女イルミナティ22

セトは特有の星と星座とに関連し、恐らくはもっと破壊的彗星に関連した神である。それは時が経って地平線の下に沈んだ星が土台であった。視覚から隠されると、それらの星はセト(Set、Sut、Suth、South)の領分にあると考えられた。彼は特に南極の周りに位置する星座と関連した。セト信仰者の聖職はこれ等の「失われた星」を崇拝した。後になって、「失われた光」のようなメーソンの用語はこの星の現象と領域を指すようになった。

メーソンや神秘主義結社に使われる上下逆さまの五芒星は南極の星、セトの記章、冥界の神を表した。

「ヒクソス或いはアモリ人(Jebusites of Jerusalem)は、バール-セトのような、セム系の、シュメール―バビロニアの、そしてエジプトの神々を崇拝するイスラエル人以前の西セム族或いはカナーン人であった。」―D・M・マードック*著「モーゼは存在したのか?」
*Dorothy Milne Murdock(1960~2015)はアーチャーリャ・S(Acharya S)と言うペンネームで有名なキリスト神話説を説く米国の著述家。

「Sadaは『火』を意味した。アサドAsad(又はAsat)から我々はAsatel、Setel、Sat、Set、テュロスカナーン・ケナイト・フィリスティア・エジプトの火の神Seth、エジプト人が悪魔として恐れたヒクソスの王達の神を引き出すことが出来る。」―S・F・ダンラップ*著「ヘブロンの異教徒たちGhebers of Hebron(1894年)」
*S. F. (Samuel Fales)Dunlap(1825~1905)はアメリカの宗教・神話学者。

「ヒクソスはSetites(セト信仰者)としてエジプトに入ったが、Asirians(オシリス信仰者)としてエジプトから出て来た。」―同上

「セトはフィリスティアとデルタ地帯で崇拝された。セトはテューポーンであった。そしてアヴァリスはテューポーン信仰者の街であった。古代人と主にエジプト人は猶太人が土星-テューポーン(セト)を崇拝したと主張した。」―同上

「下エジプトではセト(Seth)の信仰は東側デルタと可能性として恐らくメンフィスだけであった。タニスとアヴァリス(ペルシウムとその近傍)はセトの信仰の二つの首座であった。タニスにはセトは大きな神殿を持って居た。」―同上

「アルフレート・ヴィーデマンによると、セトはエジプトで崇拝された。セティムSetim(Sheto)と言う言葉はSethimと同じであり、猶太人はSethitesである。サビアンSabiansは自分たちの宗教をSethから派生させた。セト(Seth)はセティム(Sethim)とナイルからレバノンに至る全ての土地で、ヒクソス、猶太、フィリスティア、トランスジョーダンにより崇拝された。」―同上

殆どのエジプトの神と同様にセトはある形態で太陽に繋がっていたが、それは肯定的ではなく否定的、破壊的兆候としてであった。

「セトは、その破壊的熱に繋がっているとはいえ、明らかに太陽神である。彼はまた、炎(火)ともみなされていた」―S・F・ダンラップ著「ヘブロンの異教徒たちThe Ghebers of Hebron」

 

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第12王朝に遡るセト像 

 第12王朝に遡るセト像。彼はアニュビスやイシスなどより前の最初期から犬の星(大犬座)シリウスと関連しているため、犬の面(顔)を持つ。ここでは我々は生と死、闇と光、無知と知を表すセトとホルスの融合を見る。どのような集団にも光の神々を闇の神々と関連付けることは困難ではなかった。そしてどちらも違う方法で崇拝したように思われる。形而上学的に、占星神学的に言えば、古代人は太陽の放射と輝きに対して、それは地下の世界に入って完全な漆黒に耐えねばならないならないと理解した。従って闇の神々が光の神々を司っていた。(図の二つの左手に注意しよう。)

 

エジプトの秘教の伝統ではセトとその従者(シェトSheto、サダイトSadites或いはセト信仰者Setians)は腐敗して、快楽主義で、道徳観念がないと見做されていた。セト信仰者はMa’atがない、つまり、清廉と名誉に欠けるのであった。彼らは霊的伝承の方法で修養することがなく、世界的権力と富の追及のために全人生を傾けた。霊的に目覚めた男女(人々) ―至高の存在(Neberdjer)と提携した人々― とはエジプト人にとってはセトの足枷を逃れた人々のことであった。

セトはキリスト教のサタンの土台である。サタンと言う言葉は「対抗する者」を意味し、元々の意味は占星術的なものであった。サタンは「落ちた者」と考えられた。何度も言うが、これは単に地平線下に落ちて所謂アメンタAmenta或いはヘイドHadesの冥界に入る天の南の領域とその星々を指しているに過ぎない。セトはクロノスKronos、サターンSaturn、アーリマンAhriman、アポフィスApophis、つまり冥界の主と同等であった。惑星の土星の崇拝はセト信仰の堕落した変形であった可能性がある。猶太のサバス(安息日)が土曜日、つまり土星の日を指すことは興味深い。

我々は今でも地平線の下に落ちて消えてゆく星々や発光体のことを語り、サベアSabeanのような言葉を天文学占星術を指すときに使うのである。

 

 

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サタンの落下(堕天使) 

サタンの落下(堕天使)。命に関わる危険な彗星や、また嘗ては崇められたが最後には地平線の下に落ちて視界から隠させる星や星座もが現れる暗号的な暗示。それは古代の星の宇宙論の遺物であり、セト信仰の中心的知覚表現である。その前提は落ちた者を崇拝すること、何故なら太陽が毎朝復活するように、それらの落ちた者も次代に「再び昇り」人間の世界を支配することが確実であるからである。それは、後世の神話拡散者によって全く誤った解釈をされた占星神学のよくある思想であった。地平線を囲む円形の線は「セトの輪」後にはホルスの輪であった。日々、或いは毎年消える惑星や星は「沈むこと」、つまり、セトの領分に落ちて行くことを意味した(し今も意味する)。指或いはイヤリング、修道士の剃髪、ラビのヤムルカ、等の形状は、闇と光の二つの世界を分けるこの境界或いは限度を表す。テンプル騎士団-メーソンの市松文様の床もまた、この現象を暗示する。(テンプル騎士団の旗は白黒の正方形を表示する。)エジプトでは星と言う言葉はseb、sheb、sab、或いはsabaであり、だからサベアsabeanなのである。(詳しくはこちら:https://www.google.com/search?q=knights+templar+flag&client=firefox-b&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjR3Z6iyrrcAhUUZ8AKHfhQBBwQ_AUICigB&biw=700&bih=334

「レピシウスが言うには、これらのエジプトの神官は天文学には熟達していたが、謎めいて居り、とても話せるような相手ではなかった。彼らが自ら進んでその教義の一部を伝えるように許したのは時が経って、しかも礼儀正しい配慮を以て漸くの事であった。しかしそれでも大部分は隠されたままであった。」―S・F・ダンラップ

 

セト信仰者は後にはアテン信仰者として知られ、更に後には、経典(聖書)で、神秘のレヴィ族が至高の階級でその他を支配する、と言うイスラエル人や猶太人として知られた。これらの「部族」は、後にフリーメーソンや黒い貴族として再登場するバビロニアのゲオーニームを含め、後に出来た多くの宗派、社会、王朝と関係した。

暗黒化と誤った導きと言えば、結局レヴィ族の貴族は精神錯乱に陥った。彼らはセトを作り変えることにした。セトはヤハウェ或いはジェホヴァに変身した。この時から公式の猶太の歴史が始まった。(詳しくはこちら:http://www.astrotheologyzone.com/origins-of-jehovah.html

エジプトの境界の外ではセトはエル・シャッダイEl Shaddaiとして知られていた。語根のShadはShat、Shet、Sut、Set、Seth、Sithの変形で、「破壊者」を意味し、可能性として最も高いのは有害な彗星を暗示する。示唆的に、エル・シャッダイ(或いはエル・サディ)と言う神の名は「胸」を意味する語根から来ており、それはこの神が元々女性の外見 ―神よりはむしろ女神― であったことを指摘する。男性的な姿では彼は火の神、破壊の神、疫病の神、荒野の神であった。これはモーゼ五書に現れるヤハウェの像に完全に合い、シナイ山の山頂で考え込み、沙漠・雷・稲妻・怒り、疫病・飢饉・虐殺の送り主 ―無知な大衆を脅し、教化する完全な神― である。偽装にも拘らず、セト信仰者である印象は紛れもないものである。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/El_Shaddai

ヘブライの神はEl Sadi、Sadi、Set、Sethの名前を持って居た」―S・F・ダンラップ

「様々な著述家によりテューポーン-セトが女性であることが知らされる。彼女は初期の猶太の神であった。換言すれば猶太人は前は女性の神の崇拝者だった。エホバ或いはイアフIavは元々女性だった。」―エリザ・バート・ギャンブル*著「古代人の神の考えと宗教に於ける性The God-Idea of the Ancients or Sex in Religion」
*Eliza Burt Gamble(1841–1920)は19世紀から20世紀初頭にかけて知識人活動家。ミシガン州の女性運動の擁護者、教師で作家。

セトはエジプトに輸入されたもので、土地に元々あったものではないと言う可能性がある。彼は元はサカSacaやスカットScutsと言う名前であった古代スキタイ人が崇拝した先史時代の角のある鹿の神であったのかもしれない。スキタイの名前はシェティアンShetian、シェシアンShethian或いはシシアンSithianの拙い訳名かも知れない。古代の年紀には勇猛な騎馬スキタイ人が早い時期にエジプトに入ったという報告がある。パレスチナのスキトポリスScythopolisの街は彼らに因んで名づけられた。イサクの名前は「サカの人間」或いは「賢人」を意味する。サクソンは人間の中で最も賢く最も高貴だ、として世界中に知られていた。著者の意見では、セト信仰者はこの華やかな民族の中で知識はあるが腐敗した支族であった。これはスキタイの伝説で支持されている。

「…皆青い目をして明るい赤毛をしていた。」―ヘロドトススキタイ人の外見について)

「サカイSakaiはスキタイの中で最も優れた民族で、アルメニアに定住し、サカエ-サニSacae-Saniと呼ばれていた。」―大プリニウス*(ローマの歴史家)
*Gaius Plinius Secundus(~79)ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは、古代ローマ博物学者、政治家、軍人。甥でベスビオ火山の噴火を記録したプリニウスと区別するため、大プリニウスと呼ばれる。

「サクソン人は古代アジアのサカエの子孫であった」―フラックス・アルビヌス*(カール大帝の先生)
*Flaccus Albinus Alcuinus(735?~804)はイングランドの学者、神学者、教会関係者、詩人、教師。カール大帝に招かれてカロリング朝宮廷の教師となった。アルクイナスとしてより知られる。

「「ノルマンのSacaeは後に印度に至り、ヴェーダ、宗教的詩、を伝え、それはまずは口伝で、しかし西紀300年頃の比較的遅い時代にバラモンによって古代サンスクリットの書式に変えられた。」―マジソン・グラント*
*Madison Grant(1865~1937)は、優生学者および自然保護主義者、科学的人種差別主義の擁護者、そして進歩主義時代の主要な思想家および活動家の1人としての彼の業績で知られるアメリカの弁護士、作家、および動物学者。

「…エジプト社会の王族を除く上流階級を代表する多くの官僚、廷臣、神祇官は、今のヨーロッパ人、特に顔の長い人に驚くほど似ていた。」―カールトン・クーン*教授著「ヨーロッパの人種」
*Carlton S. Coon(1904~1981)はアメリカの人類学者。ペンシルベニア大学の人類学教授、ハーバード大学の講師兼教授であり、アメリカ人類学者協会の会長を務めた。

「そして、小アジアエラムペルシャ、インダス渓谷、地中海の他の古代文明も同様にシュメール或いはアリアンの起源であることが示される。」―L・A・ワッデル*
*L. A. Waddell(1854~1938)はスコットランドの探検家、チベット人の教授、化学および病理学の教授、インド軍の外科医、チベットのコレクター、アマチュアの考古学者で、シュメール語とサンスクリット語に通じていた。

「これらの青い目をした薄い肌色の民族が誰であるか単に誰も知らない、彼等が何処から来たかも…人類学的には彼等はコーカシア人種と名付けられている。…エリオット・スミスは、これらの人種は現代の世界が驚く驚異のナイル川畔の建築を成し遂げるのに充分な、いやそれ以上に知識を持って居た、と結論付けている」―ジェラルド・オファレル*著「ツタンカーメンの欺瞞」
*Gerald O’Farrell:詳細不明

有名な女性の部族で弓と剣を振り廻すアマゾネスは実際はスキタイの支族であった。

実際、エジプトの伝承のある部分はスキタイとその神々が由来かも知れない。悲しいことにスキタイは元は西ヨーロッパから来たため、レヴァント、エジプト、そしてその先遠くでのその存在と影響力についてはあまり聞くことはないであろう*。多くの意味で有史以前のスキタイの戦士は後のテンプル騎士団に類似していた。
*文明の西方起源を隠したい学界から支持されないため、と言うことか?(燈照隅コメント)

結局のところ、第17王朝の終わりにセト信仰者(ヒクソスの貴族)はファラオ・イアフメス一世(1539~1514BC)に倒され追放されたのであった。この出来事は二つの大きな出エジプトの最初であったが、神話伝承者により両者は合成され、同じ名前で旧約聖書に記録された。神話伝承者にとって放逐は、壮大な出来事と言う程度で権力の座から落ちたこととして解釈された。これが、メーソンに髑髏、棺、落ちた王冠、壊れた円柱や建物、冠石の欠如、盲目や傷ついた王や預言者たち、疫病、荒野の滞在、亡命、等のような奇妙な記号がみられることを説明する。

今日まで、メーソンの第三階級の儀式は、三人の暗殺者による君主の殺害、そして暗殺者が非難され、残酷に懲罰されることを再現して、アテン信仰者-アメン信仰者の争いを記号の形式で残している。今の裁判所で判事がその槌を三度叩くと、それもまた、この極悪な古代の犯罪を呼び起こすのである。示唆的に、メーソンの伝承に於いては、三人の暗殺者は纏めてJewes或いはJuwesとして知られる。これは、王殺しの綽名が後に民族全体の名前を表すようになったことを意味するのだろうか? そうなら、それは不吉以上のものだろう。

セト信仰者の第二の追放はアクエンアテンの治世の終わりに起こった。ファラオ・ホルエムヘブは彼らに行進の命令をし、それでも彼らが戻ろうとすると、ファラオ・セティ二世とメルエンプタハが彼らのところに戦車で乗りつけ、彼らを領土から追い出した。アテン信仰者は二度と戻らなかった。彼らは、ファラオ・イアフメスに第17王朝の終わりに追放された亡命者の集団の裕福な子孫たちに歓迎される、下エジプトのギザ平野、タニスの街、そしてエジプト国境より向こうの街まで後退した。どちらの亡命者の集団も、自分たちを追放した土着のエジプト人とアメン信仰者に計り知れない憎しみを抱いたのであった。

二度目の出エジプトの後、極めて重大な変化が起きた。セトは作り直され、公の顔を与えられた。神は群衆にジェホヴァ或いはヤハウェと言う偽名で公開された。創世記とそれに続く二、三の旧約聖書の本はこの作り直しの物語を歪曲的で暗号的なやり方で我々に伝える。

ヤハウェの名前は恐らく以前のカナーン(アリアン)部族から盗用したもので、元々はヤール(Jahl)或いはヤエル(Jael)と言う名の下、女性の形で崇拝されて来たものの可能性がある。これは、ヤハウェが元々アブラハムに現れた時、この家父長が何故シェケムで神の祭壇を樫の木の横に設えたを説明する。(創世記12:6~7参照)

「女神アナット-ヤフ/ヤハウェAnat-Yahu/Yahwehは5世紀のエレファンティンの猶太のパピルスに言及されて居り、それは神が『元々バビロニアのユダ征服から逃れた猶太人により建てられたヤハウェの神殿で礼拝されていた』と主張する。」―D・M・マードック著「モーゼは存在したのか?」

「シュメールとバビロニアの神々でアヌAnuは元からの古代神々の家父長であり、その妻はアシュラタムAshratumで、西方セム族の家父長の神エルELの配偶者アシェラーの変形であった。」―ティム・キャラハン*著「聖書の起源」
*Tim Callahan:ケンタッキー出身のアメリカの作家。The secret origin of the Bibleの著者。詳細不明

示唆的に、研究によるとセトは女性の形で、冥界(南半球)の大蛇の神、アポフィス或いはアペプとして現れたことが明かされている。伝承によってはセトとアペプは配偶者である。セトを崇拝した最後のヒクソスの王はアポフィスと呼ばれた。

「Abtit-Untiは悪であるアパップApapの一形態であり、自然現象における打消しの類で、それは善に対することであった。終末論に於てセトSet或いはサトSutは非存在として打消しを表すのである。」―アルバート・チャーチウォード*著「フリーメーソンの起源と進化」
*Albert Churchward(1852~1925)は英国の著述家。

「創世記はエジプトの神セトに倣って利巧な蛇を作り出し、そのセトはラーReの敵であるアポフィスの蛇の形態をとった。」―ゲイリー・グリーンバーグ*著「聖書の101の神話」
*Gary Greenbergは聖書と近東の歴史に関する本の著述家。詳細不明。http://biblemythhistory.com/

エジプト人は屡々アポフィスをセト神と一体と見做していた。セト神は利巧で野心が強い神で、エジプトの王位を兄のオシリスから奪いたかった。この目的に向け、彼は盟友と謀ってオシリスを暗殺し、王室を奪った。」―同上

セトは、支配権をめぐるホルスとの戦いの間、イシスの真の息子でホルスは庶出であると彼が主張したことから、確実に男性ではなく女性と提携している。これは、何故かと言うと、古代のエジプトでは王位は女系を通じて、つまり母方から継承された。セトの従者は、従って、正当に母系カルトと考えられるのである。

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イアフメス一世 

エジプト不朽の救い主、ファラオ・イアフメス一世は暴君のヒクソスの貴族或いは羊飼いの王達を打ち倒し、領土から追放した。これは部分的には、ヒクソスにより非道に殺害されたその父のファラオ・セケンエンラーの復讐と関わるものであった。この追放は旧約聖書出エジプトとして記録されている。実際のところ、神話拡散者はヒクソスの二つの違う追放を一つの入り組んだ筋に合成した。二度目の追放は紀元前1520年頃、アクエンアテンとその王朝の瓦解の後に起こった。アクエンアテンはヒクソスと姻戚関係で彼のアテン信仰者は復讐に満ちた計画を持ち出したのである。(詳しくは以下三つのリンク:https://infogalactic.com/info/Ahmose_I
https://infogalactic.com/info/Apep
https://infogalactic.com/info/Apepi_(pharaoh)