猶太と世界戰爭(新仮名)15

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第二章 猶太と世界戦争(続き)

二、大東亜戦勃発後の世界情勢(昭和17年11月5日)

某閣僚は先般の中央協力会議に於て、英米は今年中(昭和十七年)を期して反撃に出でんとする気配を示していると説き、またその後の閣議に於ては、米國最近の中間選挙の結果としてルーズヴェルト政権の地盤に揺ぎを生ずることはないと述べたが、前の発言は今年も十一月に入った今としては既に多少の見当外れの感を与えぬでもないが、諸戦の勝利の為めにややもすれば弛緩し勝ちな人心を引緊めるためには、かかる発言も必要であったと考えられるし、殊にソロモン海戦以後の南方の状況をも考慮する時には、それはあながち見当外れとも言い得ない事情もあったのであろう。これに反してその第二の発言は全く肯綮(こうけい:物事の急所。かんじんかなめ。)にあたったものであって、ユダヤ宣伝機関の一つであるギャラップ輿論研究所の宣伝的調査の発表に一喜一憂することの愚を知っている者には、その世論調査なるものが伝える所がどうであろうとも、某閣僚の指摘する如き事情の生ずることは前以て予想されたのである。それ故に、もしその報告に「予想通りに」という如き言明があったならば、そのユダヤ秘密力に及ぼす威力は誠に大なるものがあったと想像される。ルーズヴェルト三選の時のギャラップ輿論研究所を先頭とするユダヤ機関の巧妙な掛引に一喜一憂せしめられた愚かな経験にも懲りずに、今なおこの方面より伝えられる報道をその儘伝えるわが國報道機関の無批判性にも驚かざるを得ないが、しかし思想戦の掛声の喧(やかま)しいにも拘らず、責任ある指導的地位の者が今なお適宜の時に敵の急所を突くことを忘れているかの如くに見えるのは、その理由が那辺(なへ:いずこ)にあるかは知る由もないとしても、兎に角、大東亜戦争完遂途上のわが國の前途にはなお相当大なる難関が世人の想像だにもせざる方面に潜在しおることを感ぜしめないではおかぬのである。吾人の屡々(しばしば)説き来った如くに、みずから戦線に出る勇気はなくまた現在では最早その必要をも認めない ―古来もまた然りであったが― ユダヤは、世界に張り巡らしたる通信宣伝機関を用いて自己の支配下にある連合國は勿論のこと、中立國のみならず敵性國をも巧みに自己の影響下に置く手段を心得ているからである。

然し時代の怪奇性はいよいよ複雑となって来て、昨今わが國の報道機関さえ外電記事のうちに屡々ユダヤの名を見せることがあるが、それすらも却ってユダヤ方面の策謀の結果であると見做さるべき場合 ―多くはこの電報の系統によって辨別(べんべつ:識別)し得るが― のあることを否定し得ないのである。我が國に於て、日支事変以来、特に大東亜戦以来、赤化主義者が東亜新秩序を論じ、民族問題を論ずるのみか、國體(国体)論までに手を出して、時局の先頭に立ちつつある場合がかなり見られるが、それと怪奇性を等しくするかの如くに、今やユダヤは自己の名の覆(おお)い難いのを知るに至ったものか、その名を隠見(見え隠れ)せしめつつ適当の方策を講じつつあるかに見えるのである。例えば本年十一月九日の某大新聞の第一頁の記事の如きもその一例と見做され得よう。即ちユダヤアングロサクソンとの不一致を殊更に強調することは、アングロサクソンのみを敵視するわが國朝野をたぶらかすには最勝の方便なのである。ルーズヴェルトユダヤ血統が真実であるとすれば、世人の眼を欺くためには或いは機会を見て彼を第一線より退けることが既にユダヤ指導層で決定されているのかも知れない。ルーズヴェルトによって事態が現在の所まで進められて来たのであるから、一面に於ては彼のユダヤ的使命は達成されたとも見得るからである。利用価値が消失する時に容赦なくその傀儡的人物を捨て去る ―殺害その他の「清算」手段に依って― ことは、これユダヤの常套手段であることを我々は銘記しなくてはならない。従って我々は、米議会に於ける少数の「孤立派」の勝利などに有頂天になる愚を避けねばならぬ。この場合にも我々は、ユダヤの両建戦術の巧妙さを忘れてはならない。我々の常に主張し来った如くに、嘘を吐くにも算盤玉をはじく術を心得ているユダヤは、世界の趨勢(すうせい)を打診しまた敵性國の内部情勢を察知するためには、世界及び敵性國の幾割が真実を認識する能力を有するかを前以て計算し、その上にて嘘の宣伝をするのである。この間の事情に通暁(つうぎょう:精通)しない限り、ユダヤ的否定原理の支配的地位についている現代に於ては、歴史の運行さえも把握は困難であると考えられる。勿論ユダヤのこの動向に徹することによって世界情勢の全部が把握され得るとは言い得ないであろうが、しかしその正当な認識なき施策は、政治・経済・学術の方面は勿論のこと、軍事の方面に至る迄も迂闊(うかつ)の讒(そしり)を免れることは出来ないであろう。殊に現代の如き急激なる過渡の時代に於ては、その指導的階級と呼ばれるインテリ層こそ最もユダヤ性に富み、その感情・思索・志向に於てユダヤ化されて来ているから、この点の考慮は特に重要なのである。

 

今次世界大戦の性格は、ユダヤ問題を研究する者の立場より見るならば、ユダヤ人の人類殲滅戦である。ユダヤ人がその旧約聖書の日以来一日として忘れることのなかった日が遂に到来したのである。少なくともユダヤ人の主観から見ればそう感ぜられ考えられているらしく見える。そしてその第一の根拠は、今次大戦の世界的規模への進展が、エホバの年一九四一年(昭和十六年)であったことである。勿論今次大戦は、なお第四幕・第五幕を残していると考えられるが、それが既に頂点としての第三幕に到達したことは否定し得ないことであろう。エホバ信仰に厚い狂信家としてのユダヤには、大東亜戦が昨年中に勃発したことはエホバの庇護の印として感激の的となっているであろう。そしてその後の戦況の経過は、恐らくユダヤのその信仰を益々強化しつつあるものと考えられる。既にアメリカの有力猶太新聞「アメリカン・ヒブリュー」は、一昨年十二月四日に、

「戦争の意義が現在ほど明瞭であったことはない。今や全人類は、その戦争観念をめぐつて二つの陣営に分けられている。即ちこの戦争は、ユダヤ人を敵視する者を相手取ったユダヤ人生観の戦いである。全世界は今やユダヤ的な生存様式が勝つか、ユダヤに敵対する者のそれが勝つかの戦に鎬(しのぎ)を削っているのである。」

と書いたし、また某英國紙もその頃この戦は「ユダヤの聖戦」であることを主張したが、その聖戦が「エホバの年」に本格的な世界戦へと進展したのであり、しかもその後の情勢がユダヤの希望通りに向いつつあるのであるから、今やユダヤが如何に満々たる自信のうちに生きているかは推測に難くないのである。(約百五十字略)

かく論ずる時、欧州戦線及び東亜戦線に於けるユダヤ支配國の敗退はユダヤに一大痛棒を与えているではないかとの疑問が提出されるかも知れないのであるが、これはユダヤ問題の怪奇性に徹せぬ単純な考えに過ぎないのであって、東西に於ける連合國の敗退こそはユダヤの喜ぶ所であり、殊に大東亜戦の緒戦に於ける日本の勝利はユダヤに取っては全くのエホバ神の神助の結果であると感ぜられているのである。我々は既に以前より、大東亜戦に於ける緒戦の日本の勝利を喜ぶ者は日本人とユダヤ人とであるという逆説めいたことを説いたのであるが、最近に至っていよいよその感の深まるのを覚えるのである。その理由は、日本がそれを喜ぶのは当然の事であるが、ユダヤに取ってもそれが滞留國民(米英等)の臨戦体制を強化するに役立ち、ともすれば生起し勝ちであったユダヤに対する批判と不満との念を外らせるに役立つからである。戦争の拡大が経済的に利益を齎(もたら)すことは言うまでもないが、既に世界の富の大部分を所有しまた支配する位置を占めているユダヤとしては、今次大戦に於ては寧ろ自己の政治的地位の強化確立に対する関心が主になっているのであるから、この意味に於て緒戦に於ける連合國の敗北はユダヤに取っては誠に好都合のこととなるのである。殊にみずから戦線へ出ることのないユダヤとしては、自己のために戦場へ出る傭兵を必要とするのであるが、米英人をその役目に就かせるためには、緒戦の敗北こそは天来の好機なのであって、ともすれば叫ばれた「戦争目的の不明」の言説は、緒戦の敗北を利用しての宣伝によって全く封じ去られ得たのである。枢軸軍による本國侵入とか、占領地に於ける枢軸側の残忍なる行為とかの宣伝によって、元来誇張された優越意識の持主である米英人は、この場合にもユダヤの策謀を見る余裕を失って、ここに戦場へと盲目的に駆り立てられるに足るのである。現在米國軍六十万乃至八十万が海外へ派遣されていると称せられているが、その実数の真偽は兎に角として、かく大部隊の派兵の可能なるに至ったのは、ユダヤの扇動政策の成功の結果である。真の愛國者に売國奴の汚名を被せることにユダヤは成功したのである。ルーズヴェルト及びその一味の言行は、この間の事情を把握しない限り、その全幅的な意味が理解されることはないのである。

 

以上で現大戦の性格とユダヤの動向の大略は明らかになったと考えるので、以下に於ては各交戦國の場合につき考察を加えることにしよう。

先ず盟邦独伊の場合であるが、両國の情勢は、ユダヤ系の宣伝に敏感な宿命を持つインテリ層の危惧する程に不安のないことは自明であって、ユダヤ問題を研究する者より見れば、両國の國内情勢は相当に整備されていると考えられる。連合國側のユダヤ言論通信機関が殊更にファッショ諸國の暴政を説くのは、独裁と暴虐との点に於てユダヤ的残忍性を実践しつつある自己の政策が民衆によって批判される事を防止するために外ならない。この事は米英ソ連重慶に於ける独裁支配者の行状の実際を知る者には自明のことである。何れの側にも例外はあり、皇國に於てすらも所謂インテリ層の大部分は依然としてその唯物主義的個体主義的利己主義のためにユダヤ思想戦線の志願兵たるに甘んじているのと軌を等しくして、独伊に於てもかかる一群の徒 ―殊に本國を捨てて亡命中の秘密結社系の者― の存在することは言う迄もないが、しかし独伊に見られる服従と随順との精神は、米英重慶乃至ソ連に見られる屈従又は盲従とは対蹠的な存在であると言い得るであろう。後者に於ける形式上の服従の如きは、利害による結合又は威嚇による屈従以外の何ものでもないのである。独伊に於ける精神主義全体主義体制と、最近に至って次第に完成されつつある米英等に於ける金権主義的全体主義形態及びソ連に於ける酷烈なる唯物主義的全体主義的形態とは、悪意ある短見者流が時としては故意にそれらの同一性を強調することもあるが、根本に於ては大きな差異を有するのであるから、我々としてはその根本的なる本質上の相違を認識して、盟邦の交りを益々堅くして共同の敵に当らねばならないのである。これこそ道義日本の使命でなくてはならない。一時的なる戦線の異状とユダヤ系通信機関の宣伝に躍らされて、直ちに利害の打算を始める如き卑しさに陥ってはならない。無節操なる者に最後の勝利のある筈はないからである。何れにもせよ、この点に連関して今後とも中立國筋その他の通信宣伝機関を通し、或いは外交乃至通商機関を通して種々の策謀が行われることは火を睹(見)るより明らかであるから、最後の勝利の日までは決して油断をしてはならぬのである。

去る九月三十日の戦時冬季救済事業報告演説に於てもヒットラー総統は、今次大戦がユダヤの策謀によって勃発せしめられたことを強調し、十月五日の収穫感謝祭に於てはゲーリング國家元帥もまた今次大戦のユダヤ性に論及している。然してこれらの言説が将来如何なる結果を示し得るかは、友邦日本の側に於けるこの点に於ける反応如何に依るとも言い得るのであるが、この点に於ては久しきに亘るユダヤの巧妙なる宣伝と、時としてはそれに内応する秘密結社の策謀があるかの如き情勢の動きの結果として、いまだ日本の朝野にユダヤ問題の正当なる認識が欠如し、この最重要最根本の点に於ての協力を示すに至っていない。思想戦方面に於ける枢軸側の不如意の日が到来することが万一あり得るとすれば、その最大の原因は必ずこの点の認識不足に基くであろうことは、容易に予言し得ることである。ユダヤ問題の認識も教育も徹底している独伊の場合は、戦略上の必要その他の理由に依ってその國内情勢等についても幾多の発表見合せのあることは言う迄もないが、しかし大戦によって連合國側の希望する如き動揺はあり得ないものと見られるのである。

では何故にスターリンが最近の革命二十五年記念日に於て、独伊の指導者と國民との間を離間せんとする如き言辞を弄するに至ったかと言うのに、これは例のユダヤの怪奇性による術策であって、その演説の目標は、第一には自國内に於ける自己の政権に対する批判を封ずるためであり、第二には中立國及び日本に対する宣伝のためである。如何にソ連幹部の頭がどうかしているとは言え、ユダヤの智謀を背後に持っている彼等が、今次欧州戦当初に英國が用いて物笑いの種となったと同一の筆法で今に至って演説する以上は、下の場合とは別な意味がその背後に隠されていなくてはならない。この場合にはユダヤは算盤を弾きながらスターリンの口を通して嘘の言説をしていることを忘れてはならぬ。

同一事情は独伊の戦線に於ける事情についても言われ得るのであって、唯物論の影響下にあるわが國のインテリ層はユダヤ系の報道に一喜一憂させられているが、これもまたユダヤの日独伊離間策に躍らされているものに外ならぬのである。わが國にしてもいまだ重慶を全面的に屈せしめ得ないことや、北支等に於ける共産軍の相変らぬ蠢動(しゅんどう)等の事象は、ユダヤ系の通信に依って如何に誇張されて世界に伝播されているかを思はなくてはならない。強大なる陸海軍國を前後に敢闘する盟邦に対しては、一戦線の消長如何に拘らず、絶対の信頼を維持することこそ武士道國日本の真面目でなくてはならない。各個撃滅を目標とする奸敵が幾千年の訓練を経た悪逆無道の猛者であることを我々は銘記しなくてはならない。

ここにフランスについて一言しよう。近来の新聞紙に依れば、ラヴァル首相はパリに於て「ユダヤ人がその存在するところの何処に於ても、一個の破壊的要素をなしていることは事実である」と言い、現在もフランスにはユダヤ人が氾濫しているが、この厄介者を除くことは困難である、と嘆いたそうである。独逸占領地帯に於ては独逸に於けると同様にユダヤ人マークを付けさせられたりしているが、非占領地域に於ては未だにユダヤ人は肩で風を切って闊歩しているのである。少数のフランス識者はユダヤ人とその支配者のフリイ・メイスン秘密結社のためにフランスの敗北が惹起されたことを自覚しているにも拘らず、現在のフランスには最早この「解体の酵母」に対して真の対策を施す力が消失してしまったかに見える。恐らくフランスには、米英に依る植民地の強奪によって二等國三等國に身をおとす外に可能性はないらしくさえ見える。そしてユダヤとしては、もともとフランス及びフランス人がかわいいのではないから、フランスの利用価値が消失されるに至るならば、フランスの滅亡をも決していとふことはないであろう。ユダヤとしては、自己の独裁下にないフランスには何等の未練もないことは自明である。従って現在のフランスには、ユダヤの走狗たるド・ゴール又はそれに類似のものが今後もなお相応に現われるかも知れない。このド・ゴールの如きは、英國諜報部のユダヤ人スピアス将軍の仲介によってその私生活の乱脈さを維持するために英に身売りをしたのであり、従って彼はユダヤの奴隷に外ならないのであるが、同じ系統の売國奴が、秘密結社の勢力の浸潤しているフランスに於ては今後も何時如何なるところに現れるかは想像だに困難である。

ラヴァル首相の言を引用したついでに、同じ演説中にある次の言説にもここに一言論及しておきたい。

「余が法王庁使節団又はクェーカー派の派遣団乃至は米國の外交団を接見すると、彼等は極ったようにフランス國内に於ける哀れなユダヤ人の負わされている運命を緩和するように世に向って説くのである。」

とラヴァル首相は言っている。首相に向ってユダヤ擁護を要請するこれらの三つは、第一にカトリック教であり、第二は米英系キリスト教徒であり、第三は注目すべきことにも米國の外交官であるが、これらすべてがユダヤ支配下にあることは今更縷説(るせつ:詳述)の要もないと思われる。しかしこの点に於ける正当なる認識に於ても欠如するわが國に於ては、フィリッピン等に於ける施政に思わぬ暗影を生ずることを覚悟すべきであろう。新旧キリスト教ユダヤ支配の現況については今は説明の暇はないが、米國外交官のユダヤ性についてはその大使の十人以上、その公使の五人以上がユダヤ人であることによっても明瞭であろう。例えば前駐日大使グルーの如きも恐らく例外ではないらしく、在留中はロータリー倶楽部員達の賛嘆の的となり、帰國しては戦争熱の扇動に狂奔していることによってもそれは証されるのである。

 

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