第二章 大戦後の独逸-戦争の余波
第一次大戦が陥った長い膠着状態は、合衆國が踏み入らなければ、勝者も敗者もなく、交渉による和平(痛み分け)で終わるはずであった。しかし、1918年10月の英・仏・米陸軍が結集した戦力の重圧は、中央同盟軍が持ちこたえられるものではなく、次々と戦争からの離脱を模索し始めた。ブルガリアは9月29日に、トルコ(オスマン帝國)は10月末に、そしてオーストリア・ハンガリー帝國も11月3日に停戦合意に署名した。
英國が実施した独逸飢餓海上封鎖は、大変に応えるもので、これがやがては、独逸を内部から崩壊させる原因となった。英國の海上封鎖に反攻するために出動するべく、キールに駐屯していた独逸外洋艦隊の水兵が10月29日に反乱を起こした。それより前に、扇動家に依ってそのような任務は自殺行為だとその水兵らは唆されていたのだ。2~3日でキールの街は、彼らの手に落ち、國中に革命が広がった。11月9日、独逸皇帝が退位し、隠密に國境を越え、オランダに亡命した。帝國に代わって独逸「共和國」が宣言され、次には、連合國に和平打診が差し出された。1918年11月11日の朝五時に前線に近いフランスの森の列車内で停戦協定が署名され、同日午前11時に実施された。4年以上に亙る苛酷な戦いの末、遂に大戦は終わりを迎えた。
それにしても、この戦いは一体何のためであったのか?どの戦争當事國も何も得るものはなかった-少なくともその犠牲に見合うものは僅かすらなかった。平和な時代の結果として欧州に蓄積された財は、完全に浪費され、膨大な國の借金に置き換わった。戦いは、欧州がそれまで経験したこともない恐ろしい体験であり、後に残ったのは、心理的、経済的、そして政治的荒廃であった。戦前は、欧州の人々は皆、着実で継続的な生活の改善は歴史の動かない流れだと信じていた。その一般化した信仰は、悲観主義と冷笑主義(現世否定的嘲笑主義)に置き換わった。欧州は、深く、恒常的に害された、と言う気持ち(風潮)があった-その気持ちは、逆の意味で先見の明のあるものとなった。昔からの帝國、オーストリア・ハンガリー帝國、オスマン帝國、ロシア帝國、独逸帝國-は全て、戦争の結果瓦解した。これらの帝國は、政治的・社会的安定の礎だったが、今や、混沌が欧州全体を支配していた。戦後のパリ講和会議は、元通りにするには非常に不完全な事しかしなかった。今日の見方では、第一次大戦は西洋文明に不可逆的な衰弱をもたらした。
これらの心理的政治的逆境に加えて、かなりの物理的破壊もあった。フランスの北東の広い範囲ががれきと化した。ベルギーのフランダースは、完全に破壊され、古代都市イーペルは、灰燼に帰した。75万人に上るフランス人の家が破壊され、地域全体の基盤施設(インフラ)は、激しく損傷した。道路・炭鉱・電柱が破壊され、その地域の復旧作業に多大な障害となっていた。
しかし、それら全ては、膨大な数の、機械化された人間の殺戮に比べれば、取るに足らなかった。欧州の殆どの家族が、父親でなければ、息子、兄弟、夫、あるいは従兄弟など、一人は家族を奪われた。全ての戦争當事國は歴史上経験したことのない多くの戦傷者に喘いだ。例えば英國では、パッシェンデールの戦いで、半日(午後)で5万人の負傷者を数え、全体では終戦までに35万人を数えた。戦闘は、領土の獲得も損失もないまま終わった。塹壕が舞台の戦いは防塁からの機関銃に対する自殺的な攻撃と攻撃目標を木っ端みじんにする砲兵隊の大量砲撃によって特徴づけられた。これは、機械化された、工業化された死であった。この規模でこのような事はかつて起きなかった。殺戮の規模は、次に示す一覧で解っていただけるだろう。
連合國 |
中央同盟 |
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國 |
戦死兵 |
負傷兵 |
國 |
戦死兵 |
負傷兵 |
イギリス |
885,000 |
1,663,000 |
独逸 |
2,037,000 |
4,250,000 |
フランス |
1,400,000 |
2,500,000 |
1,200,000 |
3,600,000 |
|
ベルギー |
50,000 |
45,000 |
トルコ |
800,000 |
400,000 |
イタリア |
651,000 |
954,000 |
100,000 |
152,000 |
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ロシア |
1,811,000 |
5,000,000 |
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|
アメリカ |
117,000 |
206,000 |
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両軍合わせて、970万人が戦死し、2千百万人が負傷した。勿論、負傷者の中には一生不遇者となり、働けなくなったものもいた。また、700万人近くに及ぶ民間人も命を失った。
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