筈見一郎著 「猶太禍の世界」03

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第二章 猶太の歴史

 

基督教の源流と創世記の伝説

世界の三大宗教である仏教、基督教、回教が、孰(いず)れも亜細亜にその源流を発しているのは一奇と言わねばならない。

今、本書には直接関係がないので、仏教や回教のことは措(お)いて問わないものとして、基督教の元はと言えば旧約聖書の創世記にもある通り、エホバ(Jehovah)神の信仰が、その本来の濫觴(らんしょう:物事の源流)なのであって、エホバ(エホバはヘブライ語で「我れ在り」の義)なる造化の神あり、それが天地を創造し、「光あれ」と言って、宇宙に光が射して来、それを暗と分かって、昼夜の別が出来、夕あり朝あり、大空をば天と名付け、乾ける土を地と呼び、水の集合したのを海と称し、地には草木花果やもろもろの生き物、天には日月星辰、海には大小の魚、空には種々の鳥が為に生じたと伝えている。

 

人間の創造 ― 後の猶太思想の芳しからぬ芽生

そうして、このエホバ神が、海の魚と空の鳥と家畜と地に匍(は)うところの昆虫を治めさせるために、人なる者を彼れ自身の映像の通りに創造したと言うのである。

この神の像(かたち)の如くに土の塵を以て造られた者の鼻孔に生命の気をエホバ神自身が吹き込み人間と言う生霊が創めて出来た。先ず男のアダム(「赤い」の義)と称する者が造られ、それから彼を深く睡らせてその肋骨(あばらぼね)の一つから更に女のイーヴ(「生命」の義)が造られた。この両人は父母があって生まれたわけでなく、また赤子から段々と成長したわけでもなく、神の姿通り造られたものであるから、始めより身体の大きさとか背丈とかは、一箇の丈夫又は淑女であり、力も智慧も徳も一人前と称してよいものであった。彼等には意志の自由を与えられ、固有の善を発揮し得ると共に、悪に誘惑されて罪を犯す弱点をさえ持とうとすれば持ち得るものとせられた。手短に言えばこの根本思想の欠陥に猶太思想の芳(かんば)しからぬ方面の発展もやがて生じた。

 

安息日の謂はれとエデンの園の物語

エホバは以上のものを創造するのに六日掛かり、七日目に安息した。これ今日に於いてキリスト教國日曜を以て安息日となす所以である。

エホバはこの人類の始祖夫婦をエデン(「楽しい」の義)の東の方に園を設けてそこへ置いた。このエデンの所在地は確実なところは元より不明であるが、何でもコーカサスの南方に当たるアルメニアの山中の地名ではあるまいかとキリスト教神学者によりて推定されている。かの楽園パラダイス(パラダイスは古きペルシャ語で「いと美(うる)わしき園」の義)とは、このエデンのことでもあるそうだ。

ところが、エホバはアダム夫婦が禁断の木の実を食べたのを知ってエデンから彼等を追い出してしまった。これは大それた人類の祖のそれといわんよりも、猶太人そのものの流浪史の本当の始めの姿ともいうべきであろう。

 

猶太族の発祥地

元来、猶太人というのは、前アジア人種とオリエント人種の混血から成ったセム種族(旧約に拠るとノアの長子セムの子孫がセム種となる)の太宗[他にセムの系統としてはアラミ人、パルシ人、アンリ人などあるも言うに足りない]であって、旧約そのままの伝説に従えば、約四千年(これは実の処大いに割引を要する)前、今のペルシャ湾頭なるチグリス・ユーフラテスの流域のメソポタミアの地の遊牧の民であったと称するのが正しいともいわれる。初めは慥(たし)かに偶像崇拝多神教の民族であったことは史学者の定説と言ってよかろう。

 

猶太教の最初の形態

猶太教が一神教となったのは、蓋しモーゼ以後の事実に属し、それは、信仰上の理由と言うよりも、統治上の都合がよいので、そういう風に漸次造り上げたのだと称せられる。ここに遂にエホバ神なる一神を崇拝する猶太教即ち今日の基督教の前進が生まれた。猶太教の最初の形態は或はメソポタミアにそれより以前に拡がっていた筈の拝火教であるゾロアスター教の亜流ではないかとも疑われている。兎に角、孰れにせよ、猶太のエホバ教が四千年も前から一神教であったとは大分眉唾な伝説に過ぎないのである。

天文学の研究や東方学の方面の考察から行くと、安息日の思想は猶太本然のそれであって然らずとするも、七曜の名称の起源なんかは寧ろ支那に淵源を有するとする方が正しいであろう。少なくとも印度を経由して、それがメソポタミアに伝わった形跡がある。上古に於ける天文学の研究は支那が一番発達していると思われる。

 

猶太族はセムの血統―アブラハム―イサク―ヤコブ

紀元前一九二五年頃とかに、猶太人の祖先たるセム種は七十五歳の老酋長のアブラハム[ノアの子セムの血統を引いたものと言われる、カルデアのウルに生れる]に引率されて、遂にカナンの地に定住するに至った。カナンとは今のパレスチナのことをいうのである。

それから後の話であるが、イスラエル人の高祖と言われるアブラハムの子イサク、このイサクはアブラハムが百歳の時に生れた男であると言う。右のイサクの二番目の息子のヤコブは、性狡猾で聞こえていたが、母のリベッカを巧みに自分の方の味方にしてしまって、母を仲立ちとして、今は盲目となった正直な父のイサクをまんまと欺いて、長兄エサウの勇猛な性質の癖に割合に思慮の浅いのをよいこととし、或る日、その兄の狩猟から帰って空腹と疲労のあまり、意識も半分あるかないかと思われる程、ぐったりとなっているのを良い機会として、蜜のような甘い言葉をその耳の中にささやいて丼一杯の紅い色をした味豆の羹(あつもの:スープ)を唯一の交換材料として彼が家督の権利を売らせた。ところが、エサウにも味方があり、殊に叔父ラバンは、そのあまりな仕打ちに激怒し、ヤコブを思い切って殺そうとまで決心した。だが、エホバ神は、こういう不合理な不徳千万のヤコブを害なからしめるよう助けたのみか、ヤコブエサウとに角力(力比べ・相撲)を取らせ、尋常であったなら、エサウは到底ヤコブ如きに敗けっこない筈だのに、神はヤコブに進んで力を貸し、エサウを一敗地に塗れさせた。ヤコブに一層神の恩寵を示すため、イスラエルの名を与えた。このような偏頗な神様は他人種には一寸類例が無いであろう。

こう言う不良の手本でしか有り得ないヤコブを直接に祖先にしたのが、実に、今日の猶太人なのであるから、人類一般の道徳の尺度から言って見ても猶太人には彼らの祖先が祖先なので、今にその天賦の不良性が断ち切り難いのは実際、怪しむに足りないとも言えるではないか。殊にヤコブの長子某の如きは生みの母と通じ、廃嫡となったという驚くべき畜生道に陥った話さえもあるには実に想像を絶したものと言わねばならぬ。

元来、先祖からして、その神様からして、こういう風に正しくは行動していないのであるから、猶太人の間には口ばかり正義人道を唱えたり平等とか自由とかを御定まりの如く主張しても、全く空念仏のそれに過ぎず、人を瞞着(騙し誤魔化す)したり又は色々の陰謀や狡計を敢えて講ずるものが、自然に多く出で、後になればなる程、その傾向がますます悪化して行ったのである。

 

猶太族の流浪―モーゼ―ヨシュア

カナンの地は、斯くして、猶太人として栄える能わざるところとなり、彼が異教徒とさげすむパールと言う真面目に働く先住民族との戦いにいつも負けてばかりいた。それで、その子のヨセフがエジプトの宰相となった良い伝あるのを幸い、全族は挙げてエジプトに移住し王のお許しを受けてナイル河口のゴーセン(聖書の所謂ゴセン)と言うところに、約二百年余り落ち付き、猶太の人口が男ばかり数えて六十万もある位に栄えるに至った。

だが猶太民族には最早、この頃から、非融和性があり、排他的な団結力が必要以上に堅く、貨殖(金儲け・財産増進)にのみ長け、人道には疎いところが沢山あるので、間もなく、エジプト人に擯斥(ひんせき:排斥)され圧迫され、エジプトに居たたまれなくなった。この出エジプトは紀元前一三二〇年頃と伝説されている。

それで族長であるモーゼ[『援け出す』と言う意味がある。イスラエル人をエジプトから援け出したから]が全部の猶太人を引き連れて、今のスエズ地峡を経て、紅海の東の海岸を大廻わりして、アラビアのあちらこちらを遊牧して歩いて暮らすこと四十年にも及んだ。この時に、所謂シナイの山麓の色々の物語が生まれたのであった。

モーゼの所謂『十戒』もこの時の語り草である。このモーゼは今日の基督教の前進である猶太教を一つの宗教に纏め上げるのの成功したのであった。誰か知らん、この猶太教が更に基督教の名の下に世界最大の宗教の一つとなり、飽くまで世界統一の手段に供せられようとするに至ろうとは。誰しも先祖が住んだことのある故郷の地は何となく恋しいものである。それで、モーゼも矢張りそうした心理で昔アブラハムのいたことのあるカナンの地に何とかして帰ろうという気になった。だが、モーゼはその志を達せずして、死海の東岸なるネボ山に着いた時に遂に病没してしまった。

モーゼの遺志を継いだのが、その息子ヨシュアであり、あのヨルダン河を終に渡って、エルサレムの東南であるジェリコの城を、戦うこと六年目に、漸くのことで攻め落とし、恋しいカナンの地に復することが出来たのは、何でも紀元前*一二五〇年頃であったといわれる。
(*原典:紀元一二五〇年頃 ―間違いと思われる

 

猶太族の分裂―建国―亡国

ヨシュアがカナンを手に入れてから、彼等は間もなく十二の支族に内訌(ないこう:内輪もめ)の結果分裂してしまった。この十二支族の中の一族のユダ族こそは特に後の猶太族の明白な祖先と言われている。サウル王[紀元前一〇九六年即位、治世四十年]がサムエルの推挙で王様となり、漸(ようや)く國を統一し、其子が英邁(えいまい)の王様として有名なダビデ[王位にあること四十年、紀元前一〇一五年崩ず]である。ダビデ王のときこそ猶太國としては名実共に黄金時代であり、その領土は南はエジプトから北はレバノン山脈に達し、東はユーフラテス河に至るまでの広大な地域を擁し、文字通り旭日昇天の勢いであった。

三代目のソロモン王[歳二十一歳で王位に就き紀元前一〇二一年から九八〇年に至るまで四十年間治めた]こそは、有名なソロモンの殿堂をエルサレムに建立した王様で心のままの栄華に耽り、奢侈(しゃし:贅沢)を極めた結果、國幣が足らず、過酷な重税を課し、民心が王から離れるようになり、内乱が遂に勃発したので、その国は勢い南北に二分される憂き目を見るに至った。

やがて紀元前九五三年には、その北の國なるイスラエルは、アッシリアに滅ぼされ、南の猶太國とても、それから百五六十年経った紀元前五八六年にバビロン王ネブカドネザルに攻められ、遂に亡ぶに至った。その国民の役に立つものはバビロンに捕虜として引き立てられ奴隷にされてしまった。

民族的には、うそか本当かは知らぬが、四千年もの歴史を誇る彼等であるが、かくて真にその國を立派な独立の國として保ち得たのは、僅かにサウル、ダビデ、ソロモンの山王の約百二十年間の短い間の事蹟しかない。それなのに神の選民と自称して所謂メシアの信仰を信ぜんとするのであるから、哀れなものである。かくて彼らは永遠に寄るべなき流浪の民族として世界中に毛嫌いされる運命を益々辿ることになってしまった。処がペルシャ王は紀元前五三九年になって寛大にもバビロンに奴隷となっていた猶太人の帰国を許した。次いで紀元前七〇年にはヴェスパシャン皇帝やタイタスによってエルサレムの陥落を見、神殿は跡方もなく破壊せられ次いで紀元前六三年には故国パレスチナはすべてローマの将軍ポンペイに征服され、僅かに大ローマ帝国の版図の一小部分となるの憂き目を見てしまった。斯くて紀元前三十七年から同四十三年に至る迄パレスチナローマ帝国の任命した有名なヘロデ王に支配され、甚だしい植民地的搾取がその結果行なわれた。

 

メシアの思想

この属領時代に於いて彼ら亡国の民猶太人の唯一つの夢の如き希望は、メシア(救世主)の出現による祖国復興の考と、大それたエホバ神の冥助による世界征服の念の執拗な継続でしかあり得なかった。メシア(Messiah)とは『エホバの膏(あぶら)を沃(そそ)ぐ者』と言う義であって、ヘブライの言葉、ギリシャ語の『キリスト』と言うのと同じである。

要するに、メシアは特別に世の始めから約束せられ、且つアブラハムの時からマラキ[マラキは紀元前四一六年の頃の預言者であって、バプチストのヨハネがエリヤの心情と才能とを受けて来るべきこと、それから、キリストの再来すべきことを預言し、キリストを畏敬しこれに仕える者は福あるべきことを同じく予言したので聞こえている]の時に至るまで色々と預言せられたところの救世主イエス・キリスト其人のことを指していると考えてよい。

ローマの偉大なる創建者のシーザーとても猶太人の金銭的力を無視することが出来なかった。シーザーはその政治資金の大部分を猶太人の手から支出して貰ったとさえ言われる。そうして、その代償として、孰(いず)れは猶太教を国教とすべきことを誓っていたが、ブルータスに図らずも暗殺され其雄志を悉(ことごと)く遂げざるにこの世を去ってしまったので手に唾してその機会を待った猶太人は全く拍子抜けせざるを得なかったというエピソードさえ残っている。