筈見一郎著 「猶太禍の世界」07

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第四章 ビスマルクと猶太民族問題

 

独逸民族精神の勃興

ドイツが民族的に自覚して、遂に今日の如くナチスが奮起、その政権を取り、その国粋運動を極度に強大拡大し徹底的な排猶を実行するようになって世界を聳動(しょうどう: 恐れおののかすこと)するに至るまでには、種々の歴史的過程を経過して来たのであった。

顧みれば、彼のドイツ精神の擁護者とも称すべきドイツのペザント達により企図せられた農民戦争やマーチン・ルーテルの宗教革命こそは、実に、ゲルマン民族が猛然ローマン・カトリックの久しきに亘って毫も揺るぎがなかった宗教制度に反対して立った民族解放の起源とも称すべきであった。ただ、その企図は未だ民族的に統一したドイツ国家とまでには発展し得なかった。

なぜなれば、斯くて、彼等は宗教的方面ではプロテスタントによる民族の統一をある程度まで計り得たとは言え、まだ封建的に自由な*都市を中心として分立したままの姿であったからである。(*原典:重な 恐らく間違い)

 

オーストリアはドイツの民族主義の宿敵

この間にオーストリアハプスブルク王朝は、斯うしたドイツの統一されて強大となるのを喜ばず、何かにつけて、それを妨害するの政策に出た。この意味でオーストリアはドイツ民族主義の宿敵とも称すべきものに遂になった。メッテルニヒの斯うした保守的政治は、かのウィーン会議以後更に辵(ちゃく)をかける(輪をかける)ようになった。

プロシャや固よりこれに対して拮抗した。フリードリヒ大王以来ことにそれが顕著となった。

 

鉄血宰相ビスマルクの出現と独逸

そういう時代に現れたのが、実に鉄血宰相ビスマルクその人であった。ビスマルクは、その思い切ったドイツ国粋主義を頭から真向に振りかざして、気の弱い幾多のドイツの自由主義者を縮み上がらせ、その度胆をすっかり抜いてしまったのである。この意味で、宰相ビスマルクこそは今日のドイツ復興の恩人の一人と言えるのである。

未だ完全な意味で統一されない依然支離滅裂とも評すべき革命後のドイツをば、統一し得たのは、何といってもビスマルクの巨腕が物を言ったのであった。

嘗てかのドイツの史家ワールが、

ビスマルクが、最近従来よりも遥かに熱心に追憶され、その業績が頻りに学者の研究の対象となり、彼に関する著作が多くなったのは、ドイツ民族そのものに今なお健全な要素の存在するのを語り、その民族的復活を期待し得る証左ではあるまいか」
と評したのも、慥(たし)かに正鵠な観察と言うべきであった。

 

独逸への猶太人の移住の始め

ドイツに猶太人が移住してきたのは、既に述べたスペインへの猶太人の転住と相前後した紀元後一世紀か二世紀の頃と見るのが、史学者の定説となっている。

それは当然、スペインよりフランスを経て、主として、西南ドイツのライン沿岸地方に行われたものであろうと推察されている。疑いもなく、カール大帝はそうした猶太人に対し想像以上寛大な態度を執ったのであった。

それが九世紀か十世紀になると、ドイツ国内でも就中(なかんづく)、マグデブルグとかメルセブルグとかの地方に相当多数の猶太人が最早移り住んでいたのであった。

しかし、プロシャ又はブランデンブルクに猶太人の移住したのは、それよりかは、ずっと遅れていたらしい。兎に角遅くとも十三世紀になれば、ブランデンブルクに猶太人が愈々移住していたに相違ないことだけは、立派に立証が出来るのである。

 

十四、十五、十六世紀の独逸に於ける反猶運動

ドイツでは、ところが、一三四九年、一四四六年、一五七三年と前後三回まで反猶運動が起こった。その結果、特にブランデンブルクでは、猶太人が居たたまれず、全く姿を消すに至った。

その後、ブランデンブルクで又もや猶太人が多少なりともその存在を示すだけの活躍が認められるようになった。それは、大選帝侯*フリードリヒ・ウィルヘルムの頃からであった。(原典:大選挙侯)

 

フリードリッヒ・ウィルヘルムと猶太人対策

それから、十七世紀の中葉に、十年間(一六四八~一六五八)の戦争があり、ポーランドに居た猶太人の多数がブランデンブルクに逃げ込んで来た。だが、フリードリヒ・ウィルヘルムは勿論、フリードリヒ大王は、どちらかと言えば、猶太人にはつらく当たった方であった。

彼等には猶太人の宗教上に甚だしい偏見があることや、その日常の習慣が、どうしても、気に入らなかった。

 

猶太人モーゼス・メンデルゾーン

しかし、間もなくドイツでは猶太人に取りて新しい時代が訪れた。それは、有名なモーゼス・メンデルスゾーン*が、猶太人の内的改造を行い、従来より以上、ドイツ人との折合をよくするようになったからであった。そうして、ドイツに於ける猶太人の地位を大いに高めたからであった。
(原典:メンデルゾーン)

このモーゼス・メンデルスゾーンは所謂「寛容されたジュウ」として貧困な家庭からそのスタートをなしたのであった。彼こそは全く立志伝中の人と言うべきであった。十四歳の頃、彼とても、憐れむべきバイブルの旧約やタルムッドはては精々マイモニードの知識しか持てぬ猶太の一介のみすぼらしい少年であり、そのドイツ語とても頗る怪しいものであった。

一七四九年にユダヤ人レッシングの有名な喜劇『猶太人』が公にされた。

このレッシングの名筆で活写された猶太人の青年ヒーローこそは誰あろう、今は正に二十代となったメンデルスゾーンの偽りなき現実の姿そのものであった。語学にも、哲学にも、詩学にも、儕輩(せいはい:同輩・同僚)を凌ぐ優秀な青年で独自の境地を有する推奨するに足る前途有望な男子として、彼メンデルスゾーンは大々的にドイツの公衆に紹介され、メンデルスゾーンは忽ちドイツ人間の寵児とさえなった。

それから十数年を経過して、一七六三年に、メンデルスゾーンはベルリンアカデミーの懸賞論文に応募した結果、カントに打ち勝ちて、当選の栄を得たので、ドイツ全国は、その才能に驚異の眼を大いに耀かすに至った。

この時も、彼のレッシングはメンデルスゾーンをば、第二のスピノザとまで賞揚(しょうよう:褒め称えること)した。メンデルスゾーンはこれに力を得て、モーゼの五書のヘブライ語からの独訳を企て、五箇年の努力の結果、それを完成、これを仲立ちとして、基督教徒にもヘブライ語が読めるようにした。そうして、基督教徒にも猶太性(ユデンツム)の正解されるように努めた。

これは従来失意の境遇に沈淪して居た猶太青少年にも、その青雲の志を大いに鼓舞するよすがとも手本ともなった。それらの青少年は随ってメンデルスゾーンを「当代のソクラテス」とまで礼讃するに至った。

 

歴代独逸王侯の重商主義と猶太対策

大選帝侯以下歴代のドイツの王侯は、その重商主義の見地から猶太人の金力に目を付けざるを得なくなり、猶太人は従来にまし、利用されるに至り、この意味でも、猶太人の地位は漸く改善された。そうして、一方、彼等を機会さえあれば、依然抑圧する政策を取り、多額の租税を猶太人から取り立てた。

兎に角、以上のような次第で、世界の猶太民族の近世の歴史と言うものは、メンデルスゾーンを以て始められたと称するも可なりであろう。彼は一言にして謂えば、猶太人の近代的生活を開拓したものであった。

彼は、斯くして猶太人の地位を改善に努めたのみならず、その信仰の純化をば図った。後年の猶太人の解放の理論もメンデルスゾーンに負うところが少なくないことは勿論である。

 

猶太人寛容令

オーストリアの皇帝ヨセフ二世の如きは、一七九二年を以て、猶太人に対するその名高い「寛容令」を発布したものの、それは必ずしも、猶太人をば、基督教徒と何処までも同一に扱うとか、同様の権利を与えるとかの意味合いではなかった。皇帝自身にそんな意志は毫もなかった。

依然、ウィーンに於いては、特別な猶太人に限って、保護税なるものを上納して、漸くウィーン市に入ることを許した程度にとどまっていた。猶太人がウィーン市内でそのエホバ礼拝堂のシナゴーグを建てることなんかは、以ての外と、絶対に許されなかったのであった。

 

十八世紀末の在独猶太人

しかし、十八世紀末になると、猶太人の文化的社交的地位と言うものは、著しく向上して来るのであって、最早ドイツ人に比べて何らの遜色とては認められない有様となった。

かのフランス革命は指導的原理としての人権の尊重を叫んだので猶太人は従来の伝統的反猶思想から、大分に救われ解放される運命とはなった。この裏面には、猶太人自身の工作が多分にあったことは既に前章で述べた通りである。

 

ネーベン・メンシとゾンデル・ナチオン

国民議会は有名な「人権の宣言」を公にし、フランス在住の猶太人の如きは一七九一年の九月下旬には完全な市民権を与えられるに至った。此に至って、猶太人の満悦思うべしである。だが、好事魔多しとやら、その後ドイツに又もや反動が生じ、猶太人は、嘗てのオーストリアで称せられた一人前でない副人民(ネーベン・メンシ)と、大同小異な、特殊国民(ゾンデル・ナチオン)として再び憎悪の的になった。それは猶太人があまりに図に乗って、一般ドイツ人の目に余る行動に出たからであった。そうして、猶太人を迫害する暴動さえも遂に起こった。これが、ただにドイツ国内に於けるのみならず、コペンハーゲンにまで波及するに至った。

一八二二年には猶太人は絶対に上等兵以上の軍職に、一八二三年には大学のプロフェッサーにも就かれぬことにさえなった。従って、たとえ表面的とは言え、猶太人としては基督教徒に改宗するより外に、生きる途はなくなってしまった。逐年そうした改宗者は増える一方であった。ところへ、例の産業革命が、欧州の政界に一大波紋を描き一大転換を促すに至った。

かのガブリエル・リーサーはこれに関連して、彼自身の生涯そのものが、ドイツに於ける猶太人の解放史というべきような活動を続けた。

 

ビスマルク普魯西(プロシャ)の首班となる―其巨腕

遂に、ビスマルクは一八六二年を以て、遂にプロシャ政府の首班となった。殊に一八六六年普墺(プロシャ-オーストリア)戦争以後の彼の鮮やかで水際立った内外に揮った手腕というものは、恐ろしい効果を奏した。

殊に、彼が猶太人の社会民主主義者フェルディナンド・ラッサルの提案した普通選挙権を採用したことなどは、猶太人の大いに歓迎するところであった。全く猶太人の思う坪に嵌ったものであった。この点、今日から考えると、ビスマルクも猶太人に瞞着(騙す・誤魔化すこと)されたと言わなければならぬのであった。が、流石のビスマルクも進歩的政治家といわれたかった。当時のイデオロギーには抗し切れなかったものと見える。これがため、一八七二年には、期せずして、ドイツ帝国憲法で猶太人の解放問題の如き自然と解決を見るに至ったように見えた。

 

ビスマルクの反動政策

しかしである。ビスマルクも、決して凡庸な政治家ではない。猶太人を利用すべきときには十分利用し、彼等が不要になり、ぐっと、引きしめる必要を認めたときには、うんと、引きしめる方法を知っていた。彼は普仏戦争後、間もなくドイツ国粋主義の強化には、どうしても、異分子の猶太人に相当の抑制を加えなくては、都合が悪いことを明確に察するに至った。

何となれば、一八六九年七月三日、猶太人解放の法律が公布されるや否や、待っていましたと言わんばかりに、ポーランド、ロシア、オーストリアハンガリールーマニア等から、所謂「東方猶太人」と称する者が挙(こぞ)って、ドイツは彼等の楽土であるとて盛んに我勝ちに移住してきた。そうして、その結果、ビスマルクはこれ等の猶太人を権力利用するに努めて、遂に普仏戦争に光栄ある勝利を得た。のみならず、ドイツが何より目的とする一皇帝、一帝國、一国民の理念がここに至りて殆ど完全するに至った。それが洵(まこと)に結構であった。

この階梯にまでドイツ民族統一のことは結実を告げかけたとすると、今度は何より邪魔になるのは、真の意味で同化せざる異分子を少なからず国内に包蔵していることだ。ここに至りて、ビスマルクには猶太人の存在はどうしても禁物と思われて来た。斯様な異分子のドイツに居るということは、決してドイツ民族そのものに将来害こそあれ、決して、幸福を齎(もたら)すものではないことを見て取ってしまった。

あのローマでもシーザー以前から多数の猶太人が居住し続けていて、その東方的な、しかも特殊な宗教性、民族性、乃至思索的傾向なり慣習なりは、ローマ市民と事ある毎に正面衝突をなし非常な反感を惹起したことなどは、ビスマルクも古代史を精(くわ)しく研究していた関係上、誰よりもよく知った。

 

ビスマルクの反動政策の理由及び根拠

ラッセンは一八四七年『印度古代学』を著わし、各人種のそれぞれの特徴を比較し、就中、アーリア族とセム種とを対立せしめ、アーリア族こそは結局セム種より遥かに優秀なる所以を明らかにした。それをビスマルクは読んで大いに悟る処があった。のみならず、フランスの学者ルナンさえも、一八五五年に『セム種言語史』を刊行して、ラッセンの所説の正しき所以を更に裏書するところがあった。しかし、ルナンは上古のセム種と当時の猶太人とは別様に扱うべきであると主張した。

処が、一八七二年になって、人種学の権威であるフリードリッヒ・フォン・ヘルワルドは『猶太民族の特質に就いて』という論文を公にして、ルナンのセム種に関する批判こそは、その専門の人種学上から見て、そのまま、古代の猶太人に宛て嵌めて考察するに寸毫も差し支えはない意見を発表した。これらは、勿論、後に起きた反猶運動の驍将(強い・勇ましい将軍)であるオイゲン・デューリングにその理論的根拠を充分に与えたのであった。

 

アイゼンメンガーの『ユデンツムの発見』

これと相前後して、ユダヤ教徒の反基督教思想なるものは、要するに、猶太教の経典そのものに基づくものであるということの学的見解も段々に明らかにされて来た。就中、有名なのは一七〇〇年に公にされたハイデルベルグの大学教授アイゼンメンガーの『猶太性の発見』であった。この本の著者は、実に十有九年という長い年月を専ら、猶太人にとりて何よりも不利な資料を蒐集した結果、この後年、あらゆる反猶主義の金科玉条となるべき著述を纏め上げたのであった。

事実、こうした形成に鑑み、ビスマルクも遂に意を決して、総選挙以来、ドイツに保守党の勢力が意外に力を加えてきた関係もあり、従来の自由主義を漸次揚棄(さらに高い立場から破棄すること)して、再び反猶主義を敢然執ることとなった。

即ち、法律を変更しない範囲で、巧妙な方法で猶太人の顕現を出来るだけ抑圧することに努めることになった。

 

「行政上の欺瞞?」といふモムゼンの攻撃

これに対しては、親猶派の史家モムゼンの如きは、巧みな「行政上の欺瞞」だと政府を攻撃した。

一八九三年には議会に反猶派の議員が十六名も出来、それ等が、独立の政党をさえ組織するに至った。皇帝ウィルヘルム一世も決して猶太人には行為を持って居らなかったが、次いで立った青年皇帝ウィルヘルム二世も孰れかと言えば、矢張り親猶派の皇帝とは言えなかった。

ビスマルクは、ポーランド・ロシア方面から過激な思想を持った東方猶太人がドイツへ集団的に移住することに対しては、殊に厳重な警戒的措置を講ずるを怠らなかった。それらには毫も仮借するところなく最も強硬な態度に出た。

 

ビスマルクは反動政治家の典型

こうした関係上、ビスマルクをば、反動的政治家の典型として、彼に反対するものが遂に出てきたが、そう人々を吟味して見ると、孰れも殆ど猶太人ならぬはなき有様であった。これは、ビスマルクが終始、自由党を彼の政敵として、決してその自由主義を無条件には容認せざる態度を堅持していたからでもあった。蓋し、これは、取りも直さず、自由主義と猶太人とがドイツにありてもこの時以前より既に切って切れぬ関係が存していたからでもあった。

ビスマルクは、たとえ基督教の洗礼を受けても、猶太人は矢張り猶太人に相違ない。その本質には決して変化あるべき筈はないとの見解をいつも持って居た。