筈見一郎著 「猶太禍の世界」06

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第三章 千六百万人の祖国なき流民

 

ローマ帝國を内部から崩壊せしもの

既に言った如く猶太は大ローマに征服され、その版図に編入された。それで猶太人の憎悪は詮方(せんかた)なくやがてローマをいくたびか破壊しようとする陰謀に代わって行った。ところが、その猶太人の中からパウロと言う愛国心に燃えた宗教的偉人が現れた。パウロは基督に主唱された教こそ寧ろローマ帝国への宣伝に適するものと怜悧(れいり)にも見て取った。

彼は愛と無抵抗との教義こそは、ローマの軍隊組織を内部から引き倒す唯一の力となるべく、ローマの尋常一様の方法では打ち破り難い権力を挫(くじ)いてしまうのに持って来いの教義を具(そな)えていると看取(かんしゅ)した。依って、それまでは、誰よりもローマ反対の急先鋒となっていた彼が、外見上は豹変して、心中、ゴイ(豚)と蔑(さげす)んでいたエトランゼで異端の宗教を奉ずるローマ人の間に喰い入って、先ず、霊的に思想的に大ローマ帝国を征服して見ようとの大望を起こした。

そいつが、実にうまく成功した。それから僅かに四百年かそこらで、彼の斯くして継承した基督教は世界の半ばを併呑(へいどん)し、遂にはパレスチナを亡国にしたローマ帝国をば思想的退廃の結果、崩壊せしめるに至った。この間にも、猶太人はローマ帝国内で、機会さえあれば反乱とか革命とかを絶えず起こそうとして居た獅子身中の虫であったのである。

 

パール・コジバの第三革命

その最後の叛乱と言うのは、彼の西紀一三五年(我が成務天皇の五年に当たる)に起こったパール・コジバの第三革命であった。この第三革命は、要するに、エホバがエルサレムの都をお護りであると言う堅い信念の下に、彼の輩下の猶太人が性懲りもなく謀叛を起こしたのであったが、そいつは、ローマの皇子のチウス総督の親征で、てもなく一敗地にまみれ、遂にエルサレムを完全に包囲されてしまい、どどのつまり、糧食其の他が欠乏を告げるに至り、降服者続出し、遂にエルサレム城を抜かれ、猶太人はすべてその時以来と言うものは、絶対にエルサレムに居住することを禁ぜられる始末となった(それは自業自得で致し方なかった。)

かくて、今日の世界の如き千六百万の祖国なき猶太人の状態を段々に生ずる直接の原因を生むに至った。それから猶太人で数百年間、パレスチナを中心とした東洋各地やアラビア一帯に流浪する者が多かった。

 

マホメットを弑(しい)せしもの

ところが、間もなくマホメット教がアラビアに起こった。勿論、猶太人は頭からマホメット教を認めなかったので流血の惨事を伴った迫害を受けることになった。だが、狡猾な猶太人は回教を自己の利益のために利用し得る場合には絶えず利用に努めた。

だが、間もなく、猶太人は遂にマホメットの暗殺を企てるに至った。しかも、それは楚々たる(清楚な)女性の織手をかり、まんまと成功した。

それで、遂に回教の根強く広がったアラビア一円には最早居られないことになってしまった。

 

再度のユダヤ人の大移動

此処で又もや大規模の猶太人の移動が再び生じた。斯くして東の方は、ペルシャや印度を通じて支那に入り、十七世紀前後には河南省開封あたりに彼等の姿が既に部落をなして現れたと言うから驚くではないか。

ただに中支のみならず、南支那の広東にも彼らの勢力が伸び、支那の土着民との葛藤が間もなく起き、そこでも今に猶太人虐殺の歴史が残っている位なのである。だが、いつしか彼等は、元は同じアジア人種同士であるせいもあり、土着民と全く融合を遂げてしまったらしい形跡がある。

特にアラビアから南欧のスペインへは紀元一世紀に既にその移住を見、最初のスペイン宗教会議ではユダヤ人の侮るべからざる勢力防止の方法を講じた位であった。いつの間にか、彼等はゲットウGhettoを作り、持ち前の非融和性と偏狭な団結力を発揮し、そのいやに高ぶったしかも華美や肉慾に耽溺(たんでき)した生活はスペインの一般居住民の反感を甚だしく誘って、そこへ、宗教的な不和を醸(かも)す原因さえ加わって、虐殺を必然としたポグロムが絶えず随処に起こった。

それでも、猶太人の金力に物を言わせて、いつしか、スペインの商取引や海外貿易事業や金融界の重要の位置はだんだんと猶太人に占められるようになり、遂にスペイン王室に巧みに取り入り、大蔵大臣とか財政顧問に任ぜられるものが、それらの猶太人に段々多くなった。だから、スペインでも必然的にユダヤ人排斥の火の手が、機会ある毎に、揚げられたのも無理はなかった。従って一四八〇年には『受洗したユダヤ人』(マラノス)の憎むべき搾取を取り締まるための宗教裁判が実施された。

 

十字軍は猶太人の使嗾

あの十字軍の前後七回の企図と言うのは、皆、猶太人の煽動によっておこったものであり、つまり、彼等の憎んでいる回教徒と基督教徒との間にこうした絶えざる戦争を戦わせて、双方の全く疲れ切ってしまうのを見済まして、最後には猶太人の憧れの的であるパレスチナが濡れ手に粟も同然その掌中に帰すべく願った反間苦肉の手段であった。(今考えると、日米戦争を彷彿させる。或いは、日露戦争もこの手であった ―燈照隅感想)

これら十字軍の戦費調達には、それだから、猶太の金貸しは惜しげもなく応じた。この十字軍の時代は斯くして百七十年も続いた癖に、結局、馬鹿正直なキリスト教徒は、頗る不安定なエルサレム王国を西紀一〇九九年から同一一八七年まで辛うじて維持し得た外は、結局聖地を回教徒から完全に奪還する程には成功しなかった。そのエルサレム王国とても、やがてエジプトに征服され、更にマホメット教徒の手中に全く落ちる運命とさえなった。

ただ残るのは猶太人に対する莫大な借金のみで、王侯等は遂に領主たるの権威さえ失墜するのみじめな結果を見た。これがため、又もや幾多の猶太人の虐殺事件があちらこちらに当然持ち上がった。

かくて、十字軍の総決算としては、欧州の封建政治の没落と言う歴史的過程を急激に辿ることとなった。一方、折角の聖地とやらは一五一七年以来一九一八年まではトルコの領分となってしまった。一四九二年には、スペインに於ける反猶運動はクライマックスに達し、約三十万というスペイン居住の猶太人の国外への追放が実行され、これが爲猶太人は又もやトルコ、イタリア、フランス、オランダ、ドイツ、英国、果てはロシアと言う塩梅(あんばい)に、まるで蜘蛛の子を散らすように転住せざるを得なくなった。

 

アメリカ発見と猶太人

丁度、この頃、猶太人コロンブスが偶々(たまたま)同族の発展のために、あのカタイ(支那契丹からきた言葉・キャセイ)まで旅行したマルコ・ポーロの記述で知った黄金を夥しく産するジパング(日本)を探すために西へ西へと船出し、ゆくりなくも発見したアメリカ大陸があった。そこへ、これは滅法いい処が見付かった?ぞとて、猶太人の大量移民が続々行われた。(これが奴隷貿易の始まりとなった ―燈照隅感想)

それはさておき、上述の欧州各国に分布した猶太人を分類すれば大体三つに分けることが出来よう。

 

欧州に於ける猶太人の分布

第一は後にオランダ系猶太人となるものである。オランダは十六世紀に於いては盛んにスペインと何かにつき輸贏(しゅえい:勝ち負け)を争った國であって、この世紀の末頃から、寧ろ、その反スペイン勢力を増大すべき一助として、そうした猶太人就中所謂マラノス達(Marranos)の移住を歓迎した。そのためオランダの貿易は急激に発達し、欧州で一時は並ぶものもなき黄金時代さえ産むに至った。

この結果、オランダの第一の海港でメトロポリスであるアムステルダムは、現代の欧州に於ける猶太財閥の揺籃(ようらん:揺りかご)の地とさえなった。

第二は彼の西欧派と呼ばれるものである。これは、現代までに及んだドイツやフランスの文化的啓蒙の中心ともなった猶太人の一派を言うのである。

これらの仏独への猶太人は所謂自由職業即ち文学者とか弁護士とか医者とかの仕事に従事する者が多く、往古、ギリシャで発生した自由主義の萌芽を更に拡充し近代的にするに努め、また嘗てローマで彼等の祖先が培養しかけていた共和思想の一層の洗練に努めたものを、両国の貴族階級に浸潤せしめるのに全力を尽くす一方、早や十七世紀頃に創立されたフラン・マソン(フリーメーソン)結社の猶太人への門戸閉鎖主義をば撤回せしめるのに成功していて、やがて、その秘密結社を彼等猶太人自身の薬籠(やくろう)中のものにしてしまった。この秘密結社の乗っ取りが、どれだけ、その後の彼等猶太人の異民族(ゴイ)征服のために隠然たる勢力を拡大するのに役立ったか知れないのであった。

最後に、第三はというに、それは、後年、所謂ポーランド系猶太人と唱えられるに至った一派のことである。この系統の猶太人の派には、勿論、米国のワルブルグ財閥と比肩するような裕福なクラスもあることはあるが、その最大部分は、何といっても貧民階級に属するユダヤ人で構成されていた。

この最後の一派こそは、後になって、ロシア革命などの主動者となるに至った如何なる流血や惨虐をも厭わぬ過激なテロ分子を含むものとなったのであった。だが、十七世紀にポーランドウクライナがロシアに譲渡されたり、十八世紀にポーランド分割が行われたため、ポーランドの猶太人の統一は一時阻害されたり瓦解してしまったこともある。

 

フランス革命と猶太人のつとめた役割

フランスではカロリング王朝の時代に、ユダヤ人は平和な生活を送ることが出来たが、十字軍以降には当然彼等の頭上に頻々(ひんぴん)として迫害が加えられることになった。一三九四年にはチャールス六世がユダヤ人をフランスから追放したので、彼等の殆ど全部はドイツへ移動するのやむなきに至ったこともある。

フランスの猶太人にとって幸になったことは、彼等の中のインテリで進歩的分子が色々と学究的努力の結果、遂にフランス国に十八世紀の後半に於いて自由平等の精神を叫ばせるに成功したことであった。これに追随したのはドイツの思想家で同じく自由主義を唱えた人たちであった。この間にキリスト教の啓蒙運動が行われ、それが著しく文化線上の猶太人にも影響を与えた。当時、ベルリンは随(したが)ってユダヤ人啓蒙の中心とさえなっていた。

一体、一七八九年のフランス革命なるものは、大陸のフラン・マソン(フリーメーソンに同じ)の総帥である仏国大東社(グラン・トリアン・ド・フランス)を本拠とした猶太人の策動の結果生じたものに外ならぬのであった。ヴォルテールモンテスキューコンドルセー、ディデロー、ダランベール等の有名なフランス革命の理論的指導者は実は孰れもマソンの社員であり、ルイ十六世や王妃アントワネットの処刑もマソンの計画の熟したものであった。

 

猶太人の三つのタイプ

この間に、フランスの自由主義運動は、猶太人の密かに飲ませた薬が効きすぎて、極端な唯物論無神論、科学上の熾烈な熱情、理智の礼讃、形而上学や在来の宗教に対する反対運動を生むようになり、ために、多くのインテリユダヤ人自身の近代思想に接触したための煩悶(はんもん)と言うようなことにまで趨(はし)るに至った。それは、言うまでもなく、猶太教精神とも全く背馳(はいち)する思想と言わねばならなかった。

それで、猶太人の中には、表面は猶太教から離脱して、少なくとも基督教へ改宗する方法を以て、彼等の当面するジレンマを脱そうと図るものが続出するに至った。教養のある猶太人は争ってこの便宜な方法を執った。しかし、彼等の心中には、やはりエホバがあり、タルムッドがあり、シオンがあり、孰れも決して清算されず、忘れられず、しかと、こびりついていたのであった。こういうわけで、今日の猶太人には少なくとも三つのタイプがあることを承知しておく必要がある。

第一は、文化線上にある者、これは世界に於ける猶太人の総数千六百万の中の四百万人を占めている。

第二は、依然頑固にも猶太人としての伝統的生活を維持して行くもの、これらは千六百万の半数に近い七百五十万人である。

第三は、近代文化の影響を是認はするが、依然、表裏ともにユダヤ教の精神を守って行きたいと念ずるもの、これは残余の四百五十万人である。

猶太問題は、いつも、これを念頭に置いていないと、多くの誤解を生じ易い。第一の文化線上にある猶太人四百万の中でも、その三百万と言うものは主として、裕福な実業家が多く、今日の欧米の主要都市の駐留の猶太人達をさすものと考えてよい。その残りの百万人は、同じくこうした欧米の都市に住む大学教育を受けた猶太人のインテリ階級乃至富豪連中を指すのである。

こうしたユダヤ教徒の基督教同化運動の淵源は紀元前二世紀から同一世紀に至るヘレニズム運動に基づくもので、西紀八世紀から同十二世紀までに亘ったビザンチン文化時代に適当な培養を受け、遂に十八世紀以後の基督教の啓蒙運動と同化するに至ったものと称してよい。

 

同化主義猶太人の行き過ぎ訂正運動

つまり、言葉を換えて謂うと、かくして、猶太人の基督教の本質に喰い込んだ、より巧妙な、より近代的な、思想革命運動にまで進化したことになった。かくて、識者についに、思想的にも文化的にも宗教的にも猶太禍を大に叫ばしめる動機を大いに作ることとさえなった。この間にも、イギリスは一八三二年、猶太人に被選挙権を与え、ドイツ、スイス、オーストリアルーマニアも相次いてユダヤに平等解放の制度を布いた。それで、その解放の機運を迎えた喜びに、甚だしきは、『猶太人は民族ではない』と主張するこうした改宗同化思想の猶太人さえあらわれるに至った。

これには流石の猶太人の指導者も、その行き過ぎに狼狽して、一八六〇年には、フランス共和国政府の法相で猶太人であるクレミュウを含んだ知名の猶太人を創立委員とする世界イスラエル同盟を結成して猶太人間の団結をより強くするに努めたのみならず、一八六二年には西欧猶太人モーゼス・ヘスは、『ローマとエルサレム』と題した書を著わして、「同化主義の猶太人は猶太民族の敵と見做さなければならぬ。パレスチナに猶太國を再建するシオンの理想こそは輝かしいフランス革命の趣意を徹底させる所以ではあるまいか」と、猶太民族精神を大いに高揚して、動もすれば意気沮喪(そそう)せんとする猶太人仲間を激励するところがあった。これはやがて既に述べたヘルツル博士のザイオニズムの提唱を見る前提ともなった。