暗殺した犯人。死刑の判決を受けたが、公判で自身が身重(4か月)であることを告げ、出産後40日までの執行猶予となり、その後、西側の社会主義者の死刑執行反対運動と新聞報道のため、刑は終身カトリガ(シベリアでの強制労働)に減刑された。しかし、1881年10月に出産時の合併症がもとで死亡。嬰児も程なく死亡した。

[14] 原典:Wera Sassulitsch。Vera Ivanovna Sasulich(1849~1919)ヴェラ・ザスーリチは政治犯の扱いをめぐる恨みからペテルブルグの市長フィオドル・トレポフを殺害した。

[15] 原典:Bogolepow。Nikolay Bogolepov(1846~1901)ボゴレポフはロシアの人民教育大臣でPyotr Karpovichに暗殺された。(注意:ここでの記述とは異なる。)また、ロシア内務大臣Dmitry Sipyagin(原典:Szipjagin)は、ステファン・バルマショフと言う革命家(ユダヤ人)に暗殺された。

[16] 原典:G. und A. L. Butmi。Georgy Butmi(1856~1919)はシオン長老の議定書をロシア語で出版した著述家。A. L. Butomiは詳細不明。

[17] 原典:Genosse Bernstein。詳細不明。

[18] 原典:Herschkowitsch Begrow。Dmitry Bogrov(1887~1911)はロシアの秘密警察に潜入し、ストルイピンを暗殺したが、その動機は、ストルイピンの改革を行き詰まらせて穏健な改革を阻止することにより、極左による革命を惹起することにあったことが、20世紀末にソルジェニーツィンによって明らかにされた。

[19] 原典:Fürst Lwow。Georgii Evgenevich Ľvov(1861~1925)はロシアの政治家。1917年の二月革命でニコライ二世が退位した後に成立した臨時政府の初代首相3月23日~7月21日)。

十月革命勃発後、ボリシェヴィキによりチュメニで逮捕されエカテリンブルクに連行されるが脱走に成功し、オムスクのシベリア共和国に合流した。リヴォフはシベリア共和国首相ピョートル・ヴォロゴーツキイ(ロシア語版)の指示を受け、1918年10月にアメリカに渡りシベリア共和国への支援を取り付けようとした。しかし、アメリカとの交渉に失敗したためフランスに渡り、1918年から1920年にかけてロシアへの支援と亡命者の援助を訴える集会を数度に渡り開催した。その後は政治活動から引退し、パリに居住し回顧録を執筆しながら余生を過ごし、1925年に同地で死去した。

[20] Aleksandr Fyodorovich Kerenskii(1881~1970)はロシアの政治家。ユダヤ人。ロシア革命の指導者の一人で、リヴォフ公がボリシェヴィキの蜂起で失脚した後、臨時政府の首相を務めた。しかし、対独戦の失敗、皇帝が退位すれば戦争が終わると考えていた兵士たちの失望、共和国宣言に対する社会主義者からの反発、そして戦争離脱による英仏からの食糧供給遮断の恐れから戦争継続を主張する中で、急速にその支持を失い、十月革命ボリシェヴィキが蜂起すると冬宮殿を脱出し、プスコフに逃れ、同地の騎兵部隊を率いてペトログラードを奪還しようと試みたが失敗し、フランスに亡命した。

ケレンスキーは亡命後も政治活動を続け、1939年にオーストラリア人の元ジャーナリストであるリディア・"ネル"・トリットンと再婚した。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻が開始すると、ケレンスキーアメリカ合衆国に脱出し、1945年からはオーストラリアのブリスベンに移住し、彼女の家族と共に生活していた。

1946年4月にリディアとの死別後、ケレンスキーは再びアメリカに戻りニューヨークに居住するが、多くの時間をカリフォルニア州で過ごし、スタンフォード大学の講師やフーヴァー戦争・革命・平和研究所の研究員としてロシアの歴史や政治史に関する記録を残した。また、革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいてユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。

1970年にニューヨークの自宅で死去した。

 

 

21.英国の革命的フリーメーソン

 

英国のフリーメーソンは、他国のそれとは趣を異にし、自国に対しては革命的な仕事をせず、反対に英国の爲に必要な場合には、外国における革命を援助すると言う特色を持っている。

英国のフリーメーソンは、世界中において最も強固な組織である。(米国は数字では世界最大であるが、各州の大組合は全く独立しているので、団結に欠ける所がある)。

1918年、ロンドンの組合数は、729個以上に達し、地方の組合はその数1,749、植民地及び外国に677個がある。そのほか英本国内の地方大組合の数46、印度、豪州、南洋等の植民地、アルゼンチン、日本及び支那等に合計30個の大組合がある。地方若しくは領土大組合と、組合との中間機関にChapter [21](Kapitel)と言うのがあって、ロンドンだけでも256、地方に620、植民地及び外国に191ある。以上のほかに、教育組合がロンドンに286、地方に345ある。会員の数も以上の数に相応して多い上に、世界大戦間、急激に増加したので今では概ね45万人に達している。(植民地及び外国に在る会員を含む)。このほか、別にスコットランドに5万人、アイルランドに18,000人の会員がある。

英国連合大組合の大棟梁は、現在先帝エドワード第七世の弟コンノート大公である。他の王侯には社員となり、高級に挙げられても単に表面だけの待遇を受け、フリーメーソンの真相を知らなかった者の多いのと異なり、エドワード七世は英国の各組合の長となり、実際にその内情にも精通して居た。元来英国王は1689年以来、政治上の実勢力を持たない[22]のであるが、エドワード七世は王としてではなく、フリーメーソンの長として、英国の上下に実勢力を有して居た。英国では多少地位名望を有するものにして、フリーメーソン社員でないものはない。「英国が今日の隆盛を築いたのはフリーメーソンの功績である」とは、フリーメーソン・クロニクル紙(1902年)の書いた所であるが、これで英国のフリーメーソンの活動振りを想像することが出来よう。

英国は常に他国内の動乱を助長し、謀叛者に対し、豊富なる資金を給した。英国の予算には年々五百万ポンドの機密費を計上しているが、この金額は他国に対する宣伝煽動等に使用されるのである。従来英国が外国の元首、或いは重なる政治家の首にかけた多額の懸賞金も、この中より支出されたのである。英国フリーメーソンは、最も有効に同国の世界統治を促進した。従って同国の帝国主義に反抗する国に対しては大きな打撃を加えた。

英国のフリーメーソンは、共和主義的な傾向を持っていない。これは同国が1689年以来事実上の共和国となっているからである。英国のフリーメーソンとその国家とがこの様な密接な関係にあるのは、両者がその目標及び利害を一つにしているからである。即ちフリーメーソンも、英国国家も、共に類似している。例えばフリーメーソンは自由平等を唱え、その実際には極度の服従及び束縛の存するが如く、英国は今次大戦に際し抑圧された小国家の解放、圧制及び野蛮に対する戦争、正義人道及び文明擁護の戦争等の標語をもって宣伝をしたが、その宣伝はあらゆる虚構捏造で満たされていた。

フリーメーソン社員は、その目的を達する為には、その社員を利用することを怠らない。英国の今次大戦で執った政策もまた同様であって、英国は支那は勿論、比較的関係の浅い国をも、自己の味方として戦争に引き入れる事に努力した。ポルトガル、中米諸国、日本、リベリア等はその例である。この目的を達する為には、英国政府はフリーメーソンを使い、諸国の同社員を動かしたのである。即ち各植民地、アルゼンチン、日本及び支那における三十個の英国大組合は、よくその任務を全うしたのである。その他外国にある677の英国組合は、之に関して大いに援助を与えた。このため英国フリーメーソンは、随時諸外国の元首、又は有力者を英国組合員、又はその客分として誘致することを怠らなかった。(例えばザンジバル[23]アフガニスタンのエミール・ショホール王、日本政治家林子爵[24]等)。

既に述べたように全世界におけるフリーメーソン社員の数は、235万8140人を数えるが、その内ドイツ人及び親独的な者は僅かに十万人に過ぎない。ドイツ・オーストリア両国が世界を敵にして戦わねばならなくなったのは、誰の仕事であったか。フリーメーソンに関し、その本質範囲、価値等を判断したものは非常に少数の者であって、この少数の者の声は、衆愚の叫び声の中で打ち消されてしまったのである。然しながら二百年来、英国が指導して来た所のフリーメーソンこそ、ドイツを窮地に陥れた者にほかならないのである。

 

[21] Kapitel:ローマ・カトリック教会の機関(英語でchapter,ドイツ語でKapitel,フランス語でchapitre)。個々の聖堂に属する聖職者canoniciによって構成される合議体的組織。

[22] 1688年名誉革命:英国議会はローマ教会派のジェームズ二世追放し、長女のメアリーと、その夫のオラニエ公ウィレム三世(ネーデルランド統領)をロンドンに招聘した。この時から英国は王国ではなく共和国(立憲君主国)。

[23]ザンジバルタンザニアの沖にある島。

[24]林子爵:林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月11日) - 大正2年(1913年)7月10日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の五男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。

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フリーメーソンと世界革命12(原文)

20.ロシアに於ける革命的フリーメーソン

 

ピョートル大帝が、フリーメーソンに属して居たと主張する者があるが、此事に就ては證據はなく、又諸種の理由により、どうも事實とは思はれない。尤も彼の治世の終期(大帝は1725年死す)には、既に露國及び波蘭に、フリーメーソンの組合があつたらうと思はれる。フリーメーソン紙の記述に依ると、1743年、露都の組合は解散を命ぜられたとある。露國に於けるフリーメーソンの全盛時代は、エカチェリーナ二世の時であつた。女帝はフリーメーソンを愛した。従つてヨーゼフ二世と同じく、多くのフリーメーソン社員が、彼女の周囲に集まつた。之に就て1862年發行の或るフリーメーソン機關紙は、次の一挿話を掲げて居る。

 

女帝は或時警視総監に對し、フリーメーソンの長は誰であるかと尋ねた。警視総監は答へて「私は其長を知つて居ります。若し陛下が御希望ならば、彼は即刻御前に罷り出るでありませう。」と云つた、そこで女帝は訝しげに「どうして汝はそれを知つて居るか」と尋ねたところ警視総監は答へた、「私自身が結社に属して居りますから、それを知らぬ筈はありません。」そこで女帝は笑ひながら「そんなら私は全くお前たち結社員から、取り囲まれて居るのだね」と云はれた。

 

此時分、露國には145の組合が有つたといふ事が信ぜられる。其内には「トルベツコイ[1]」公を長とする露國組合の外、「ガガーリン[2]」侯を長とする瑞典地方組合、及びエラーギン[3]を長とする英國地方組合があつた。そこでフリーメーソンは一種の流行となつたが、其仕事、即ち個人の向上、社會事業の如きは、そつちのけで、宴會其他の馬鹿騒ぎを演ずるに過ぎなかつた。又社員となるものの銓衡(選考)も行はず、金を拂つた爲めに採用される者も珍しくなかつたので、終にはペテルブルグに於て、何れかの組合に属して居らぬ者は、殆ど全く無いといふ状態となり、馭者(御者)や、召使に至る迄組合を組織し、會員を集めるに至つた。當時詐欺師及、掏摸(すり)の王と稱せられたヨーゼフ・バルサモは、其生地パレルモを逃れ出でたる後、カリオストロ伯と稱して其妻の美人ロレンザを伴ひて、全歐洲を遍歴し、上流の善男善女に、埃及(エジプト)式フリーメーソンを傳授した。此夫婦の爲めに誘惑された男女は少くなかつた。其品行に於て餘り評判のよくなかつたエカチェリーナ女帝さへも、此夫婦の犠牲となつた者について、皮肉な喜劇を書いて、最も露骨に此詐欺師及び其被害者を痛烈に攻撃し、同時にフリーメーソンの事もよくは書いて居らぬ。

1789年の佛蘭西革命の際、露國に於ても、一般にフリーメーソンを以て、革命の主謀者と見做して居る。

エカチェリーナ女帝は聡明且つ注意深き婦人であつたので、自分で目撃もし、又は他國に起つた出來事を見て、1794年露國に於ける組合に解散を命じたが、1796年の11月17日崩御した。エカチェリーナ女帝の子パーヴェル一世は、フリーメーソン社員であつたので、同社員は彼に依つて結社の禁止が解かれるだらうと思つた。又同皇帝はフリーメーソンを召集して、親しく今後の處置に就て相談した。然るに帝は、其後更に新たなる禁令を出し、而かも厳に之を勵行した。此の如く急劇に、皇帝が態度を替へた原因は不明であるが、其後、間も無くパーヴェル一世は殺害された。パーヴェル一世の子アレクサンドル一世は、彼自身フリーメーソン結社員であつたとのことで、同帝の時代になつてから、露國のフリーメーソンは再び活動を始め、其會員の數も急劇に増加し、露國一流の人物は概ね同會員と成つた。然るに同結社の勢力が餘りに有力となつたので、アレクサンドル一世は之に就て不安を感じ、殊に「アストライアー(ギリシャの女神)」と言う名の新しい組合が、フランスのスコットランド式高級組合に近づいたことから、それは取りも直さず組合が高級政治に関係すると言うのと同じことなので、帝はなおさらその将来を憂慮し[4]、遂に1822年8月6日、厳重な勅令を下し、凡ての秘密結社(フリーメーソンを含む)を禁止した。其理由とする所は、諸種の陰謀は、皆秘密結社の計畫する所だと云ふのであつた。此禁止と同時に、官吏にしてフリーメーソン結社員たる者は之を脱退するにあらざれば、職を免ぜられる事となつた。

當時の露國結社員の活動振りに就ては、社員フリードリッヒス[5]の書いた左記の文を見ると略ぼ之を諒解することが出來る。

 

1826年ニコライ一世は、更に禁令を發した。當時組合は、最早露國内に現存しなかつたのである。それにも拘らず、此禁令を出したのは1825年に於ける十二月黨の陰謀(デカブリストの亂)に基くものである。

此黨の領袖は「ペステリ[6]」、「セルゲイ・トルベツコイ[7]」公、「ニキータ・ムラヴィヨフ[8]」、「セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル[9]」、「ハコフスコイ[10]」侯、「ベストゥージェフ[11]」等で、何れもフリーメーソン社員であつた。

 

右の事實に依つて、陰謀者は凡てフリーメーソンであつたことが分かる。而かも彼等は何れも政治的秘密結社公益同盟の首領株で、此秘密結社は理想を實行する爲には、暗殺をも辞せなかつたものであつて、アレクサンドル一世は此結社の犠牲となつたのである(1825年12月1日)。ニコライ一世は、其兄の暗殺者を厳刑に處し、多數の犯人は死刑に處せられ、其他の連累者は遠く西伯利(シベリア)に流され、其地に悲惨なる終りを告げたのである。

1826年以後、露國のフリーメーソンに就ては何等聞く所がない。其代りに其外の秘密結社がいくつも現はれ、爆弾其他を以て其理想を實現せんことに勉めた。而して其背後には、常に猶太人が在つた。例へば冬宮に於ける爆弾事件の主謀者は、猶太人ハートマン[12]であり、1881年3月13日アレクサンドル二世を爆弾を以て暗殺したのは、猶太婦人イェッセ・ヘルフマン[13]であり、市司令官トゥレポフは猶太婦人ヴェラ・サスリッチに殺され[14]、内務大臣シピャーギンは、猶太人ボゴレロフに殺された[15]。(*注意:猶太人バルマショフの間違ひである。脚註参照)

1905年の革命後、露國のフリーメーソンは、再び露國内の事件に活發に参與する様になつた。1905年4月發行の佛國フリーメーソン新聞アカシアは、「共和黨及び佛國フリーメーソン全部は、露國革命が間もなく成功を収むべきことに就て、多大の望を属するものである」と記述して居る。1905年の革命が、フリーメーソンの事業であることに就ては、ブトミー兄弟[16]が其著書「フリーメーソン内の猶太人及び革命」、「フリーメーソンと売國」(1905、1906年露都發行)中に記述して居る。

又獨逸猶太人ベルンスタイン[17]は、1906年の社會主義雑誌中に「露國革命の爲め猶太人が如何に活動したか、又現に活動しつゝあるかは、世間周知の事である」と、述べて居る。

1905年の露國革命は、當時露國民が尚革命の洗禮を享受すべき程度に進んで居なかつたので、前記アカシア紙の希望は實現されなかつた。其代りフリーメーソンは、露國政府に對し公然フリーメーソンを承認すべきことを要求したが、首相ストルイピンは頑として此要求を却(しりぞ)けた。其理由とする所は「フリーメーソンの目的とする社會事業は、政府の監督下にある公然の結社でも十分其目的を達成することが出來る。然るにフリーメーソンの政治上の目的は、露國に於て禁止された十九世紀の始以來、今日に至る迄、豪も變更されていない」といふにあつた。此ストルイピンは、1911年9月14日暗殺された。暗殺者は、猶太人ヘルシコウィツケ・ボグロフ[18](ディミトリ・モーテルと稱した)である。彼は秘密警察の一員にもぐり込み、或る劇場で皇帝の目前でストルイピンを射殺した。此暗殺に因つて、誰が利益を得たかは読者の判断にまかせやう。

1906年~07年の露英協定と共に、フリーメーソンの國家、英・佛・伊と絶對的に密接なる連繋を採るべしと主張する組合が、露國内に創設された。フリーメーソンは、獨逸を仇敵となし、計畫的に露國間の關係を疎隔せんことを試みた。

1917年2月28日に於けるニコライ二世の失脚も、露國のフリーメーソンが、英、佛の結社員の援助の下に、やつた仕事である。政府の首班となつたリヴォフ公[19]は、フリーメーソン結社員であり、之に代つた猶太人ケレンスキー[20]も同じく結社員である。

 

[1] 原典:Fürsten Trubetzkoi。 有名な言語学者のニコライ・トルベツコイは1892年生まれのため別人で、その父のセルゲイ・ニコラエーヴィチと思われる。(未確認)

[2] 原典:Fürsten Gagarin。詳細不明。ガガーリンはロシアでも有力な貴族の家系。

[3] 原典:Elagin。詳細不明

[4] 原文:殊に或る新らしい組合が、佛國がスコットランド式高級組合の式を採用したのは、取りも直さず組合が高級政治に關係することになるので、帝は尚更其将來を憂慮し、(原典参照し訳変更。)

[5] 原典:Friedrichs。詳細不明

[6] 原典:Pestel。Pavel Ivanovich Pestel(1793~1826)は帝政ロシアの軍人。陸軍大佐。

[7] 原典:Sergei Trubezkoi。Sergei Petrovich Trubetskoy(1790~1860)は叛乱に参加せず、オーストリア大使館に亡命を求めた。

[8] 原典:Nikita Murawew。Nikita Mikhailovich Muravyov(1796~1843)は穏健派で直接叛乱には参加しなかったが首謀者であり、死刑を宣告されたが後に強制労働20年に減刑され、1835年にイルクーツクに追放となった。そこで死亡した。

[9] 原典:Sergei Murawew-Apostol。Sergey Ivanovich Muravyov-Apostol(1796~1826)は帝政ロシアの軍人。陸軍中佐。

[10] 原典:Fürst Chakowskoi。Petr Grigorievich Kakhovskii(1797~1826)カホフスキーの間違いではないかと思われる。帝政ロシアの軍人でミハイル・ミロラドヴィチ伯爵とシュトゥルレル大佐を殺害した。

[11] 原典:Bestuschew。Mikhail Pavlovich Bestuzhev-Ryumin(1801~1826)ベストゥージェフ=リューミンは帝政ロシアの軍人。陸軍大佐。

[12] 原典:Hartmann

[13] 原典:Jesse Helfmann。Hesya Helfman(1855~1882)ヘルフマンはアレクサンドル二世を暗殺した犯人。死刑の判決を受けたが、公判で自身が身重(4か月)であることを告げ、出産後40日までの執行猶予となり、その後、西側の社会主義者の死刑執行反対運動と新聞報道のため、刑は終身カトリガ(シベリアでの強制労働)に減刑された。しかし、1881年10月に出産時の合併症がもとで死亡。嬰児も程なく死亡した。

[14] 原典:Wera Sassulitsch。Vera Ivanovna Sasulich(1849~1919)ヴェラ・ザスーリチは政治犯の扱いをめぐる恨みからペテルブルグの市長フィオドル・トレポフを殺害した。

[15] 原典:Bogolepow。Nikolay Bogolepov(1846~1901)ボゴレポフはロシアの人民教育大臣でPyotr Karpovichに暗殺された。(注意:ここでの記述とは異なる。)また、ロシア内務大臣Dmitry Sipyagin(原典:Szipjagin)は、ステファン・バルマショフと言う革命家(ユダヤ人)に暗殺された。

[16] 原典:G. und A. L. Butmi。Georgy Butmi(1856~1919)はシオン長老の議定書をロシア語で出版した著述家。A. L. Butomiは詳細不明。

[17] 原典:Genosse Bernstein。詳細不明。

[18] 原典:Herschkowitsch Begrow。Dmitry Bogrov(1887~1911)はロシアの秘密警察に潜入し、ストルイピンを暗殺したが、その動機は、ストルイピンの改革を行き詰まらせて穏健な改革を阻止することにより、極左による革命を惹起することにあったことが、20世紀末にソルジェニーツィンによって明らかにされた。

[19] 原典:Fürst Lwow。Georgii Evgenevich Ľvov(1861~1925)はロシアの政治家。1917年の二月革命でニコライ二世が退位した後に成立した臨時政府の初代首相3月23日~7月21日)。

十月革命勃発後、ボリシェヴィキによりチュメニで逮捕されエカテリンブルクに連行されるが脱走に成功し、オムスクのシベリア共和国に合流した。リヴォフはシベリア共和国首相ピョートル・ヴォロゴーツキイ(ロシア語版)の指示を受け、1918年10月にアメリカに渡りシベリア共和国への支援を取り付けようとした。しかし、アメリカとの交渉に失敗したためフランスに渡り、1918年から1920年にかけてロシアへの支援と亡命者の援助を訴える集会を数度に渡り開催した。その後は政治活動から引退し、パリに居住し回顧録を執筆しながら余生を過ごし、1925年に同地で死去した。

[20] Aleksandr Fyodorovich Kerenskii(1881~1970)はロシアの政治家。ユダヤ人。ロシア革命の指導者の一人で、リヴォフ公がボリシェヴィキの蜂起で失脚した後、臨時政府の首相を務めた。しかし、対独戦の失敗、皇帝が退位すれば戦争が終わると考えていた兵士たちの失望、共和国宣言に対する社会主義者からの反発、そして戦争離脱による英仏からの食糧供給遮断の恐れから戦争継続を主張する中で、急速にその支持を失い、十月革命ボリシェヴィキが蜂起すると冬宮殿を脱出し、プスコフに逃れ、同地の騎兵部隊を率いてペトログラードを奪還しようと試みたが失敗し、フランスに亡命した。

ケレンスキーは亡命後も政治活動を続け、1939年にオーストラリア人の元ジャーナリストであるリディア・"ネル"・トリットンと再婚した。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻が開始すると、ケレンスキーアメリカ合衆国に脱出し、1945年からはオーストラリアのブリスベンに移住し、彼女の家族と共に生活していた。

1946年4月にリディアとの死別後、ケレンスキーは再びアメリカに戻りニューヨークに居住するが、多くの時間をカリフォルニア州で過ごし、スタンフォード大学の講師やフーヴァー戦争・革命・平和研究所の研究員としてロシアの歴史や政治史に関する記録を残した。また、革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいてユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。

1970年にニューヨークの自宅で死去した。

 

 

21.英國の革命的フリーメーソン

 

英國フリーメーソンは、他國のそれと趣を異にし、自國に對しては革命的の仕事を行はず、反對に英國の爲めに必要なる場合に、外國に於ける革命を援助するといふ特色を持つて居る。

英國フリーメーソンは、世界中に於て最も鞏固な組織である。(米國は數字に於て世界最大であるが、各州の大組合は、全く独立して居るので、団結に於て缺くる所がある)。

1918年、倫敦の組合數は、729個以上に達し、地方の組合は其數1,749、植民地及び外國に677個がある。其の外英本國内の地方大組合の數46、印度、豪州、南洋等の植民地、アルゼンチン、日本及び支那等に合計30個の大組合がある。地方若くは領土大組合と、組合との中間機關にChapter [21](Kapitel)と云ふのがあつて、倫敦だけでも256、地方に620、植民地及び外國に191ある。以上の外に、教育組合が倫敦に286、地方に345ある。會員の數も以上の數に相應して多い上に、世界大戦間、急劇に増加したので今では無慮45萬人に達して居る。(植民地及び外國に在る會員を含む)。此外、別に蘇格蘭に50,000人、アイルランドに18,000人の會員がある。

英國聯合大組合の大棟梁は、現在先帝エドワード第七世の弟コンノート大公である。エドワード七世は、英國の各組合の長となり、他の王侯が社員となり、高級に擧げられても、單に表面だけの待遇を受け、フリーメーソンの眞相を知らなかつた者の多いのと異なり、實際に其内情にも精通して居た。元來英國王は1689年以來、政治上の實勢力を持たない[22]のであるが、エドワード七世は王としてではなく、フリーメーソンの長として、英國の上下に實勢力を有して居た。英國では多少地位名望を有するものにして、フリーメーソン社員でないものはない。「英國が今日の大を成したのはフリーメーソンの功績である」とは、フリーメーソン・クロニクル紙(1902年)の書いた所であるが、以て英國フリーメーソンの活動振りを想像することが出來やう。

英國は常に他國内の動亂を助長し、謀叛者に對し、豊富なる資金を給した。英國の豫算には年々五百萬ポンドの機密費を計上して居るが、此金額は他國に對する宣傳煽動等に使用せられるのである。従來英國が外國の元首、或は重なる政治家の首にかけた多額の懸賞金も、此中より支出されたのである。英國フリーメーソンは、最も有効に同國の世界統治を促進した。従つて同國の帝國主義に反抗する國に對しては大なる打撃を加へた。

英國フリーメーソンは、共和主義的の傾向を持つて居らない。之は同國が1689年以來事實上の共和國となつて居るからである。英國フリーメーソンと其國家とが斯くの如く密接な關係にあるのは、両者が其目標及利害を一にして居るからである。即ちフリーメーソンも、英國々家も、共に世界統治を成就せようと努力して居り、両者の利害は全く一致してをる。両者の活動振りも、共に類似して居る。例へばフリーメーソンは自由平等を唱へ、其實際には極度の服従及び束縛の存するが如く、英國は今次大戦に際し壓迫せられたる小國家の解放、壓制及び野蛮に對する戦爭、正義人道及び文明擁護の戦爭等の標語を以て宣傳をしたが、其宣傳はあらゆる虚構捏造を以て満されて居つた。

フリーメーソン社員は、其目的を達する爲めには、其社員を利用することを怠らない。英國の今次大戦に於て執つた政策も亦同様であつて、英國は其の支那は勿論、比較的關係の浅い國をも、自己の味方として戦爭に引き入れる事を努めた。葡萄牙、中米諸國、日本、リベリア等は其例である。此目的を達する爲めには、英國政府はフリーメーソンをして、諸國の同社員を動かさせたのである。即ち各植民地、アルゼンチン、日本及び支那に於ける三十個の英國大組合は、克(よ)く其任務を完うしたのである。其他外國にある677の英國組合は、之に關して大なる援助を與へた。之が爲め英國フリーメーソンは、随時諸外國の元首、又は有力者を英國組合員、又は其客分として誘致することを怠らなかつた。(例へばザンジバル[23]アフガニスタンのエミール・ショホール王、日本政治家林子爵[24]等)。

既述の如く全世界に於けるフリーメーソン社員の數は、235萬8140人を算するが、其内獨逸人及び親独的の者は僅に十萬人に過ぎない。独墺両國が世界を敵として戦はねばならなくしたのは、誰の仕事であつたか。フリーメーソンに關し、其本質範囲、價値等を判断した者は頗る少數の者であつて、此少數の者の聲は、衆愚の叫聲の爲めに打消されてしまつたのである。然しながら二百年來、英國が指導して來つた所のフリーメーソンこそ、獨逸を窮地に陥れたる者に外ならないのである。

 

 [21] Kapitel:ローマ・カトリック教会の機関(英語でchapter,ドイツ語でKapitel,フランス語でchapitre)。個々の聖堂に属する聖職者canoniciによって構成される合議体的組織。

[22] 1688年名誉革命:英国議会はローマ教会派のジェームズ二世追放し、長女のメアリーと、その夫のオラニエ公ウィレム三世(ネーデルランド統領)をロンドンに招聘した。この時から英国は王国ではなく共和国(立憲君主国)。

[23] ザンジバルタンザニアの沖にある島。

[24] 林子爵:林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月11日) - 大正2年(1913年)7月10日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の五男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。

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フリーメーソンと世界革命11(現代文)

15.オーストリアに於ける革命的フリーメーソン

 

オーストリアに於けるフリーメーソンは、1726年6月24日ヨハン・シュポルク伯[1]が、プラハ組合を設立したのが始まりである。当初多数のボヘミア貴族が会員となった。シュポルク伯に継いで大棟梁となったダヴィドは、(プラハの反乱で)反乱罪に問われて死刑の宣告を受けたが、社員の奔走の結果、死一等を減じて無期懲役刑に処せられた。女帝マリア・テレジアの夫ステファン大公[2]も、結社員であったが、女帝自身は、フリーメーソンを危険視してこれを好まなかった。

フリーメーソンの善行として挙げるべきことは、プラハに孤児院を設立したことである。

ヨーゼフ二世[3]1780年フリーメーソンが、外国と連絡を保持することを禁じ、1785年には組合数に制限を設けた。このほか、同帝はフリーメーソンに対し、あまり好意を持たず、その手記の中で、フリーメーソンを罵ったため、当時全欧州に十万を数えた社員全部の恨みを買った。1789~90年のトルコ戦は、フリーメーソンの仕事であった。この戦争の結果、オーストリア皇室の財宝及び軍隊は減少し疲弊した。ヨーゼフ二世は、いよいよフリーメーソンの勢力を殺ぐことを決心したが、この決心を実行するに先立ち、1790年2月49歳に達せずして崩じた。

レオポルド二世は、よくフリーメーソンの真相を知り、欧州各国の王室が、秘密結社の奴隷となっている事を看破し、ひそかにこの秘密勢力を打破しようと図った。帝の姉妹皇后マリー・アントワネットは帝に対し、フリーメーソンについて警戒すべきことを忠告した。帝もまたフリーメーソンを抑圧しようと決心したが、これを実行するに先立ち1792年3月45歳の若さで崩じた(フリーメーソンに弑されたとの説がある)。レオポルド二世の後を継いだ皇帝フランツ二世は、1794年に命令を発して、国内のフリーメーソンを圧迫した。1795年に発覚した皇室転覆の陰謀は、フリーメーソンの企てたもので、レオポルド二世の秘書官リーデル[4]もその一味に加わっていた。1801年には官吏(政府職員)がフリーメーソンに属することを禁じた。この命令は功を奏した。これで、当時フリーメーソンの中堅であった貴族、軍人、官吏、宗教家等が、結社を脱したために、結社は著しく衰えた。

その後1848年フェルディナンド帝[5]の時、1794年に閉鎖した或る組合は、再び建設された。同時に革命があったが鎮圧され、フリーメーソンの集会は、禁止される様になった。1869年にHumanitas(フマニタス)と言う組合がオーストリアハンガリーとの二か所に創設された。この組合は、政治的結社を厳禁するオーストリアでは、単なる慈善団体として活動し、ハンガリーにおいてフリーメーソン本来の(政治的)仕事を行った。

その後新しい組合が出来て、現在ウィーンに十四個、地方に十六個の組合がある。

要約すると、オーストリア及びハンガリーフリーメーソンは、君主制を廃して共和制を採用することに終始努力を続けてきたのである。旧オーストリアのイタリア語の地方に於ける、イタリア統一運動もまた、マッツィーニの遺志を承け継いだフリーメーソンの仕事であって、その指導者はすべてフリーメーソン社員であった。

 

[1] Johann von Sporck(1595~1679)はドイツの裕福で気前の良い貴族。プラハの宮殿に「Zu den drei Sternen(三ツ星へ)」と言うロッジをバプテズマのヨハネの日に創設し、自身が初代の大棟梁となった。

[2] マリア・テレジア(1717~1780)は神聖ローマ帝国皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ一世シュテファン(1708~1765)の皇后でオーストリア公。

[3] Joseph II(1741~1790)は、神聖ローマ帝国皇帝(在位:1765年 - 1790年)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。フランツ一世とマリア・テレジアの長男。マリー・アントワネットの兄にあたる。

[4] Andreas von Riedel(1748~1837)はレオポルド二世に仕え、フランツ二世の教育もしたが、フランツ二世の反啓蒙的態度とフランス革命フリーメーソンの活躍の影響で反貴族的自由主義を唱え、フランツ二世に逮捕され、60年の懲役を言い渡された。1806年に赦されてパリに移住し、そこで亡くなった。

[5] Ferdinand I(1793~1875)はオーストリアの皇帝(在位:1835年3月2日~1848年12月2日)、ハンガリーの国王フェルディナーンド5世(V. Ferdinánd、1830年9月28日 - 1848年12月2日)1848年の革命でリベラルな政策を採ったが、最終的には退位を余儀なくされた。

 

 

16.マイヤーリンクの悲劇
フリーメーソンの手中にあった皇太子ルドルフ)

 

皇太子ルドルフ[6]は、1889年1月30日、マイヤーリンクの猟舍(貴族が狩猟で使う館)で、その愛人の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラ[7]と共に死んでいるのを発見された。二人の死因は、自殺とも言い、他殺とも言い、判然としなかったが、著者の調査によると、ルドルフは英国エドワード七世がプリンス・オブ・ウェールズと呼ばれた(皇太子の)時代に、この人に勧められてフリーメーソン社員となった。フリーメーソン社員は、彼に対しハンガリーを独立させてその王になると言う任務を与え、その実行の日時までも決定されていたが、ルドルフは遂にこれを決行出来なかったために、彼はフリーメーソンの復讐と他方では皇帝に陰謀が発覚することを恐れ、恐怖の余り遂に自殺したのであった。即ち彼はフリーメーソンの傀儡となり、ついに非業の死を遂げたのである。

 

[6] オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の子で皇太子。

[7] Marie Alexandrine Freiin von Vetsera(1871~1889)マリー・アレクサンドリーネ・フォン・ヴェッツェラ男爵令嬢は、オーストリア=ハンガリー帝国のルドルフ皇太子の愛人。外交官だったアルビン・フォン・ヴェッツェラ男爵(ヴェチェラ・アルビン・ヤーノシュ])の娘としてウィーンで生まれた。

 

 

17.ウィーンの新大組合

 

(第一次)大戦後のオーストリア=ハンガリーの革命の結果、皇帝フランツ一世はその位を退き、スイスのベルケンに隠遁した。(六百余年前、その祖先ハプスブルグ家のルドルフは、当時混乱していたオーストリアから招請されて、このベルケンからオーストリアに赴き、帝位につき、国の秩序を立てたのである)。この退位により、ウィーンの大組合は、公然と承認を受け、1919年五月には、大棟梁以下役員の選挙を行い、六月には盛大なる儀式を挙行し、領袖は従来の仮面を脱ぎ、公然政治上の活動をするべきであると説いた。

ユダヤ人は、キリスト教徒しか採用しないドイツの組合に対して抗議し[8]、今や概ねその目的を達することを得たが、ユダヤ人はユダヤ人だけの組合を別に作っており、これには非ユダヤ人の加入を許さない。これで、ユダヤ人の唱える同権の意義がどんなものかがわかる。チェコの組合も革命後分離して独立した。大戦間チェコ実行委員会はフランス大組合内にあった。その長は現在のチェコ国大統領マサリックであった。このほか米国にもチェコ人の組合があって、その主張に基づき1917年のパリの大組合会議は、ボヘミア(ほぼ現チェコ共和国の版図)の独立を講和条件の一つとする事を決議した。(*後のズデーテン問題の伏線)

1919年8月発行のウィーンのフリーメーソン新聞[9]は、オーストリア死刑廃止を唱えられるようになったのはフリーメーソンの主張に基づくものだとのことであるが、死刑廃止は却(かえ)って人道に反するものである。「フリーメーソンでは、殺人は許されている」とは、セルビアの暗殺者の告白した所であるが、死刑が廃止されれば暗殺者は安心してその犯罪を敢行するに至るであろう。

 

[8] 原文:「ユダヤ人は、キリスト教徒を採用しないドイツの組合に対して抗議し」。文意から間違いと思われるので「を」に替えて「しか」に変更。

[9] “Wiener Freimaurer-Zeitung” August 1919、 30頁

 

 

18.ハンガリーに於ける革命的フリーメーソン

 

ハンガリーにおけるフリーメーソン組合の創設は、1848年であるが、同国の革命家は、既にそれ以前より外国のフリーメーソンと密接な関係を有し、且つよく知られた革命家は、大概外国の組合に加入し、密かにその支援を受けて居た。又同国の大組合は1870年になって始めて創設された。ハンガリーフリーメーソン社員数は、第一次大戦中に非常に急激に増加をした。ハンガリー大組合は、1913年、即ち戦争開始の前年、その組合数91、会員数6,526人を数えた。それが、1917年の終わりには、組合102、小組合14、会員7,447人となった。即ち12~13%の増加であって、その増加の度合は英国、スペイン及び米国の次に位置している。そして上記の現在の会員数は、実際に活動する会員のみを挙げたのであって、普通の会員も加えると、二万人にも達するであろう。

ハンガリーフリーメーソンが、革命的性質を帯びている事は、1848年のハンガリー革命の際の革命首謀者に対する社員の態度によって知る事が出来る。即ち此の革命は失敗したが、革命首謀者コシュート[10]その他は、イタリアに逃れ、同国の社員マッツィーニ、ガリバルディ等の援助を受け、対オーストリア戦争を画策した。コシュートは結社員の仲介によって、1859年にナポレオン三世と連絡を取るに至り、ナポレオンは二万人の軍勢でハンガリーに侵入する準備、コシュート達は、ジェノヴァハンガリー国民委員会を作り、ハンガリー脱走兵で構成するハンガリー軍をイタリアのピエモンテ州に作ろうとして、一度は失敗したが、最後には四千人より成る軍隊を編成した。しかしその後間もなくヴィラフランカの講和[11]が締結された。1859年の不利な戦争は主としてフリーメーソンの仕業であったが、ハンガリーフリーメーソンはその結果に満足せず、今度はイタリアのカヴール[12]ハンガリー革命家とが協同して、イタリア、ハンガリー戦争を計画したのであった。1866年の戦争にも、ハンガリーの結社員は関係して居た。

ハンガリーの結社員が、革命の企図を持っていることは、考えて見るとポルトガルの革命後、間もなくハンガリーの結社員が、ポルトガルの革命家で結社員であったリマをハンガリーに招待して、その秘密演説を聞いたことで、想像することが出来る。特に注目に値することは、ハンガリーの結社員が世界大戦勃発直前に、セルビアの結社員を訪問したことである。これにより、彼らは共に同一の目的に向かって、仕事をしていたことが分かる。

1919年1月のハンガリーフリーメーソン新聞「世界(Vilag)」は、英国の大棟梁コンノート大公を、ハンガリー王に推薦した。戦争間英国及び米国に在るチェコ人もまた、同大公をチェコ・スロヴァキア国王として仮想(見な)したことがある。

 

[10] Lajos Kossuth(1802~1894)コシュート・ラヨシュは19世紀ハンガリー王国の政治家・革命家。フリーメーソン(1852年に米國シンシナティの組合に参加)。

[11] イタリア統一戦争に際して、サルデーニャ王国を支援していたフランスが、突如単独でオーストリア帝国と結んだ和約。1859年11月10日にオーストリア帝国フランス帝国サルデーニャ王国の間でチューリッヒ条約締結で決着した。

[12] カヴール伯爵・カミッロ・ベンソ。初代統一イタリア王国の首相。ガリバルディ、マッツィーニと並ぶイタリア独立の三傑の一人。

 

 

19.ハンガリーの大組合及びその没落

 

世界大戦前後にハンガリーフリーメーソン社員のとった態度を観察するのは、価値あることと思う。1918年4月28日(西方戦場における独軍が、未だ勢いがよかった時期)にハンガリーの大棟梁ボカイ[13]が、ウィーンにおける大組合の会合に於て、次のような非常に憂国的な演説をした。「ハンガリーの敵は、又オーストリアの敵でもある。而もこの世界大戦乱に於て、オーストリア=ハンガリー国内の各民族を最も有効に保護しようとしているのは、即ち我が国王の軍である」云々と。ところが同年秋には、独軍の旗色が、次第に悪くなった。ハンガリーフリーメーソン結社員カーロイ伯[14]は、国王カールに対し、自分を首相とすべき旨を強要し、その目的を達した。この時にあたり(1918年11月)ボカイは、再び演説した。「我々フリーメーソン社員は、隣接国家と講和することを欲す。我々は辞書中から戦争と言う語を除去してしまうため、各国と同盟を締結することを欲す。我々は軍縮を撤廃する事を気にしない」と。カーロイの政府は大部分結社員で構成されたが、ハンガリー軍に対して、戦線より撤退し、武装を解除するよう命令した。

チェコ軍及びユーゴスラヴ族より成る軍隊は、直ちにハンガリー軍にならったため、三年半イタリア軍の攻撃に堪えた我が西南戦争も、ほんの短期間に完全に崩壊してしまった。即ち我がオーストリア=ハンガリー国の運命を封じたのは、ハンガリーフリーメーソンの叛逆である。

これは悪意に出たのか、暗愚の致す所であったかは、判別が難しいけれど、もしハンガリーフリーメーソンにして、敵、とりわけイタリア軍も自分と同様のことをするだろうと予期したのなら、それは大いなる誤算であった。

ハンガリーの放棄した陸地には、直ちにイタリア軍が侵入して来て、このためドイツオーストリア人の軍隊は、多大な犠牲を払わざるを得なかった。

戦争中、ハンガリーフリーメーソンが、その主要任務として最も力を注いだことは、憎悪心を緩和することであった。彼等は直接敵国のフリーメーソン社員と交流し、それによってフリーメーソン世界同盟を回復しようとした。憎悪心を緩和することは必ずしも悪いことではないが、それには、我々の敵が、ドイツ・オーストリアが屈服するまでは決して憎悪心を失わないものであることを考慮しなければならない筈であった。又ハンガリーフリーメーソン社員は、戦争中、敵国のフリーメーソン会議に参加した。要するに彼らはフリーメーソンの所謂「貴族とデモクラシーとの争闘」で、初めからデモクラシー側、つまり敵国側に立ったのである。彼等は従来公衆に対しては、自ら王政派であるかのように言いふらしてきたが、フリーメーソン新聞を見ると彼等は全く革命的共和党にほかならないことは、あのセルビアの同結社員と、密接な関係を持っていたこと、特にオーストリア皇太子暗殺を予知していた形跡があること、ポルトガルの革命家である結社員リマを歓迎したことなどにより明瞭である。

ハンガリーフリーメーソンがうまくいった時代は、僅か五ヶ月で、共産主義者のために追われることになった。ハンガリー大組合の範囲だったスラボニア(現クロアチア東部)、クロアチア及びフィウメ(現クロアチア領リエカのイタリア名)などの地方のフリーメーソン組合は、戦後セルビア又はイタリアの大組合に属することになり、それだけハンガリーフリーメーソンの勢力は減少した。この事実によると、依然いたるところ、民族観念が先に立っていたことを看取ることが出来る。しかし、唯ドイツのフリーメーソン社員のみは、愚かにも世界主義の理想を抱き、非常な不幸を見ることになったのである。

 

[13] Árpád Bókay(1856~1919)アルパド・ボカイは、ハンガリーの内科、薬理学者、大学教授。1902年に組合に入り、1915年から死ぬまでグランドロッジのグランドマスターであった。

[14] Graf Michael Karolyi(1875~1955)ミハーリー・アダム・ジェルジ・ミクロス・カロリー・デ・ナジカロリー伯爵は、ハンガリーの貴族の家に生まれた。1918年11月1日から16日まで首相を務め、1918年11月16日から1919年3月21日まで大統領を務めた。

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フリーメーソンと世界革命11(原文)

15.墺太利に於ける革命的フリーメーソン

 

墺國に於けるフリーメーソンは、1726年6月24日ヨハン・シュポルク伯[1]が、プラハ組合を設立したるを以て嚆矢(こうし:物事の始め)とする。當初多數のボヘミア貴族が會員となつた。シュポルク伯に継いで大棟梁となつたダヴィドは、反亂罪に問はれて死刑の宣告を受けたが、社員の奔走の結果、死一等を減じて無期徒刑に處せられた。女帝マリア・テレジアの夫ステファン大公[2]も、結社員であつたが、女帝自身は、フリーメーソンを危険視して之を好まなかつた。

フリーメーソンの善行として擧ぐべきは、プラハに孤兒院を設立したことである。

ヨーゼフ二世[3]は、1780年フリーメーソンが、外國と連絡を保持することを禁じ、1785年には組合數に制限を附した。其他同帝はフリーメーソンに對し、餘り好意を持たず、其手記の中で、フリーメーソンを罵つた爲め、當時全歐洲に十萬を算した社員全部の怨を買つた。1789~90年の土耳古戦は、フリーメーソンの仕事であつた。此戦爭の結果、墺國皇室の財宝及び軍隊は減少疲弊した。ヨーゼフ二世は、愈々フリーメーソンの勢力を殺ぐことに決心したが、此決心を實行するに先立ち、1790年2月49歳に達せずして崩じた。

レオポルド二世は、能くフリーメーソンの眞相を知り、歐洲各國の王室が、秘密結社の奴隷となつて居る事を看破し、窃(ひそ)かに此秘密勢力を打破せんことを圖つた。帝の姉妹皇后マリー・アントワネットは帝に對し、フリーメーソンに就て戒心すべきことを忠告した。帝も亦フリーメーソンを抑壓しやうと決心したが、之を實行するに先立ち1792年3月45歳を以て崩じた(フリーメーソンの爲めに弑せられたとの説がある)。レオポルド二世の後を襲ひたる[4]皇帝フランツ二世は、1794年に命令を發して、國内のフリーメーソンを壓迫した。1795年に發覺した帝室顛覆の陰謀は、フリーメーソンの企てたもので、レオポルド二世の秘書官リーデル[5]も其一味に加はつて居た。1801年には官吏のフリーメーソンに属することを禁じた。此命令は功を奏した。即ち當時フリーメーソンの中堅たりし貴族、軍人、官吏、宗教家等が、結社を脱した爲めに、結社は著しく衰へた。

其後1848年フェルディナンド帝[6]の時、1794年に閉鎖した或る組合は、再び建設された。同時に革命があつたが鎮壓され、フリーメーソンの集會は、禁止せられる様になつた。1869年にHumanitas(フマニタス)と云ふ組合が墺太利と匈牙利との二個所に創設された。此組合は、政治的結社を厳禁せる墺太利では、單なる慈善団體として活動し、匈牙利に於てフリーメーソン本來の仕事を行つた。

其後新しい組合が出來て、現在維納に十四個、地方に十六個の組合がある。

之を要するに、墺太利及び匈牙利のフリーメーソンは、君主制を廃して共和制を採用することに終始努力を続けて來たのである。舊墺太利の伊太利語の地方に於ける、伊太利合一運動も亦、マッツィーニの遺志を承け継いだフリーメーソンの仕事であつて、其指導者は凡てフリーメーソン社員であつた。

 

[1] Johann von Sporck(1595~1679)はドイツの裕福で気前の良い貴族。プラハの宮殿に「Zu den drei Sternen(三ツ星へ)」と言うロッジをバプテズマのヨハネの日に創設し、自身が初代の大棟梁となった。

[2] マリア・テレジア(1717~1780)は神聖ローマ帝国皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ一世シュテファン(1708~1765)の皇后でオーストリア公。

[3] Joseph II(1741~1790)は、神聖ローマ帝国皇帝(在位:1765年 - 1790年)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。フランツ一世とマリア・テレジアの長男。マリー・アントワネットの兄にあたる。

[4] 継承するの意。

[5] Andreas von Riedel(1748~1837)はレオポルド二世に仕え、フランツ二世の教育もしたが、フランツ二世の反啓蒙的態度とフランス革命フリーメーソンの活躍の影響で反貴族的自由主義を唱え、フランツ二世に逮捕され、60年の懲役を言い渡された。1806年に赦されてパリに移住し、そこで亡くなった。

[6] Ferdinand I(1793~1875)はオーストリアの皇帝(在位:1835年3月2日~1848年12月2日)、ハンガリーの国王フェルディナーンド5世(V. Ferdinánd、1830年9月28日 - 1848年12月2日)1848年の革命でリベラルな政策を採ったが、最終的には退位を余儀なくされた。

 

 

16.マイヤーリンクの悲劇
フリーメーソンの手中にありし皇太子ルドルフ)

 

皇太子ルドルフ[7]は、1889年1月30日、マイヤーリンクの猟舍に於て、其愛人男爵令嬢マリー・ヴェッツェラ[8]と共に死んで居るのを發見された。二人の死因は、自殺とも云ひ、他殺とも云ひ、分明しなかつたが、著者の調査によると、ルドルフは英國エドワード七世がプリンス・オブ・ウェールズと云つた時代に、此人に勧められてフリーメーソン社員となつた。フリーメーソン社員は、彼に對し匈牙利を独立させて其王となるべき任務を與へ、其擧事の日時までも決定されて居たが、ルドルフは遂にこれを決行し得なかつた爲に、彼はフリーメーソンの復讐及び一方には皇帝の爲め陰謀を發覺されることを恐れ、恐怖の餘り遂に自殺したのであつた。即ち彼はフリーメーソンの傀儡となり、終に非業の死を遂げたのである。

 

[7] オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の子で皇太子。

[8] Marie Alexandrine Freiin von Vetsera(1871~1889)マリー・アレクサンドリーネ・フォン・ヴェッツェラ男爵令嬢は、オーストリア=ハンガリー帝国のルドルフ皇太子の愛人。外交官だったアルビン・フォン・ヴェッツェラ男爵(ヴェチェラ・アルビン・ヤーノシュ])の娘としてウィーンで生まれた。

 

 

17.ウィーンの新大組合

 

大戦後の墺匈國革命の結果、皇帝フランツ一世は其位を退き、スイスのベルケンに隠遁した。(六百餘年前、其祖先ハプスブルグ家のルドルフは、當時紊亂(びんらん)せる墺太利から招請されて、此ベルケンから墺太利に來り、帝位に即き、國の秩序を立てたのである)。是に於て、維納の大組合は、公然承認を受け、1919年5月には、大棟梁以下役員の選擧を行ひ、六月には盛大なる儀式を擧行し、領袖は従來の仮面を脱し、公然政治上の活動をなすべきことを説いた。

猶太人は、基督教徒しか採用しない獨逸の組合に對して抗議し[9]、今や概ね其目的を達することを得たが、猶太人は猶太人だけの組合を別に作つて居り、之には非猶太人の加入を許さない。之でも猶太人の唱へる同權の意義の如何なるものかゞわかる。チェコの組合も革命後分離して独立した。大戦間チェコ實行委員會は佛國大組合内に在つた。其長は現時のチェコ國大統領マサリクであつた。此外米國にもチェコ人の組合があつて、其主張に基き1917年の巴里の大組合會議は、ボヘミア(ほぼ現チェコ共和國の版圖)の独立を講和條件の一とする事を決議した。(*後のズデーテン問題の伏線)

1919年8月發行の維納のフリーメーソン新聞[10]は、墺國で死刑廃止を唱えられるやうになつたのはフリーメーソンの主張に基くものだとのことであるが、死刑廃止は却つて人道に反するものである。「フリーメーソンでは、殺人は許されて居る」とは、セルビアの暗殺者の告白した所であるが、死刑が廃止さるれば暗殺者は安心して其犯罪を敢行するに至るであらう。

 

[9] 原文:「ユダヤ人は、キリスト教徒を採用しないドイツの組合に対して抗議し」。文意から間違いと思われるので「を」に替えて「しか」に変更。

[10] “Wiener Freimaurer-Zeitung” August 1919、 30頁

 

 

18.匈牙利に於ける革命的フリーメーソン

 

匈牙利に於けるフリーメーソン組合の創設は、1848年であるが、同國の革命家は、既に夫れ以前より外國のフリーメーソンと密接な關係を有し、且つ知名の革命家は、大概外國の組合員に加入し、其掩護を受けて居た。又同國大組合は1870年に至り始めて創設せられた。匈牙利のフリーメーソン社員數は、今次大戦中に頗る急激なる増加をした。匈牙利大組合は、1913年、即ち戦爭開始の前年、其組合數91、會員數6,526人を算した。然るに1917年の終には、組合102、小組合14、會員7,447人となつた。即ち12~13%の増加であつて、其増加の度は英國、西班牙及米國の次に位してをる。而して上記の現在會員數は、實際に活動する會員のみを擧げたのであつて、若し普通の會員を加へたならば、二萬人にも達するであらう。

匈牙利のフリーメーソンが、革命的性質を帯びて居る事は、1848年の匈牙利革命の際に於ける革命首謀者に對する社員の態度に依つて知る事が出來る。即ち此の革命は失敗したが、革命首謀者コシュート[11]其他は、伊太利に逃れ、同國の社員マッツィーニ、ガリバルディ等の援助を受け、對墺太利戦爭を畫策した。コシュートは結社員の仲介に依つて、1859年にナポレオン三世と連絡を有するに至り、ナポレオンは二萬人を以て匈牙利に侵入する準備、コシュート等は、ジェノヴァに於て匈牙利國民委員會を作り、匈牙利脱走兵より成る匈牙利軍をピエモンに作らうとして、一度は失敗したが、終に四千人より成る軍隊を編成した。併し其後間もなくヴィラフランカの講和[12]が締結された。1859年の不利なる戦爭は主としてフリーメーソンの仕事であつたが、匈牙利のフリーメーソンは、其結果に満足せず、伊太利のカヴール[13]と、匈牙利革命家とは協同して、伊太利、匈牙利戦爭を計畫したのであつた。1866年の戦爭にも、匈牙利の結社員は關係を有して居た。

匈牙利の結社員が、革命の企圖を有せることは、蓋し葡萄牙の革命後、間もなく匈牙利の結社員が、葡萄牙の革命家にして結社員たるリマを匈牙利に招待して、其秘密演説を聞いた事に依つて、想像することが出來る。特に注目に値することは、匈牙利の結社員が世界大戦勃發直前に、セルビアの結社員を訪問したことである。之に依つて、彼等は共に同一の目的に向つて、仕事を爲して居たことが分る。

1919年1月の匈牙利のフリーメーソン新聞「世界(Vilag)」は、英國の大棟梁コンノート大公を、匈牙利王に推薦した。戦爭間英國米國に在るチェコ人も亦、同大公をチェコ・スロヴァキア國王に擬したことがある。

 

[11] Lajos Kossuth(1802~1894)コシュート・ラヨシュは19世紀ハンガリー王国の政治家・革命家。フリーメーソン(1852年に米國シンシナティの組合に参加)。

[12] イタリア統一戦争に際して、サルデーニャ王国を支援していたフランスが、突如単独でオーストリア帝国と結んだ和約。1859年11月10日にオーストリア帝国フランス帝国サルデーニャ王国の間でチューリッヒ条約締結で決着した。

[13] カヴール伯爵・カミッロ・ベンソ。初代統一イタリア王国の首相。ガリバルディ、マッツィーニと並ぶイタリア独立の三傑の一人。

 

 

19.匈牙利の大組合及其没落

 

世界大戦前後に於ける匈牙利フリーメーソン社員の執つた態度を観察するのは、價値あることゝ思ふ。1918年4月28日(西方戦場に於ける独軍が、まだ勢がよかつた時期)に匈牙利の大棟梁ボカイ[14]が、維納における大組合の會合に於て、次の如き頗る憂國的なる演説をした。「匈牙利の敵は、又墺太利の敵である。而も此世界大戦亂に於て、墺匈國内の各民族を最も有効に保護しつゝあるものは、即ち我國王の軍である」云々と。然るに同年秋には、独軍の旗色が、漸次悪くなつた。匈牙利のフリーメーソン結社員カーロイ伯[15]は、國王カールに對し、自己を首相とすべき旨を強要し、其目的を達した。此時に方り(1918年11月)ボカイは、再び演説した。「我々フリーメーソン社員は、隣接國家と講和せんことを欲す。吾人は字書中より戦爭といふ語を除去してしまう爲め、各國と同盟を締結せんことを欲す、吾人は軍縮を撤廃せる事を顧ず」と。カーロイの政府は大部分結社員より成つたが、匈牙利軍に對して、戦線より撤退し、武装を解除すべきことを命令した。

チェコ軍及ユーゴスラヴ族より成る軍隊は、直に匈牙利軍の例に倣つた爲めに、三年半伊國軍の攻撃に堪へたる我西南戦爭も、短小時日内に全然崩壊してしまつた。即ち我墺匈國の運命を封じたものは、匈牙利フリーメーソンの叛逆である。

之は悪意に出でたのか、暗愚の致す所であつたかは、判別難いけれど、若し匈牙利のフリーメーソンにして、敵、就中伊國軍も、我と同様のことをするだらうと豫期したとせば、そは大なる誤算であつた。

匈牙利の放棄した陸地には、直に伊國軍が侵入し來り、之が爲め獨逸墺太利人の軍隊は、大なる犠牲を拂はざるを得なかつた。

戦爭中、匈牙利のフリーメーソンが、其主要任務として最も力を注いだことは、憎悪心を緩和することであつた。彼等は直接敵國のフリーメーソン社員と交通し、以てフリーメーソン世界同盟を恢復することにあつた。憎悪心を緩和することは必ずしも悪いことではないが、吾人の敵は、獨墺が屈服する迄は、決して憎悪心を失はないものなることを考慮せねばならぬ筈であつた。又匈牙利のフリーメーソン社員は、戦爭中、敵國のフリーメーソン會議に参加した。要するに彼等はフリーメーソンの所謂「貴族とデモクラシーとの爭闘」に於て初めからデモクラシー側、即ち敵國側に立つたのである。彼等は従來公衆に對しては、自ら王政派なるかの如く云ひふらして來たが、フリーメーソン新聞を見ると彼等は全く革命的共和黨に外ならないことは其セルビアの同結社員と、密接な關係を有したこと、特に墺國皇儲暗殺を豫知せる形跡あること、葡萄牙の革命家たる結社員リマを歓迎したこと等に依つて明瞭である。

匈牙利フリーメーソンは、其得意の時代は、僅か五個月で、共産主義者の爲めに逐はれることになつた。匈牙利大組合の範囲だつたスラボニア(現クロアチア東部)、クロアチア及びフィウメ(現クロアチア領リエカのイタリア名)等の地方のフリーメーソン組合は、戦後セルビア又は伊太利の大組合に属することゝなり、夫れだけ匈牙利のフリーメーソンの勢力は減少した。此事實に依ると、依然到る處、民族観念が先に立てることを看取することが出來る。然るに唯獨逸のフリーメーソン社員のみは、愚かにも世界主義の理想を懐き、非常な不幸を見ることになつたのである。

 

    [14] Árpád Bókay(1856~1919)アルパド・ボカイは、ハンガリーの内科、薬理学者、大学教授。1902年に組合に入り、1915年から死ぬまでグランドロッジのグランドマスターであった。

[15] Graf Michael Karolyi(1875~1955)ミハーリー・アダム・ジェルジ・ミクロス・カロリー・デ・ナジカロリー伯爵は、ハンガリーの貴族の家に生まれた。1918年11月1日から16日まで首相を務め、1918年11月16日から1919年3月21日まで大統領を務めた。

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