女イルミナティ03

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世界で最も強大な秘密結社に関する女性の役割は、正史・代替(オルタナ)史両方の学者から正当な理由により、完全に無視される分野である。女イルミナティシオン修道会)は権威に於いては最高であり、その上級結社員は自分たちの存在が漏洩しないよう細心の注意を払ってきた。今になって漸くこの問題を思慮深く探求できるようになったのである。

殆どの人々は、女性はメーソンやテンプル騎士団では全く何の役割も果たしていないと信じる傾向にある。著者が女イルミナティの番組で示したように、真実からかけ離れたものは何もない。女性は世界中で男の扇動者達 ―見かけ上悪名高き秘密結社の網目組織を設立した人間たち― を産み、育て、彼らと結婚しただけでなく、多くの場合女性はこれ等の結社の最高幹部でもあったのだ。

「ダドリー・ライト*はその著書『女性とフリーメーソン』の中で、『過ぎ去った日々の中で女性がテンプル騎士団に受け容れられたという証拠がある』と言っているが、それは最近になってテンプル騎士団の墓石に女性(の名前)が見付かったことにより実証された。」―トニー・ブッシュビー**「聖書における秘密」
*Dudley Wright(1868~1949)は英国の著述家
**Tony Bushbyはオーストラリアの聖書研究家。主な著書:「The Secret in the Bible (2003)」「The Crucifixion of Truth (2005)」「The Bible Fraud: An Untold Story of Jesus Christ (2001)」「The Twin Deception (2006)」

「ルネ・ダンジューの娘、マーガレット・オブ・アンジュー(マルグリット・ダンジュー)は薔薇戦争の前の1445年、最後のランカスター朝の王であるイングランド王ヘンリー六世と結婚し、1455年に始まった薔薇戦争に於いて重要な役割を果たした。1430年にシオン修道会の大棟梁となったのは、このマーガレットの姉ヨランド(ロレーヌ公爵夫人)であった。」―ニコラス・ハッガー**

*René d'Anjou(1409~1480)は王家ヴァロワ家の分家であるヴァロワ=アンジュー家出身の中世フランスの王族。Yolande d'Anjouはその娘で、その妹がMargaret of Anjou(1429~1482)。
註:原文ではヨランドはマーガレットの娘になっているが間違いであろう。
**Nicholas Hagger(1939~)は英国の詩人、作家、文化史家、哲学者で、哲学的普遍主義の主要な支持者。

 

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ヨランド・ダンジュー/Yolande d'Anjou
(ロレーヌ公爵夫人1428~1483
秘密のシオン修道会の大棟梁であった


次の論説2~4を通じて著者は、黒い支部(ロッジ)やその他の弱小な結社を支配し指揮しているのは、疑う余地なく、女イルミナティであることを示す。

それよりはよく知られているイルミナティ結社の起源と言えば、二人の興味深い人物に注目することで理解が出来る。一人はスペインのイグナティウス・ロヨラで、いま一人は、ドイツのアダム・ヴァイスハウプトである。イグナティウス・ロヨラは、イエズス会の名前でもよく知られている悪名高きイエスの結社の創設者であった。彼は、その最初の「闇将軍」或いは「黒い教皇」であった。

好奇心をそそられるのは、イエズス会カトリックの修道会の中でこれまで、教皇に抑圧され、懲罰された唯一つの団体)は1773年に廃止された。教皇クレメンス16世が、躊躇いながらも遂に、永久にと思われる、完全にイエズス会を廃止する教皇小勅書(命令)を発した。そこで疑問が湧くのだが、これは、イルミナティ(ヴァイスハウプトの下の)が、僅か三年後の1776年に活動開始したのと、偶然の一致と言うことで受け容れるべきなのか、である。著者はそうは思わない。(註:1814年にイエズス会の解散命令は取り消された)

イエズス会は禁令が発せられるまで、ヨーロッパと南アメリカに於て強大な王朝と十年以上に亘り問題を抱えて来た。であるから彼らは禁令が発せられるより前に、よく、そして神妙に何が起ころうとしていたかに気づいていた筈であった。1773年に鉄槌が下される前に、イエズス会はその切迫した窮状を予期し、陰謀的な再起の計画を練っていた。実際イエズス会は、地域的な弾圧が起こっている間に、その会員が隠れるために既に世界中で傘下の団体の創設を経ていた。従って彼らにとっては必要な状況となれば、新しい仮面の下で見かけを作り直すことは容易なことであった。世界中で禁止されるとイエズス会の隠れた、浸透性の、破壊的な新しい組織は、著者の意見では、バイエルンイルミナティとなった。

 

然し、この日付の一致以外に更に、我々は如何なる証拠を持って居るであろうか?

イルミナティ」の名前については、我々をイグナティウス・ロヨラの扉に直結する。彼は若き日に、アランブラドスAlumbradosとして知られた悪名高きカルトの構成員で支持者であったことからスペインで逮捕され、起訴された。そしてこのカルトは1490年代に始まった可能性があり、それはテンプル騎士団が地下に潜ってから程なくのことであった。でもそれは偶然の一致で、気にするような事ではない!(ことになっている)。

いずれにせよ、ロヨラは逮捕され、異端の罪で起訴され、その宗派に加入していた廉で収監されたのであった。彼はその大学での地位を失い、その秘密違法宗派への公然の加入のため、暫くの間厳しい監視の下に置かれた。暗示的であるが、アランブラドスは「イルミナティ」としても知られていた。結社員は自分たちを光の同胞或いは輝ける者と呼んでいた。さあ、我々は、後にバイエルンイルミナティ結社員が偶然にもこの創設者、しかもイエズス会の首領のお気に入りの全く同じ結社名を採用したことも、偶然の一致と取るべきであろうか?

更に、イルミナティイエズス会士によってその傘下の結社として創設されたのであれば、それは、そう信じるよう教えられるように、イルミナティ教皇代理人であるということを意味するのであろうか? この議論はイエズス会が忠実な教皇派であるときにのみ、成立するが、そうでなければ瓦解する。仮にイエズス会の首領がまた別の権力に秘密で仕えていたとすれば、どうであろう?

その繋がりは、イルミナティとその代理人によって作られた美辞麗句と宣伝工作により、複雑であり、イエズス会から距離を離すように捏造され、そしてそれが反君主(王)制であると言う印象を与えている。これにも拘らず、アダム・ヴァイスハウプト自身がイエズス会士で、しかも生涯そうであり続けたことは、著者の意見では疑うことが出来ない。

彼は、クニッゲ男爵*のようにステュアート朝ヘッセン家、ザクセン=コーブルク=ゴータ家ハプスブルク家ブルボン家、ロレーヌ家などの有名な王朝と親戚筋に当たる貴族がその最も親しい同胞であったため、勿論反君主制ではなかった。更に、ヴァイスハウプトはその後半生40年の間、何人もの貴族の館で悩み暮らし、自らがイルミナティの結社員であったザクセン・ゴータ・アルテンブルク公爵であるエルンスト二世から生涯年金を受け取っていた。
*アドルフ・クニッゲ(Freiherr Adolf Franz Friedrich Ludwig Knigge、1752~1796)は、18世紀のドイツ(神聖ローマ帝国)の著作家、評論家。フリーメーソン結社での人脈に幻滅し、深く失望したことで、クニッゲは「フィロ」という仮名で1780年に「コンスタンツォ侯爵」を通じてイルミナーティに入会した。クニッゲは、北ドイツにこの結社を広めるという使命を帯びて、持ち前の落ち着きと巧みな組織力で、約500のメンバー、主に貴族や知識人を集めることに成功した。イルミナーティはクニッゲが入会させたヨハン・クリストフ・ボーデを通じてヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテさえ獲得した。しかし、ボーデと創設者アダム・ヴァイスハウプトとの激しい権力闘争があった後、クニッゲは1784年、再び除名された。クニッゲは、自分が期待したようなこの結社による「国民の精神生活の刷新」は現実的ではなかったと後に回想している。

 

明らかにそのルター派の公爵はミラボー伯やオルレアン公爵などのようなカトリックの人々と一緒に動くことを気にしていなかった。もう一つのバイエルンイルミナティの共謀・共同創設者は、ロートシルト家を財務担当者及び投資家として登用した一家であるヘッセン選帝侯家の公子・ヴィルヘルム(フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム 、1787~1867?)であった。ヴィルヘルム公子の弟カールはメーソンの高級会員とイルミナティ会員のどちらもであった。これらの人間は黒い貴族の上級会員であった。(詳しくはこちらhttp://www.femaleilluminati.com/article-4.html

イルミナティとメーソンの合併は1777年にヴィルヘルム公爵所有の洒落た静養先で開かれたヴィルヘルムスバード会議で決まった。

「ヴァイスハウプトの記録は、反論の余地なく本物である。バイエルン政府は、ミュンヘン公文書館にある原本の閲覧に関心のある人を招待することにより、「偽造」を(今世紀によく知られている方法で)叫ぶ試みを無意識のうちに阻止した。」―ダグラス・リード*著「シオンの論争」
*ダグラス・ランスロット・リード(1895~1976)は、英国のジャーナリスト、劇作家、小説家、著作家

これ(合併)は敵対結社の結合ではなく、類似の悪だくみな目的(課題)を持つ人間により支配される結社の結合であった。それは対立しないことのなかった協力関係であった。(?その方が世間の目を誤魔化すのに都合がよいからか ―燈照隅コメント)

ブラウンシュヴァイク[1](カール・ヴィルヘルム・フェルディナント)は自身がメーソン幹部であったが、テンプル騎士団イエズス会イルミナティの破壊的課題に関して、世界中に警鐘を鳴らした。1794年の彼の演説は、メーソンへのイルミナティ浸透の危険に関して世界に報じた。この演説中、公爵は警告した。「大きな徒党が立ち上がった。それは人類の善と幸福をその信条とし、人類の幸福をその獲物とする陰謀の闇の中で働いた。この徒党はみんなに知られている。その同胞たちはその名前と同じくらいに知られている。」更に、公爵は次の様に続けた。
[1] Karl (II.) Wilhelm Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbüttel(1735~1806)

「彼らは世界に多数の出版物を溢れさせた。彼らはあらゆる階級のあらゆる役に弟子を集めた。彼らは(自分たちの本当の意図とは)異なる意図を偽って主張することにより、もっとも先見の明のある人間を惑わした。彼らは若者の心に強欲の種を植えつけ、最も飽くなき情熱の餌でそれを煽った。不屈の誇り、権力の渇望、その類がこの徒党のただ一つの動機であった。彼らの棟梁はその見識に於て地上の王座と何ら変わりがないし、民族の政府は彼らの夜会の倶楽部によって指図されることになっていた。」―ブラウンシュヴァイク公著「1794年の声明」

公爵は潜入者と腐敗扇動者を指して「太陽結社Sun Order」と言った。著者の意見では、この好奇心をそそられる言及が、ツァドック或いはメルキゼデクの古代アテン信仰結社の扉、即ちファラオ・アクエンアテンとその思想の継承者、例えばテンプル騎士団、厳格遵守メーソン(Strict Observance)、大東社、イエズス会、それに他の世界中の悪意の隠れた結社を描写し、我々をそこに導いてくれるのである。

公爵の抗議は世界の行く末を心配した人道主義者のものではない。彼の反論は単に自分のメーソン結社の支配を失い、その方向性を変更することを決めた他の舵取りに(支配を渡す)恐怖によって促されたものであった。世界史の大きな部分は酔いどれ狂った王家の間の「枕合戦」(王朝の争い)に少し毛が生えた程度のものである。何百万もの普通の人々がこれらの惨禍に於いて使い捨て兵士として使われることは気の毒なことである。