ドイツ悪玉論の神話006

ヴェルサイユ条約

英米が戦争中に行った反独逸の毒々しい宣伝工作戦は、あまりにも独逸に対する憎悪を作り出したので、独逸にとって厳しい和平となる事は避けられなかった。独逸は間違った意味に於いても、正しい意味に於いても、結果としての全ての死者と破壊も含めて戦争責任を負わされ、それらすべてについて補償金を支払うように求められた。戦争だけでは充分ではない、と言わんばかりに、1918年の半ば、欧州は、スペイン風邪(流感)に襲われ、推定で2千5百万人が更に亡くなった。それも合計すると、戦争中に4千百万人もの欧州人が死んだことになる-かなり大きな割合の欧州人口である。このような規模の死者は、中世の「黒死病(ペスト)」以来の出来事であった。これが、更に欧州に広がっていた苦い、憂鬱な感情を増し、その怒りが専ら、憎まれ、軽蔑された独逸に向けられた。-憎まれ、軽蔑されたのは、反独逸宣伝工作の結果である。欧州は、独逸を罰する事を望み、ヴェルサイユ条約でそれが実行されようとしていた。

戦勝國-英仏米-に依って結論として決定された条件は、どの様な基準から考えても厳しいものであった。理想主義のウッドロウ・ウィルソン大統領は公正で正義の和平合意の基本として「14か条」を発表したが、それらは停戦合意の後で特にフランスにはほとんど無視された。フランスは「正義」による和平には興味が無かった。フランスが望んでいたもの、それは復讐!、それと、二つの地方の奪還であった。アルザスとロレーヌは、1971年の普仏戦争の結果、プロシャに割譲された。フランスの首相、ジョルジュ・クレメンソーは、ウィルソンが聖人ぶっていて世間知らずだと考え、個人的に彼の「14か条」をこき下ろした。彼は、「全能の神は十か条しかお示しにならなかったのに」と嘲笑した。(モーゼの十戒のこと)

基本的に、ヴェルサイユ条約の条件は次のように定められた:
・2万8千平方マイルの独逸領土と650万人の独逸人は、他國に引き渡される、
アルザス・ロレーヌはフランスに割譲、オイペンとマルメディはベルギーに割譲、
・北シュレースヴィヒはデンマークに割譲、フルチーンはチェコスロバキアに割譲、
西プロシャ、ポズナン、上シレジア、ダンツィッヒ(現グダニスク)はポーランドに割譲(ダンツィッヒはポーランドの管理下に置かれるが、國際聯盟の管轄する「自由市」に指定される)、
・メメルはリトアニアに割譲、・ザール地方(独逸の工業の中心地)は國際聯盟の管轄下に置かれる、その他、独逸の海外植民地は取り上げられる。

厳しい軍事力の限定も課せられた。独逸陸軍は、10万人兵力に削減され、戦車・装甲車を持ってはならない。空軍は持ってはならないし、軍艦は6隻の主力艦のみ、潜水艦は持ってはならない。ラインラントの西側とライン川の東50Km  の範囲は非武装地帯とする。この地域に独逸兵も武器も持ち込んではならない。ライン川の西堤防には、今後15年間、連合國(英仏)の陸軍が駐留占領する。

金銭的な懲罰も同様に厳しかった。工業地帯の領土喪失は独逸経済の立て直しのいかなる試みにとっても妨げとなった。ザールと上シレジアの石炭が、特に極めて重大な経済的損失だった。石炭は英仏に渡った。独逸のもっとも肥沃な農地がポーランドに譲渡された。賠償金は、連合國が後で決めた額を連合國に支払う事になった。独逸には、明らかに連合國が独逸を破産させようとしていると思われた。

独逸はさらに、その経済的可能性を最小化しておくために、オーストリアと合併して大独逸國家として統一することを禁じられた。(独逸人のオーストリア人も共にそれを望んでいたにも拘らず。)

総合的な条約の条件は、三つの重大な項目を含んでいた。

  1. 独逸は、開戦について全ての責任を認めなければならない。(戦争犯罪条項231条)
  2. よって独逸は、戦争によるすべての損害について責任があり、それに対する賠償金の支払いを求められる。その大部分はフランスとベルギーに支払われる。賠償金の総額はヴェルサイユでは決定されないが、後ほど決定される。別の言い方をすれば、独逸は、額面無しの小切手にサインさせられ、連合國は、それを勝手に決めた額で好きな時に現金化できるという事だ。賠償総額は、結局のところ、330億ドルになった。(1919年のドル価値で)
  3. 國際聯盟を設置して世界平和を維持する。しかし、独逸は加盟する事を許されなかった。

1918年の11月に停戦合意した後、独逸人は、その次に結ばれる平和条約はウィルソン大統領の「14か条」に基づく、公正で正義の和平になるもの、そしてその草案作成にも参加するもの、と信じていた。彼らは、実際に停戦に合意し、そういう理解のもとに武器を置いた。しかし、そうではなく、条約は独逸抜きで作成され、「命令」と言う形で彼らに渡され、独逸は、議論する事もなく、それに署名する事を要求された。「停戦合意」とは、一般的に「平和条約が作成されるまでの間、戦闘状態を止めること」を意味するものとして解釈される。それが独逸が署名したものだ。しかし、連合國はそうではなく、独逸を敗北した敵として扱った。許容されている意味に従えば、独逸は和平会議全てに参加出来るはずであった。

 

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ヴェルサイユにて、独逸の代表団 彼らは調印を強要された


独逸の代表は、条約の苛酷さに驚愕した。彼らは特に、独逸が戦争を始めた、と言う告発に反発した。独逸人の意識の中では、独逸は、ロシアとフランス、そしてすぐあとからは英國、に強いられて、自衛的な戦争をしていたはずだった。独逸側から見ると、フランスとロシアこそ戦争を始めた。ヴェルサイユ条約に調印するために送られた将校は、それを拒否した。「そんなことを言うのは、嘘になる」と彼は述べた。独逸の首相、フィリップ・シャイデマンは、条約を受け容れるよりは、「この条約に調印する手は、萎えよかし」と言って寧ろ辞任した。彼は、条約の条項について「忍耐不可、実現不可、承認不可」と特徴づけ、この条約は独逸人をして、「奴隷・農奴たらしめる」と発表した。

独逸の人々は、条約の条文について衝撃を受けるとともに激怒した。条約に対する象徴的な抗議として、独逸中の公共の娯楽設備が一週間に亙って休止した。國中が半旗を掲げた。戦争再開を望む者もいた。しかし、独逸の指導者はそれが不可能であることを知っていた。最早何もできることは無かった、独逸の陸軍は停戦後に解散して、復員していた。そして、英國は相変わらず、独逸の周りで何も出さない、何も入れないという、飢餓海上封鎖を続行しており、毎日何千人と言う独逸民間人の餓死者を出していた。英國は、独逸の代表団が条約に調印するまで海上封鎖を続ける、と宣言した。最終的に、英仏が独逸に対して最後通牒を手渡した。4日以内に調印しないと占領する、と。英仏の陸軍は、未だ揃っていた。独逸の代表はついに1919年の6月28日にヴェルサイユ宮殿・鏡の間で、調印した。(この代表は、その後、謎に包まれた状況の中で暗殺された。調印したことに依る事は疑う余地が無い。)

条約は調印された。しかし、非常に不本意ながら、という事で、殆どその履行に関して実際に協力する意図はないまま。英國の歴史家、A.J.P. テイラーはその著書、第一次世界大戦の歴史(1963)で次のように述べている。
「独逸は、形式的な意味で署名する事に同意して条約を受け容れたが、誰もその調印を真面目に受け止めなかった。条約は、彼らには、邪悪で不公平、指図であり、奴隷条約に思われた。独逸人は誰もが、もし条約がその不条理さ故にに自然崩壊しなければ、いつか破棄するつもりだった。」
条約調印後、最後の抵抗の意思表示に、スコットランドのスカパ湾に捕獲されて係留されていた独逸の軍艦が、独逸人の船員によって逃走した。

 

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ヴェルサイユ条約によって独逸が失った領土(陰になった部分)

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