筈見一郎著 「猶太禍の世界」04

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猶太から出た神の子イエス

間もなく、猶太から神の子と自称するイエス・キリストが現れた。

ところが、キリストは単に猶太人のみならず世界の人間の全部を救済せんと宣伝して、猶太教中の「神は特に猶太人を愛し、猶太人のみ幸福を下し給う」とあるのを「神は如何なる民にても信ずるものを愛し給う」と改めて、自己のより広き範囲の宗教を弘めようとした。いわば驚くべく徹底的に基督はユダヤ教の、大改革を施したのであった。これが約三年間も続き、神の選民として自任する排他的で凝り固まったユダヤ人の癇癪(かんしゃく)の種となり、憤怒(ふんぬ)の対象として基督をローマの代官に売るの浅ましさを猶太人が演ずる直接の動機とさえもなった。ために基督は荊棘(けいきょく:いばら)の冠を戴かせられ、十字架上に磔(はりつけ)の刑を受けると言う世にも悲惨な目にとうとう遭ってしまった。

エスは金曜日に十字架に釘付けされ、同日の午後おそく葬られたという。しかるに基督教の解き明かしによると、それから一週間目のはじめの日の日曜の朝早く、その死から蘇み甦り、四十日の間、折々、使徒と其の他のあまたの弟子との前に現れた。その間にイエスは神の國のことにつき彼等に懇々と教えるところがあった。そして四十日の終わりには、使徒を導いて、橄欖(かんらん:オリーブ)山に登って、彼等に、地の極(はて)までも、その証人となるよう命じて彼等を祝福しながら遂に昇天したと言うのである。

 

神の選民の思想の拠って来るところ

猶太人の神の選民思想の拠って来るところは、何といっても、旧約聖書の明文あるがためである。所謂タルムードやプロトコールは、それに比べると、寧ろ、派生的のものであり、後発的のものであることは勿論である。その証左を一々挙げることは容易なことではない。本書の前頁を以てしても猶(なお)不足であろう。此処に単にその若干だけを参考のため示そう。

(創世記第十二章)

エホバはカナンに赴くべくメソポタミアのハランを去るアブラハムに斯くいった。

「汝の國を出で、汝の親族に別れ、汝の父の家を離れて其地に至れ。

我れ汝を大いなる国民となし汝を祝(めぐ)み汝の名を大ならしめん。汝は幸福の基となるべし。我は汝を祝する者を祝し、汝を詛(のろ)う者を詛わん。天下の諸々の種族(やから)、汝に拠りて幸いを獲ん。」

このアブラハムの一行が漸くカナンの地に辿り着いた。そうしたらエホバはアブラハムの前に現れて、

「我れ汝の苗裔(すえ)に此の地を与えん」

と言った。それでアブラハムはそこに始めてエホバを祭る壇を築いて礼拝を行った。

 

(創世記第十七章)

アブラハムが九十九歳の時エホバが久し振りで、アブラハムの前に現れて、かく言った。

「我は全能の神なり。汝、我が前に歩みて全(まった)かれ(全うであれ)よ。我わが契約を、我と汝の間に立て、大いに汝の子孫を増やさん。」

アブラハムは「はあっ」とその前に畏(おそ)れかしこみ、ひれ伏してしまった。エホバは更に言葉を続けた。

「我れ汝と我が契約を立つ。汝は多くの国民の父となるべし。我れ汝をして多くの子孫を得しめ、国々の民を汝より起こさん。王等、汝より出ずべし。我わが契約を我と汝および汝の後の世々の子孫との間に立て、永久(とこしなえ)の契約となし、汝および汝の後の子孫の神となるべし。

我汝と汝の後の子孫に此の汝がやどれる地即ちカナンの全地を与えて永久(とこしなえ)の持ち物となさん。而して我れ彼等の神となるべし。」

エホバは、またアブラハムに言った。

「されば汝と汝の後の世々の子孫、我が契約を守るべし。

汝等の中の男の子は皆な割礼を受くべし。

汝等その陽の皮を割(さ)るべし。是れ我と汝等の間の契約のしるしなり。

割礼を受けざる男の兒(児)、即ち(生まれて八日に至り)その陽の皮を割(さ)らざる者は我が契約を破るによりて其人其民の中より絶たるべし。」

 

(創世記第二十二章)

エホバはアブラハムの信仰を試してから、その信仰の堅きを喜んで、左のように言った。

「我大いに汝をめぐみ、又大いに汝の子孫を増やして空の星の如く濱の沙(いさご)のごとくならしむべし。

汝の子孫は其敵の門を獲ん。

又汝の子孫によりて天下の民、皆幸いを得べし。」

 

エホバは(創世記第廿八章)、また、カナンを去りメソポタミア方面に赴く旅の中で石に枕して野に伏しているヤコブの前に現れ、斯く言ったこともある。

「我は汝の祖父アブラハムの神(汝の父)イサクの神、エホバなり。

汝が偃臥す(えんがす:ふす)ところの地は我之を汝と汝の子孫に与えん。

汝の子孫は沙の如くなりて、西、東、北、南に蔓(ひろ)がるべし。

又天下の諸々の種族(やから)、汝と汝の子孫によりて幸いを得ん。」

 

(創世記第三十五章)

(エホバ)神、彼(ヤコブ)に言いたまわく、

「汝の名はヤコブと言う。汝の名は重ねてヤコブと呼ぶべからず。イスラエルを汝の名とすべし。」

と、その名をイスラエルと呼び給う。

神また彼に言いたまう。

「我は全能の神なり。埋めよ。殖えよ。国民(たみ)および、多くの国民(たみ)、汝より出で又王等なんじの腰より出でん。わがアブラハムおよびイサクに与えし地はこれを汝に与えん。我なんじの後の子孫にその地を与えるべし。」

 

(創世記第三十七章)

ヤコブはカナンの地に住めり。即ちその父が寄寓(やど)りし地なり。

 

出エジプト記第六章)

神モーゼに語りて之に言い給いけるは、

「我はエホバなり。我全能の神と言いて、アブラハム、イサク、ヤコブに顕(あら)われたり。

我また彼等とわが契約を立て、彼等が旅してやどり居たる國、カナンの地を彼等に与う。

我またエジプト人が奴隷となせるイスラエルの子孫の呻吟(しんぎん:苦しみのうめき)を聞き、且つ我が契約を憶(主)い出ず。

故にイスラエルの子孫に言え、我はエホバなり。我汝等をエジプト人の重荷の下より援(ひ)き出し其使役(はたらき)を免れしめ、又は腕をのべ、大いなる罰を施して汝等を贖(あがな)わん。

我汝等を取りて、吾が民となし、汝等の神となるべし。」

 

出エジプト記第十九章)

イスラエルの人々がエジプトの地を出でて後、三月目にいたりて、シナイの曠野(あれの)に至った。そこの山に登りてモーゼは神に祈った。

エホバが現れ、下の如く言った。

「汝等もし善く我が言葉を聴き、我が契約を守らば、汝等は諸々の民にまさりて我が宝となるべし。全地は我が所有なればなり。汝らは我に対して祭司の國となり、聖(きよ)き民となるべし。」

(以下第二十章)

「我は汝の神エホバ、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり。

汝わが面(かお)の前に我のほか、何者をも神とすべからず。

汝、己のために何の偶像をも彫(きざ)むべからず。

又上(かみ)は天にある者、下(しも)は地にある者、ならびに地の下の水の中にある者の何の形をも作るべからず。之を拝むべからず。これに事(つか)えるべからず。

我エホバ、汝の神は嫉む神なれば我を憎む者に向いては、父の罪を子に報いて、三、四代におよぼし、我を愛し、吾がいましめを守る者には恵みをほどこして千代に至るなり。

汝の神エホバの名を妄りにあぐべからず。

エホバは己の名を妄りに口に挙げる物を罰(つみ)せずにはおかない。

安息日を憶(おぼ)えてこれをきよくすべし。

六日の間働きて、汝のすべてのわざをなすべし。

七日(目)は汝の神エホバの安息日なれば、何の業務(わざ)もなすべからず。

其れはエホバ六日の中に天と地と海と其等の中の一切の物を作りて七日目に休みたればなり。」

 

(マラキ書第四章)

万軍の神であるエホバが言った。

「視よ。炉の如くに焼ける日来たらん。

すべてたかぶる者と悪を行う者は藁の如くにならん。

其の来たらんとする日、彼等を焼き尽くして、根も枝も残さざらしめん。

されど我が名を恐れる汝等には義の日出でて昇らん。

その翼には医やす力をそなえん。

汝等は檻より出でし犢(子牛)の如く躍らん。

又汝等は悪人を踏みつけん。

即ち我が説ける日に彼等は汝等の脚の裏の下にありて灰の如くならん。

万軍のエホバこれを言う。

なんじ我がしもべ、モーゼの律法(おきて)を憶えよ。

即ち我がホレブにてイスラエル全体のために、彼に命じた法度(のり)と誡(いまし)めをおぼゆべし。

視よ。エホバの大いなる畏るべき日の来る前に、われ預言者エリヤを汝等に遣わさん。かれ父の心にその子供を思わせ、子供の心にその父を思わしめん。

是は、吾が来たりて詛(のろ)いをもて地を撃つことなからんためなり。」

 

全世界を詛(のろ)うエホバの誓(ちかい)

以上の文句を玩味して行けば、猶太(イスラエル)の神の選民思想の拠りどころ、その全世界を詛う神の誓いに励まされて、やがて、猶太の脚下にひれ伏させようとする大それた陰謀をめぐらして、決して、やすまざる原因がここに伏在するのが何人にもはっきりわかって来るであろう。

猶(なお)、最後の呪詛の如き神の言葉は、同じマラキ書の第三章の

「われエホバは易(かわ)らざる者なり。

故にヤコブの子等よ。汝等は亡ぼされず。

汝等、其先祖等の日よりこのかた、わが律例を離れてこれを守らざりき。

我に帰れ。

われ亦なんじに帰らん。

万軍のエホバ之を言う。」

とあるに対照して、読めば、更によくエホバの意識する前後の意味が判然して来るであろう。

今日の世界の猶太禍はここに第一の源泉が存するのである。旧約聖書は、実にこのエホバ神の咒詛(呪詛:呪い)を以て終わっているのである。