ナチスの経済政策(1935年当時の調査)03

第二章 ナチスの経済概念

ドイツの経済政策を云々する為には、これが遂行者たるナチスの経済観念を一応知ることを便宜とする。ナチスの経済観念は、その本質に於いてよし誤って居るにしても、ともかく従来我々が学んだ経済観念に対して一応の批判を与えて居る。従ってこれを理解する為にはナチスのその世界観に基づき構成される、その有機的経済組織及びそこに於いて支配する各種概念の簡単な説明を必要とするであろう。

 

第一節 経済と世界観

 (イ)経済と経済政策の本質

 ヒトラーに従えば、一国民の興亡はその経済綱領の善悪によるものでなく、その国民の持つ世界観の強弱に関連するものである。経済及び経済政策の本質は何か。先ず経済についてみるにナチスにとってはブフナーが述べてるように経済とはより高い目的到達の遂行手段即ち目的遂行の手段の組織である。

この事からして次の三点が明らかになる。即ち第一に経済の意義は単なる手段であること、すなわち政治目的を遂行し、国家を改造するための手段たること。第二に経済生活は道徳的に結合された精神生活の表現である。このためには従って従来の如き経済研究の方法を以てしてはナチスの新経済概念には合し得ない。蓋し経済は純粋な合理的原因とか作用について問題ではなくて、国民経済に属するものは國民の全価値の問題だからである。経済は国民の精神的生活以外の何らの活動でもなく、人間行為の中この経済生活方面の範囲内で國民の全生活と離れがたく結合されて居る。第三に経済とは国民共同体に対する奉仕である。この事はシュリッターに依れば、経済は國の建設に際し、国民全体に対する奉仕のために、指導者思想の下の従属する国民共同体成員の統一された意志であり、行為である。経済生活なるものは凡ゆる人間生活同様只協同体に於てのみ可能であり、各協同体は、体内の成員の犠牲精神によってのみ生存し、発展し得るのである。

次に経済政策とはその力をば血的結合と民族の運命的協同体及び国家内に於ける民族の政治的構成の認識から力を獲得する所の給付的価値的及び精力的理論を表現するものとブフナーは規定する。従って経済政策は国家の施設が民族の価値を強化し且つ維持するや否やに従って遂行されるべきなのである。このためには経済が個々の利益を満たすとか、物財を良く廉く供給するとか言う事は問題にならない。これ寧ろ民族の価値と国民的名誉と独立の維持を第一の任務と為すべきである。

以上の見地からしナチスの観念する経済とは独立に存在して居るものではなく、更に又孤立的に観察され統制され得ないもの、経済は寧ろナチスの国家観、世界観と有機的に結合されたものである。それ故に又ナチス流の経済理論(即ち有機的経済制度)を理解する為には必然にナチスの世界観の根底にまで触れねばならぬことにもなるのである。

(ロ)ナチスの世界観

 ナチスの世界観なるものは彼等によればリベラリズム及びマルキシズムの世界観と尖鋭に対立するものである。即ちリベラリズムは国家、社会及び経済を全然一個人に還元し、事物の標準を個人の中に見た。経済生活に於いては個人主義リベラリズムとして現れ、これによって各個人はその発展に関しては完全な自由と言うことをもたらした。又ヒトラーによればマルキシズムなるものは純粋文化現象に於いてもたらされた研究として現れたもので、その凡ゆる領域における個人の勝れたる重要性を排除し、且つ大衆の数によって置き換えようとしたものである。

これに反してナチスの世界観は血と種族への帰還であり、それ故に又リベラリズムマルキシズム及び合理主義に対する反逆である。民族の本質的なものはナチスの世界観に従えば血と土地である。それ故にローゼンバーグによれば血は貨幣より以上のものであり土塊は株券以上であり、名誉は高い配当以上に高価であり、国民は一切の業務の総額よりも高位に存するのである。かくてゲルマン民族の血の価値に対する信仰がナチス世界観の初歩的前提に属するのである。それ故に合目的なる種族的、人工的政策は無条件にドイツ民族の維持と発展にとって必要である。

土地はナチスにあっては商品でなく、単なる生産的要素ではなくして、宇宙の一部であり、国民全体の生存前提物である。ナチスのプログラム第三条には土地について次の如き規定が為されている。「我々は我が國民を養い、且つ国内の過剰人口を移住せしむるため土地及び領土(植民地)を要求す」更に第十七條には「我々は我が国民の需要に適応せる土地制度改良、公益的な目的のためにする土地無償収用に応ずる法律の制定、地代の廃止及び凡ゆる土地投機の禁止を要求す」と。これによって農民は単なる身分に非ずして、経済的生存一般の前提であり、民族更新の源泉である。食糧農業大臣ダレ博士によれば全生活の永遠の源泉と規定されたのである。実に農民は国民力の根源であり、国家建設の礎石なのであり、農民魂は国民魂であり、農民強化すれば国民全体も強化するのである。されば自由に負債の無い土地に於いて働く農民こそは生存能力あり且つ独立した国家にとっての根底となるものである。

此の如くナチスの世界観なるものはリベラリズム個人主義マルキシズムの個人的階級的集団主義に反し、血と土地による民族的結合であり、公益は私益に先んずるの標語に従い、指導者原則の是認にある。

(ハ)ロマン派経済理論とナチス

 以上の世界観の上に立つ国民社会主義は経済上の思想からは浪漫主義的國民経済学と合致するものである、ナチスの綱領は多くの点に於いて無意識的に国民経済のロマン派のそれに結ばれている。ロマン派の思想は第一に芸術的意見でありついで国民全体及び国家に組織された哲学的思考形式である。

国民経済上のロマン派の主要代表者は古くはアダム・ミューラーであるが。現在に於いてはシュパンがその主たる代表者である。この派の経済制度についての主要観点は、第一に社会的、経済的生活上に於いては非個人主義の見解であり、個人はそれ自らとして何物にも値せぬ、個人は国家及び国民の一員としてのみ有用である。第二に経済の有機的成員を国家の中に解消せしめること、即ち経済は国家に従属せしめられねばならぬ、そしてこの目的到達のために新たなる経済制度が創られねばならぬと説くのである。

従って国民社会主義とロマン派との間には一定の連関点が見出され得る。即ち第一には両社とも共通に、個人主義自由主義に反対して、経済の観察に於いて文化的道徳的価値要素を導入している。第二に然し両者にはまた重要なる差異が存する。即ちロマン派は中世への復帰に於いて幸福を見出すが、国民社会主義は中世の復帰の如く反動的でなく過去から受け継いだドイツの意義深き現在の構成をば将来にまで維持することを証(みと)める。この意味でナチズムはフリードリッヒ・リストの思想に相通ずる。リストはロマン派のそれによっても影響を受けて居るが、彼にとっては国民経済は実際の政治経済に外ならない。彼は国民の経済政策的思想を考慮の中心に置いた。彼は市場における交換過程の理論に彼の生産力の概念を対立せしめた。彼にとっては生産力と労働能力とを長期に亘って維持することは直接の利潤よりも本質的に重要なのである。かくてリストは、ナチスが今日尚行って居る様に、私経済的利回りよりも長期に亘る国民経済の生産力の発展とに向かって国民経済政策の樹立を計った。彼は関税同盟の建設並びに統一的な鉄道制度への参加によって経済の国民的統一化に努力した。ナチスアウタルキーの思想はこのリストの思想に影響されている。

 

第二節 有機的経済の本質

 有機的経済の根本に関しては全ゆる個々の点については尚明瞭になって居ない。以下は有機的経済なる概念について不完全ではあるがナチス側が述べて居る所の紹介である。

 

(イ)経済と政治との関係

 ヒトラーは1933年3月21日及び23日の彼の演説に於いて国家と経済との根本関係についての、政府の意見を次の如く述べて居る。「国民は経済の爲に生きるものでなく、経済は資本のために存するものでなく、寧ろ資本は経済のために経済は国民のために、奉仕するものである。」又「吾々はここに再び国民の生活闘争を組織し、指導するがために政治の優位なることを宣明せんと欲するものである」と。これに従えば経済は国家に従属すべきものである。経済はナチスの世界観に同化されねばならぬ、これによって社会正義的要求に奉仕すべきである。経済は国家内における国家として考察されるを許されるべきでなく、それは国民協同体内に於ける奉仕的分子として結合されるべきである。ナチスによれば政治は国家の権力と武力によって担当される一種の宿命であるが、経済は然らざるのである。例えばドイツの経済恐慌にしても凡ゆる重要点に於いて政治上の事実に基づくものである。即ちドイツの戦後革命は敵の利用する所となりヴェルサイユ命令として押し付けられ、巨大な賠償を課されることとなった。政治上の理由からしてルール(地方)の占領とインフレーションをもたらし、フランスの政治的反対派独墺の関税同盟を阻止すると共に、フーバーの計画をも完成せしめなかった。これらの事は政治が経済の出発点たることを充分に示すものであると言う。

今日のドイツにおける経済上の重大問題の総ては政治的性質を有する。従ってドイツにおけるあらゆる経済の終極目的は経済の見地を離れて遠く政治の世界に存するのである。即ちこれによって解決されるべき経済の目標とは政治権力、政治的自由、文化的発展、福祉及び民族の成長これである。この生活上重要な目的に国民を指導していくことが国家政治の重要な内容を為す。

しかもフェーダーに依れば、国家は自ら経済を為すべきでなく、国家はその基準であり、統制であらねばならない。國は全経済のより高い意味の指導者であるべきだ。従って國はこの爲に経済現象に対する新たなる組織原則を造るのである。

これによっても明らかなるが如くナチスは経済をばリベラリズムの如く自己法則により発展する自然法と見ず、経済の自立性を否定せんとするものである。ナチスゾンバルト同様経済をば人間の自由な意思決定により構成された文化的制度と見る。従ってナチスは経済の将来も亦自由を欲する人間の判断の中に存すると考える。それ故に経済の新構成に対しては、国家の意思、即ち国家担当者の意思が存在するものと考える。されば確固不動の国家権力こそナチス新経済政策の前提を為す。鞏固な政府であればある程、経済行程に発生する諸種の悪現象を避けしめるを得る。今日のドイツは対立政党による動揺的政治をば避け、鞏固な政府が経済の背後に立ち、これによって一切の経済を指導すべきなのである。

(ロ)有機的経済の目的

 有機的経済の目的は何かと言えば国家の中に経済を解消せしむることにある。この目的を達成する為には次の如く先ず第一に経済的精神及び経済倫理を変化せしめ、共同精神の喚起及び全体に対する責任意識の強化を図ること、この事は一切の改造の根底である。つまり凡ゆる組織的な施設、即ち如何なる形式上の変化も人間の思想及び全精神的態度が変化した後にあらざれば有効に運用されないからである。経済に対する精神的革命の遂行、共同精神の培養を為し、従来の資本及び労働観とは別の見解を発展せしむるにある。このためには後述の労働戦線の組織が設けられる。

第二に有機的な施設を為すことにある。ヒトラーはこの点につき繰り返し明示して居る。経済の新たなる組織構成は完成された理論としては創られ得ない。新たなる組織は寧ろ経済そのものの中からして、党のプログラムに従い各種職業専門家によって徐々に有機的に発展せしめられなければならぬ。この爲の重要な施設としては、先ず新有機的秩序の要求に対し、経済組織を調和せしむること、この爲にはリベラリズムの経済思想及び階級闘争思想を排除して、これをナチスの協同体思想に変ずること、次に凡ゆる組織、団体を所謂等配化する事即ち経済諸団体は勿論一切の政治的諸団体に対しても統一的な意思構成を確保する事之である。(これは初め各邦の政府に行なわれ、次いで経済団体及び労働者の諸組織にまで実施された。)

之に次い土地及び自然労働力の堅実化をはかる。蓋し國権力は國民の自給自足力に強く依存すると言う点からして、農業を保護するにある。更に又国内に於いて生産される同種の製品により国内市場が混乱化されることを防止し以て国民労働を保護することを要する。

ナチスはその世界観に従い農民層を維持強化し、且つドイツ国民をその土地に根づけしめ、その農産物の生産を助長せしめることは、独り農民層を利すること丈でなく、ドイツ国民全般を利するものであると見る。蓋しドイツ人口の増加とドイツ文化の促進は、現在の事態に於いては単に農民の出産増加によってのみ確保され得るが故である。

(ハ)有機的経済の標語

 「公益は私益に先んず」なる語はナチス有機的経済に於ける指導的標語である。この命題はナチス的経済考察の至上命令である。これによって経済及び経済政策は倫理的道徳と禅文化の中に意識的に解消される。

ここに於いて経済的行為は終局的にはナチスの世界観によって解決される、蓋し国民社会主義は経済活動の道徳的な意識に対し根本的要求を持つからである。従って新経済は第一に協同体に対する道徳的な教化を問題とする。この協同精神の訓練所として労働戦線が存する。

然らば前期の標語は私人の活動を如何に見るかと言うに、私的発意は決して排斥するものでなく、祖は単に無限な自由が制限され、全体の福利に従属することを条件として認められる。従って個人の活動によって生ずる諸々の経済上の結果の取得は是認される。即ちナチスは社会問題を以て単なる分配問題丈と見ないから、所得の平等化を望むものでない。ナチスは所有権をもって経済的発展の動因と見るが、然しこれは飽くまで国民経済及び国民全体に奉仕すべきであると見る。ナチスのこの概念はリベラリス無の財産観念と関係を持たない。即ち所有者と雖もその財産をばローマ法の観念に従って自由に処分するを得ない。彼はその財産をば全体の利益のために使用せねばならない。ナチスは所有権の内容は変化しており変化し得ると考える。前経済省シュミットによれば、公益は私益に勝ると言うことの意味は営業利潤なるものは協同利益、国家の安寧又は全体の利益を犠牲にして増加することを許されないもの、而もこれらの要求は国民大衆がナチスの無上命令に教化された時に初めて達せられると説いて居る。然らばこの標語の上に立つドイツ経済政策は如何なるものか。

 (ニ)経済政策の方策

 ドイツ経済政策の方策はナチスの理念と経済の実際的要求との間の調和を見出すことにある。ナチスの経済政策は理論的に完成されておらず、それは実行によって証明されるべきであるが、然し乍らフェーダーも言うように、これによって生活能力のある経済組織を破壊せんとするものでなく、寧ろかかる部分は維持培養せんとするにある。経済は自由ではあるが、然し国政上の束縛の中に存する。これによって第一に國の経済に対する監督権が生じ、第二に必要な場合には國の警察的、行政的、財政的干渉の必要が生じる。かくて経済が少しでも全体の福利を害する場合には國は如何なる時にも干渉の自由を持つのである。

以上の見地に於いてドイツの経済政策は、ナチスの手近い目的と、終極目的を実現せんとするものであり、而して最重要な手近な目的は失業の除去であり、ナチスの終極目的はドイツ国社会主義の確立することにある。

更に又ドイツの経済及び個々の企業の中に於いては指導者原則と自己責任とは合目的に作用し合わねばならぬ。創造力ある個人の自由な発意と個々人の全体に対する責任とは決して反発するものではない。自由な創造力ある自己責任のある人格は全経済指導の基礎である。ただこれらの人間はリベラリズムに於けるが如く己個人のみを考えるを許されず、経済領域における国家的使命に合致し、融合し合わねばならぬ。この点につきヒトラーの1933年3月23日の演説によれば、政府はドイツ国民の経済利益を確保する爲に国家的に組織される経済官僚主義の道を取ることは欲しない、寧ろ個人の発意を強度に促進し、所有権の是認によって行おうと欲すると述べて居る。而もこれについては生産、流通の各領域ごとに区別されねばならぬ。

即ち生産の領域に於いてはナチスは社会化の一切の試みを排除する。蓋し社会化の経験の示す所に依れば、これは全経済を創造的に保持担当する個人を排除するが故である。

流通の領域に於いては例えば交通、貨幣、信用等の領域に於いてはナチスは国家或いは公經營の可能性を認める。これはナチスのプログラム第十九條にある現在社会化されて居るものの公営化の要求に当てはまる。

 

第三節 経済的基礎観念

 国民経済の使命は欲望の充足にある。第三国家に於いては国民経済的考察方法のみが適用される。経済はフェーダーによれば、民族の偉大さと幸福の爲の国民に対する奉仕である。従って経済上の全問題は常に先ず第一に国民経済的検事から検討されねばならないから、何を置いても全国民の爲に役立つか否かを考えるべきであり、かくして経済は故人に対する単なる貨幣的利潤目的ではなく、全体に対する利益を目的とし、従って利潤の大小よりは欲望充足を果たすにある。ナチスによれば従来の経済推進力は利潤率であった。利潤の爲の生産は結果として全国民の福利を計るよりは大資本の利益のみを重視した。実にリベラリズムの経済観は、経済の背後に国民大衆の存することを忘れ、その法則を自然法と見て人間との関係を忘れたことにある。ナチスはこれに反して人間と経済とを賦課分離のものと観、経済をば単なる交換または価格現象と見ない。むしろ国民全体の相互依存の関係と観る、従って経済の本来の地盤は計算にあらずして正義にありと観る。されば社会的関係は経済によって決定すべきでなく、寧ろ経済的関係は道徳正義の観念によって決定される。国民生活を支配する同一道徳性が経済行為を支配し、その血液となる。この意味から例えば合理化の過程でも従来の如く機会と貸本とかに好都合に行われるべきでなく、常に人間本位に行なわれるべきである。ナチス支配下にある独逸では機械は人間の爲にあるので、従来の如く人間が機械の爲に存在するものではあり得ない。ここに於いてナチスの社会では労働にせよ、資本にせよ特別に観念される。

例えば労働及び労働者は価値と権威とを有し、単なる生産要素として、準経済的にみられるべきでない、国民の最大の財産はその貨幣及び機会に非ずして、健康にして、真面目なる思想を有する人間である。ナチスの社会では労働者はマルキシズムに於ける如く一階級に形成された被圧階級ではあり得ない。それは一階級の所属でなく、又単に一連の経済的要素に非ずして國民協同体における非常に価値のある一員である。その活動方法も企業者、使用人、技師、商人、官吏、自由職業と共に互に組織的役割を果たす。かくてナチス流に言えば労働者と企業家とはもはや対立的要素ではなく、個々の企業は所謂協同体を代表し、この社会に於いては企業家は企業の指導者であり、労働者は従者たるの地位に置かれる。後述する1934年1月24日の労働統制法の如きはこの見地から立案されたものである。

ヒトラーの1933年5月1日の演説によれば、労働は国民全体に対する奉仕にして、この爲に労働奉仕義務制が導入される。各ドイツ人は、身分の如何を問わず、一生一度手工業の経験を持ち、かくて労働に習熟せねばならぬとある。労働に対する権利義務はナチスのプログラム中に特に高唱されている。プログラム第七条には、我々は国家が先ず第一に、ドイツ国民の営利及び生活の可能性の爲に配慮すべき義務を負うことを要求す。若し国家が全人口に糊す能わざる場合には他国民に属するもの(非ドイツ国民)は之を国外に放逐すべきものとす、とある。又第十条中には、ドイツ国民各自の第一義務は精神的或いは肉体的労作に服するにあり、個々人の活動は公共の利益に背反するを許されずして、全体の範囲内において且つ総てのものの利用の爲に行なわれざるべからず、と規定されている。

然らば資本をば如何に観念するか、これに関してはゾンバルトが規定した「資本とは一資本家的企業に物的支柱として奉仕する交換価値の総量である」との概念が最もよくナチス的な動的経済概念に合致して居ると説かれる。蓋しこれによれば土地所有及び農民の財産就中後述の世襲農地を持つ農民は何等資本家的経営を問題として居ないから、これらの財産は資本に非ずとみられる。

以上の資本観はリベラリズムの資本概念たる国民生活を支配することを目的とし、資本所有権の濫用及び資本所有の基礎の上に立って居る社会的権力を濫用するそれと異なる。そして就中国際的金融資本に対しては、ドイツ国民を自由独立せしむる爲闘争せねばならぬ。フェーダーに従えば貸付資本は凡ゆる産業上の大資本に対して非常に優越して居るが故に、これに対しては利子奴隷制の打破を掲げて戦わねばならぬのである。ナチスのプログラムは資本の問題に関して次の如き要求を掲げて居る。プログラム第十一條には「吾々は不労利得の廃止、利子奴隷の打破を要求す」とあり、更に第十三条によれば「これまで社会化されたる經營(トラスト)の国営化を要求する」と共に、第十四條に於いては「大企業に於ける利潤分配制度の要求」を掲げて居る。この外第十六条に於いては「健全なる中産階級の建設及び維持、大百貨店の即時市営化と小営業者に対して、その低廉なる賃貸、國・邦或いは市町村への引き渡しに際し全小営業者への最も強き顧慮を要求す」、そして第十八条に於いては「公共の利益を害する活動を為す者に対する躊躇なき闘争を要求す、下劣なる国民的犯罪者、暴利者、不正商人等はその信仰及び人種の如何を問わず死刑を以て罰すべきものとす。」と規定している。

斯様にナチスは私的所在をば原則として認めるも、それは国家的保護の下に置き、これは更に道徳的には国民全体に結びつくものと説いて居る。所有概念の道徳化の要求は更に次の如き内容を持つものである。

(イ)所有は自己の活動と給付によって生じたものであること。祖先の事業はフェーダーによれば、この中に包含されるを以て相続権は認められる。

(ロ)無制限なる私有財産の処分はナチスにあっては、それが全国民の爲になる場合にのみ許される。従って財産雌雄はそれが単に権力的機関となり且つ搾取的方法によって国民全体の利益を害する場合にのみ制限を受けるものである。

(ハ)国家は全体に対し害をなす様に管理される私有財産には干渉或いはこれを没収するの権利を有する。

(ニ)ナチスは全て勤勉にして、熱心に働く者に対しては私有財産の獲得の可能性を与える。即ちナチスの見るドイツ労働者は所有権の敵ではない。ただ若し労働者が生来自ら獲得することに絶対に不可能な地位に置かれる場合にのみそれを不合理と観る。フェーダーはこの点につき「ナチスはその法制に於いて勤勉、有能なるものに私有財産の獲得を可能ならすと共に、獲得した所有権を保護するものである。この事は経済を強化する上の最良の手段であると共に、一切の文化の根底を為すものである」と述べて居る。

以上に於いてナチスの経済観念の大要を見、併せてその在野時代に於けるプログラムの意義を見た次第であるが、然らばこれに基づいて如何なる経済政策が実行されたか、以下労働、農業、外国貿易、金融、企業、財政の諸政策についての実情を考察し、最後に所謂ナチスの主張する有機的経済に於ける各種統制機構の概要を述べるであろう。