猶太と世界戰爭(新仮名)26(本文は完)

f:id:caritaspes:20200623035150p:plain

 

第二章 猶太と世界戦争(続き)

七、前世界大戦に於ける猶太の策謀と独逸の敗戦(昭和15年8月7日)

 一

限られた紙面に於て課題を詳細に論じ得ないことは自明であるから、この小論では在来の歴史書に於ても見られるような表面的な事実の記述を略することにしたい。かくて我々は第一次世界大戦に於ける軍事的状況が大戦の終末に近い頃に於て如何であったかを見ることから始めよう。さて当時英國の戦時内閣の一員で後にカナダ首相となったロバート・ボーデンに依れば、「一九一八年の春には英國参謀本部は独逸に降伏する意図を持っていた。連合國側には、独逸が早急に崩潰(崩壊)する見込は全く立たなかったのである。英國は独逸の戦線の背後で何が起っていたかをまだ知らなかった。独逸に於て社会民主主義者達がフランスの間諜と共謀して、戦線を背後から撹乱しようとしていたこと、またこの祖國への叛逆行為がフランスから資金の供給を受けていたことを、英國はまだ知らなかった。フランス首相クレマンソーがその間諜の手から、独逸は秋には革命が起こるという確かな情報を得るに至って、パリとロンドンとは再び勇気を回復した。英國参謀本部はこの時になって降伏の意図を放棄するに至った」というのである。

この記述は驚くべき事実を暴露しているが、これを独逸に於ける当時の文献に依って見ると、「社会民主党は大きなストライキのみでは革命が招致されぬのを知って、別の方途を選ぶことにしたが、これが成功したのである。我々は戦線へ出ている同志に脱走を勧め、この脱走兵達を組織化して、偽物の身分証明書と資金と宣伝ビラとを持たせて各方面へ送り、特に戦線へと潜入させ、それに依って戦線を撹乱し、士気を沮喪( 気力がくじけて、勢いがなくなること)させたのである」と猶太人アルベルト・ファーテルは述べている。また前者と同じく十八年秋の革命の中心人物であるアイスネルが、翌年二月四日にベルン市に開催された社会民主主義者の國際会議で演説した所に依れば、「独逸に於ける革命は戦線の崩壊の結果起ったのではなく、不撓不屈(ふとうふくつ)の裏面的暗躍の結果であって、独逸が戦争に優勢になったその瞬間から準備されていたのである」というのである。また社民党の機関誌「前進」に依れば、「我々の堅き決心は、独逸がその軍旗を勝利を得て持ち帰ることを阻止し、その軍旗を永遠に抹殺し去ることである」というのである。この最後のシュタムフェルの文に関して注目すべきことは、前二者が革命後のものであるのに対して、これが革命の約半月前即ち十八年の十月二十日のものであることである。

以上に依って独逸敗戦の直接の責任者が赤色社会民主党にあることは明瞭であろう。勿論、如何に彼等主義者連の策謀があろうとも、独逸人一般が四年に亘る長期戦にも拘らず精神的に毅然としていたとすれば、決して敗戦の憂目は見なかったであろうことはいう迄もないことであるが、然し上述の如く真実の強敵が内部に巣喰っていて、銃後より戦線を撹乱するに至ったのであるから、独逸の敗戦が独逸人自身にとって如何に不本意のものであったかが、容易に理解されるであろう。実に当時の独逸にとって致命的であったのは、その銃後が単なる「独逸人」から成り立つていなかったことであって、宮廷には既にバリーン及びラーテナウの如き有力な猶太人が君側の奸(悪者)として勢を振っており、新聞界、金融界の主勢力はいうに及ばず、参謀本部の中に於てすら猶太人が主要なポストを占めていたのである。軍需品乃至戦時食糧品の供給もまた猶太人の一手引受であったことは周知である。また上述の社民党が全く猶太の支配下にあったことも勿論であって、前述のファーテルもアイスネルも猶太人であることは、自明の理に属する。

ここで想起しておきたいのは、第一次世界大戦の数年前である一九一〇年九月一日にコペンハーゲンで開催された第八回第二インターナショナル会議である。その顔ぶれのうち注目すべきものを拾うならば、シャイデマン、エーベルト、ダーヴィッド(猶太人)、カウツキー(猶太人)、フランク(猶太人)、シュタットハーゲン(猶太人)、ローザ・ルクセムブルク(猶太人)、クララ・ツェトキン(猶太人)、カルル・リープクネヒト(猶太人)等独逸人及独逸系の猶太人の外に、英國からは後の首相ラムゼー・マクドナルド、ベルギーからは同じく後の首相ヴァンデンヴェルデ、そしてロシア系としてはボルシェヴィズムの大立物(おおたてもの:最も重んじられている人)である両猶太人即ちレーニントロツキーがある。後のフランス大統領又は首相のブリアンは事故のため欠席したが、会議へ宛てて鄭重(ていちょう)な祝電を寄せている。次に我々は眼を転じて、十八年十一月の独逸の赤色社民系革命の主役者の顔ぶれを見るに、ハーゼ、コーン、アイスネル、ヘルツ、ヒルファーディングを除けば、リープクネヒト、カウツキー、ローザ・ルクセムブルク、シュタットハーゲン等は前記の会議と共通の名である。この著名の九人はすべて猶太人であるが、彼等猶太人を首謀者として成就された革命によって生まれた独逸共和國には、初代大統領としてエーベルトが選ばれ、首相はシャイデマンであった。レーニントロツキーに関しては今は言葉を費やす必要はないであろう。

かくて独逸の崩壊が主として何者の手によって遂行されたかは明瞭となったであろうし、またそれが少なくとも大戦数年前から計画されていたことも、かのコペンハーゲン会議の内容を見るまでもなく明白であろう。

前述のコペンハーゲン会議が社会民主主義の猶太的性格を暗示していることは改めて説明するまでもないであろうが、なおそれが我々の重大関心の的とならざるを得ないのは、その会議の場所がフリイ・メイスン秘密結社の一種であるオッド・フェロー秘密結社の会堂であり、出席者の殆ど全部が、フリイ・メイスン結社員であったことである。換言すれば、社会民主主義は、猶太的であると同時にフリイ・メイスン秘密結社と密接な連絡を持っているのである。これは赤色帝國主義の創始者マルクス以来の伝統であって、既に一八五一年には、「デモクラシーとはフリイ・メイスン秘密結社の子供である」と結社員フィッシェルが主張しているのでも判明する。いま我々はこの秘密結社そのものについて詳言する紙面を持たないが、我々の記述の理解に必要なる程度に於て一言するならば、それは表面的には「自由・平等・博愛」をモットーとする相互扶助結社であるがその本質は、このモットーを掲げてなされたフランス革命がフリイ・メイスン革命と称せられる一事によっても明白なように、「世界共和國の建設」を目ざす政治的陰謀結社であって、「愛」を説くキリスト教の歴史が「戦争」の歴史であるのに類似して、「自由・平等・博愛」の名の下にテロと戦争とを手段として用いるのである。そして少なくともフランス革命 ―猶太解放革命とも称せられる― 以来は、その上級結社員の大部分が猶太人であることによって、テロと詐欺とで猶太世界國を創設しようと旧約聖書の日以来努力し続けている猶太の世界支配政策の一機関となっているのである。それ故に欧州識者の間では、この秘密結社員中の非猶太人は「人為的猶太人」と称せられるのが常である。かくて猶太とこの秘密結社との当面の目標は、世界戦争を繰返すことに依ってその大目標を実現することにあるのであるが、現在の英米に於ての如くに帝王又は大統領の地位までもが猶太の血族によって占領されている場合以外は、かの「人為的猶太人」を利用して各國の政界の上層部、財界の中枢部、言論機関の首脳部を占拠しようと努めるのである。最も危険なのは、この勢力が軍部の上層部を侵略する場合であって、この例もさまで(そうまで)珍らしくはないことを我々は銘記しなくてはならない。

ここで急いで第一次世界大戦当時の独逸に眼を転ずるならば、大戦当初より十七年迄の独逸首相ベートマン・ホルヴェーヒはかの秘密結社員であったばかりか、その体内には猶太の血が流れていたとさえ言われている。特に当時優秀であった独逸海軍の潜水艇を重用することに極力反対した彼の態度は、結社員としての彼の本質より説く以外には説明のつかない事柄の一つであるとされている。当時宮廷に勢力を持っていたバリーン・ラーテナウ等が結社員であったことは勿論であるから、これ等の君側の奸(わるもの)と、かの政治責任者との間の関係を知る時には、戦時下独逸として不思議に見えた種々の現象も容易に理解し得るものとなるであろう。

次に注目すべき出来事は、開戦後間もなくパリを衝こうとしていた独逸陸軍が何等の軍事的理由なしにマルヌ戦線より後退したことであって、これは秘密結社員ルードルフ・シュタイネルの策謀の結果とされている。即ち軍司令官モルトケは、シュタイネル崇拝の夫人と、戦線まで出動して彼を説いたシュタイネル自身との勧告に従ったのである。これがフリイ・メイスン秘密結社に依る軍部侵略の恐るべき一例である。

かような実例を基礎として考える時、当時既に独逸にも劣らず猶太とフリイ・メイスン結社との支配下にあった英米仏等の連合國側が軍事的敗北にも拘らず敗戦の憂目を免れ、軍事的には勝利を得た独逸が崩潰(崩壊)の悲惨に陥(おとしい)れられるに至った理由も容易に明瞭になるであろう。即ちそれは、猶太及びかの秘密結社の目標としての世界共和國建設に最も障害となる強力なる帝政としての独逸帝國の転覆のために外ならない。従って名目上の帝政に過ぎぬ英國の場合は、皇室そのものが伝統的に全面的に結社員となるという事情も手伝って、倒壊の目標となることはなかったのである。記録に依れば、前独逸皇帝は、かの秘密結社に入会しないという理由に依って、一八八八年の即位の年に既にフリイ・メイスン結社によって死の宣告を受けていた。とにかく英米仏の結社員は少なくとも対独関係に於ては、上述の理由から反祖國的となることなしにすむのである。フリイ・メイスン結社の発祥地及び中枢が英國であり、その政治結社化の尖端がパリであることも、以上の事情を説明するに役立つであろう。

なおフリイ・メイスン秘密結社が第一次世界大戦に於て演じた役割に関して、一二の注目すべき事柄を挙げておこう。その一は当時独逸と同盟関係にあったイタリアの背信の問題であるが、これはイタリアのフリイ・メイスンの大棟梁でローマ市長であったナータン、外務大臣ソンニーノ、大蔵大臣ルツァッティの策謀の結果であって、三人ながら秘密結社員であると同時に、猶太人であった。第二は日本の場合であって、時局下の我々に取っては必ずしも愉快な記憶ではないが、当時の為政者が國民的感情を無視してまでも日英同盟の義務を果たしたのはフリイ・メイスン結社の暗躍の結果であったと、この方面の文献には必ず明記されている。日本人は國内に於てこの結社に入会することは禁止されているそうであるが、外國滞在中にそれに入会することは許されているらしく、特に英國滞在の長期に亘る重要なる個人の場合は結社よりの働きかけが成功することが屡々あるらしい。日英同盟の立役者林子爵が英國のフリイ・メイスン秘密結社の高級社員であったことは、世界的に有名な事実である。現在の日本に於ても、國民的感情を無視する根強き新英米派なるものがかかる「人為的猶太人」でないとは何人も断言できないのは誠に遺憾である。

かくて、敗戦独逸に共和制が実施されるや、結社員シャイデマンは、「独逸國民が全面的に勝利を得た」と意味深長な嘘を語り、バーデン國のマクス王子はオランダの新聞通信員に対して、「いま独逸に行われていることは多年の潜行的準備仕事の結果である」と結社員に相応(ふさわ)しい誇示をなし、プロイセン王子レオポルドは、その居城に赤旗を掲揚することさえして、猶太的赤色秘密結社員の本領を暴露したのである。何れの國に於ても無批判なる長袖者流(公卿や僧侶などのたぐい。また、それらの人々の流儀。)こそ最も容易に猶太と秘密結社の餌食となり易いのであって、亡國的なる「上よりの民主政」もまた帝政独逸を崩壊させるのに功があったのである。

敗戦独逸の革命後の対外関係の理解に資するために、連合國側の著名の非猶太人秘密結社員の名を列挙しておこう。英國側ではロイド・ジョージ首相、キッチナー元帥、チャーチル海相(現英首相)、グレイ首相、アスキス首相、フランス側ではクレマンソー首相、ポァンカレ首相、ブリアン大統領、ドゥメルク大統領、ミルラン大統領、米國側ではウィルソン大統領。この中に猶太人の名の見えないのは、表面的な最重要ポストには「人為的猶太人」を立てて世人を欺くのが猶太の常套手段であるがためであって、その代りに著名人には必ず秘書に猶太人を配するのである。クレマンソーに於けるマンデル(最近までフランスの植民相であり、今次大戦中はフランス内相であり、仏印援蒋(蒋介石援護)の指令者であった)、ロイド・ジョージに於けるフィリップ・サスーン、アスキスに於けるモンターギュ、ウィルソンに於けるハウス大佐の如きはその好例である。不思議なことではあるが、某國の今は亡き元老*の場合も或意味では例外ではないようである。

*西園寺公望のことであると思われる(でなければ松方正義

最後に我々は、独逸敗戦の責任者の第三として政治的カトリック、就中イエズス会結社を挙げたいと思う。そしてこれもまた事実上猶太と関係が深く、教祖キリストが猶太人であったことや、聖書(特に旧約聖書)がその本質に於て猶太民族の世界征服のプログラムであることを除外しても、法王そのものに幾人かの猶太人があり、殊にイエズス会結社は既にその第二代目の統領が猶太であったのである。この國際的団体は、時としてはフリイ・メイスン結社と激しい闘争をすることもあるが、しかし共同の敵のある時には直ちに共同戦線をしき易く、例えばかの著名な一九二二年のアーヘン会議の如きはその好例である。従ってプロテスタント國帝政独逸がその世界政策の障害であることは自明であり、猶太の頭目ラーテナウとイエズス会結社の頭目エルツベルゲルとの間には独逸分割の協定さえあったと伝えられている。前者のことは前に論及した通りであるが、後者は猶太人であり、またフリイ・メイスン結社員とイエズス会結社員とを兼ねていたのであった。その彼がフランスとの休戦協定の独逸委員としてコンピエーヌの森へ赴いたことは、後の講和条約に際して独逸代表としてヴェルサイユへ赴いた連中が全部猶太人であったのと共に、なかなかに興味深い事柄である。
「我々中央党が独逸の革命を遂行したのである」というのが、革命後の独逸カトリック政党たる中央党の頭首ヴァッケンの語である。

かくてこの中央党と前述の社民党とが協同して独逸の「新体制」は成ったのであるが、その実権が何者の手にあったかは今改めて説く必要はないであろう。やがて登場して来た独逸人民党もまた、その表面的主張にも拘らず、フリイ・メイスン秘密結社員シュトレーゼマンに統率されることによって、真の独逸人民とは関係の薄いものであった。かくて実権は猶太の手に帰し、政治はスポーツ化され、家の子郎党**に至るまで交代に大臣となって、私益のみをはかり、独逸をいよいよ泥沼の底に突き落して行ったのである。そして戦線に於て最後まで勇敢であった軍部も、その統率者達の思想的無能と時代に対する認識不足のために遂に祖國を内敵から救う道を知らず、独逸國民はヒットラーの出現を待つ外に道はなかった。実に当時は、猶太人ドイチェ陸軍大臣となることさえ可能であった。そして共和國独逸に於て如何に猶太人が得意の絶頂にあったかは、このドイチェの次の語で明示されている。
「ドイツ、ハンガリーオーストリアには革命が成就し、共和國が樹立された。我々が思考し得るようになって以来燃える如き心で夢想し憧憬して来たものが、今や実現したのである。今や我々猶太人は全く上位にいる。今や我々が主人公なのである。」

 **ある有力者の配下としてつき従う人々。子分。

 同じことをラーテナウは、「皇帝が白馬に跨ってその股肱(右腕・腹心)と共にブランデンブルクの門を通ることがあるとすれば、世界史はその意義を失うであろう」とその作品「皇帝」の中で述べ、猶太の世界支配の成就の過程としてのみ世界史には意義のあることを公言している。かくて旧約聖書以来の猶太の夢は、戦敗國独逸に於ては実現したのである。否、戦勝國英米仏に於ても事情は同一であって、第一次世界大戦の真の勝利者は猶太のみであったと称せられる所以はここにあるのである。

今や第二次世界大戦は二個に分裂して東と西とに於て戦われている。猶太はそれがアメリカ大陸をも含む文字通りの世界大戦に進展する迄はその裏面工作を続けるであろう。そしてその大戦こそは、猶太の世界支配を完全に実現するか、或いは根本的に挫折せしめるかの何れかに到達する運命を持っていると思われる。かの純猶太秘密結社員であった孫逸仙孫文)以来「人為的猶太人」のみが構成して来た重慶政府と戦いつつある我々は、以上の事情を確認して更に更に大なる決心を固むべきであろう。(一五・八・七)

以上で、本書の本論は終わりです。引き続き、「シュルハン・アルフ」と「著名なるユダヤ教ラビの言葉」が載っています。これらについては改めて公開いたします。

  ―燈照隅