隠されたホロコースト5

殺人、極度の拷問、略奪の乱交

ロシアでのユダヤ人の勝利に続く殺人、拷問、略奪の乱交は、世界の歴史において決して比肩出来るようなことはないほど酷かった。千年以上に亙り、ロシアのゲルマン系入植者の子孫である白人ロシア人は、「欧州のパン籠」、ロシアが繁栄する経済環境を提供してきました。

数日のうちにこの安定した文明が消え、おそらく二度と戻ることはない。幸運なのは、事前に危険を察知して着の身着のままで逃げ果(おお)せた人々であった。

愚図愚図したり、他の人を救おうとした者は、夜通し続く大量処刑で撃ち殺され、トラックのエンジン音にかき消された機関銃の絶え間ない震動は、全速力で駆け抜け、銃声と断末魔の叫び声に溺れたのである。封建的なロシアでの高い生活水準を経験していた人間なら、恐らくこの伝えられている繁栄について別の意見を持ったことだろう。

1917年3月13日、ヤコブ・シフはその個人的友人でもあり、ボルシェビキ革命政府の新しい外務大臣であるミリュコフに次の様な電報を送った。これは1917年4月10日にニューヨークタイムズで複製されたものである。

「幕間に失礼します。我々の宗教的同胞を情け容赦なく迫害した専制独裁政権の和解できない敵として、ロシアの人々が輝かしく成し遂げたことに対しロシアの人々を祝福し、政府とあなた方自身の同志の成功をお祈りします。 」

この紙面には更にミリュコフの熱狂的な返信電報も複製されている。「我々は、打倒された旧体制に対する憎しみと反感で、あなた方と共にあります」[愚か者め! 皇帝は3月15日に退位しただけで、ボルシェビキは11月まで権力を握ることができず、しかもミリュコフはその政府に参加しなかったが、参加できると思って進んでいたようだ。]

 

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皇帝の美しい娘たち。 最初、宝石がコルセットに縫い付けられていたため、少女たちは死ななかった。 これらの宝石は保護のためだけでなく家族が国から逃げたときに幾許かのお金を手に入れるためでもあった。 射手は少女たちが弾丸に耐えることができることに恐怖を感じ、王権神授(神によって王と女王が王位に就くという考え)のために家族が本当に権力を握っていると恐れた。 その問題を解決するために、射手は銃剣で刺そうとしたが、それも宝石のせいで失敗しました。それで娘たちは至近距離で頭を撃たれたのであった。

 

ここで鍵になる言葉は「憎悪」である。 ユダヤ人は、無力な犠牲者の大量殺戮の最も熱烈な空想に耽ることが自由にできたのだ。 キリスト教徒は寝台から引きずり出されて拷問され殺害された。

実際に文字通り少しずつ切り裂かれた者たちも居たが、赤熱の鉄で焼き印を入れられ、その耐え難い痛みのために目が突き出た者たちも居た。

他の犠牲者は、頭、手、足だけが突き出た状態で箱に入れられ、 その後空腹のラットを箱に入れて、(生きたまま)体を齧られた。

指や足で天井に釘付けされ、疲れきって死ぬまで吊り下げられたままの犠牲者も居た。

 

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ヤコフ(ヤンケル)・ミハイロヴィチ・ユロフスキーは、1917年のロシア革命後、ロシア最後の皇帝ニコライとその家族の死刑執行の中心人物として最もよく知られている。

 

鎖で床につながれ、熱い鉛が口に注がれた犠牲者も居た。

多くは馬に縛られて街の通りを引きずられ、一方で暴徒に投石され、蹴り殺された。

母親は町の広場に連れて行かれ赤ちゃんはその腕から引き剥がされた。 赤軍テロリストは赤ん坊を取って、頭を掴んで逆さにし、キリスト教徒の母親にキリストを否定するよう要求し、しなければ赤ん坊を空中に投げ、暴徒の別のメンバーが走り寄って銃剣の先端でそれを受け止めた。

妊娠中のキリスト教徒の女性は木に鎖で繋がれ、赤ちゃんをその体から抉り取られた。

革命の期間中、ロシアには多くの公の処刑場があったが、その1つがアメリカのローバッハ委員会(Rohrbach Commission[1])に記述されている(Defender Magazine、October、1933):

キエフユダヤチェーカーの処刑場のセメントの床全体が血で溢れていた。数インチの層を形成していた。それは血、脳、頭蓋骨の一部の恐ろしい混合物であった。壁は一面、血しぶき(撥ねた血)で汚れていた。 脳と頭皮の断片がそれらに付着しており、幅25センチ、深さ25センチ、長さ約10メートルの溝がその全長に渡って血液で充たされていた。」

「遺体の中には解体されたもの、手足が切り刻まれたもの、文字通りめった切りされたものがあった。 又目が顔からくり抜かれたもの、顔、首に付け、胴体は深い傷で覆われたものもあった。 さらに、胸にくさびが打ち込まれた死体も見つかった。 舌がないものもあった。 隅っこにはどの死体に属していたか見当もつかない切断された腕と脚を大量に発見した。」

ジェイコブ・シフと他のユダヤ人の銀行家たちがロシアに居る宗教的同胞が今やユダヤ人のお気に入りの慣行である大量殺人に従事しているというニュースに(電報で)挨拶して喜んだことは既に知って居るが、これらの残虐行為に関して多くの情報源に更によく知って居たはずのアメリカの政府高官はどうであろうか?

 

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悪魔的な共産主義者チェーカー隊員は、犠牲者を残忍に拷問するのに大喜びであった。その多くはローマ・カトリック教徒であった。ヘルソンの司祭は十字架に架けられ、ペルミのアンドロニコフ大司教は目を突き出し、耳と鼻を切り落とされていた。犠牲者の胃を切り開き、小腸を引き出して電信柱に釘付けし、犠牲者を鞭打って電信柱の周りを、小腸全体が出るまで走らせたチェーカー隊員もいた。教会の高官の目は抉り出され、舌は切られた上生き埋めにされた。ヴォロネジの司教は生きたまま大きな鍋で煮られ、その後、僧たちが、頭にリボルバーピストルを突き付けられ、(そのスープを)飲むように命じられた。ハリコフでは人々は頭皮を剥がされた。 ツァリーツィンとカミーシンでは人々の手がのこぎりで切断された。ポルタバとクレムチャクでは、犠牲者が串刺しにされた。オデッサでは、人々はオーブンで生きて焼かれたか、バラバラにされた。キエフでは、犠牲者は腐乱した死体と共に棺桶に入れられ、生きたまま埋葬された。

 

著名な政府高官、米国大統領であるウッドロー・ウィルソンによる公的な反応の記録が少なくとも1つは存在する。 1917年4月2日、ウィルソンはこれらの残虐行為について知った後、合衆国議会を前に次のように述べた。

 

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気品に満ちたロマノフ家は、この写真が撮られてから数分以内に暗殺された。

 

「ロシアの政治構造の頂点に君臨した専制政権は、永くそこに居座り、その力の現実のように恐ろしいものであったが、それは実際にはその起源も、性質も、大義もロシア人ではなかった。今やそれは取り除かれ、偉大で寛容なロシアの人々は、そのすべての素朴な威厳と力に於いて正義と平和のために世界の自由のために戦っている勢力に加えられたのである。名誉の同盟に適う協力者はここにできたのである。」

皇帝の政府の「非ロシア」の性質に対するウィルソンの愚かな言及は、皇帝が千年前にロシアに定住したドイツ人の子孫であるという事実に言及したものである。ヨーロッパ最古の王朝であるロシアの貴族は、共産主義の宣伝工作者ウィルソンによって「非ロシア人だ!」と非難されたのであった。

ウィルソンは自分自身の起源をどのように説明していたのか疑問に思うが、このアメリカ大統領はその家族が渡米して100年未満であり、その人種的および地理的起源は推測の域を出ない(いい加減な)ままである。

ウィルソンは、ロマノフがロシアに住んでいた千年間でもロシア市民権の資格がなかったと明らかに信じて居たが、その彼らは、ロシア人でないだけでなくこの地球上のどの国にも属していなかった共産主義者に取って代わられたのである。

1919年のオーバーマン委員会は、この主題に関連する調査結果の報告書を公開した。 「米国上院第65議会司法委員会小委員会に於けるボルシェビキ宣伝工作の公聴会」と題され、ロシアのメソジスト教会伝道団の元団長であるジョージ・A・シモンズ博士の証言を記録している。次にそこから簡単に引用する:

「我々は何百人もの扇動者がトロツキー・ブロンスタインの道を辿り、彼らはニューヨークのLower East Side(マンハッタン南東部の地区)からやって来たと伝えられた。私がペトログラードに居るアメリカ人牧師であることを知ると彼らは私の所に歩み寄って英語を話せる人がいることを非常に喜んで居るように思われたが、その片言の英語は彼らが本当のアメリカ人の資格がないことを示していた」

「これらの男性の多くは私を訪ねて来たが、最初の最初からこの事、その奇妙なイディッシュ的要素が非常に印象に残っていた。そして、所謂ボルシェビキ運動の扇動者の半分以上がユダヤ人であることがすぐに明らかになった。これはイディッシュ語であり、その基地の1つはニューヨークのイーストサイド(East Side)にあると確信している」

「高い権威のある人から私が得た直近の驚くべき情報は、1918年12月、ペトログラードの北部集落でのことで、そこはアプフェルバウム (ジノビエフ)と言う名の男が統括するソヴィエト政権の一部と呼ばれる所で〜388人の成員のうち、ゴードン教授と呼ばれる1人のアメリカからの黒人の男を除いて、本物のロシア人はたった16人であった。

「議員閣下、私の印象に強く残っているのは1917年の冬の大革命の後時を経ず、何十人と言うユダヤ人がベンチや簡易の演台に昇って口が泡立つまで話すのでよく妹にこう言った。「さあ、一体何が起きつつあるんだ? これは全てイディッシュのようだけれど。」

ご存知のように、ペトログラードにはユダヤ人に対する制限があったので、それまでユダヤ人は殆ど居なかったが、革命の後彼らはそこに群がり、殆どの扇動者はユダヤ人であった。

ボルシェビキペトログラード全体で権力を握ったとき、すぐに大きなポスターなど凡ゆるものがイディッシュ語となり、イディッシュ語の優位が宣言されていたと言えると思う。それは今やロシアの大きな言語の一つとなったことは明らかであった。しかし本当のロシア人はそれを全く快く受け入れて居なかった。」

広く知られているフランスの雑誌「L'Illustration」の1918年9月14日号では、「ボルシェビキ政府で働いている公務員と接触して生活すると、ある特徴に目を奪われる、それはつまり、その殆ど全員がユダヤ人であるということだ。私は全く反ユダヤ主義者ではないが、目を引くことについて述べなければならない:ペトログラードであろうと、モスクワであろうと、地方であろうと、執行委員であろうと、地方の役所であろうと、スモリヌイであろうと、ソヴィエト議院であろうと、どこでも、私はユダヤ人、そして又ユダヤ人、ユダヤ人以外に会ったことがない。」

「革命を研究すればするほど、ボルシェヴィズムはユダヤ人運動であったと益々確信するに至る。そしてそれは、ユダヤの人々がロシアで置かれていた特殊な条件により説明できる。」

オーバーマン・レポートは、ロシアに千年しか住んでいない侵入者、「非ロシア人」のロマノフが、ニューヨークのローワー・イーストサイドからのイディッシュ語話者のユダヤ人による暴力的な政府転覆で取って代わられたことに対しウッドロー・ウィルソンが、非常に喜んだ理由を説明しているが、ウィルソン自身の同類であっても、今やアメリカ政府は決して大量殺人者を「名誉の連盟にふさわしい協力者」として賛美しないであろう。(直訳:ウィルソン自身の同類の誰が、「名誉の連盟にふさわしい協力者」である大量殺人者として、米国政府に今賛美されるだろうか。)

ウィルソンは多くの一貫性を欠いた行動によって最後に破綻したにも関わらず、精神的な問題について検査されなかったが、赤ん坊を母親の子宮から引き剥がし、犠牲者の血の海を膝まで浸かって歩き、こちらで目を切り抜き、あちらで舌を引き裂き、脚や腕をめった切りにし、要するに、「非ロシア人専制君主」にユダヤの「正義」を押し付ける裁判に於いて公正であろうとしたことを喜んだ名誉の連盟である宗教的同胞と共にその現場にいることをウィルソンが熱望しなかったのかどうか、今となっては推し量ることしかできない。因みにその専制君主の落ち度と言えば、ユダヤ人のテロリストによる侵略に対して国民の家や家族を守るのに手遅れとなった愚かさと呑気さしかなかったと言うことだけなのである。

 

[1] ローバッハ(ローアバック)委員会の報告書はネットでは検索不能、或いは非常に難しい状態となって居るが、アメリカの公文書館、下院図書館には保管されているらしい。(訳者は原文を求めて検索したが見つけることが出来なかった。情報が統制されているとしか思えない)

 

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