ナチスの経済政策(1935年当時の調査)01

 

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               経済資料通巻第195

                ナチスの経済政策

                東亞経済調査局編

                   1935年

 

凡例

一、本書はナチス政府成立後のドイツ経済政策の重要事項を、同政府発布の法令に基づいて記述したものであり、その期間は主として1933年1月より1934年12月に亙る事項に属する

一、本書は全九章の中に章を割いてナチス政権成立に至るまで独逸政治経済の一般情勢の説明にあてて居るが、之は要するにナチスの特殊な経済政策の理解のためにはドイツ資本主義の全般的理解を必要と考えたからである。従ってこのドイツ資本主義の要求の前には第三章に述べられてあるナチス的経済観なるものの意義も多大の修正を受けざるを得ないのであるが、ともかく一応の理解に資するために特にこれを掲げたものである。

一、本書の執筆は小田忠夫氏に之を委嘱した。同氏はナチスの政権獲得当時親しくドイツに在って、その政策を具に研究して帰朝せられたのである。

 

                        昭和十年七月

                        財団法人 東亞経済調査局

 

第一章 ドイツ資本主義の現状とナチスの台頭

 

第一節 世界恐慌とドイツ経済機構

 

1929年秋アメリカ合衆国を襲った世界恐慌の波は、大戦によってアメリカとは全く対蹠的な貧窮国となったドイツ資本主義機構をもその魔手に巻き込み、之に対し深酷な打撃を与えるに至った。従って最近におけるドイツの経済政策を分析するには、何よりもまず1931年に於ける信用恐慌のドイツ経済に及ぼした影響より始めなければならないであろう。だがしかし良かれ悪しかれ戦後十四年間も続いたワイマール憲法下のドイツをナチスの独裁にまで押し進めたこの恐慌の打撃を更によく理解するが爲には一応、大戦以後におけるドイツ経済機構の変化を見なければならない。

抑々世界大戦に敗北したドイツ国民は幾多の困窮を嘗めたが就中その経済上の損害は次の如く大なるものであった。即ち独逸はエルザス・ロートリンゲン、上シレジアの工業区域、及び「ポーランド回廊」を失った上に、全植民地と千部の軍艦及び商船の大部分を連合国に提供しなければならなかった。戦前ドイツの主要な富源であった石炭鉱山の19%、褐炭鉱山の16%、鉱山の74%、亜鉛生産の68%、溶鉱炉の27%、輪転機械の16%、亜鉛鋳造所の60%、耕地の14.3%を失った。加えるに大戦によって死亡したドイツ人は約二百万人、負傷者約四百万人に達し、戦後永く人口構成上の不合理に悩まねばならなかった。そして残されたものは国内における戦時負債概算千三百億マルクとドーズ案によって支払いを強制されたる約千三百六十億金貨マルクの賠償金支払いであった。

然るに戦後における未曽有のインフレーションは国内中産階級と銀行資本との犠牲に於て、巨額の内国債を完全に帳消しにすると共に、ドイツ産業資本の勢力を強化し戦後の国際貿易戦の基礎を造らしめた。だが第二の遺産たる賠償問題に関しては永くドイツ資本主義、否世界資本主義の癌種たらしめた。

抑々賠償問題の持つ主要なる矛盾は次の如き点に存する。

戦勝国がドイツに課した貢物はドーズ案によれば年額二十五億金貨マルク以上に達し、金を生産しないドイツは之を商品輸出の形によって支払う外道はなかった。而もこの商品は高度に発達した帝国主義諸国と競争して世界市場で売られなければならなかった。だがこの競争に捷つことはヴェルサイユ条約によって植民地を奪われたドイツには極めて重大な障害があった。一方戦勝国はこれに対して世界市場におけるドイツ工業品の販売を激増せしめて、賠償金を取るべきか、將又販売増加を抑止して以て事実上賠償を断念するかのジレンマに陥って居た。蓋しヨーロッパ資本主義の一般的危機に際しては世界市場が慢性的に狭隘になったが故である。

而してこれが解決は第二の方法で行われた。即ち賠償金はドイツの中で調達されたが、それは主として外国資本の輸入に由って行われた。従って対外債務は賠償支払いに平行して増大した。かくてドイツの対外債務は、1930年末、次の額に達して居たとワーゲマン氏は推定して居る。

長期、固定利子付きのもの                                90億ライヒスマルク

長期、固定利子付きに非ざるもの                     60億ライヒスマルク

短期債                                                    110~120億ライヒスマルク

合計                                                       260~270億ライヒスマルク

これに対してドイツは自己の商品輸出を支持する為に外国へ投資した額は90~110億ライヒスマルクに達して居り、かくてドイツの正味対外債務は百六十億乃至百七十億ライヒスマルクと推定された。この多額の対外債務、就中短期債務のドイツ諸銀行によって輸入されたものは約八十億ライヒスマルクに達した。従ってマルク貨安定後に於けるドイツ銀行の主たる職分は、外国と内国との信用を仲介すると言うことにあった、だが然しこの事は後ドイツ資本主義の特別の弱点となり、恐慌の進展とともに致命的な打撃を与えるに至ったのであった。

周知の如くドイツに於ける信用恐慌の発端は1931年5月オーストリーの大銀行クレディット・アンシュタルトの破綻に見出された。この急性的爆発は当時のヨーロッパの政治的関係に依存するものであったが、要するにフランス金融資本が権力政策的理由からドイツおよびオーストリーに対してとった金融的闘争方法に依って激化された。かくてライヒスマルクの設定によって、一応安定したかに思われたドイツの信用機構に対する致命的な不信が誘発され以てドイツに対する短期外債の大量引き上げのきっかけとなったのであった。

この結果ライヒスバンクの金準備は1931年5月末の23億9千萬ライヒスマルクから六月末には14億2千100萬らいひすまるくに、更に七月末には13億6千300萬ライヒスマルクへと激減し、金準備の流通銀行券に対する割合はかつかつ40%と言う法定限度に近づいた。ここに於てライヒスバンクは同年六月にその割引歩合を五分より七分に、次いで七月十五日には七分より一割へ、又貸付利率を一割五分へとそれぞれ引き上げ、更に八月一日には割引歩合及び貸付歩合を共に一挙五分上げて前者は一割五分、後者は二割と言う高水準に達せしめたのであったが、こういう事態の下に於ては全く効果を示さなかった。

この迫りつつある破局に対し、米国大統領フーヴァー氏は英国の仲介によって国際債務一ヶ年間のモラトリアム提案を成立せしめたが、それはライヒスバンクの金保蔵の流出を僅か一日二日食い止めたに過ぎなかった。フランスがフーヴァー案の遂行をサボタージュした結果、希望されていた金融市場の鎮静は来たらなかった。外国資金の引き上げとドイツからの資本流出とは日に日に強度を増して続いた。かくて同年五月一日から、後述するダルムシュタット・ウント・ナチョナル銀行(所謂ダナート銀行)の倒壊まで、ドイツから流出した金の総額は20億ライヒスマルク余りに上った。一千のドイツ最大企業を集合的担保として新たな巨額の外国信用(五億ライヒスマルク)を得ようとするライヒスバンク総裁ルーテルの試みは当時正に台頭しかけていたナチスを始め共産党の批判を受けると共に、更に又恐慌切り抜けの為海外資本に依存することの不可を主張せるドイツの有力な政治的勢力を持つ言論機関の一斉反対に会し、敢え無く頓挫を見た。さてそれから矢継ぎ早に倒産が続いた。

その第一は北部羊毛織コンツェルンの破綻である。これは労働者二万七千人を持ち、ドイツ毛織紡錘総数の四分の一を運転していた企業であるが、この時に極度の乱脈な顛末が暴露された。北部羊毛織コンツェルンが破産するに及んで之が爲に数週間も前から困難と闘わねばならなくなて居たダナート銀行の運命も亦決定されたのであった。

1931年7月13日に支払い停止を声明したダナート銀行は引き続く集積によってドイツに残された三大銀行の一つであった。同行は資本力についてはドイツ第三位、その産業への勢力については第二位を占めており、ドイツ産業所企業の約三分の一は直接あるいは間接にダナート銀行の支配下に立って居た。其の勢力は、あらゆる工業部門に拡がっていたが、就中重工業、機械工業、繊維工業及び造船工業では特に強力であった。従ってこの種普遍的企業とも言うべき金融機関の破産は、独りドイツ経済史上の出来事たるのみならず、実に世界史的な出来事でもあった。

ダナート銀行の破産は、尚未だ信用恐慌の序幕に過ぎなかった。その焔は忽ち燎原の火の如く、ドイツ全土に燃え広がって行った。その結果はあくまでも、自力又は他力の救済策によって、信用機構破綻の事実を隠蔽しようと努めていたドイツ政府をして、終に1931年7月14日を以て二日間に亘る全国的銀行モラトリアム令を発せしめざるを得なかったのである。ここに於て全ドイツの近代的信用制度の組織全体は休止すると共に、取引所も亦閉鎖された。

信用恐慌は、ダナート銀行が強度に結び付いていた諸邦にも拡大した。諸銀行の業務開始後、海岸地方の重要な機関、ブレーメンシュレーダー銀行は破産した。ここに於て独逸の総経済情勢は惨憺たる悪化をば新たに開始したことは勿論である。

全国銀行モラトリアム令発布前後に於ける、ドイツ政府の恐慌対策は次の二点に特色づけられる。(一)はドイツがその金入制度再建のために従前の如く専ら外国資本の援助に俟つという方針を抛擲(ほうてき)したこと。(二)は金融界及び一般経済界に対する国家的統制を強化し、直接的には国家財政の、而して間接的には一般国民大衆の負担に於て金融資本の救済を企てると言う、最も近代的な銀行救済策これである。ここに於てマルク貨安定以来永く外国依存を事としたドイツ経済も世界恐慌を転機として経済的国家主義への発足点を見出したのであった。

即ち第一の点については、前述した如くドイツ一千の最大企業を共同担保として、ドイツ金割銀行を通じ五億ライヒスマルク迄の外国信用を受けんとするルーテル・ライヒスバンク総裁の提案は、1931年7月8日か付の大統領令を以て法律的効力を證められたのであったが、然しこれに対しては前述の如く各方面の反対に会した上に、英、仏の国立銀行との交渉も亦失敗に帰し成立を見なかった。実際この当時からしてドイツは自ら好むと好まざるとに拘わらず、外国から信用を受けることは不可能となって居り、国際的信用体制から完全に切り離され、外国債務の大部分については協定モラトリアムが成立して居た。例えばかのフーヴァー提案、若しくはロンドン協定に基づいて、1932年7月1日まで賠償債務のモラトリアムが成立した如き、或いはバーゼル協定に基づいて短期外債の大部分即ち総額六十億ライヒスマルクのモラトリアムが1932年3月1日迄成立した如き、更に又この協定モラトリアムの外に独逸の債務者は、その長期借入金の利子支払い及び償還を何等協定なしに止めた如き之であり、ここに於て国際的信用孤立による経済国家主義の前提は已に成立を見て居たのである。

第二の国家権力になる信用機関統制権の強化は、ドイツ全信用体制の倒壊した情勢の中で特に明らかに現れた点については、既述の如く信用恐慌の大嵐によって最初に破産を暴露したダナート銀行に対しては、七月一三日の大統領令及び同施行令を以て、國が同行の債務につき保証の責に任じ、更にライヒスバンクも亦ダナート銀行の引受手形を無制限に割引するの用意あることを言明しかくてダナート銀行は國の保障を背景賭して、一切の債権者の支払い要求に自由に応じうることになったが、その反面に於て同行は國の厳重な監督を受けることとなり、國の任命に係る監査役に依ってその全業務を監視されることとなった如き之である。更にこれと同様のことは同年八月ダナート銀行に次いで支払いを停止したドイツ第二の大銀行ドレスデン銀行に対しても行われた。即ち動向に対してはダナート銀行に対するそれとは幾分異なり直接保証引き受けの方法に依らずして、政府は同行の新資本たる三億ライヒスマルクの優先株を引き受け、之が払い込みの為には同額の大蔵證券を発行し之を同行に交付し、同行は新たに信用恐慌救済のために1931年7月28日生まれた、引き受け保証銀行の仲介を経て、ライヒスバンクより現金に換えると言う方法がとられた。これらは仮令、救済形式異なるにしても、何れも之によってダナート銀行及びドレスデン銀行を半国家的施設にした点に於て共通点が證められる。

かように國際モラトリアムと信用機関の国家的統制強化によって、ドイツ資本主義機構の破産状態は一応隠蔽はされたが、そのドイツ経済全般に及ぼせる破壊的影響は見逃し得ない現象であった。而してこれによって、勿論戦後の産業合理化の結果強度にトラスト化されていた重工業、化学工業、加里シンジケート、鋼鉄トラスト等は、その強大な独占力を以て恐慌の打撃を他の産業資本や一般消費者大衆に転嫁することに或る程度迄成功したが、その他の所謂中小企業や大トラスト及び大シンジケートに隷属して居た小企業家は殆ど共倒れの有様となった。かくて今や、ドイツ資本主義は一方に重工業、化学工業、電気工業、海運業及び銀行資本等々の強大な独占組織と他方に農業及びトラスト又はシンジケートに入らぬ小企業及び労働者、一般消費者階級の無抵抗な貧窮化とを以て構成される極めて不均衡な構成を露呈するに至った。