ドイツ悪玉論の神話007

条約の独逸経済への影響

開戦當時は、独逸経済は欧州で一番強かった。しかし、(米國を除く)他の戦争當事國がすべてそうであったように、終戦までに独逸も破産していた。荒廃した戦後経済を立て直すことは、最善の状況に於いても困難な事であったはずだが、ヴェルサイユ条約の壊滅的な衝撃により、それは、二重に困難なものであった。独逸は条約により、戦勝國への法外な賠償金の支払いを強要されたが、それと同時に、条約の他の条項により、賠償する能力が激減した。条約により、独逸は、領土の13%、人口の10%、小麦馬鈴薯(ジャガイモ)の生産能力の25%、鉄鉱石の80%、亜鉛鉱の68%、石炭生産の33%、アルザスの全ての苛性カリ工業と繊維工業、そして、アルザス-ロレーヌ地方と上シレジア地方の通信インフラを失った。また商船の船団は、港湾施設と共に押収された。更に、独逸の造船所は、5年に亙って戦勝國に引き渡される船を製造するよう要求された。更に機関車5千輌、鉄道車両1万5千輌、トラック千台を放棄するよう要求された。独逸の在外資産は全て没収された。

独逸の弱体化した状況により、戦勝國が要求した賠償金は、独逸の支払い能力を完全に超えるものであった。特に独逸の炭鉱の接収は、その結果としての石炭不足が工業生産を厳しく限定するものであったことから壊滅的であった。独逸の農業生産も肥料を製造する為のリン酸を輸入する商船団が無くなった(押収された)ため、劇的に減少した。独逸は、他の重要資源・原材料も、植民地と船団の押収の為に輸入できなくなった。そしてこれは、工場の閉鎖をもたらし、結果として失業者を大量に増やした。運輸業や貿易に携わった労働者も今は失業者となった。

 

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栄養失調の子供たち


英國海軍の飢餓海上封鎖により、婦女子、老人、子供を中心に百万と言われる独逸人が餓死したが、その他に更に百万人の独逸人が食糧不足のため、栄養失調状態となった。栄養失調による伝染病が蔓延し、独逸の子供たちが恒常的な成長不良、骨格の発達障害による変形、等の影響を受けた。戦争は終わったのに、7か月の長期に亙って、渋る独逸に調印を強要するために、自分達ではどうする事も出来ない民間人に対して海上封鎖は続行されたのだ。それは、想像を絶する残酷な話だが、それが、聖人である英國によって、野蛮人のフン(独逸人)に為された。そして、実のところ、海上封鎖をしている張本人は、誰もが尊敬するウィンストン・チャーチルであった。

商船団の押収は、既に災難の独逸の状況を更に悪化させた。独逸は工業國家であり、極めて人口密度が高く、しかも世界経済の仕組みにしっかり組み入れられていた。それ故に独逸は膨大な量の食糧と原材料を輸入しなければならなかった。商船団の損失とヴェルサイユ条約によって課せられた規制は、独逸國内に混乱をもたらし、英國海上封鎖の結果としての飢餓をさらに広げた。

アドルフ・ヒトラーは、著書、我が闘争で次のように述懐している。
「独逸はこの条約の結果最も苦しんだ。そして、呪縛された全体的な不安定がそこから持ち上がった。失業率は普通の状態での就業率の三分の一までに上がり、それが意味するのは、しかし、失業者の家族も含めると、6千5百万人の人口のうち、2千6百万人もの独逸の人々が全く絶望的な未来に直面していたという事だ。」

 

戦争責任条項は本當に公正か?本當に戦争は独逸が始めたのか?

國際関係に於いて、因果関係の繋がりは、果てしないものだが、意見を述べるにはどこかから始めなければならない。よく考えると、第一次大戦の大元は、1870~71年の普仏戦争まで遡る。しかし、普仏戦争そのものは、この二つの國の間の緊張が最高潮に達した時の事であり、それが遂に火を噴くに至ったのは、独逸・ホーエンツォレルン家の人物が空位だったスペインの王位候補に上がったためだ。フランスは、プロシャのホーエンツォレルン家に囲まれてしまうと思い、それを避けるためにプロシャに宣戦布告した。オットー・フォン・ビスマルクに率いられたプロシャは、この戦いに勝利し、詳細は割愛するが、この勝利により、独逸諸州・公國・領地が統一され、一つの大きな連邦となった。フランスから戦利品として独逸に割譲され、この新しい独逸連邦に含まれる事になったのが、アルザスとロレーヌである。勿論、この二つの地方を独逸に割譲する歴史的な正當性はあった。フランスは以前にこれらの地方をルイ4世の時代(939年)に独逸から奪っていた。更に、アルザスとロレーヌ地方の人口は独逸語話者の独逸民族が主だった。上述通り、歴史の原因と結果は果てしないものなのだ。

正當であるかどうかはさておいて、独逸によるアルザスとロレーヌの割譲は、フランスに屈辱感を遺し、損失への怒りが沸騰した。フランスは過去400年に亙って、戦争を仕掛け、侵略して他國 - 特に独逸 - に屈辱を与える事に慣れてきたが、この役回りの逆転は、耐え難いものだった。失地回復政策が、フランスの一番の目的となり、独逸への復讐は、フランスの、特に政治的・軍事的エリートの間で國家的執念となった。独逸に対する復讐戦争を欲するフランスの國家意思は、究極的に1914年に戦争に導く為の外交工作の要因であった。J.S. エワートは、1925年の著書「戦争の大元と原因」で次のように記述している。
1871年のプロシャによるアルザスとロレーヌの割譲が、欧州大陸を43年に亙って混迷させた反同盟、協商、敵対の要因であった。フランスのみならず、全欧州が、1871年から1914年まで、程度の差こそあれ -言うならば、必然と言う確実性で-普仏戦争の再発の予感を心に刻んでいた。」

1871年に統一國家となってから、独逸は経済成長と発展の甚だしい時期を経験した。工業化は急速に進歩し、独逸の生産者は、英國からその市場を奪い始めた。独逸は、自國の消費財をどんどん生産し、それに伴って英國製の製品を買わなくなっていった。しかし、独逸は同時に海外に於いても、特に米國に於いて、英國の市場と競争し始めた。独逸の繊維製品生産と鉄鋼生産は、英國のそれを凌駕した。独逸は、英國と比べて、技術開発にかなりの投資をし、それは、特に化学・電力・電機モーター(発動機)工業、それにモーターを使用した機器に於いて際立って工業技術の進歩を生んだ。独逸は、物理化学分野でノーベル賞の三分の一が独逸の発明家や研究者に授与されるほど、支配的な地位を占めた。1913年までに、独逸は、世界中の染料の90%を生産し、医薬品、写真フィルム、農業用薬品、電気化学などの化学分野で強みを発揮し始めた。6千5百万人の人口を抱え、独逸は、欧州大陸に於いて支配的な経済パワーとなり、世界でも英國に次ぐ世界第二位の輸出大國になった。(英國とフランスの人口は、それぞれ、4千5百万人と4千万人だった。)